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2005年8月の記事

2005年8月29日 (月)

カテゴリ追加

新規カテゴリ「思いつきエッセイ」を追加しました。
このカテゴリには、「原文読解」「平安の風俗」のいずれにも当てはまらない、他の調べ物をする中で気づいたことや、別のテーマから派生した事柄などを、思いつきのままに文章化した記事を分類します。
筆者の興味の赴くまま、気まぐれかつ気楽に書いた種々雑多な内容が並ぶことになると予想されます。
突拍子もないことを言い出すこともあるかもしれませんが、よろしくお付き合いください。

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作者の好み?縹の直衣

009hanada風俗博物館2005年展示「夕霧と雲居の雁の結婚」を拝見した際、「二藍の直衣」と題して夏の直衣の色彩について概略をまとめました。
(写真は上記展示より、縹の直衣を着た夕霧〔正面〕と二藍の直衣を着た柏木〔右〕)
その際、藤裏葉巻で十八歳の夕霧が縹の直衣を着るのは意図的な選択としても、『源氏物語』の男君達は全般に二十六歳頃から縹の直衣を着るようになることに気づきました。

光源氏(二十五歳)
 薄二藍なる帯の、御衣にまつはれて引き出でられたるを(賢木巻)
光源氏(二十六歳)
 白き綾のなよよかなる、紫苑色などたてまつりて、こまやかなる御直衣、帯しどけなく(須磨巻)
薫(二十六歳)
 御衣の紅なるに、御直衣の花のおどろおどろしう移りたるを(東屋巻)
匂宮(二十八歳)
 丁子に深く染めたる薄物の単衣を、こまやかなる直衣に着たまへる(蜻蛉巻)

「こまやか」は、きめ細かな様子を指す場合と色が濃く美しいさまを指す場合とがありますが、前後で単や袿の色の説明をしているので、ここは「濃やか」の字を当てる色の濃さを表す方と思われます。
また、光源氏が十八歳の夕霧に
直衣こそあまり濃くて、軽びためれ。非参議のほど、何となき若人こそ、二藍はよけれ」(藤裏葉巻)
と注意していることから類推して二十代後半の彼らの直衣が濃い二藍とは考えられず、「こまやかなる直衣」は濃い縹の直衣と判断できます。

ただ、『源氏物語』の例をもって、二十代後半から縹の直衣に移行するのが当時一般的だった、と考えるのは早計のようです。
『枕草子』を読むと、実際はもっと上の年層の人々も二藍の直衣を着ていたことが見て取れます。
寛和二[986]年六月中旬の炎暑の折に催された法華八講に集った上達部達の装束は、
二藍の指貫、直衣、あさぎのかたびらどもぞ透かしたまへる。すこし大人びたまへるは、青鈍の指貫、白き袴もいと涼しげなり」(第32段「小白河といふ所は」)
とあり、「大人びたまへる」人も含め皆二藍の直衣を着ていたと読めます。
中でも、このとき三十四歳の藤原道隆の直衣は「かうの薄物の二藍の御直衣」(同段)と明記され、三十代でも二藍の直衣を着ていることが確認できます。
「二藍」と一口に言っても、藍染と紅染のバランスでその色調はかなり異なりますので、藤原道隆や年配の上達部が着ていた二藍の直衣は藍の勝った薄い染色だったと想像されますが、「二藍」と呼ぶからには純粋な藍染である縹とは色調の異なる混色だっただろうとも思います。

そう考えていくと、先に挙げた光源氏の発言は、当時一般の価値観という訳ではなく、多分に作者の好みが反映されたものだったのではないかという気がしてきます。
紫式部は、混色である分華やかな印象を齎す二藍よりも、単一色で静かな印象の縹の方が、落ち着いた大人っぽい装いで好ましいと考えていたのではないでしょうか。
縹は、げに、にほひ多からぬあはひにて」(初音巻)と作中で評する地味な色を、敢えて十代・二十代の貴公子達に着せるところに、独自の美意識があるように思います。

因みに、清少納言は夏に着る二藍を特に好んだようで、第266段「指貫は」と第269段「下襲は」、更に一本第7「唐衣は」でそれぞれ「夏は、二藍」と挙げています。
この両者の対照も、なんとも面白いところです。

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2005年8月24日 (水)

「あるまじき恥」とは何か

ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせたてまつりたまふ。かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ。

桐壺の更衣は、第二皇子(=光源氏)三歳の夏に病を得、数日のうちに急激に衰弱して危篤状態で内裏を退出します。
その際、更衣の母君は「あるまじき恥」があってはならないと用心して、皇子は宮中に残して密かに更衣を退出させます。

ここで問題になるのが、「あるまじき恥」とは具体的に何を指しているのか、ということです。
現行の主な注釈書の解釈は、

1.神域である宮中で死んでしまい内裏を穢すこと
2.退出に際して迫害・侮辱を受けること

の2説に真っ二つに分かれています。

1.の説は、益田勝実氏が1968年に発表した「日知りの裔の物語―『源氏物語』発端の構造―」(『火山列島の思想』〔筑摩書房〕所収)が基になっていて、この論文の中で益田氏は、平安中期の天皇にとって死穢がいかに重いタブーだったかを力説しています。
益田氏論を読みますと、宮中で死んで内裏を穢してしまうことは当時の感覚からすれば「あるまじき恥」と呼ぶに相応しい事柄だっただろうと思わされますし、「かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして」との表現からは、愛娘の危篤という緊急事態にあっても、その死を「恥」と捉えて世の掟と人の謗りに気を回さざるを得ない母君、ひいてはこの時代の息苦しさが迫ってくるように感じます。
ですが、「あるまじき恥」が死穢であるとすると、2つ疑問が生じます。
1つは、なぜ皇子を宮中に留め置く必要があるのか。
もう1つは、どうして退出が「忍びて」でなければならないのか。
あるまじき恥もこそ」との気遣いと、文脈の上で直結するこれら2つの動作との間にはどのような関連があるのか、残念ながら益田氏論は答えてくれていません。

対する2.の説は、『湖月抄』などにも記されており、益田氏が異論を唱えるまで長らく定説となっていたようです。
こちらの説を採ると、「御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ」の解釈はすっきりしますけれど、「あるまじき恥」というほどの侮辱とは一体何をするというのだろう?とか、言い方は悪いですが放っておいてもじきに世を去り敵ではなくなる更衣に対して、わざわざその死に際にまで途方もない嫌がらせを仕掛けるだろうか?とか、また別の疑問が浮上してきてしまいます。

筆者としては正直なところ、どちらの説を採るにしても一長一短で、すっきりと納得はできていません。
まだまだ解明されていない部分も多い『源氏物語』
素人が生意気なことを言うようですが、今後の研究の進展に期待したいところです。

この場面に関する「源氏物語を味わう」でのレスのやり取りは、「桐壺」巻の読みのページからご覧いただけます。
(第一章第四段の最初の部分です)

【追記】
掲示板での議論が収束した後、吉海直人氏が著書『源氏物語の視角 : 桐壺巻新解』(翰林書房 1992年)の中で「死期の迫った桐壺の更衣には、皇子と一緒に体裁を整えて退出する余裕などなかった」との解釈を発表していることをご教示いただきました。
それなら確かに納得がいくと思うのですが、発表後13年経った現在も解釈が分かれたままということは、吉海氏説にも何か問題があるのでしょうか?
もう少し追究してみたいと思います。

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2005年8月19日 (金)

直衣

006noshi_win(写真は風俗博物館2003年展示「薫の五十日の祝」より、白地キララ箔又木紋の冬の直衣を着た光源氏)
上流貴族男性の平常着。
仕立てや構造は束帯装束の縫腋袍と同じで、束帯の袍のように官位による色の決まりがないため「雑袍」とも呼ばれました。
通常、直衣を着るときは烏帽子を被り指貫を穿き、直衣の内側には単と袿(単に「衣」とも呼びます)を着用します。
改まった場合には烏帽子に変えて冠を着け、「冠直衣」と呼びます。
盛夏には、単と袿を省いて汗取りの帷子を直衣のすぐ下に着る場合もありました。
008idashi直衣の下から袿の裾を引き出して見せる着方は、「出だし衣」「出だし袿」と呼び、『枕草子』では貴公子のお洒落な着方としてよく登場します。
そんな着方のせいもあってか、袿にはさまざまの華やかな色が用いられました。
(左の写真は、風俗博物館2005年展示「夕霧と雲居の雁の結婚」より。
直衣の下から香色の袿が見えています)

直衣の色彩は、冬は表白・裏二藍(若年は濃い赤紫で、年齢が上がるにつれて紅を薄め縹に近くする)で、夏は冬の裏色を用いると一般に言われますが、冬の直衣の重ね色が西三条実隆著の有職故実書『装束抄』に記されるこの様式に固定化するのは、平安中期よりも後の時代なのではないかという気がしています。
というのは、『枕草子』や『源氏物語』にはもっと色とりどりの直衣が現れるからです。
色彩のわかる直衣とその着用者を挙げてみると、以下のようになります。

【桜の直衣】
重ね色目なら表白・裏赤花/紫/二藍(諸説あり)、織色なら経紅・緯白。
一条天皇(十六歳)『枕草子』第100段「淑景舎、春宮にまゐりたまふほどのことなど」
光源氏(二十歳)『源氏物語』花宴巻
夕霧(二十歳)『源氏物語』若菜上巻
藤原伊周(二十二歳)『枕草子』第20段「清涼殿の丑寅の隅の」
藤原斉信(三十歳)『枕草子』第79段「返る年の二月廿よ日」
光源氏(三十二歳)『源氏物語』薄雲巻
光源氏(三十六歳)『源氏物語』行幸巻
藤原道隆(四十二歳)『枕草子』第263段「関白殿、二月二十一日に」

【薄色の直衣】
重ね色目なら表薄縹・裏濃薄色、または表薄色・裏薄色。織色なら経紫・緯白。
藤原道隆(四十三歳)『枕草子』第100段「淑景舎、春宮にまゐりたまふほどのことなど」

【葡萄染の直衣】
重ね色目なら表蘇芳・裏縹、織色なら経赤・緯紫。
松君(三・四歳)『枕草子』第263段「関白殿、二月二十一日に」

【白き直衣】
いずれも月明かりで直衣が白く見えるとの描写。表の白に月光が反射したものか。
公達?(年齢不明)『枕草子』第287段「十二月二十四日」
藤原伊周(二十一・二歳)『枕草子』第297段「大納言殿まゐりたまひて」

【今様色の直衣】
「裏表ひとしうこまやかなる」と描写されているので表濃今様色・裏濃今様色。
光源氏(十八歳)『源氏物語』末摘花巻 ※末摘花から贈られた新年の装束

【あざやかなる直衣】
色彩は不明だが、「あざやか」というからにはくっきりと鮮明な色調と想像される。
夕霧(二十六歳)『源氏物語』若菜下巻
薫(二十六歳)『源氏物語』宿木巻
髭黒大将(三十二・三歳)『源氏物語』真木柱巻

【裏縹の直衣】
表は白か。描写がなく詳細不明。
藤原義孝(二十一歳より若い頃)『大鏡』伊尹伝

鈴木敬三編『有識故実大辞典』(吉川弘文館 1996年)には、

冬は表を白、地質は綾、地位と年齢により固織物と浮織物、文様は小葵、華文綾とよぶ唐花丸、浮線綾とよぶ臥蝶丸。裏は平絹で、色は二藍。これは藍で染めてから紅で染めることによる呼称で、若年は藍を淡く紅を深く染め、年齢を加えるにつれて藍を深くして紅を淡くするのを例とした。そこで二藍とよばず、若年は蘇芳・薄色、壮年は紫・縹、老年は白重ねなどともいい、表の白に重ねて、紅梅・桜・柳・薄色などという。(中略)なお表を白に限らず織色で異文の直衣を臨時に用いて一日晴とすることもあり、(後略)

と解説されているのですが、実際の着用例を見ると年齢と色目は必ずしも一致していませんし、明らかに表が白ではない例も見られます。
『源氏物語』の時代の貴族男性は、袿だけでなく直衣にも、さまざまな色彩を用いていたのではないかと思います。

007noshi_sum夏の直衣の着用例は、概ね通説と一致しているようです。
ただ、『源氏物語』と『枕草子』の夏の直衣の描写を比べると、若干異なる部分もあり、それについては別に書いてみたいと思っております。
2005年風俗博物館展示「夕霧と雲居の雁の結婚」を拝見した際に「二藍の直衣」として概略をまとめたものを「源氏の部屋」にUPしていただきましたので、よろしければそちらもご参照ください。
上の写真は、風俗博物館2004年展示「端午の節句」より、夏の二藍直衣出衣姿の光源氏。
直衣の帯を解き前の紐もかけない寛いだ姿で、紅の単の上に華やかな蘇芳の袿を引きかけています。

【参考文献】
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
鈴木敬三編『有識故実大辞典』吉川弘文館 1996年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
長崎盛輝著『日本の傳統色 : その色名と色調』京都書院 1996年

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2005年8月12日 (金)

「え避らぬ馬道」はどこにある?

参う上りたまふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。またある時には、え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめわづらはせたまふ時も多かり。

桐壺帝に異常に熱愛された桐壺の更衣が、後宮の他の皇妃達から陰湿な嫌がらせを受ける有名な場面。
更衣は自分の局のある淑景舎(桐壺)から帝のいる清涼殿へと歩いていきますが、その道は他の皇妃達の住む殿舎を通り抜けて進むので、途中でいろいろと嫌がらせをされます。
そのひとつが「え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ」、清涼殿に行くためには必ず通らなければいけない馬道(殿舎の中を貫通している板敷きの廊下)の両端の戸に鍵をかけて更衣を閉じ込めてしまう、というものです。

子供のいじめみたいな仕打ちですけれど、ここで気になったのが「え避らぬ馬道」とはどこなのか?という点です。
内裏の殿舎で馬道があるのは、常寧殿、承香殿、仁寿殿、弘徽殿の四殿が知られています。
その中で「『え避らぬ馬道』は弘徽殿の馬道だ」という話はよく耳にするのですが、根拠となるとさっぱりわからず。
ならば自分で調べよう!と文献を漁って書いたのが、「え避らぬ馬道」はどこにある?~桐壺―清涼殿の経路を検証する~です。
(この発言から生じたレスのやり取りは、「桐壺」巻の読みのページからご覧いただけます)

リンク先は史料の引用も多く非常に長いので、ここでは結論だけ申し上げますと、やはり「え避らぬ馬道」は弘徽殿の馬道以外に考えられないのです。
というか調べていくうちに、後涼殿につながる飛香舎(藤壺)・凝華舎(梅壺)・襲芳舎(雷鳴壺)の三舎を除いては、弘徽殿を通らずに清涼殿の北側に渡ることはできなかったのではないかと考えるようになりました。
歴代後宮の皇妃達が入った殿舎を見ると、一条朝に藤原彰子が飛香舎に入って「かがやく藤壺」と呼ばれるようになるまで、最も勢力のある皇妃は概ね弘徽殿に入っていたことがわかるのですが、あるいはこの立地条件も、弘徽殿が最も格式高い殿舎となった理由のひとつかもしれません。

この場面よりもだいぶ先で、第一皇子の母であり、また更衣の生前も死後も一貫して最も厳しく更衣を非難した皇妃が、他ならぬ「弘徽殿の女御」であることが明らかにされますが、きっとこの時点から作者は既にこの人物の性格設定を具体的に考えていたのだろうと思います。
それを敢えて、ここでは内裏の建物配置を知っている人にだけわかるぼかした表現で掠めてみせて、読み進むにしたがって次第に人物像が明確化してくる手法を取っているのでしょう。
なんとも心憎い筆遣いではありませんか。

こんな、炙り出しのように見えてくる“何か”を原文の中から見つける度に、痺れるような快感を覚えてしまうのです。

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2005年8月 7日 (日)

琵琶

001koto(写真は風俗博物館2001年展示「春の遊び 蹴鞠」より、平安時代の代表的な絃楽器4種。一番左が琵琶です)
中国伝来のリュート型絃楽器。四絃。
やや下膨れのナスのような形をした浅い槽に腹板を張って胴とし、腹板側に絹の絃を張り渡します。
撥が当たる胴の部分は「撥面」と呼んで皮を張ります。
頸部は、胴本体と滑らかな曲線でつながっていて音の高さを決める柱(じゅう)が付き、先端が後ろ側に曲がって糸巻があります。
胴の下部には絃の振動を胴に伝える覆手(ふくじゅ)があり、その蔭に「陰月」と呼ばれる、響孔にあたる円形の音穴があります。
陰月は、写真のように演奏しないときの撥の収納場所にもなります。
標準的な全長は三尺五寸(約106.5cm)、胴は紫檀やカリン、桑などの硬い木材で、撥は黄楊でつくります。

「国宝源氏物語絵巻」宿木(三)に見られるように、頸部が左手側、絃が水平になるように構えて、右手に持った撥で上から下に掻き下ろすように弾きます。
箏や和琴の音が「爪音」というのに対して、琵琶は「撥音」といいます。
筝と同じく、調絃は六調子によってそれぞれ異なります。
『うつほ物語』初秋巻や『源氏物語』乙女巻に、女が琵琶を弾く姿を「憎し」とする評が見られ、どうも女性が琵琶を抱えて演奏する姿は平安貴族にはあまり好まれなかったようです。

『源氏物語』では、明石の君が格別に優れた名手であると繰り返し描かれ、蛍宮も好奏者として合奏の場面では頻繁に琵琶を担当しています。
その他は、明石の入道、大宮、夕霧、薫、宇治の大君・中の君、匂宮、更に源典侍、中務の君(左大臣家の女房)、少将の命婦(冷泉帝の女房)、玉鬘邸の女房など女房クラスの奏者も何人も見られます。
意外なことに、光源氏が琵琶を演奏する場面は本文中にはありません。
005biwa琵琶こそ、女のしたるに憎きやうなれど、らうらうじきものにはべれ」(乙女巻)
との言に沿っているのかいないのか、源典侍や宇治の中の君のように、女性奏者の演奏場面が印象的に描かれているのも興味深いところです。

上の写真は、風俗博物館2001年展示「女楽」より、琵琶を弾く明石の君です。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
平野健次[ほか]監修『日本音楽大事典』平凡社 1989年
上原作和編「源氏物語音楽用語事典

【写真提供】
小池笑芭さん(2枚とも)

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2005年8月 5日 (金)

筝(そう)

001koto(写真は風俗博物館2001年展示「春の遊び 蹴鞠」より、平安時代の代表的な絃楽器4種。一番右が筝です)
中国伝来の長胴チター属撥絃楽器。十三絃。「筝の琴(そうのこと)」とも言います。
古代は桐の部材を箱状に組み合わせて胴としましたが、その他は現代の筝(いわゆる“お琴”)と概ね同じだったようです。
絃は絹を縒り合わせたもので、奏者から見て遠い方の一~五絃が太緒(ふとお)、六~十絃が中緒(なかのお)、斗為巾(といきん。十一~十三絃)が細緒(ほそお)になります。
胴の輪郭はほぼ長方形で、大きさは嵯峨天皇の時代に全長六尺五寸(約197cm)と規定されました。

各絃にひとつずつ琴柱を立て、その位置の調節で音の高さを定めます。
調弦の仕方によって、呂律いずれの演奏も可能だったようです。
演奏時は、奏者は頭部を右にして相対します。
平安文学でも筝の音色を「爪音」と表現することから、現代と同じく右手指に爪をはめて絃を弾いたと考えられますが、常に爪を用いたかどうかははっきりしません。
左手の奏法に「取由(とりゆ)」という絃を揺する手法があり、『源氏物語』にはその音色や手つきが風情あるものとして描写されています。

『源氏物語』では最も多く登場する絃楽器で、主な演奏者は光源氏、藤壺、紫の上、明石の入道、明石の君、蛍宮、雲井雁、朱雀院、明石の女御、竹河巻の大君(玉鬘の娘)、宇治の大君・中の君、八の宮、匂宮など。
女房達が弾く場面も見られ、性別や身分を問わずよく演奏された楽器と言えます。
琴の光源氏や和琴の頭中将のような強烈な名手はいませんが、明石の君だけは、源氏が最高の奏者と考えていた藤壺にも優る驚くべき技量であると明石巻で絶賛されています。
また、幼い若紫や雲井雁が筝を弾く手つき・姿の可愛らしさが描写されたり、明石巻で
女のなつかしきさまにてしどけなう弾きたるこそをかしけれ
と言われたりしており、女性がくつろいだ雰囲気でたおやかに奏でる様子が好まれたようです。

多くの人の演奏が描かれる筝ですが、特筆すべきは明石一族との結びつきの深さです。
明石の入道は延喜の帝の奏法を受け継ぎ、その娘・明石の君は『源氏物語』随一の名手です。
004sou更に三代目となる明石の姫君は、三歳から紫の上の養女になったにもかかわらず、若菜下巻の女楽の場面では、実母・明石の君の手遣いによく似た音色を奏でます。
明石一族の奏でる筝の音色にだけ「澄む」という形容がされるのも、原文を読む上で注目すべき点だと思います。

上の写真は、風俗博物館2001年展示「女楽」より、筝を弾く明石の女御です。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
平野健次[ほか]監修『日本音楽大事典』平凡社 1989年

【写真提供】
小池笑芭さん(2枚とも)

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2005年8月 1日 (月)

和琴

001koto(写真は風俗博物館2001年展示「春の遊び 蹴鞠」より、平安時代の代表的な絃楽器4種。右から2つ目が和琴です)
日本古来の六絃の長胴チター属撥絃楽器。「やまとごと」「あづまごと」「書司(ふんのつかさ)」などとも呼ばれます。
桐を刳り抜いて表面全体を火で焼き焦がし、上面に絹の絃を張ります。
絃は尾部で「葦津緒(あしづお)」と呼ぶ四色の絹糸を編んだ紐に結びます。
本(頭部)が狭く、末(尾部)がやや広い形状で、大きさは全長約188~197cm、本の幅約15cm、末の幅約24cm。

和琴はその名に「琴」の字を用いますが、可動式の琴柱を立てて調絃しますので、楽器の種類としては琴(きん)よりも筝(そう)に近い楽器です。
右手で「琴軋(ことさき)」と呼ぶ小さな箆のようなものを持って掻き鳴らし、左手の指で弾いて演奏します。
演奏時は、本が奏者の正面に、末が左にくるように楽器を置きます。
座奏が普通ですが立奏もあり、『春日権現験記』には琴持(奏者の隣で琴を支える役の人)を伴って立奏する様子が描かれています。
神事用の神聖な楽器として神楽などで演奏された他、他の楽器との合奏や催馬楽などにも多く用いられました。
音階は律旋(中国の俗楽の音階。西洋音楽の短調に近い)が基本で、呂旋(中国の正楽の音階。西洋音楽の長調に近い)の曲の演奏にはより高度な技術が必要とされるようです。

『うつほ物語』では古めかしい地味な楽器という扱いを受ける和琴ですが、『源氏物語』ではその音色は「いまめかし」「おほどか」と形容され、盛んに演奏されている様が描かれます。
『源氏物語』で和琴を演奏する人物は、光源氏の琴と並ぶ当代随一の和琴の名手である頭中将を筆頭に、源氏、玉鬘、柏木、紫の上、落葉の宮、夕霧、薫、冷泉院などの名前が挙げられます。
琴に比べると、演奏者の顔触れは随分と多彩です。
頭中将・柏木親子が名手とされ、また竹河巻では薫の演奏に玉鬘が柏木の琴の音を思い出す件があり、更に琴が皇統の楽器と言われることとの対照もあって、和琴は頭中将の血筋の楽器という印象がありますが、実態はそうとも限らず、身分の上下を問わず幅広く愛好された楽器として描かれているのだと思います。

常夏巻には源氏が玉鬘を相手に和琴について語る場面があり、また若菜下巻の女楽の場面では紫の上の和琴の華やかで自在な演奏が特筆されます。
それらの記述からは、琴とは対照的に、深遠な演奏の境地などというものはなく誰もが手軽に嗜める一方、定まった奏法がなく演奏には奏者の個性が大きく反映され、本当の名人の域に達するのは極めて難しいという和琴の特性が窺われます。

003wagon中国伝来の最も正統・尊貴な楽器として重んじられた琴を一方の頂点とするなら、和琴は神事に演奏する日本古来の神聖な楽器として、また広く人々に親しまれた素朴な楽器として、もう一方の頂点を成していたのだろうと思います。

上の写真は、風俗博物館2001年展示「女楽」より、和琴を弾く紫の上です。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
平野健次[ほか]監修『日本音楽大事典』平凡社 1989年
中川正美著『源氏物語と音楽』和泉書院 1991年
利沢麻美著「源氏物語における方法としての音楽−「若菜下」巻の女楽について−」(「国語と国文学」70巻1号 1993.1)

【写真提供】
小池笑芭さん(2枚とも)

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琴(きん)

001koto(写真は風俗博物館2001年展示「春の遊び 蹴鞠」より、平安時代の代表的な絃楽器4種。左から2つ目が琴です)
中国伝来の長胴チター属撥絃楽器。七絃。「琴の琴(きんのこと)」とも言います。
桐を刳り抜き梓の底板を張って中空の胴をつくり、絹の弦を張り渡します。
表面は漆塗りで、大きさは時代によって異なりますが、平安貴族が用いていたのは唐代の遺品(全長117cmほど)と同程度と思われます。
頭部が尾部よりも幅広で、首と腰の辺りの輪郭線にそれぞれ対称形の凹みがあります。
各部の名称は、古来活力と長寿の象徴とされる竜と鳳凰をかたどって付けられています。

琴柱がないのが特徴で、胴の表面に付けられた13個の徽(勘所)を目印として左手で絃を押さえ、右手で弾きます。
演奏時は頭部を右に置き、中国では台の上に乗せますが、平安貴族は膝に乗せて弾いたようです。
中国においては君子の楽器とされ、日本でもその位置付けを引き継いで重視されました。
村上天皇の女御となった藤原芳子が娘時代、父・師尹から「手習と琴の琴と古今集をよく学ぶように」と教えられた…と『枕草子』第20段「清涼殿の丑寅の隅の」が伝えるエピソードは有名なところです。
しかし、琴は非常に複雑できっちりと型の出来上がった奏法をもつ楽器で、その習得の難しさから平安中期以降は次第に廃れていきました。
(現代日本に伝わる琴は、江戸時代になって明からの帰化僧が再興したもの)
演奏は呂旋(中国の正楽の音階。西洋音楽の長調に近い)を演奏の基本とし、律旋(中国の俗楽の音階。西洋音楽の短調に近い)の曲を演奏するにはより高度な技術を要したようです。

『うつほ物語』は、清原俊蔭から俊蔭女、藤原仲忠、いぬ宮と四代に渡る琴の奏法伝授が長編物語の骨格となっており、彼らの卓越した琴の演奏は、人々の感動だけでなく超常現象まで引き起こすような特別なものとして描かれています。
こうした尋常ならざる力をもつ琴の描かれ方は、この楽器を特別視した平安貴族の認識に拠るのでしょう。

『源氏物語』では、光源氏が当代一の名手として度々称讃される他、末摘花、蛍宮、明石の君、明石の入道、女三の宮、八の宮、小野の尼君の合計8人のみが奏者として登場します(ただし明石の入道は演奏の場面なし)。
小野の尼君の存在が引っかかりはしますが、基本的には皇統の聖なる楽器として描かれています。
光源氏を皇統の楽器である琴の第一人者とするのは、帝位に就かない源氏の正統性・優位性を主張する意図からでしょうし、明石の入道・明石の君親子が琴奏者なのは、国母を出すに相応しい家系であるとの箔付けの意味があるのだと思います。
一方で、その格式と複雑な奏法ゆえに奏者が少なくなっていることも描き込まれており、若菜下巻の女楽の場面では、光源氏が琴の廃れゆく現状を嘆きつつこの楽器の貴さを語っています。
しばしば尚古思想が見られるこの物語の作者らしい描き方かと思います。
002kin近年、琴は一条朝には廃絶していたとする従来の説が見直され、紫式部も琴の音色や奏法を知っていた筈だとの主張が提出されていますが、奏者の減少はこの頃既に始まっていたのかもしれません。

上の写真は、風俗博物館2001年展示「女楽」より、琴を弾く女三の宮です。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
平野健次[ほか]監修『日本音楽大事典』平凡社 1989年
上原作和編「源氏物語音楽用語事典
利沢麻美著「源氏物語における方法としての音楽−「若菜下」巻の女楽について−」(「国語と国文学」70巻1号 1993.1)

【写真提供】
小池笑芭さん(2枚とも)

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最初の一文から読み取れること

いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

あまりにも有名な『源氏物語』桐壺巻の冒頭。
どなたも学校で習ったことがおありでしょう。
「授業で暗誦させられた」という(あまり楽しくない?)思い出をお持ちの方も多いのではないでしょうか。
そんな有名すぎる冒頭ですが、改めて掘り返してみると、単なるヒロインの紹介に留まらない物語の設定をいろいろと読み取ることができます。

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【設定その1】
物語が“帝の治世”を時代区分とする貴族社会、煎じ詰めれば宮廷を舞台としていること。
「今は昔」という、あってなきが如き舞台設定で語り出される『竹取物語』や『伊勢物語』などと比べると、最初からかなり限定された設定がされています。

【設定その2】
「女御、更衣」が大勢お仕えしていた時代であること。
女御は桓武天皇の時代に設置された令外官で、仁明朝辺りから次第にその地位を高め、醍醐朝に藤原穏子が女御から皇后に立つに至ると、臣下の女が立后するための予備的地位として重きを成すようになりました。
更衣の方は、元々はその名のとおり帝の衣類のお世話をする女官だったのが、御寝に侍るようになって女御に次ぐ皇妃となり、その人数が最大化した醍醐朝には13人もの更衣がいたと言われます。
ですがその後は、村上朝で5人の更衣が確認できるのを最後に、院政期まで後宮から姿を消してしまいます。
これらの史実から、この物語は醍醐朝辺りを時代設定としていることがわかる訳です。

【設定その3】
この御世の帝には、まだ皇后が定まっていないらしいこと。
「女御、更衣」と身分順に書かれていることに注目するなら、皇后が既にいれば真っ先に「后の宮」が挙げられそうなものなのに、それがないということは、この後宮では大勢仕えているという女御達が各々の家門を背負い立后を目指して妍を競っている状態だと想像されます。

【設定その4】
ヒロインは、序列からいくとそれほど高いとはいえない身分でありながら、帝から格別に寵愛されていること。
いとやむごとなき際にはあらぬが」の「が」は逆説の助詞ではない…というのも学校で必ず習う事柄ですけれど、わざわざ「いとやむごとなき際にはあらぬ」とその身分に言及するのは、この女性が「すぐれて時めきたまふ」待遇を受けるのが当然の人物ではないことを示しています。
この時代、天皇は皇妃達をそれぞれの身分に相応しく寵愛すべきと考えられていました。
いとやむごとなき際にはあらぬ」彼女はその序列を乱していることになり、異常な状態にあると言えます。
女御を擁するそれぞれの権門が立后争いをしていると思われる中で身分秩序を破ったヒロインを取り巻く状況は、後宮を巡る政治情勢までをも揺るがす危険性を孕んでかなり緊迫している筈です。

【設定その5】
帝は、それなりに安定した治世を実現し、臣下からの信望があるらしいこと。
暗君愚帝の類であったら、沢山の公卿らが娘を後宮に入れるとは思えません。
ある程度以上治世が安定し臣下から期待されていればこそ、「女御、更衣あまたさぶらひたまひける」後宮になったと考えられます。
その一方で、一段下った扱いをすべきヒロインを他の誰よりも寵愛してしまうという掟破りを犯した帝でもあります。
良き帝として通ってきたのに、ヒロインと出逢ったことであるべき規範からはみ出してしまった…そんな帝像が浮かんできます。

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句読点込みで僅か61文字の一文から、こんなにも沢山のことが掬い上げられる『源氏物語』の世界。
まるで隠された扉を探り当てる宝探しのような原文の【読み】を、ご一緒にやってみませんか?

【参考文献】
神作光一編『源氏物語の観賞と基礎知識1 桐壺』至文堂 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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