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2005年8月29日 (月)

作者の好み?縹の直衣

009hanada風俗博物館2005年展示「夕霧と雲居の雁の結婚」を拝見した際、「二藍の直衣」と題して夏の直衣の色彩について概略をまとめました。
(写真は上記展示より、縹の直衣を着た夕霧〔正面〕と二藍の直衣を着た柏木〔右〕)
その際、藤裏葉巻で十八歳の夕霧が縹の直衣を着るのは意図的な選択としても、『源氏物語』の男君達は全般に二十六歳頃から縹の直衣を着るようになることに気づきました。

光源氏(二十五歳)
 薄二藍なる帯の、御衣にまつはれて引き出でられたるを(賢木巻)
光源氏(二十六歳)
 白き綾のなよよかなる、紫苑色などたてまつりて、こまやかなる御直衣、帯しどけなく(須磨巻)
薫(二十六歳)
 御衣の紅なるに、御直衣の花のおどろおどろしう移りたるを(東屋巻)
匂宮(二十八歳)
 丁子に深く染めたる薄物の単衣を、こまやかなる直衣に着たまへる(蜻蛉巻)

「こまやか」は、きめ細かな様子を指す場合と色が濃く美しいさまを指す場合とがありますが、前後で単や袿の色の説明をしているので、ここは「濃やか」の字を当てる色の濃さを表す方と思われます。
また、光源氏が十八歳の夕霧に
直衣こそあまり濃くて、軽びためれ。非参議のほど、何となき若人こそ、二藍はよけれ」(藤裏葉巻)
と注意していることから類推して二十代後半の彼らの直衣が濃い二藍とは考えられず、「こまやかなる直衣」は濃い縹の直衣と判断できます。

ただ、『源氏物語』の例をもって、二十代後半から縹の直衣に移行するのが当時一般的だった、と考えるのは早計のようです。
『枕草子』を読むと、実際はもっと上の年層の人々も二藍の直衣を着ていたことが見て取れます。
寛和二[986]年六月中旬の炎暑の折に催された法華八講に集った上達部達の装束は、
二藍の指貫、直衣、あさぎのかたびらどもぞ透かしたまへる。すこし大人びたまへるは、青鈍の指貫、白き袴もいと涼しげなり」(第32段「小白河といふ所は」)
とあり、「大人びたまへる」人も含め皆二藍の直衣を着ていたと読めます。
中でも、このとき三十四歳の藤原道隆の直衣は「かうの薄物の二藍の御直衣」(同段)と明記され、三十代でも二藍の直衣を着ていることが確認できます。
「二藍」と一口に言っても、藍染と紅染のバランスでその色調はかなり異なりますので、藤原道隆や年配の上達部が着ていた二藍の直衣は藍の勝った薄い染色だったと想像されますが、「二藍」と呼ぶからには純粋な藍染である縹とは色調の異なる混色だっただろうとも思います。

そう考えていくと、先に挙げた光源氏の発言は、当時一般の価値観という訳ではなく、多分に作者の好みが反映されたものだったのではないかという気がしてきます。
紫式部は、混色である分華やかな印象を齎す二藍よりも、単一色で静かな印象の縹の方が、落ち着いた大人っぽい装いで好ましいと考えていたのではないでしょうか。
縹は、げに、にほひ多からぬあはひにて」(初音巻)と作中で評する地味な色を、敢えて十代・二十代の貴公子達に着せるところに、独自の美意識があるように思います。

因みに、清少納言は夏に着る二藍を特に好んだようで、第266段「指貫は」と第269段「下襲は」、更に一本第7「唐衣は」でそれぞれ「夏は、二藍」と挙げています。
この両者の対照も、なんとも面白いところです。

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