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2005年8月12日 (金)

「え避らぬ馬道」はどこにある?

参う上りたまふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。またある時には、え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめわづらはせたまふ時も多かり。

桐壺帝に異常に熱愛された桐壺の更衣が、後宮の他の皇妃達から陰湿な嫌がらせを受ける有名な場面。
更衣は自分の局のある淑景舎(桐壺)から帝のいる清涼殿へと歩いていきますが、その道は他の皇妃達の住む殿舎を通り抜けて進むので、途中でいろいろと嫌がらせをされます。
そのひとつが「え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ」、清涼殿に行くためには必ず通らなければいけない馬道(殿舎の中を貫通している板敷きの廊下)の両端の戸に鍵をかけて更衣を閉じ込めてしまう、というものです。

子供のいじめみたいな仕打ちですけれど、ここで気になったのが「え避らぬ馬道」とはどこなのか?という点です。
内裏の殿舎で馬道があるのは、常寧殿、承香殿、仁寿殿、弘徽殿の四殿が知られています。
その中で「『え避らぬ馬道』は弘徽殿の馬道だ」という話はよく耳にするのですが、根拠となるとさっぱりわからず。
ならば自分で調べよう!と文献を漁って書いたのが、「え避らぬ馬道」はどこにある?~桐壺―清涼殿の経路を検証する~です。
(この発言から生じたレスのやり取りは、「桐壺」巻の読みのページからご覧いただけます)

リンク先は史料の引用も多く非常に長いので、ここでは結論だけ申し上げますと、やはり「え避らぬ馬道」は弘徽殿の馬道以外に考えられないのです。
というか調べていくうちに、後涼殿につながる飛香舎(藤壺)・凝華舎(梅壺)・襲芳舎(雷鳴壺)の三舎を除いては、弘徽殿を通らずに清涼殿の北側に渡ることはできなかったのではないかと考えるようになりました。
歴代後宮の皇妃達が入った殿舎を見ると、一条朝に藤原彰子が飛香舎に入って「かがやく藤壺」と呼ばれるようになるまで、最も勢力のある皇妃は概ね弘徽殿に入っていたことがわかるのですが、あるいはこの立地条件も、弘徽殿が最も格式高い殿舎となった理由のひとつかもしれません。

この場面よりもだいぶ先で、第一皇子の母であり、また更衣の生前も死後も一貫して最も厳しく更衣を非難した皇妃が、他ならぬ「弘徽殿の女御」であることが明らかにされますが、きっとこの時点から作者は既にこの人物の性格設定を具体的に考えていたのだろうと思います。
それを敢えて、ここでは内裏の建物配置を知っている人にだけわかるぼかした表現で掠めてみせて、読み進むにしたがって次第に人物像が明確化してくる手法を取っているのでしょう。
なんとも心憎い筆遣いではありませんか。

こんな、炙り出しのように見えてくる“何か”を原文の中から見つける度に、痺れるような快感を覚えてしまうのです。

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