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2005年9月30日 (金)

「御前の壺前栽」と京都御所の萩壺

御前の壺前栽のいとおもしろき盛りなるを御覧ずるやうにて、忍びやかに心にくき限りの女房四五人さぶらはせたまひて、御物語せさせたまふなりけり。

桐壺の更衣を失った年の秋、ある野分めいた夕暮れに帝は靫負命婦を弔問に派遣します。
命婦は更衣の里邸を訪れ、帝の文を渡して更衣の母北の方と第二皇子(=光源氏)の参内を促し、嘆きの底にある北の方と語らって夜更けに宮中に帰参しますが、帝はまだ寝所に入らず、「御前の壺前栽」をぼんやりと眺めながら女房達に話をさせていました。

御前の壺前栽」は、清涼殿の西側、清涼殿と後凉殿との間にある壺庭に植えられた前栽を指します。
清涼殿と後凉殿は北・中・南の3本の渡廊でつながっていて、廊と殿舎に囲まれて2つの壺庭ができていました。
それらの壺庭は、北側を朝餉壺(あさがれひのつぼ)、南側を台盤所壺(だいばんどころのつぼ)と呼びました。
台盤所は女房の詰所ですので、この場面で帝がいたのは朝餉間の筈で、その前に位置する朝餉壺の前栽を見ていたと思われます。
命婦を派遣したときも「やがて眺めおはします」と記されていますので、夕方からずっと朝餉壺を眺めていたのではないでしょうか。

ところで、現在の京都御所では、清涼殿と後凉殿との間に相当する清涼殿と御車寄との間の空間がやはり壺庭になっていて、「萩壺」という名がついています。
残念ながら参観コースには入ってないのですが、京都御所のパンフレットなどには写真が載っていて、白砂の庭のそこここに赤紫や白の萩が植わっているのが確認できます。
この「萩壺」、いつからこうした形の庭につくられ「萩壺」と名付けられたのでしょうか。

帝は、北の方へ送った文の中の歌で第二皇子を「小萩」と詠んでおり、あるいは「御前の壺前栽」は萩を中心とした秋の草花だったのではないかとの想像を掻き立てられます。
ですが調べてみた結果は、『大内裏図考証』にも歴史事典の類にも「萩壺」の名は全くありませんでしたし、正にこの壺庭で催された康保三[966]年八月十五日の内裏前栽合でも萩を詠んだ歌は1首もなく、平安時代の朝餉壺に萩が植わっていたかどうかすら疑わしいのが現実でした。

そうなると今度は逆に、『源氏物語』のこの場面に因んで、近現代になってから壺庭に萩を植えて「萩壺」と称するようになったのではないか?との想像が生じてきます。
実際のところ由来や作庭の経緯は見つけることができなかったのですが、もし仮にそうだとしたら、この庭と「萩壺」という名前は、京都御所と王朝文化の残照を守ってきた人々による『源氏物語』享受のひとつの形な訳で、それはそれでとても素敵なことではないかと思います。

萩の花は、紫の上の死を語る御法巻でも印象深い形で登場します。
桐壺の更衣と紫の上の死の場面が叙述の上で極めて似通っていることは、既に沢山の研究者によって指摘されていますけれど、その両方に萩と露を吹き払う風が描かれていることを考えると、この場面で帝が眺めている前栽には萩が植わっていてほしいと願ってしまいます。
そして、同じように考えた人が京都御所のあの場所に萩を植えたのではないだろうか…と、つい空想してみたくなってしまうのです。

この場面の読みとレスのやり取りは、「桐壺」巻の読みのページからご覧いただけます。
(第二章第三段の最初の部分がこの場面にあたります)

【参考文献】
[裏松光世著];故實叢書編集部編『大内裏図考証』(明治図書出版 1993年)
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』(角川書店 1994年)
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』(吉川弘文館 1979-1997年)
「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観第5巻 歌合集』(角川書店 1987年)

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