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2005年9月17日 (土)

「憎みたまふ人びと」の論理

内裏より御使あり。三位の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階の位をだにと、贈らせたまふなりけり。これにつけても憎みたまふ人びと多かり。もの思ひ知りたまふは、様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。

宮中の人々の敵意を一身に負った桐壺の更衣は、内裏を退出したその日のうちに亡くなりました。
その葬儀に際し、桐壺帝は勅使を派遣して従三位を追贈します。
それにつけても非難の声は大きく、亡き更衣を憎む人々が多かったけれど、「もの思ひ知りたまふ」人は、更衣の美点を今更ながらに思い出した…と原文は語ります。

更衣の加階によって、息子の第二皇子(=光源氏)の立場に変化はあったのだろうか?
掲示板でそんな質問が出されたのをきっかけに、親の死後加階と子供の地位の関係を調べてみました。

参考になるのは、桐壺巻の執筆よりは確実に後のことになりますが、三条天皇皇后・藤原娍子の立后に先立って、娍子の父・済時に右大臣(『公卿補任』『尊卑文脈』に拠る。『大鏡』『栄花物語』では太政大臣)の地位が追贈された史実です。
『大鏡』『栄花物語』における記述の詳細は、藤原済時への贈官(『大鏡』の記述)としてUPしてありますのでご参照ください。

この例を踏まえると、第二皇子はこの後、四位の更衣から生まれた子ではなく三位という高位の母をもつ子として待遇されることになります。
平安時代において、三位以上と四位以下とは明確に区別されました。
(例えば、四位以下の人が亡くなったときは「卒」と称するのに対して三位以上は「薨」と称しますし、四位以下の女官は輦車の宣旨の対象外なのもその一例でしょう)
従四位下程度で女御宣下がなされる例も少なくないことを考えるなら、三位の母から生まれた皇子というのは相当に高い出自になるのではないでしょうか。

となると人々は、亡くなった桐壺の更衣本人より、残された第二皇子の格が高まることにこそ敏感に反応したのではないかと想像できます。
桐壺の更衣への加階は、死後ほどなく実施されたと考えられます。
(通常の追贈は、葬送に先立って故人の邸を勅使が訪れ、棺の前で宣命を読み上げるものだったそうです)
加えて、更衣の従三位加階は歴史上に例がありません。
この即断・異例の措置が、後宮での勢力争いに凌ぎを削る人々に
「桐壺の更衣が第二皇子立坊を懇願したがために、帝はその遺言を叶えるべく第二皇子の地位を高めようと更衣への贈位を行ったのではないか」
との疑惑を抱かせたのではないでしょうか。
この、いわば「自分の産んだ皇子を立坊させようとの野心から、死して尚帝を操る悪女」という想像の桐壺の更衣像が、人々の憎悪の源なのではないかと思うのです。
そう考えると、更衣を憎む人々が多い中で、非情な政治の論理に捕われず濃やかな感情をもつ「もの思ひ知りたまふ」人だけが美しく心優しい桐壺の更衣の実像を思い出している…という後文との対照もはっきりします。

どこまでも公的秩序・政治の論理に絡め捕られた桐壺帝と桐壺の更衣の悲恋の特質が、「憎みたまふ人びと」の点描から浮かび上がってくるように思います。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』(角川書店 1994年)
『日本史大事典』(平凡社 1992-1994年)
高田信敬「桐壺外伝―三位のくらゐ贈りたまふ―」(「むらさき」24号 1987年)
吉海直人著『源氏物語の視覚 : 桐壺巻新解』(翰林書房 1992年)

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