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2005年10月10日 (月)

原資料を読む大切さ

口幅ったい内容ではありますが、今日の記事は、特に学生さんやこれから第一線で活躍しようという若い研究者の方に読んでいただきたい話です。

筆者が2004年風俗博物館展示「玉鬘主催の光源氏四十の賀」の関連レポート「供若菜」の準備をしていたとき、集めた資料のいくつもに
『宇津保物語』蔵開巻に「若菜など調じて御子の日に参らせんと」と載っている
との記述がされていました。
ところが、いざ蔵開巻を読んでみると、これがさっぱり見当たりません。
見落としたかと思って語彙索引で「若菜」を引き、挙がっている箇所を片っ端から確認していったところ、なんと全然違う嵯峨院巻に該当の文が載っていました。
伝本によって内容が異なる可能性も考えて4種類の本文(小学館新編全集・岩波旧大系・朝日古典全書・有朋堂文庫)を比べてみましたが、校訂者の方針で嵯峨院・菊の宴両巻の重複部分を菊の宴巻に統合した岩波旧大系以外は嵯峨院巻に載っていて、少なくとも蔵開巻ではないことは確認できました。
複数の資料で巻の間違い方も引いている文も全く同じ、という点から見て、それらの記述は『うつほ物語』原文に当たることなく同一の資料から孫引きしたものだろうと推測されました。
(実は調べていた当時、中世か近世の文献に同じ引用がされているのを見た覚えがあるのですが、書名を忘れてしまって今回は確認が取れませんでした)

忙しいから。手間がかかるから。
つい孫引きで済ませてしまいたくなるのはわかります。
でもその結果、何度も同じ間違いが繰り返し読者に提供されてしまうのだとしたら、やはり原資料の確認は、惜しんではいけない手間だろうと思います。
少なくとも、「○○という文献に××と書いてある」と書くときに、著者自身が○○という文献を読んでいないのは不誠実ではないかと思うのです。
それに、引用されている部分が、常に自分の調査テーマに最も密着した箇所とは限りません。
『うつほ物語』引用文の例でも、その前後を読むことで、これが六十の賀の準備を語った場面であること、正月乙子の日の若菜調進の算賀が詳細に描かれていることなどがわかり、レポートをまとめる上で非常に役に立ちました。
もしかしたら、引用文の前後にもっと重要なことが書かれているかもしれない――資料集めにはそんな貪欲さがあってもよいのではないでしょうか。

研究成果を求められる訳でもなければ〆切に追われる訳でもない、「調べ物は趣味」と言い切れる気楽さゆえの理想論かもしれませんが。
原資料と引用文との隙間から零れ落ちてしまうものは、現実として確かに存在するのです。

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