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2005年11月の記事

2005年11月27日 (日)

『源氏物語 六條院の生活』

021rokujoin_2五島邦治監修;風俗博物館編集(改訂版) 青幻舎 1999年7月刊行
ISBN:4-916094-28-X 税込3,450円

『源氏物語と京都 六條院へ出かけよう』をご紹介したからには、こちらも併せて掲載しない訳にはいかないでしょう。
風俗博物館が『源氏物語』をテーマにリニューアルされてまだ間もない頃に刊行された、筆者が知る限り“三次元模型での場面再現”を本格的に実現した最初のビジュアル・ブックです。

この本では、物語の舞台としての「六条院」にスポットを当て、乙女巻から柏木巻までの20の場面を選んで1/4模型での再現を撮影しています。
井筒與兵衛館長は、上記『源氏物語と京都 六條院へ出かけよう』のあとがきで

七年前に『源氏物語―六條院の生活―』を書いてもらった時にはまだ展示のための衣裳、調度の類が十分に揃っていない不自由さの中でなんとか五島先生に纏めてもらった感がある。

と記しておいでですが、華やかさと細やかさは存分に発揮され、今見ても物足りなさは全く感じません。

内容は場面の再現だけに留まらず、取り上げた場面に応じて、建築や調度、生活習慣などの解説ページが、こちらもカラー写真をふんだんに用いて設けられています。
例えば、蛍巻の垣間見の場面では扇について、常夏巻の釣殿の涼みの場面では食事と食器について、梅枝巻の薫物合わせの場面では香道具や原料について、若菜下巻の女楽の場面では楽器について…といった具合です。
模型による名場面の再現を楽しみながら、その場を彩る小道具などに関する理解も深められる仕組みになっています。

更に、途中6ヶ所で「『源氏物語』の舞台を歩く」と題したページが挟まれ、現存する平安時代の遺構や跡地、平安時代から現代に続く伝統行事を伝える寺社などが紹介されています。
いずれも風俗博物館を見学した後に回れる程度の、比較的近距離にある場所ばかりで、観光ガイドとしても利用できます。

筆者にとっては、新聞の書評欄に載ったこの本の初版(1998年秋の刊行だったと記憶していますが)の紹介記事が、風俗博物館を知るきっかけでした。
そういう意味で、個人的にも思い入れの強い1冊です。

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2005年11月18日 (金)

カテゴリ追加

新規カテゴリ「縁の地」を追加しました。
京都大好き人間の筆者が訪れた『源氏物語』にゆかりの土地をご紹介します。
源氏の部屋のコンテンツ「Evaと行く平安京―源氏物語の旅―」で取り上げられていない場所を扱いますので、京都市中心部からは少々外れたマイナーなラインアップになるかもしれません。
お楽しみいただければ幸いです。

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廬山寺

019rozanji京都御所に程近い廬山寺は、紫式部の邸があった土地とされています。
ここは、紫式部の曽祖父であり歌人として有名な藤原兼輔(通称:堤中納言)の邸・堤第があった場所です。
その邸が彼女の父・為時に伝領されたとの角田文衞氏の考証に基づき、紫式部はここで人生の大部分を過ごし、『源氏物語』も正にこの地で執筆されたと推測されています。

1965年に、角田氏の顕彰活動によって境内に紫式部邸顕彰碑が立てられ、それを記念した「源氏の庭」も造られました。
「源氏の庭」は、平安時代の貴族邸宅の庭の佇まいを考証・復元した作庭で、白砂と苔のしっとりとした風情に加え、夏は桔梗、秋は紅葉が訪問者の目を楽しませてくれます。
(下の写真は2003年7月に撮影した庭の様子です。左手奥の大きな石が紫式部邸顕彰碑)

この場所は、『源氏物語』の中にも登場します。
光源氏が空蝉と出逢った紀伊守邸は、
中川のわたりなる家なむ、このころ水せき入れて、涼しき蔭にはべる」(帚木巻)
と記されています。
この「中川」は東京極大路(現在の寺町通)に沿って流れていた京極川の二条以北の呼び名で、この辺りは正しく「中川のわたり」なのです。
想像を逞しくすれば、あるいは紫式部が自らの住まいをモデルに紀伊守邸を描いたのではないか?とも思えてきます。
また、源氏が二条院から花散里の邸を訪ねる道筋で「中川のほどおはし過ぐるに」(花散里巻)とあるところから、彼女が姉・麗景殿女御と共にひっそりと暮らしていたのもこの辺りと推定されます。

『源氏物語』の中と外、両方一遍に味わえるゆかりの地です。

020rozanji_2【Data】
住所:京都市上京区寺町広小路上ル
交通:市バス「府立医大病院前」下車徒歩3分
拝観:受付時間9:00~16:00 拝観料400円
tel.:075-231-0355

【参考文献】
廬山寺準門跡『紫式部邸宅遺跡』 ※拝観者用パンフレット
平安京探偵団「平安京を歩こう」内 紫式部に会いたい2
源氏の部屋「雅な世界にチャレンジ!」内 中川のわたり
阿部秋生 [ほか] 校注・訳『源氏物語 1』(新編日本古典文学全集第20巻)小学館 1994年

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平安時代好きの京都旅行記 廬山寺をUP(晴れのち平安)

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2005年11月13日 (日)

写真追加

過去の記事「竜笛」と「」に、先日風俗博物館で撮影してきた楽器実物の写真を追加しました。
大きさを把握していただくために、携帯でも一緒に並べて撮ったらより良かったのかもしれませんが、とりあえず楽器そのものの細かな部分はこの写真でご確認いただけるかと思います。
よろしければ、既にこれらの記事をお読みくださった方も再度ご覧くださいませ。

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2005年11月12日 (土)

『源氏物語と京都 六條院へ出かけよう』

018rokujoin_1五島邦治監修;風俗博物館編集 光村推古書院 2005年10月刊行
ISBN:4-8381-9931-7 税込2,520円

一言で言ってしまえば、「平安マニアの夢を叶える1冊」(笑)
2005年夏に京都文化博物館で開催された同タイトルの出張展示「源氏物語と京都 六條院へ出かけよう」に合わせて刊行された本です。

とはいえ、単なる展覧会図録かと思えばさにあらず。
内容の多彩ぶりは、目次をご覧いただけば一目瞭然です。

第一部 六條院拝見 雅やかな調度と室礼
 六條院行幸―お供して光源氏の邸宅を訪ねる―
 行幸の演出
 貴族の生活
第二部 六條院 四季の移ろい―京都の年中行事―
第三部 平安京を歩く
第四部 風俗博物館展示記録 平成十年秋から平成十七年初夏までの展示記録

第一部では、展示テーマだった六条院行幸(藤裏葉巻)の具体像を詳しく解説します。
最初の「六條院行幸」では、「お供して光源氏の邸宅を訪ねる」のサブタイトルのとおり、物語の進行に沿って人形を配した多数の模型写真で、栄華を極めた晴れの日を疑似体験。
「行幸の演出」では、音楽や室礼、饗宴などが、模型と実演の写真を織り交ぜて紹介されています。
最後の「貴族の生活」は、行幸からは離れて平安時代の建築や調度、衣裳などを紹介。
取り上げられている項目自体は、便覧や事典類に採録されているのとほぼ同じ、代表的なものばかりですが、実際にその調度を使っている様子がカラー写真で見られる本なんて他にありません!

第二部は、風俗博物館お得意のテーマ・年中行事。
第一部と同じく、模型と現代に伝わる行事の写真で月毎の行事を綴ります。
さながら平成版『年中行事絵巻』です。
各月のページの端には、その時期に咲く花の写真も配されていて、平安貴族の一年が折々の行事と季節の花に彩られていたことを感じさせてくれます。

第三部は、平安京の地理的な紹介と、実際に当時の乗り物と衣裳で平安貴族のお出かけスポットに行ってみよう!というマニアもびっくりの大胆企画。
そのためにわざわざ大型の牛車まで造ったそうで、制作者の徹底ぶりにはただただ驚くばかりです。
最後には平安京にまつわる石碑の所在地も紹介され、読者も現代の京都を訪ねて平安京を追体験できるようになっています。
写真データ提供には平安京探偵団の名前が挙がっており、なるほど納得です。

第四部は、7年間の展示内容を写真で紹介しています。
風俗博物館ホームページにも沢山の写真が掲載されていますが、改めて見ると「こんな展示もあったな」と懐かしく思われます。
長年(?)の博物館ファンには嬉しいページです。

上の目次のご紹介では細目までは挙げませんでしたが、この本にはもう1つ豪華な見所があります。
「文学と史書の名場面」と題して『源氏物語』以外の作品の有名な場面を模型で再現しているのです。
『源氏物語』の中だけでも展示で見たい場面は沢山ありますけれど、『枕草子』をはじめ他の作品でも「見てみたいな!」と思う有名な場面はあるもので、そんなファンの我儘に応えてくれる企画です。

本の詳しい内容は、風俗博物館ホームページ本の紹介「六條院へ出かけよう」をご覧ください。
194ページ・全ページフルカラーで、見て楽しめる充実の1冊です。

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「源氏物語と京都 六條院へ出かけよう」(晴れのち平安)
「源氏物語と京都」「海渡る風と光」を購入してきました♪(えりかの平安な日々)

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2005年11月 9日 (水)

脇息

016kyosoku座の前や脇に置いて、肘を乗せて身体をもたせ掛ける道具。
奈良時代には「挟軾(きょうしょく)」と呼ばれた調度で、音が転じて「脇息(きょうそく)」となりました。
(写真は2005年風俗博物館出張展示「六条院行幸」より、冷泉帝の御座に設えられた螺鈿の脇息)

『類聚雑要抄』巻四には図と共に寸法や素材の記載があり、当時の脇息の具体像が掴めます。
肘を乗せる甲板は長さ約106.5cm、幅約13.5cm、厚さ約2.7cmで端には丸みを持たせ、両端下部に2本ずつの脚を付け、脚の下に脚座と呼ばれる台を置きます。
『類聚雑要抄』には脚の長さあるいは全体の高さの記述が見当たらないのですが、この寸法を元に復元模型を作成した風俗博物館では、全体の高さを36.5cmとしています。
膝を崩して座って横に寄りかかるとちょうど収まりがよい高さ、というところでしょうか。
素材は「紫檀」と記され、脚には銀蒔絵で筋を入れるとの指示があります。

脇息を描いた絵巻も多く、『類聚雑要抄』の図と同じ形の他、『春日権現霊験記』のようにY字型の脚を持つものも描かれています。
また現代に伝わる遺品の中には、紫檀の他に檜や沈を素材とするものもあり、蒔絵や螺鈿、木画(木象眼を用いて絵のように文様を表す木工の装飾方法)などが施されています。
中でも藤田美術館所蔵の国宝「花蝶蒔絵挟軾」は、9世紀作成と推定される現存唯一の例として著名です。

『源氏物語』には「脇息」の用例が15例あり、くつろいで休息したり、病に臥せる人がそれを支えに身体を起こしたり、といった場面で登場します。
性別も年齢も聖俗も問わず幅広い人々が使用しており、非常に身近な調度だったようです。
用例からは、脇息の上に経を置いて読んだり(若紫巻)草子を広げてかな手本を書いたり(梅枝巻)と、時には文机の代わりに用いたこともわかります。
15例のうち、衰弱した紫の上が脇息に寄りかかって前栽を眺める御法巻の場面と、傷心の中の君が匂宮の琵琶の音色に惹かれて脇息に寄りかかって几帳の端から差し覗く宿木巻の場面とは、国宝『源氏物語絵巻』で絵画化されています。
意外なことに、『源氏物語』の中に脇息の素材や装飾についての言及は全くないのですが、国宝『源氏物語絵巻』宿木三では、中の君が寄りかかる黒い脇息の甲板に細かな模様が入っているのが見て取れ、漆塗金蒔絵の脇息として描かれているようです。

017kyosoku_2また、「脇息」という言葉そのものは出てきませんが、『源氏物語』をはじめ王朝物語によく描かれる女君の「寄り臥す」という動作の多くは、脇息に腕を乗せて身体を預け、袖の上に顔を伏せるような動作なのではないかと個人的には思っております。

最後に、違う角度からの写真をもう1枚。
(2004年下半期風俗博物館展示「女房の日常」より)
脚が片側に2本ずつ付いているのと、脚座の部分をよくご覧いただけるかと思います。
因みに、隣に写っているのは小型の火桶です。

【参考文献】
『類聚雑要抄』(3訂版『群書類従』第26輯所収)続群書類従完成会 1960年
山中裕, 鈴木一雄編集『平安時代の信仰と生活』至文堂 1994年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
五島邦治監修;風俗博物館編集『源氏物語六條院の生活』改訂版 青幻舎 1999年

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2005年11月 6日 (日)

「宮」と呼ばれる光源氏

帝、かしこき御心に、倭相を仰せて、思しよりにける筋なれば、今までこの君を親王にもなさせたまはざりけるを、「相人はまことにかしこかりけり」と思して、「無品の親王の外戚の寄せなきにては漂はさじ。わが御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をするなむ、行く先も頼もしげなめること」と思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせたまふ。

高麗の相人の予言を聞いた帝は、第二皇子(=光源氏)を臣籍降下させようと決意します。
「光源氏」の誕生です。

この場面で初めて、第二皇子がこれまで親王宣下を受けていなかったことが明らかになります。
『源氏物語』という題名のとおり、主人公は臣籍降下して源氏になるのですから、親王宣下を受けていないのは当然といえば当然ですが、この場面に至るまでに5回にも渡って「」「若宮」と呼ばれてきたことを考えると、少々意外な感じを受けます。
この点について、吉海直人氏は『源氏物語の視界―桐壺巻新解―』の中で

源氏が誕生後「みこ」とか「みや」と呼ばれていること、あるいは皇位継承問題が浮上していることから、なんとなく源氏は既に親王の資格を得ているような錯覚を抱かされていた。そして親王から臣籍に降下されるように誤読していた。ひょっとするとそこが作者の狙いかもしれない。しかし「みこ」や「みや」は必ずしも親王ではなかったのだ。

と述べています。

では、親王・内親王宣下を受けていない皇子女が「宮」と呼ばれるのは、物語が書かれた当時は自然なことだったのでしょうか?
それとも、当時の読者も「宮」と言われれば普通は親王・内親王をイメージするものだったのでしょうか?
『源氏物語』とその周辺の作品について調べてみました。

まず『源氏物語』の中では、親王の子供が5人ほど、一時的に「宮」と呼ばれる例がありますが、その他は皇后・皇太后などの「后の宮」と親王・内親王ばかりです。
『枕草子』『伊勢物語』『落窪物語』『大鏡』などの諸作品でも、「宮」と呼ばれる皇子女は、軒並み親王・内親王でした。
微妙な例としては、『栄花物語』巻第二「花山たづぬる中納言」で、醍醐天皇第十六皇子で臣籍降下した源兼明を
延喜の帝の御十六の宮
と記している箇所があるのですが、源兼明は藤原兼通の策略で皇族に戻されて親王となった人物なので、最終的な身分が呼称に反映されている可能性も考えられます。
(この辺の調査結果は、源氏物語を味わう【掲示板】の発言No306をご参照ください)

他方、親王宣下を受けなかった皇子で「宮」と呼ばれた人物も、歴史上には存在します。
例えば、後白河天皇第二皇子・以仁王。
幼くして寺に入れられたものの出家せず、密かに元服したと伝えられる以仁王は、三条高倉の邸に住み、「高倉宮」と呼ばれました(『源平盛衰記』巻十三)
また、『紫式部日記』では敦成親王のことを誕生直後から「」と記しており、親王宣下を受けて初めて「」と呼ばれるようになる訳ではないことが窺われます。

更に調べていくと、『源氏物語』の時代設定となる醍醐・村上朝から実際に執筆された一条朝辺りで、親王・内親王宣下も臣籍降下もなされなかった皇子女はほとんど存在しない(少なくとも歴史上に名前が残っていない)らしいことがわかってきました。
しかも、親王・内親王宣下あるいは臣籍降下がなされる年齢は一~七歳頃が中心で、特に一条朝の皇子女達は、いずれも生後間もなく親王・内親王宣下を受けています。

これらの事情を考え合わせると、親王宣下を受けていない皇子を「宮」と呼ぶこと自体はおかしなことではないものの、当時そのような例はかなり稀少で、一般に「宮」と呼ばれる人物は親王であるように認識されていたのではないでしょうか。
第二皇子を「」「若宮」と呼び、読者に皇位継承の可能性をもつ親王であるかのような印象を与え、立坊の可能性さえ示唆しつつ、ここで臣籍降下という決断を描いて帝位から遠ざける。
この後、光源氏はただの一度も「」とは呼ばれません。
帝位に迫り、臣下では終わらないとの予言を背負う皇子が、親王でさえなく源氏となって、どのようにあの予言を実現するのかと、読者の興味は掻き立てられたことでしょう。
そうした読者の意外の念を強めるものとして、読者の先入観を利用した「宮」という呼称が機能しているのではないかと思います。

※「宮」という呼称に関するレスのやり取りは、「桐壺」巻の読みのページからご覧いただけます。
 (第三章第三段「「宮」という呼称について」の列の各発言です)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』(角川書店 1994年)
『日本人名大事典』復刻版(平凡社 1979年)
吉海直人著『源氏物語の視覚 : 桐壺巻新解』(翰林書房 1992年)
フリー百科事典ウィキペディア

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