« 2005年11月 | トップページ | 2006年1月 »

2005年12月の記事

2005年12月28日 (水)

逢坂の関

023osaka_1百人一首をはじめ多くの歌に詠まれ、歌枕の中でも特に有名な逢坂の関は、山城国と近江国の境を成す逢坂山にあり、畿内と東国とを結ぶ交通の要衝でした。
逢坂の関跡の石碑は、京都側から国道1号線を進むとちょうど峠を上りきった辺り、横断歩道の脇にひっそりと立っています。
この石碑は昭和7[1932]年の建立。
ただし、関の正確な位置はわかっておらず、大津市逢坂2丁目の長安寺(関寺跡)付近とする説や、逆にもっと山科寄りだったとする説もあります。
(下の写真左は、石碑の場所から大津方面を撮影したもの。右は石碑の遠景です)
024osaka_2025osaka_3





逢坂の関は、『源氏物語』では「関屋」という巻名が示すとおり、関屋巻冒頭の場面の舞台として登場します。
関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。
夫・常陸介と共に東国に下っていた空蝉は帰京の道筋、須磨・明石の流離を経て都に返り咲いた光源氏は石山詣に向かう途中、両者の一行はちょうど逢坂の関ですれ違います。
ただ一度、秘められた逢瀬をもった2人の12年ぶりの再会の地に、許されぬ男女が隔てを越える象徴として歌に詠まれる「逢坂の関」が選ばれたのは、やはり帚木・空蝉両巻を読者に思い起こさせる意図なのでしょう。
この場面は、国宝『源氏物語絵巻』関屋にも描かれています。

もうひとつ逢坂の関が登場するのは、賢木巻。
斎宮下向の日、行列が自邸の前を通り過ぎてゆくのにしみじみとした思いを募らせた光源氏は、娘と共に伊勢へ下る六条御息所に歌を贈ります。
それに対して、御息所の返歌は「またの日、関のあなたよりぞ、御返しある」、翌日に“関”の向こう側から届けられました。
この関こそ、逢坂の関です。
都から東国へ向かう人々は、粟田口から山科を通って逢坂の関を越え、都を離れてゆきました。
関のあなたよりぞ」との表現には、御息所が光源氏のいる都の世界から完全に切り離されて手の届かない存在になったことが表されています。

現在は、車の往来も激しい国道の傍らに忘れられたように石碑が立つのみで、当時の遺構は何も残っていませんが、「逢坂」という名前のとおり、王朝人の出逢いと別れを見守ってきた、坂の上の関所です。

【Data】
住所:大津市大谷町22
交通:京阪京津線大谷駅下車徒歩3分
tel.:077−522−3830(大津駅観光案内所)

【参考文献】
滋賀県高等学校歴史散歩研究会編『滋賀県の歴史散歩』新版(新全国歴史散歩シリーズ25)山川出版社 1990年
片桐洋一著『歌枕歌ことば辞典』増訂版 笠間書院 1999年
びわ湖大津・観光イベント情報(大津市)

【この記事からのトラックバック】
逢坂の関(神話の森のブログ)
関屋(烏賊の「とっちゃん」の呟き)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トラックバック一覧を追加

記事を書く際の検索で関連性のあるBlogを見つけたときは、トラックバックをさせていただいているのですが、送信したこちら側のBlogには特に何の記録も残らないので、記事の末尾に当記事からのトラックバック一覧を付けることにしました。
過去の記事についても追加しましたので、よろしければご覧ください。
参考文献としては挙げておりませんでしたが、いずれも興味深く読ませていただいたものばかりです。
皆様にとってもご参考になりましたら幸いに存じます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月20日 (火)

灌仏会から透かし見る紫の上の地位

2005年風俗博物館展示「六条院における灌仏会」のレポートをまとめる中で、宮中の灌仏会では、女御・更衣がそれぞれ童女を出してお布施を献じるしきたりだったことを知りました。
(展示レポートの該当部分はこちら。儀式書の記述も掲載しています)
六条院での灌仏会を描く藤裏葉巻の原文は
御方々より童女出だし、布施など、公ざまに変はらず、心々にしたまへり。
とありますが、この行為は六条院の女君達を女御・更衣に擬えるものだった訳です。

それに気づいた当初は、上記リンク先のレポートに書きましたとおり、この描写は、宮中の儀式作法を自らの私邸で再現し、自分の妻達に后妃と同じ役割を演じさせる光源氏の絶大な権勢を表したものだと考えておりました。
ですが、しばらくしてひとつの疑問が生じてきました。
童女を出すのが「女御、更衣」とされているということは、中宮は童女を出さなかったのだろうか?という疑問です。

『西宮記』には「置女房料」とあり、割注に「女御、更衣、布施童女授女房、自女房付蔵人」と記されています。
この「女房料」には、当然のことながら女御・更衣が童女を使いに献じたお布施も含まれることになります。
平安文学の世界に馴染んでいると「女房」と「女御、更衣」とでは格が違いすぎるような気がしますが、典侍などは「上の女房」と呼ばれる女官であり、更衣と同等か格上くらいの官職ですし、広い意味では女御・更衣も、官位を叙され官職を任ぜられた帝にお仕えする女官と言えます。
そう考えれば『西宮記』や『江家次第』が記す「女房」の括りの中に女御・更衣が入っていても、そう不自然なことではありません。

他方、中宮は皇族であって官位官職の枠外に位置する地位ですので、「女房」という括りの中に含まれることはあり得ません。
わざわざ「女御、更衣」という書き方をしている点もそうですが、中宮が一緒にお布施を献じることはなかったと推測されます。

このことを踏まえて六条院での灌仏会に目を戻すと、六条院の女君達―具体的には紫の上、花散里、明石の君の3人―の位置づけは、いずれも“女御・更衣”であって“中宮”ではないことになります。
中宮は、言うなれば天皇の正妻です。
ということはつまり、この儀式を通して彼女達は全員、間接的に「光源氏の正妻ならざる者」というラベリングがされていることになりはしないでしょうか。

紫の上は、ここまでの物語の中で正妻に限りなく近い描かれ方をされてきました。
しかし、この法会で主催者たる源氏が彼女に割り振った役割が正妻としてのものではなかったというのなら、光源氏自身、紫の上を愛し大切にしてはいても、社会通念上の正妻としては認めていなかったのかもしれません。
そう思って次の若菜上巻を読み進めると、女三の宮の婿選びで光源氏が「やむごとなき御願ひ深くて」と評され、また紫の上を含む妻達が「限りあるただ人ども」と括られてまるで顧慮されない要因は、こうした光源氏の態度にもあったのではないか、と思えてきます。

注釈書の類を当たってみると、古注には
女房の布施ともなるへし」(『岷江入楚』)
禁中の灌佛に、殿上に侍らふ女房の布施どもは、…(中略)六条院の女中の布施は、童女にもたせて出し給へりと見ゆ」(『湖月抄』)
といった記述がありますが、「女房」「女中」が誰を指すかは明確ではなく、宮中で女御・更衣が布施を献じたことも記されていません。
一方、現代の諸注は「御方々」が女君達であることを明記していますが、彼女達が布施を出すという行為が内裏の「女房」に倣ったものであることには言及していません。
ましてや、この一文から紫の上の妻としての地位の不確かさまで深読みした解釈は、これまでなされていないようですが、この権勢を誇示した盛儀の陰に、抗いようもない身分秩序に基づく冷酷な認識が隠れている気がしてならないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月11日 (日)

『平安時代の儀礼と歳事』

015lit_and_cult山中裕, 鈴木一雄編集 至文堂 1994年刊行
ISBN:4-7843-0119-4 税込2,625円

先にご紹介した『平安時代の信仰と生活』と同じ『平安時代の文学と生活』シリーズの2冊目。
こちらの収録テーマは、平安貴族の通過儀礼や年中行事、御世替わりに関わる儀式などです。
以下、目次をご紹介いたします(著者敬称略)。

皇位の継承儀礼―『北山抄』を中心に―(所功)
後宮制度―后妃と女官―(所京子)
貴族の通過儀礼
 1.誕生・産養(小川寿子)
 2.袴着・元服・裳着(藤本勝義)
 3.結婚(伊藤一男)
 4.算賀(小町谷照彦)
 5.葬送・服喪(河添房江)
平安時代の年中行事(山中裕)

通過儀礼と年中行事は、割とどの本を見ても載っていますが、それぞれの解説の詳しさはさすが!の一言です。
儀式次第や室礼に関する記述が豊富で、風俗博物館の展示で年中行事や通過儀礼が取り上げられた際には、この本の記述で展示されている調度類の細部に合点がいくということもしばしばです。
また『源氏物語』に限らず平安中期の文学全体を対象としているため、『源氏物語』の中には登場しない儀式も解説されており、“『源氏物語』が描かなかった行事”という観点を得られる点も意味があると思います。
(例えば八月十五日の月の宴は、『源氏物語』ではかなり変則的な描かれ方になっています。詳しくは筆者が源氏の部屋に寄稿した「月の宴(仲秋の名月)」をご覧ください)

一方、皇位継承や後宮制度は、文学作品を読んでいるだけではあまり接する機会のない分野で、政治・行政の制度面を知る上で参考になります。
特に後宮制度については、『源氏物語』に言葉としては数多く出てくる「中宮」「女御」「更衣」「御息所」「尚侍」「典侍」といった后妃や女官の制度上の位置づけや職掌などの具体像がわかり、お薦めです。

『源氏物語』は女房の昔語りを仮構しているため、政治・行政制度や儀式次第の詳細は「男性の世界のこと」として語ろうとしませんが、華やかな儀式行事の情景描写や、時折ちらりと触れられる政治的な事柄は、当時の確かな経験と知識に基づいて書かれています。
この本は『源氏物語』のそうした側面を踏まえ、現代の読者がより同時代の読者の感覚に近づいて読むための下地を提供してくれる、大事な1冊です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月 3日 (土)

鞨鼓(かっこ)

022kakko筒型の胴の両面に皮膜を張り、膜同士を紐で締め合わせた膜鳴楽器。
胴は通常木製で、長さ30cm、口径15cm程度。中央が膨らんだビヤ樽型をしています。
皮膜は直径23cmほどの鉄製の輪に張り、これを胴の両端に当てて「大調」と呼ぶ革紐で締め、更にその革紐を「小調」と呼ぶ紫か紅の組紐で締めて皮膜の張力を調節します。
(写真は、2004年風俗博物館出張展示「一条帝による土御門邸行幸」より、鞨鼓)

演奏時は、写真のように台に載せて2本の桴で打って鳴らします。
奏法は、右桴で右皮を1回打つ「正(せい)」、片皮面のみを最初はゆっくり、次第に速く連打する「片来(かたらい)」、左右の桴で両皮面を交互に細かく打つ「諸来(もろらい)」の3種類を基本とします。
これらを組み合わせてリズムパターンをつくります。
リズムパターンの基本は8種類で「鞨鼓八声」と呼ばれ、『教訓抄』巻九には宝亀九[778]年に進鼓生・壬生駅麿(みぶのうまやまろ)がこれを定めたと記されています。

中国から唐楽の楽器として日本に伝来し、太鼓・鉦鼓と共に唐楽に用いられました。
唐楽においては打楽器の首位に置かれており、指揮者に類するリーダー格の人が担当します。
演奏のテンポを決定したり、演奏終了の合図を発したりと、重要な役割を果たします。

ですが、平安時代には鞨鼓に限らず打楽器は全般に地下の楽人が担当する楽器で、貴族が演奏することはありませんでした。
そのためか、『源氏物語』の中に鞨鼓の名前は登場せず、ただ打楽器の総称としての「」が3例見られるのみです。
しかも演奏者の姿は描かれず、その音に触れるばかり。
『枕草子』でも扱いは同様です。
読者は、描かれることのない打楽器の音色を、舞楽や管弦の合奏の描写から想像することになります。
楽所の人召す」「楽人参る」と点描される名もない人々が演奏した、しかし華やかな合奏を確かに彩っていた筈の、縁の下の楽器のひとつです。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
平野健次[ほか]監修『日本音楽大事典』平凡社 1989年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世藝術論』所収)岩波書店 1973年

【この記事からのトラックバック】
雅楽の楽器:鞨鼓(雅楽のウェブログサイト/ kenken’s 雅楽)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年11月 | トップページ | 2006年1月 »