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2005年12月20日 (火)

灌仏会から透かし見る紫の上の地位

2005年風俗博物館展示「六条院における灌仏会」のレポートをまとめる中で、宮中の灌仏会では、女御・更衣がそれぞれ童女を出してお布施を献じるしきたりだったことを知りました。
(展示レポートの該当部分はこちら。儀式書の記述も掲載しています)
六条院での灌仏会を描く藤裏葉巻の原文は
御方々より童女出だし、布施など、公ざまに変はらず、心々にしたまへり。
とありますが、この行為は六条院の女君達を女御・更衣に擬えるものだった訳です。

それに気づいた当初は、上記リンク先のレポートに書きましたとおり、この描写は、宮中の儀式作法を自らの私邸で再現し、自分の妻達に后妃と同じ役割を演じさせる光源氏の絶大な権勢を表したものだと考えておりました。
ですが、しばらくしてひとつの疑問が生じてきました。
童女を出すのが「女御、更衣」とされているということは、中宮は童女を出さなかったのだろうか?という疑問です。

『西宮記』には「置女房料」とあり、割注に「女御、更衣、布施童女授女房、自女房付蔵人」と記されています。
この「女房料」には、当然のことながら女御・更衣が童女を使いに献じたお布施も含まれることになります。
平安文学の世界に馴染んでいると「女房」と「女御、更衣」とでは格が違いすぎるような気がしますが、典侍などは「上の女房」と呼ばれる女官であり、更衣と同等か格上くらいの官職ですし、広い意味では女御・更衣も、官位を叙され官職を任ぜられた帝にお仕えする女官と言えます。
そう考えれば『西宮記』や『江家次第』が記す「女房」の括りの中に女御・更衣が入っていても、そう不自然なことではありません。

他方、中宮は皇族であって官位官職の枠外に位置する地位ですので、「女房」という括りの中に含まれることはあり得ません。
わざわざ「女御、更衣」という書き方をしている点もそうですが、中宮が一緒にお布施を献じることはなかったと推測されます。

このことを踏まえて六条院での灌仏会に目を戻すと、六条院の女君達―具体的には紫の上、花散里、明石の君の3人―の位置づけは、いずれも“女御・更衣”であって“中宮”ではないことになります。
中宮は、言うなれば天皇の正妻です。
ということはつまり、この儀式を通して彼女達は全員、間接的に「光源氏の正妻ならざる者」というラベリングがされていることになりはしないでしょうか。

紫の上は、ここまでの物語の中で正妻に限りなく近い描かれ方をされてきました。
しかし、この法会で主催者たる源氏が彼女に割り振った役割が正妻としてのものではなかったというのなら、光源氏自身、紫の上を愛し大切にしてはいても、社会通念上の正妻としては認めていなかったのかもしれません。
そう思って次の若菜上巻を読み進めると、女三の宮の婿選びで光源氏が「やむごとなき御願ひ深くて」と評され、また紫の上を含む妻達が「限りあるただ人ども」と括られてまるで顧慮されない要因は、こうした光源氏の態度にもあったのではないか、と思えてきます。

注釈書の類を当たってみると、古注には
女房の布施ともなるへし」(『岷江入楚』)
禁中の灌佛に、殿上に侍らふ女房の布施どもは、…(中略)六条院の女中の布施は、童女にもたせて出し給へりと見ゆ」(『湖月抄』)
といった記述がありますが、「女房」「女中」が誰を指すかは明確ではなく、宮中で女御・更衣が布施を献じたことも記されていません。
一方、現代の諸注は「御方々」が女君達であることを明記していますが、彼女達が布施を出すという行為が内裏の「女房」に倣ったものであることには言及していません。
ましてや、この一文から紫の上の妻としての地位の不確かさまで深読みした解釈は、これまでなされていないようですが、この権勢を誇示した盛儀の陰に、抗いようもない身分秩序に基づく冷酷な認識が隠れている気がしてならないのです。

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