« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »

2006年1月の記事

2006年1月29日 (日)

国宝『源氏物語絵巻』に描かれた謎のモノ達(2)尼君

※「国宝『源氏物語絵巻』に描かれた謎のモノ達(1)」を未読の方は、そちらから先に読まれることをお薦めします。

国宝『源氏物語絵巻』竹河(二)は、現存する絵巻の中で屈指の華麗な場面になっています。
真ん中に満開の桜、左手には折に相応しい彩りの衣裳を着た姫君達、そして画面上部にも美しく装った女房達と、暖色中心の色彩で全体にとても明るく華やいだ雰囲気です。

ところが、この絵の左隅に、なんとも不似合いな人物が描かれています。
それは尼君。
御簾の内側に立てられた几帳の向こうに、顔と衣裳の端が覗いているだけですが、褪色した原画でも甘草色の袴ははっきりと見て取れます。
袿の色は原画だと判然としませんが、復元模写では尼君に相応しく濃い青鈍色になっています。
確かにここには、尼君が座っているのです。

ですが、この場面の原文をいくら読んでも、尼君がこの場にいたとは出てきません。
そもそも玉鬘邸に出家の身で仕えている(例えば宇治十帖の弁の尼のような)女房がいるというような記述もありません。
また、原文では姫君達の傍らに控えて碁の判者を務めたのは弟の侍従の君と記されています。
全く原文からは読み取れない人物が、どうして画面の片隅とはいえ、この場面の主役である姫君達のすぐ傍らに描かれたのでしょうか。
原文にない人物をわざわざ描いたのは、何かしら画家に明確な意図があってのことと推測されるのですが、その意図が一体何なのかは、筆者には皆目見当も付きません。
竹河巻の中には、大君を冷泉院に、中の君を尚侍として宮中に出仕させた後、玉鬘が出家しようと思い立つものの息子達に諌められて断念する場面がありますけれど、あるいはそれと関係があるのかないのか。
わからないまま、あれこれ想像を巡らすばかりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月20日 (金)

国宝『源氏物語絵巻』に描かれた謎のモノ達 (1) 美麗几帳

国宝『源氏物語絵巻』の科学分析と復元模写のプロジェクトは、NHKで5年にわたって特集番組が放映されたりして、ご存知の方も多いかと思います。
去年秋に徳川・五島両美術館所蔵全19点の復元模写が完成し、11月12日~12月4日に徳川美術館で開催された国宝『源氏物語絵巻』全点展示では、これらの復元画も一緒に展示されました。
プロジェクトを通して、褪色と剥落の進んだ原画を肉眼で見るだけではわからなかった部分が解明されたり、これまで言われていた通説が覆されたりと、さまざまな発見がなされ、今後の研究の進展も期待されているところですが、逆に色鮮やかな復元模写によって細部がはっきりしたことで、「なんでこんなところにこんなものが?」と首を傾げたくなるような箇所に気づくようにもなりました。
このトピックでは、筆者が個人的に不思議に思っている“謎のモノ達”を、結論も何もなく疑問形のままご紹介いたします。
(もしかしたら、既に何らかの研究論考が発表されているかもしれません。調査の行き届いていない点はご容赦ください)

今回取り上げるのは、柏木(一)と柏木(二)、そして橋姫に描かれている煌びやかな几帳です。

原画では画面全体が茶色っぽく変色しているので目立ちませんが、柏木(一)で女三の宮・朱雀院・光源氏の3人と女房達とを隔てる2本の几帳の帳(かたびら)は、梔子色の地の全面に三重襷花菱の文様が配された大変華やかなものです。
女三の宮の脇に立てられた裾濃の三尺几帳もそうですが、このように華麗な織りや染めを施した帳を掛けた几帳は、特に「美麗几帳」と呼ばれ、儀礼の折などに用いられました。
女三の宮は何と言っても二品内親王で六条院の正妻ですから、豪華な几帳に囲まれていること自体は別に不思議でも何でもありません。

ですが、同じ几帳が他の場面でも描かれているとなると、ちょっと趣は変わってきます。
柏木(二)では、夕霧が裾を捲っている柏木の枕元の几帳が、同じ色、同じ文様で描かれています。
女房達のいる画面左側の几帳はごく普通の白地に朽木文様の帳ですので、余計にこの美麗几帳が目に付きます。
そして橋姫では、画面左隅、筝を弾く姫君の横に立てられた几帳が、やはり梔子色の地に三重襷花菱文様の帳です。
太政大臣の嫡男である柏木のごく身近なところに設えてあるのが美麗几帳だというのは、人臣の頂点に立つ一家の権勢と派手好みな父大臣の性格とを考えるとわからなくもありませんが、宇治に隠棲している没落した宮家に絢爛たる美麗几帳というのはどうにも似合いません。
しかも、他に描かれた美麗几帳は、いずれも裾濃の几帳で、このように全面に彩色が施され文様が描き込まれているのはこの3場面の4本のみなのです。

多くの場面の絵が散逸してしまった以上、現存している絵だけを取り上げて共通性を云々するのはナンセンスかもしれません。
ですが、六条院世界を崩壊させた密通の当事者達――女三の宮、柏木、そして2人の間の不義の子・薫――が、その宿命を己の身に引き受ける重大な場面を描いた3つの絵に、色も柄も同一のモノが描き込まれているのは、何か意図があってのことではないかという気がしてなりません。
華やかな王朝貴族の世界を描いた『源氏物語絵巻』の中でもひときわ煌びやかな美麗几帳の色彩が、六条院の完璧な栄華の翳で苦悩と悲哀を抱える3人のつながりを逆説的に示している…と読むのは、あまりに深読みが過ぎるでしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 9日 (月)

石山寺

027ishiyama_1琵琶湖の南、瀬田の唐橋から1.5kmほど下ったところにある石山寺は、如意輪観世音菩薩をご本尊とし、平安時代には清水や初瀬と並ぶ観音信仰の中心地でした。
『蜻蛉日記』や『更級日記』に石山詣の記述が見られるように、女性の信仰が篤く参詣の多かったことでも知られます。
石山寺というと、
「紫式部は石山寺参籠中に『源氏物語』の着想を得た」
という『源氏物語』起筆伝説が有名ですが、あれはあくまで後世の伝説に過ぎず、石山寺と紫式部及び『源氏物語』執筆との間に、歴史的事実として確認できるつながりは見つかっていません。
(ただし、伝説に基づいて長年にわたり人々が紫式部と『源氏物語』に因む美術工芸品や文学作品を奉納してきたため、石山寺は『源氏物語』享受史の宝庫となっています)

執筆との関わりはないものの、観音信仰・石山詣が盛んだった当時の世相を反映して、『源氏物語』の中には何度か石山寺が登場します。

最初は、逢坂の関でご紹介した関屋巻。
逢坂の関で空蝉と邂逅する光源氏は、その権勢を誇示するかのように美々しく行列を整えて都から石山詣に向かう途上でした。
この場面では、粟田山と逢坂山を越え打出の浜を経、琵琶湖と瀬田川に沿って石山寺へ至る、都からの道筋も窺うことができます。

次は真木柱巻冒頭で、玉鬘付きの女房・弁のおもとに手引きをさせ、大逆転で玉鬘を手に入れた髭黒大将が
石山の仏をも、弁の御許をも、並べて預かまほしう
と思う件があります。
髭黒大将が石山寺に玉鬘との結婚を熱心に祈願していたという設定です。
この一節に続く
げにそこら心苦しげなることどもをとりどりに見しかど心浅き人のためにぞ寺の験も現はれける
との語り手の批評も、当時悩み苦しみを抱えた沢山の人々が石山寺の霊験に縋ったのだろうことを感じさせます。

その次に石山寺が登場するのは浮舟巻ですが、この巻での記述の仕方は少々注意を引きます。
匂宮が宇治に隠し据えられた浮舟の許に忍び込んだのは、浮舟が母君の計画で石山詣へ出かけようとしていた、その前夜のことでした。
この石山詣は匂宮の闖入と居座りによって中止になってしまうのですが、そのことは浮舟巻の中でなんと3回も繰り返して言及されます。
まるで、浮舟が匂宮との関係をきっかけに出口のない苦悩の底へ転落してゆく展開を、「女性が救いを求めて参詣する石山寺に行けなくなった」という事態によって象徴しているかのようにも読める執拗な反復ぶりです。
そして、薫と匂宮との間で悩む浮舟にどちらか一方を選ぶよう勧める右近が
とてもかくても、事なく過ぐさせたまへと、初瀬、石山などに願をなむ立てはべる
と言うのも、当時の観音信仰を考えればごく自然な言葉でしょうが、浮舟が右近の言葉に却って追い詰められて死を願うようになることを思うと、石山寺の存在は浮舟を悲劇の方向へ導く役割を果たしているような気がいたします。
028ishiyama_2更に、本文中に石山寺の登場する最後の場面が、蜻蛉巻で石山寺参籠中の薫が浮舟失踪の知らせを受ける、という内容であるのも、何やら意図的なものを感じるのですが…深読みのしすぎでしょうか?

境内の山を半ばまで登り、寺名の由来でもあるごつごつとした珪灰石を見上げると、雄大で清浄な雰囲気が参拝者を包み込みます。
個人的には、観光ガイドなどによく書かれている「紫式部伝説の地」というよりも、『源氏物語』の描く仏教信仰の観点から考えてみたいお寺です。

【Data】
住所:滋賀県大津市石山寺1-1-1
交通:京阪石山坂本線石山寺駅下車徒歩10分
拝観:受付時間8:00~16:30 拝観料500円
tel.:077-537-0013

【参考文献】
石山寺(石山寺・石山観光協会によるWebサイト)
滋賀県高等学校歴史散歩研究会編『滋賀県の歴史散歩』新版(新全国歴史散歩シリーズ25)山川出版社 1990年

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 1日 (日)

元旦の行事

026daigokuden

お正月ですので、今日は新春行事のお話を少々。

『源氏物語』で元旦の行事が具体的に描かれている場面としては、紅葉賀巻と初音巻が挙げられます。

男君は、朝拝に参りたまふとて、さしのぞきたまへり。(紅葉賀巻)

光源氏が参内の前に紫の君のいる西の対に立ち寄る、元日の朝の場面です。

ここで出てくる「朝拝」とは、「朝賀」とも言い、元旦の辰の刻(午前7~9時)に天皇が大極殿に出御して群臣から新年の祝賀を受ける儀式です。
即位式と並ぶ大礼とされ、大極殿の前庭には宝幢(中国伝来の儀式用の幡飾り)を立て、天皇も親王・臣下も皆礼服を着用しました。
長岡京大極殿跡からは朝賀の際に宝幢を立てた柱の堀形が発掘され、往時の盛大な儀式の威容を伝えています。
ただし、一条朝になるとこの儀式は廃絶し、清涼殿東庭での小朝拝が専らになりました。

歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り混ぜて、千年の蔭にしるき年のうちの祝ひ事どもして(初音巻)

初音巻に描かれるのは、新造なった六条院で初めて迎える新年の様子です。

歯固めの祝ひ」は、「供御薬(みくすりをぐうす)」と呼ばれる年中行事の一部で、元日早朝に屠蘇(数種の薬草を組み合わせた屠蘇散を酒に浸してつくった薬酒)と共に硬い食べ物を口にして長寿を願う儀式です。
「歯」は「齢」に通じ、歯を固めることで“齢を固める=長生きする”という意味が込められていました。
『西宮記』巻一「供御薬事」には、歯固めの具として「大根、瓜、串刺、押鮎、焼鳥等」と挙がっています。
たゞ押鮎の口をのみぞすふ」という『土佐日記』の船上での元旦の記述も有名ですね。

もうひとつこの場面で挙がっている「餅鏡」は、現在の鏡餅と同じです。
とはいえ、現在のように鏡開きをして食べるというような習慣は当時なかったようで、お供えしてそれを見ることが主眼でした。
初音巻でも、上記引用文の少し後に
今朝、この人びとの戯れ交はしつる、いとうらやましく見えつるを、上にはわれ見せたてまつらむ
という源氏の台詞があり、餅鏡は見るものであったことが窺われます。
「餅鏡」の名前は、お餅を鏡のように丸く平たい形に成形することによります。
なぜ鏡を模るのかはよくわかりませんけれど、あるいは鏡が古代の祭祀に用いられたことと関係があるのでしょうか?
『源氏物語図典』(小学館)によると、『源氏物語』のこの場面は文献上最も古い餅鏡の例なのだそうです。

もうひとつ、具体的な描写とは言えませんが乙女巻にも元旦の記述があります。

朔日にも、大殿は御ありきしなければ、のどやかにておはします。

太政大臣となった光源氏の、二条院でのゆったりとした元旦です。

御ありき」とあるのは「参座」という新年の行事のことで、元日から三日にかけて、臣下が内裏や摂関家などに祝賀に訪れます。
位人臣を極めた源氏には、最早どこかへ出向いていって新年の祝賀を申し述べる必要はないという訳です。

因みに、紅葉賀・初音両巻にもこの参座の記述があります。

参座しにとても、あまた所も歩きたまはず、内裏、春宮、一院ばかり、さては、藤壷の三条の宮にぞ参りたまへる。(紅葉賀巻)
朝のほどは人びと参り混みて、もの騒がしかりけるを、夕つ方、御方々の参座したまはむとて、心ことにひきつくろひ、化粧じたまふ御影こそ、げに見るかひあめれ。(初音巻)

紅葉賀巻時点の光源氏は十九歳・宰相中将で、父帝、兄東宮、一院、そして出産のために三条宮に里下がりしている藤壺を訪ねました。
一方、初音巻での光源氏は三十六歳・太政大臣、参座の人々を迎える側になっています。
そして「御方々の参座」は、源氏が女君達の許へ新年の挨拶回りに出かけることを、冗談めかして「参座」と表現しているものです。

以上、ごく簡単に『源氏物語』に登場する元旦の行事をご紹介いたしました。
写真は朝賀に絡めて、平安神宮の大極殿(平安宮大極殿の5/8サイズ復元)です。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
中野幸一編『常用源氏物語要覧』武蔵野書院 1995年
五島邦治監修;風俗博物館編集『源氏物語と京都 : 六條院へ出かけよう』光村推古書院 2005年

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »