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2006年7月の記事

2006年7月30日 (日)

納曽利(落蹲)

042rakuson_1 043rakuson_2 「納曽利(なそり)」は、高麗楽・右方二人舞で、現代に伝わる高麗楽曲の中で最も有名かつ最高傑作とされる舞曲です。
番舞は、こちらも有名な左方の代表的一人舞「陵王」。
作曲、作舞、由来は不明ですが、雌雄の竜が楽しそうに遊ぶ姿を舞にしたものと言われます。
平安時代では、主に相撲、競馬、賭弓の節会で右方の勝者を祝って奏しました。
(写真左は2004年下半期風俗博物館展示「紫の上による源氏四十の賀」より、落蹲を舞う舞人。右は『舞楽図』より「納曽利」)

別名「落蹲(らくそん)」とも言い、一般には“一人舞を落蹲、二人舞を納蘇利と呼ぶ”と解説されますが、

日暮れかかるほどに、高麗の乱声して、「落蹲」舞ひ出でたるほど、なほ常の目馴れぬ舞のさまなれば、舞ひ果つるほどに、権中納言、衛門督下りて、「入綾」をほのかに舞ひて、(『源氏物語』若菜上巻)

落蹲は二人して膝踏みて舞ひたる(『枕草子』第二〇五段「舞は」)

殿の君達二所は童にて舞ひたまふ。高松殿の御腹の巌君は納蘇利舞ひたまふ。殿の上の御腹の田鶴君陵王舞ひたまふ。(『栄花物語』巻第七「とりべ野」)

といった記述を見るに、少なくとも平安中期には舞人の人数による呼び分けはなかったと思われます。

044rakuson_s1 045rakuson_s2
046rakuson_s3 046rakuson_s4 装束は別様装束(その曲にのみ用いる専用の装束)で、袍に 竜唐織紋のある毛縁の裲襠、指貫・大口・腰帯・糸鞋を着け、竜を模した吊顎面と緑色金襴の牟子で頭部を覆い、右手に銀色の桴を持ちます。
ただし、童舞の場合は面、牟子を着けず、童髪に天冠を着けます。
(写真は順に、袍〔左上〕、裲襠と腰帯〔右上〕、指貫〔左下〕、面と牟子〔右下〕。いずれも2006年下半期風俗博物館展示「舞楽装束のいろいろ」より)

現代の雅楽の衣裳は近世の衣裳を引き継いでいて、『舞楽図』に描かれているように袍は朽葉色で裲襠は円領(あげくび)の丸形、腰帯は銅製に銀メッキを施したものですが、風俗博物館の展示ではより平安時代の衣裳に近い形を模索して、緑青色の袍に首の部分がV字形の裲襠、裲襠と同裂の腰帯、という形態にしています。
この再現は、『舞楽図巻』(舞楽44種を描いた図。応永十五[1408]年作?)『教訓抄』(狛近真著。元福元[1233]年成立の雅楽書)『続教訓抄』(狛朝葛著。文永七[1270]年頃成立)の記述に基づくとのことです。
(風俗博物館で再現された装束についてより詳しく書いたものを、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」のこちらのページに掲載していただいています。ご興味をお持ちくださった方は、併せてご覧ください。)

046_3rakuson_7 調子は高麗壱越調で、楽曲形態は〈破〉と〈急〉に分かれます。
舞楽の次第は、まず高麗小乱声が奏され、続いて〈破〉が演奏されて舞人が登台、所定の位置について〈破〉を舞います。
若菜上巻の引用文で「高麗の乱声して、「落蹲」舞ひ出でたるほど」とあったのは、この部分の描写です。
〈破〉の終わりには舞人が跪く所作があり、これが「落蹲」という別称の由来と言われます。
舞い終わると〈止手〉の演奏が挟まり、〈急〉に続きます。
〈急〉を舞い終えた後、引き続き〈急〉の演奏が続く中を舞人は降台(この降台の作法を「入綾」と言います)、舞人が楽屋に下がると管方が〈止手〉を演奏して終わります。
(写真は平安雅楽会による「納曽利」。2007年5月20日撮影)

『源氏物語』では、六条院での端午の節句の騎射(蛍巻)、紫の上主催の光源氏四十の賀での精進落としの宴(若菜上巻)、朱雀院五十の賀の試楽(若菜下巻)の各場面に、いずれも「落蹲」の名で登場します。
若菜上巻の原文は上に引いていますので、残る2ヶ所を挙げておきます。

「打毬楽」「落蹲」など遊びて、勝ち負けの乱声どもののしるも、(蛍巻)

右の大殿の三郎君、「陵王」。大将殿の太郎、「落蹲」。(若菜下巻)

また、『栄花物語』の上記引用文も東三条女院詮子四十の賀の記述で、節会だけでなく算賀の宴でも多く舞われたことが窺われる他、『小右記』には、季御読経の結願(寛和元[985]年三月三十日)や法性寺東北院落成供養(長元三[1030]年八月二十一日)などで舞われたとの記述もあります。
広く祝い事などの席を飾った曲目のようです。

【参考文献】
風俗博物館2004年下半期展示解説パンフレット
音楽之友社[編]『邦楽百科辞典 : 雅楽から民謡まで』音楽之友社 1984年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
雅楽のウェブログサイトkenken's 雅楽 ~平安時代に生まれた音楽、雅楽へのいざない~
北爪有郷筆『舞楽図 右』(故實叢書第3輯第18回)吉川弘文館 1905年

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2006年7月21日 (金)

大覚寺

039daikakuji 嵯峨野の地は、嵯峨天皇の離宮で退位後は上皇御所になった嵯峨院を中心に、貴族の別荘地として平安初期から発展しました。
その嵯峨院の一部を今に受け継ぎ、平安の景勝地の面影を色濃く残しているのが、大覚寺とその境内の東に位置する大沢池です。

嵯峨天皇は、その東宮時代から嵯峨野に別荘を営んでおり、それが整備されて嵯峨院になったと推測されています。
広大な敷地を持ち詩宴などが度々催された嵯峨院は、嵯峨上皇崩御の後に皇女・正子内親王(淳和天皇皇后)により寺院に改められ、大覚寺と号しました。
現在の大覚寺は、嵯峨院の敷地のうちの東北部と考えられています。
また大沢池は、嵯峨院の東端付近につくられた人工の庭池で、現存最古の寝殿造系庭園の作例です。

『源氏物語』の中では、少女巻や若菜上巻で嵯峨野の秋の美しさが取り上げられている他、光源氏が嵯峨野に建立した御堂を

造らせたまふ御堂は、大覚寺の南にあたりて、滝殿の心ばへなど、劣らずおもしろき寺なり。(松風巻)

と記しています。
041nakosho 大覚寺の「滝殿」とは、大沢池の北に遺構が残る名古曽滝(なこそのたき)のことです。
この滝は、藤原公任が

滝のおとはたえて久しくなりぬれどなこそながれて猶きこえけれ(『公任集』119)

と詠んでおり、『源氏物語』が書かれるよりもかなり前の時代に涸れてしまったこと、涸れた後も人々は往時の繁栄をちゃんと知っていたことがわかります。
この滝跡は現在、発掘調査で判明した遣水の流路に基づいて流れが復元されています。

040osawanoike 嵯峨院の時代からは1200年近くを経た現在も、大沢池周辺は桜・月・紅葉と四季折々に美しい風情を湛え、平安貴族が愛し逍遥した嵯峨野の景色を今に伝えています。
大覚寺の伽藍と大沢池の景観に、光源氏の「嵯峨野の御堂」の姿を重ねて想像するのも、楽しいのではないでしょうか。
写真は、上から順に大覚寺表門(大門)、名古曽滝跡、大沢池南東岸からの風景です(撮影はいずれも2006年4月)。

【Data】
住所:京都市右京区嵯峨大沢町4
交通:市バス「大覚寺」下車すぐ JR山陰本線嵯峨嵐山駅下車徒歩15分
拝観:受付時間9:00~16:30 拝観料500円
tel.:075-871-0071

【参考文献】
旧嵯峨御所大覚寺門跡(公式サイト)
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店 1994年
田中隆昭編集『源氏物語の観賞と基礎知識20 絵合・松風』至文堂 2002年

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2006年7月15日 (土)

清涼寺

037seiryoji_1 「嵯峨釈迦堂」の別称で有名な清涼寺は、光源氏のモデルの1人と言われる源融が営んだ山荘・棲霞観(せいかかん)とその後身・棲霞寺の故地であり、物語の中で光源氏が建立した「嵯峨野の御堂」の準拠とされています。

棲霞観の造営年代ははっきりしませんが、嵯峨上皇崩御の後、その後院であった嵯峨院の敷地の一部を譲り受けて建てたもののようです。
融は晩年、阿弥陀仏建立を発願しますが、完成を待たず寛平七[895]年に薨去。
その翌年、遺志を継いだ息子達の手で阿弥陀三尊を本尊とする仏殿が棲霞観内に建てられ、「棲霞寺」と号しました。
天慶八[945]年には重明親王妃が新堂を建てて釈迦像を安置し、一説にはここから「釈迦堂」の名が起こったとも言われます。
しかし11世紀初め、東大寺の僧・奝然が宋から持ち帰った釈迦如来像を、弟子の盛算が勅許を得て棲霞寺内の御堂に安置し、「清涼寺」と称すると、次第に高まった釈迦如来信仰によって本寺である棲霞寺よりも注目を集めるようになり、棲霞寺の存在感は薄れていきました。
現在、棲霞寺は完全に清涼寺に取り込まれ、その名も本堂東隣の阿弥陀堂に遺るのみです。

038seiryoji_2 現在の阿弥陀堂は文久三[1863]年に再建されたものですが、本尊の阿弥陀三尊像は棲霞寺創設当初に造立されたもので、現在は霊宝館に安置され、毎年春と秋に公開されています。
三尊の中心の阿弥陀如来像は、源融に似せて彫られたとも伝えられ、光源氏のモデルとなった貴公子の面影を伝える像と称する向きもあります。

写真は、上が仁王門越しに見た本堂、下が阿弥陀堂です(いずれも2006年4月撮影)。

『源氏物語』の中で語られる「嵯峨野の御堂」の記述は、風雅な山荘を寺に改めた棲霞寺の様子を髣髴とさせます。
最初にこの御堂の建立が記されるのは絵合巻末ですが、具体的に姿を見せるのは次の松風巻です。

この春のころより、内の大殿の造らせたまふ御堂近くて、かのわたりなむ、いと気騷がしうなりにてはべる。いかめしき御堂ども建てて、多くの人なむ、造りいとなみはべるめる。

造らせたまふ御堂は、大覚寺の南にあたりて、滝殿の心ばへなど、劣らずおもしろき寺なり。

御寺に渡りたまうて、月ごとの十四、五日、晦日の日、行はるべき普賢講、阿弥陀、釈迦の念仏の三昧をばさるものにて、またまた加へ行はせたまふべきことなど、定め置かせたまふ。

引用文1番上は、明石の入道から大堰の故中務宮邸の修理を命じられた宿守の言葉、次はその言葉を補足して御堂を説明する地の文、1番下は建立途中の御堂に出向いた源氏の行動です。
川面」(松風巻)の大堰の邸に近く、大覚寺の南に当たる位置関係は、棲霞寺とぴったり一致します。
また「阿弥陀、釈迦」と並べられた記述も、阿弥陀仏を本尊とし釈迦堂も備えた棲霞寺の構成と重なります。
源氏が建立した御堂は、大覚寺に匹敵する風流な庭園といくつもの立派な御堂を持つ壮麗な寺院だった訳です。

松風巻では、ほとんど紫の上に対する明石の君との逢瀬の口実として使われるこの御堂、案の定(?)明石の姫君引き取りで紫の上の嫉妬が収まると、物語からは長く姿を消します。
次に登場するのは若菜上巻で、紫の上が源氏の四十の賀として薬師仏供養を行っています。
この場面でも、

御堂のさま、おもしろくいはむかたなく、紅葉の蔭分けゆく野辺のほどよりはじめて、見物なるに、(若菜上巻)

と、御堂の風流な造作と秋の嵯峨野の野辺の美しさが称讃されています。
その後はまた長らく語られず、源氏の死後、

故院の亡せたまひて後、二、三年ばかりの末に、世を背きたまひし嵯峨の院にも、六条の院にも、さしのぞく人の、心をさめむ方なくなむはべりける。(宿木巻)

と、源氏が晩年出家してここに住んだことが、薫の言葉を通して読者に知らされます。
源氏の出家そのものを物語が語らないのは周知のとおりで、源氏が後世のためにと建立した御堂の描かれ方も、そうした物語のあり方と照応しているようです。

【Data】
住所:京都市右京区嵯峨釈迦堂藤の木町46
交通:市バス「釈迦堂」下車すぐ JR山陰本線嵯峨嵐山駅・京福電鉄嵐山駅下車徒歩10分
拝観:受付時間9:00~16:00 拝観料400円(本堂・霊宝館それぞれ)
tel.:075-861-0343

【参考文献】
五台山清涼寺『嵯峨釈迦堂:五台山清涼寺』 ※拝観者用パンフレット
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店 1994年
田中隆昭編集『源氏物語の観賞と基礎知識20 絵合・松風』至文堂 2002年
山本四郎著;井上厚撮影『京都府の歴史散歩 中』新版(新全国歴史散歩シリーズ26)山川出版社 1995年

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2006年7月 9日 (日)

『平安貴族の環境』

015lit_and_cult山中裕, 鈴木一雄編集 至文堂 1994年刊行
ISBN:4-7843-0118-6 税込2,625円

既にご紹介した『平安時代の信仰と生活』『平安時代の儀礼と歳事』と同じ『平安時代の文学と生活』シリーズの第1冊(写真右端)。
平安京とその周辺や平安宮内部などの地理的な事柄と、官位官職・学制などの制度面から、平安貴族の生活を取り巻く自然環境及び社会的環境が解説されています。
以下、目次です(著者敬称略)。

  • 平安貴族の環境(山中裕)
  • 平安京―王朝の風景―(朧谷寿)
  • 大内裏(佐藤信)
  • 内裏・後宮(日向一雅)
  • 平安時代の太政官政―特に内大臣について―(倉本一宏)
  • 平安時代の地方官職(大津透)
  • 平安時代の技能官人(上杉和彦)
  • 平安時代の学制・教育
    1.大学寮について(武田比呂男)
    2.大学寮直曹と別曹―国学と私学について―(大胡太郎)
    3.『源氏物語』に描かれた大学寮(鈴木一雄)

よくある『源氏物語』の副読本的な資料ですと、平安京条坊図と大内裏図・内裏図が載っていて有名な建物の解説がついている程度ですが、この本ではかなり踏み込んで、平安京遷都当初から平安末期までの地理的な変遷が詳しく記されており、内裏についてもそれぞれの殿舎の見取り図とそこを舞台にした儀式・行事や物語の場面などが紹介されています。
記述を読んでいると、「『源氏物語』のあの場面はこの場所だったのか」と、原文を読んだときには見落としていた事柄に気づいたりもします。

官制の解説では、国司や太宰帥・大弐などの地方役人、四道(紀伝道・明経道・明法道・算道)に属する技能官人、という国文学の分野ではあまり取り上げられる機会のない人々の役割と制度上の位置付けを、きちんと1つの章を設けて詳しく記述しているのが特徴的です。
また、個人的には「平安時代の太政官政―特に内大臣について―」が非常に印象的でした。
単なる解説に留まらないこの論考では、そのサブタイトルのとおり令外官である内大臣の任官の歴史を詳しく追い、『源氏物語』で光源氏・頭中将がいずれも比較的若年で権大納言から内大臣に昇進する流れが如何に当時の政治機構と権力の動向を的確に捉えたものだったかを明らかにしていて、改めて『源氏物語』の作者の底知れなさを思い知らされます。

このシリーズは、鈴木一雄氏が

いわば新・有職故実学といった、文学と政治・社会の実態、美学と生活・慣行を結ぶ本が欲しい。歴史学の研究成果の支えが欲しい。国文学と歴史学とを、もう一歩積極的に近づけたい。(あとがきより引用)

との思いを山中裕氏に訴えたところ、それでは自分達でつくろうとの話になって生まれた本である―――と記されていますが、その思い入れゆえか、最初に編まれたこの『平安貴族の環境』が最も歴史の方面に突っ込んだ内容になっています。
それだけに、文学畑の人間には正直なところ難解な部分もあるのですが、編者である鈴木氏の想いのとおり、馴染みは薄いけれど平安文学の理解のために知っておくべき内容が集められた、重みのある資料だと思います。

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2006年7月 1日 (土)

大堰(嵐山)

036oigawa 丹波山地から京都盆地を経て淀川に合流する桂川のうち、現在の京都市右京区嵐山周辺の流れを「大堰川」、またその流域一帯を「大堰」と呼びました。
現在「大堰川」と呼ばれるのはもう少し上流で、亀山から嵐山周辺は「保津川」と称していますので、平安時代とは指している流域がちょっと異なります。

『源氏物語』の中では、明石の君が上京して住んだ邸が「大堰川のわたり」(松風巻)にあった、と登場するのが一番有名な舞台設定でしょう。
この邸のもともとの持ち主は明石の尼君の祖父の「中務宮」(松風巻)と設定されており、古注はこの人物を醍醐天皇第十六皇子・兼明親王に準拠するとしています。
兼明親王は晩年、嵯峨に別荘(雄蔵山荘)を建てて隠棲しており、これが邸のモデルと目されている訳です。
雄蔵山荘の位置は、今の天龍寺または臨川寺近辺、あるいは二尊院と清涼寺の間、など諸説あるそうですが、明石の君が住んだ邸は「これは川面に」(松風巻)と明記されていますので、天龍寺か臨川寺の付近が有力候補と言えるでしょう。
とはいえ、現在の天龍寺・臨川寺近辺は土産物屋や飲食店、タレントショップなどが建ち並び、一年中観光客であふれ返っていますので、明石の君が心細さを抱えながら過ごした山里の風情を感じるのは難しいのが実情ですが。

現在は観光都市・京都の中でも屈指の観光スポットとなっているこの一帯は、平安貴族にも風光明媚な土地柄が愛され、しばしば遊覧が行われました。
少女巻では、六条院秋の町の庭の美しさが
嵯峨の大堰のわたりの野山、無徳にけおされたる秋なり。
と讃えられており、1000年前からこの地が紅葉の名所だったことがわかります。
因みに、毎年5月第3日曜日に行われる車折神社の「三船祭」は、昌泰元[898]年の宇多法皇大堰御幸が始発と伝わる大堰川の舟遊びを再現したお祭りです。

写真は、残念ながら紅葉の頃のものではありませんが、2004年8月に渡月橋の東側から撮影した保津川(=大堰川)と対岸の嵐山・烏ヶ岳です。

【Data(渡月橋)】
住所:京都府京都市右京区嵯峨天龍寺
交通:市バス嵐山・中ノ島公園下車すぐ 阪急嵐山線嵐山駅・京福電鉄嵐山駅下車徒歩5分

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店 1994年
阿部秋生[ほか]校注・訳『源氏物語 2』(『新編日本古典文学全集』第21巻)小学館 1995年

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