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2006年8月の記事

2006年8月27日 (日)

青海波(3)装束その1~冠~

054seigaiha_3055seigaiha_4 先にご紹介した楽曲形態と同じく、「青海波」の装束はとてもユニークです。
構成自体は、襲装束(鳥甲・赤大口・指貫・下襲・半臂・忘緒・袍・帯・糸鞋・踏懸)に太刀を 加えただけなのですが、鳥甲の形も袍・下襲などの色と文様も、すべてが「青海波」専用の特別なものなので、襲装束ではなく別様装束に分類されます。
風俗博物館では、この装束を平安・鎌倉時代を中心とした古文献から考証して展示しています。
現行の「青海波」装束とは大きく異なる部分もありますので、その点を中心にご紹介いたします。
(写真左及び下は、風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より「青海波」を舞う光源氏。右は、『舞楽図』より「青海波」)

056seigaiha_5 まず目に付くのは、甲ではなく冠を被っている点。
近世以来の舞楽では『舞楽図』に描かれているように「青海波」専用の別甲を被りますが、展示では巻纓冠(けんえいのかん)に老懸(おいかけ)を着けています。
『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書。狛近真著)にも「破二人袍、甲、大刀ヲ着」と記されていて異説もないので、鎌倉時代以前においても基本的には甲を用いたようなのですが、『中右記』には

青海波二人[通季・宗能、](中略)徹平胡簶、[不放老懸、](康和四[1102]年三月廿日条)

とあり、武官束帯装束の一要素である平胡簶(ひらやなぐい)は外し、老懸(おいかけ)は外さずに舞ったことがわかります。
(わざわざ「徹平胡簶」と書くのは、後述する垣代の装束との関連からと思われます)
このとき舞人を務めた「通季」は藤原公実の三男、「宗能」は『中右記』の著者である藤原宗忠の長男で、いずれも上流貴族の若き公達です。
この記述から博物館では、身分の高い人物が舞う際には甲ではなく冠を着用したのではないかと推測し、この形の展示としたそうです。
先に「青海波(1)」でご紹介した『原中最秘抄』記載の伝承を考えても、この舞には甲よりも冠の方が似合うような気がします。

『源氏物語』の「青海波」の場面を絵画化した各時代の絵図を見ると、多くは展示のように巻纓冠に紅葉や菊の挿頭を挿した姿に描かれていて、以前から「何か根拠があるのだろう」とは思っていたのですが、風俗博物館の展示レジュメで『中右記』のこの記述が提示されたことで、なるほどと腑に落ちた次第です。

次回は、これまた現行の舞楽とは大きく異なる袍についてです。

【参考文献】
高島千春筆『舞楽図 左』(故實叢書第3輯第18回)吉川弘文館 1905年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
風俗博物館~よみがえる源氏物語の世界~

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2006年8月24日 (木)

カウンター設置

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キリ番も何もありませんが、ご参考までにご覧ください。

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2006年8月23日 (水)

青海波(2)奏舞の作法

053seigaiha_2 前の記事では、曲の伝来を中心にご紹介しましたが、今回は紅葉賀巻での光源氏の舞と照合しつつ、この舞のプログラム構成をご紹介します。
「輪台」「青海波」は非常に大掛かりで長い舞曲で、作法の一部も失われてしまっているため、現代では略式の奏舞が行われています。
作法は時代によって変わっていったようで、『仁智要録』(藤原師長[1138-1192]著の雅楽書)と『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書)にも複数の説が記されていますが、古来の作法を再現すると概ね以下のようになります。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より、「青海波」を舞う光源氏・頭中将と垣代)

まず管方が盤渉調調子・音取を吹き、管絃吹(ゆっくりとした拍子で演奏すること)で「輪台」を奏します(これを現行の雅楽では「延輪台(のべりんだい)」と呼びます)。
その間に舞人は、「青海波」の二﨟を先頭に「輪台」の舞人と垣代、末尾に「青海波」の一﨟と1列に並んで袖を打ち振る所作をしながら舞台の下を一周し、舞台の後ろに並びます。
垣代のうち4人は、笙・篳篥・竜笛・琵琶を携えて立ち、それ以外の垣代の人々は「反鼻(へんび)」と呼ばれる蕨のような形をした木製の楽器を懐から取り出して手に持ちます。
(反鼻は、後述する唱歌と吹渡の間に撥で打ちます)
「輪台」の舞人は楽屋で甲を着けます。
「輪台」の舞人が登台して位置に付くと、延輪台を止め、今度は舞楽吹でテンポを速めて(『仁智要録』では一帖、『教訓抄』では二帖)演奏し、舞が舞われます。
詠・音取・詠・唱歌・吹渡の後に当曲が一帖奏舞され、詠~吹渡が繰り返されます。
後半の詠が終わると垣代は2つの輪をつくり、その中で「青海波」の舞人が袍を着替え、太刀を帯びます。
最後の一帖の半ばで「輪台」の一・二﨟は降台し、三・四﨟は最後まで舞いますが、三・四﨟が舞っている間に「青海波」の舞人が登台します。

四十人の垣代、言ひ知らず吹き立てたる物の音どもにあひたる松風、まことの深山おろしと聞こえて吹きまよひ、色々に散り交ふ木の葉のなかより、青海波のかかやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。

とあるのは、「青海波」の袍を纏って垣代の輪の中から現れた光源氏の麗姿を指しているのでしょう。

「青海波」の舞人が登台すると直ちに「青海波」が奏され、「輪台」の三・四﨟は降台して垣代の列に入り、「青海波」の舞人が位置に付くと吹止句を奏し、改めて「青海波」当曲になり舞い始めます。
(鎌倉時代以降は「輪台」を吹流しで終え、「青海波」へ続きます)
当曲二帖を舞い、「輪台」と同様、詠・音取・詠・唱歌・吹渡と続きます。
〈詠〉とは、楽を止めて舞人が詞を述べるもので、紅葉賀巻にも

詠などしたまへるは、「これや、仏の御迦陵頻伽の声ならむ」と聞こゆ。

と語られていますが、詠の発声法は現代には伝わっておらず、『仁智要録』や『奥入』『教訓抄』などに詞だけが残されています。

詠はてて、袖うちなほしたまへるに、待ちとりたる楽のにぎははしきに、

とある「待ちとりたる楽」は初回の詠に続く音取のことで、舞人が袖を打ち替える間に垣代楽人が、笙を先頭に篳篥、琵琶、竜笛の順に加わって「青海波」固有の旋律を演奏します。
〈唱歌〉は口三味線のように「タラリラリ」などの節で旋律をなぞるもので、これも現代は発声法が途絶えてしまっています。
〈吹渡〉で奏楽が垣代楽人から管方に戻ります。
再び当曲を二帖奏舞し、詠・音取・詠・唱歌・吹渡を繰り返し、最後に当曲を三帖奏舞します。
舞が終わると、管方が「青海波」(平安末期?以降は延輪台)をもう一度演奏する中を舞人は降台、「青海波」の一﨟を先頭に輪をつくり、最初と同様に舞台を一周してから退きます。

菊の色々移ろひ、えならぬをかざして、今日はまたなき手を尽くしたる入綾のほど、そぞろ寒く、この世のことともおぼえず。

と語られる「入綾」は、降台するときの最後の「青海波」の奏舞を指していると思われます。

尚、現代の雅楽書を読むと“正式な奏舞では管方に筝が入り「管絃舞楽」と称する”といったことが書かれているのですが、私が調べた限りでは平安・鎌倉期の文献から裏付けは取れませんでした。

次回は、「青海波」の装束についてご紹介します。

【参考文献】
藤原師長著 ; 神宮司廳編『仁智要録』(『古事類苑』普及版「楽舞部」所収)古事類苑刊行會 1931年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年
音楽之友社[編]『邦楽百科辞典 : 雅楽から民謡まで』音楽之友社 1984年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
採桑老の口傳(HN採桑老さん作成の雅楽紹介サイト)

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2006年8月19日 (土)

青海波(1)伝来と平安時代の事例

052seigaiha_1 『源氏物語』読者なら誰でも知っている舞楽と言えば、やはり筆頭はこの「青海波」でしょう。
左方唐楽盤渉調の二人舞で、四人舞(古くは二人舞とも)の「輪台」と組舞になっている特殊な形態の舞曲です。
「輪台」を〈序〉、「青海波」を〈破〉として続けて舞います。
番舞は「敷手」。
「垣代(かいしろ)」と呼ばれる人達が舞人の後ろに居並ぶのも、この舞の大きな特徴です。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より、「青海波」を舞う光源氏と頭中将)

伝来について、『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書)には以下のように記されています。
この曲は「竜宮ノ楽」で、昔天竺(=インド)で波の上に浮かぶ舞と波の下に奏でられる楽を伝え聞いたバラモン僧正がこれを漢に伝え、更にそれが帝都によって舞曲に整えられました。
日本に伝来した当初は平調でしたが、仁明天皇の勅命により盤渉調に改作、良峯安世が舞を、和爾部大田麿が曲を、小野篁が詠をそれぞれつくったと言います。
また『原中最秘抄』(13世紀後半成立の『源氏物語』注釈書。源光行・親行親子の筆に子孫の増補が加わる)には

輪台青海波は婆羅門僧正渡朝二時悪風によりて輪台国に吹よせらる始て此舞を見て彼国の伶人舞輪台之後龍神二人は浮海上岩於為冠帯剣大海浦お為装束舞青海波云々(上「紅葉賀」)

との伝承が記されています。
輪台国」は漢の武帝の時代に征服された都市国家で、現在の新疆ウイグル自治区、天山山脈南麓の庫車(クチャ)と庫爾勒(クルラ)の中間に位置します。
およそ海とは無縁の内陸部ですけれど、どうもこの地域には当時塩湖が広がっていたようで、「」は塩湖のことを指しているのではないかと思われます。
尚、現代の中国には「青海省」「青海湖」といった地名がありますが、これらと「青海波」との間に何か関連があるのかは不明です。
新井白石の著書『楽考』には「青海波は則青海破なるべし」と書かれているのですが、この「青海」が青海省または青海湖を指しているかどうかはわかりません。

平安中記~後期の記録を見ると、7月の相撲節会で舞われた例が多く見られ(『小右記』『後二条師通記』『中右記』)、『江家次第』巻第八にも、相撲節会で「青海波」を舞う場合の装束と垣代に関する記述があります。
また、法華八講や一切経会のような仏事で奉納された記録も見られる(『御堂関白記』『後二条師通記』『中右記』)他、上皇算賀を含む朝覲行幸でも舞われています(『中右記』『殿暦』『玉葉』)。
ただし、朝覲行幸での舞の事例は『源氏物語』執筆より後の年代で、逆に紅葉賀巻の「青海波」が歴史の方に影響を及ぼした結果であるとの指摘もあります。

竜宮ノ楽」と言われるとおり、緩やかに袖を打ち返す所作で寄せては返す波を表現する優雅な舞で、現代に伝わる舞楽の中で名品中の名品とも称讃される「青海波」
『源氏物語』の中で舞そのものが描かれるのは、紅葉賀巻のみです。
御前での試楽と、朱雀院行幸の本番と、2度に渡って光源氏の神がかり的な美しさが絶賛され、その後の物語でも繰り返し回想される、最も輝かしい記憶となっています。
あるいは、「青海波」を舞う光源氏の姿を特別なものとして読者の心に強烈に刻印するために、他の場面や登場人物に重ねて「青海波」を用いることを避けたのかもしれません。

長文になりますので、今回の記事ではここまで。
次回は、紅葉賀巻の記述とも照らし合わせながら、奏舞の作法をご紹介します。

【参考文献】
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年
音楽之友社[編]『邦楽百科辞典 : 雅楽から民謡まで』音楽之友社 1984年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
上原作和編「源氏物語音楽用語事典
『アジア歴史事典』平凡社 1959~1962年

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青海波(せいがいは)(雅楽のウェブログサイト/ kenken’s 雅楽)

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2006年8月11日 (金)

胡蝶

050kochou_1 051_2kochou_3 高麗壱越調に属する右方の舞楽曲。四人による童舞。
省略して、単に「蝶」と呼ぶこともあります。
『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書)によると、作曲は延喜六[906]年、宇多法皇が童相撲をご覧になったときで、異説として前栽合わせのときに藤原忠房がつくったとの伝承も併記されています。
迦陵頻」の番舞で、法会では両曲の舞人が供花の後に舞を奉じるのが作法として組み込まれていました。
(写真左は2006年下半期風俗博物館展示「舞楽装束のいろいろ」より。右は『舞楽図』より「胡蝶」)

『源氏物語』では秋好中宮の季御読経の場面に登場し、紫の上の使者として「」と「」の装束を纏った童8人が桜と山吹の花を奉り、舞を披露しています。

「蝶」は、ましてはかなきさまに飛び立ちて、山吹の籬のもとに、咲きこぼれたる花の蔭に舞ひ出づる。(胡蝶巻)

051kochou_2 舞人の装束は「迦陵頻」と同じく別様装束で、天冠・袍・羽根・当帯・指貫・赤大口・糸鞋・剪採花(とりばな)から成ります。
額を飾る天冠は、右方の色調の常で銀製、両脇には緑の総角を垂らし、山吹の花を挿します。
袍は、現行の雅楽では萌黄色ですが、風俗博物館では平安時代の「青白橡」を再現した、少し茶色味を帯びた色を用いています。
刺繍は窠文と蝶で、指貫にも同じ刺繍を施してあります。
蝶の羽根を模った鮮やかな色彩の細工物の羽根を背負い、手には山吹の花を持ちます(この花を「剪採花」と呼びます)。
胡蝶巻で蝶の童が山吹の花を捧げ、舞の描写でも「山吹の籬」と出てくるのは、おそらく挿頭や剪採花の山吹と関連付けているのでしょう。
(写真2枚目は2004年上半期風俗博物館展示「季の御読経」より、山吹の花を奉る「蝶」の童)

楽曲形態は、高麗小乱声、高麗乱声が奏され、高麗乱声の間に舞人が登台、〈出手〉を舞って位置につきます。
続いて小音取が演奏されて、当曲(〈破〉と〈急〉)に入ります。
最後は、舞人が登台のときとは逆の順に舞い終えて退場していき、4人全員が退場したところで主奏者が吹止句を演奏して終わります。
残念ながら私は実際に舞を見たことがないのですが、蝶が花から花へと飛び回る様子を表現した可愛らしい舞だそうです。

【参考文献】
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年
安倍季尚撰 ; 正宗敦夫編纂校訂『楽家録』(覆刻日本古典全集)現代思潮社 1977年
音楽之友社[編]『邦楽百科辞典 : 雅楽から民謡まで』音楽之友社 1984年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
北爪有郷筆『舞楽図 右』(故實叢書第3輯第18回)吉川弘文館 1905年

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2006年8月 5日 (土)

迦陵頻

047karyobin_1 048karyobin_2左方唐楽壱越調の舞曲で、四人の童舞。
林邑(現在のベトナム一帯)僧仏哲が伝えた“林邑八楽”の1つで、祇園精舎の供養の日に迦陵頻伽(美しい鳴き声をもち極楽に住むとされる想像上の鳥)がやってきて舞った様子を写した舞楽であると伝えられています。
番舞は「胡蝶」で、主に仏教法会の供養舞として使われます。

平安時代の仮名作品では「迦陵頻」よりも「鳥の舞」「鳥」と記される場合が多いようです。
『枕草子』第二〇五段「舞は」には「鳥の舞」と挙げられ、『栄花物語』でも「鳥の舞」と記され、法成寺薬師堂遷仏供養を描いた巻第二十二の巻名にもなっています。
『源氏物語』では、秋好中宮の季御読経に際して、紫の上の使者として「」と「」の装束を纏った童8人が花を奉り、舞を披露する描写があります。

鴬のうららかなる音に、「鳥の楽」はなやかに聞きわたされて、池の水鳥もそこはかとなくさへづりわたるに、「急」になり果つるほど、飽かずおもしろし。(胡蝶巻)

049karyobin_3 舞人の装束は別様装束で、天冠・袍・指貫・大口・腰帯・鳥足・糸鞋・羽根・銅拍子で構成されます。
天冠は童舞で着用する山形の頭飾りで、迦陵頻の場合は金の天冠の左右に挿頭の桜の花を挿し、赤い総角を下げます。
袍の形は童舞共通で成人の闕腋袍と同形、迦陵頻では曲に相応しく鳥の刺繍が施されます。
鳥足は、脚絆に似た脛当てで、白と縹の縞模様が特徴です。
羽根は、左右の羽根と尾羽、背、胸の各部からなり、皮紐でつないで背負います。
銅拍子は掌サイズのシンバルのような楽器で、両手に持って舞いながら打ち鳴らしますが、この音は迦陵頻伽の鳴き声を表していると言われます。
(写真は、2004年上半期風俗博物館展示「季の御読経」より、桜の花を奉る「鳥」の童)

049_2karyobin_4 楽曲形態は、まず林邑乱声を奏して舞人が登台、銅拍子を鳴らしながら〈出手〉を舞い、所定の位置につきます。
次いで迦陵頻音取が演奏され、現行の舞楽ではすぐ〈急〉に入りますが、〈破〉の曲も伝わっており、古くは〈急〉の前に〈破〉の舞があったと見られます。
(胡蝶巻引用文でも「「急」になり果つるほど」と、〈急〉の前に何か舞があったと読める記述がされています)
〈急〉を繰り返し演奏するうちに舞人は舞台を一周してから順次降台し、楽屋に入ると奏楽が止んで終わります。
鳥が飛び跳ねるような所作があり、童舞ならではのとても可愛らしい舞です。
(最後の写真は、いちひめ雅楽会の迦陵頻。2003年5月31日撮影)

【参考文献】
安倍季尚撰 ; 正宗敦夫編纂校訂『楽家録』(覆刻日本古典全集)現代思潮社 1977年
音楽之友社[編]『邦楽百科辞典 : 雅楽から民謡まで』音楽之友社 1984年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
高島千春筆『舞楽図 左』(故實叢書第3輯第18回)吉川弘文館 1905年

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