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2006年9月20日 (水)

青海波(7)垣代

059seigaiha_8 「青海波」の最大の特徴は、2人の舞人の他に「垣代(かいしろ)」と呼ばれる人達が付随することでしょう。
光源氏と頭中将が舞ったときも、「四十人の垣代」(紅葉賀巻)が付いたことが記されています。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より、垣代の人々。前列手前から順に、篳篥、反鼻、笙、竜笛、琵琶と並んでいます。右手前で横向きに立っているのは、楽の進行役を務める左衛門督)

060seigaiha_9_1 垣代は、「青海波(2)」でご紹介したように、舞の間舞台の後ろに立って列や輪をつくり、4人は笙・篳篥・竜笛・琵琶を、それ以外の人々は「反鼻(へんび。「扁皮」とも書きます)」という楽器を鳴らします。
反鼻は、蕨のような形をした木製の棒で、長さは30cmほど。
写真のように左手に構え、右手で持った撥で打って音を出します。
笙・篳篥・竜笛・反鼻を担う人々は、各々楽器を懐中して入場し、位置についたところで取り出しますが、琵琶は、立ったまま演奏しやすいように紐を付けて首から提げました。
061seigaiha_10jp(写真上は垣代が手に持った反鼻、下は琵琶を提げた垣代楽人。いずれも上記展示より)

垣代の役を担ったのは主に左右近衛府の将監以下の武官でしたが、算賀などの盛儀では蔵人や殿上人も務めました。
盛大な儀式になるほど通常よりも身分の高い人物が役に当たるのが当時の常で、紅葉賀巻でも
垣代など、殿上人、地下も、心殊なりと世人に思はれたる有職の限りととのへさせたまへり
と、その力の入れ様が記されています。

人数は、『仁智要録』(藤原師長[1138-1192]著の雅楽書)や『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書。狛近真著)には序破の舞人を含めて40人と記されていますが、史料を遡ると『源氏物語』以前で40人と確認できる例は見当たらず、20人強の例(『村上天皇御記』康保三[966]年十月七日条、『中右記』康和四[1102]年二月五日条)が見られます。
その一方で、院政期の算賀行幸では40人の垣代が立てられており、三田村雅子先生はこれを、『源氏物語』の場面を再現しようとの試みであると論じておられます(下記参考論文)。
『仁智要録』以降、現在に至るまで垣代が40人と規定されるのは、『源氏物語』を範と仰いだ院政期の事例に拠るのかもしれません。

垣代の装束は、正装である束帯や褐衣で、衛府の官人は胡簶(やなぐい)を背負い帯剣します。
「青海波」の装束を記述する史料に「徹平胡簶」(『中右記』康和四[1102]年三月廿日条)「不帯胡簶」(『玉葉』安元[1176]二年三月六日条)とあるのは、胡簶を負う垣代の武官装束との比較のためと思われます。
尚、風俗博物館の展示では管方装束を纏った垣代の姿もありますが、楽人が垣代に加わった例は私が調べた限りでは見つからず、この点の根拠は不明です。

紫や緋の袍を着た殿上人も加わっての40人もの垣代は、彩りも豪華に光源氏と頭中将の舞を取り囲んだことでしょう。
桐壺帝の聖代の象徴ともなり、光源氏の最も輝かしい記憶ともなって、物語の中で繰り返し回想される朱雀院行幸の「青海波」は、この垣代を取っても充分に特別なものとして描き出されたのだと思われます。

【参考文献】
藤原師長著 ; 神宮司廳編『仁智要録』(『古事類苑』普及版「楽舞部」所収)古事類苑刊行會 1931年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年
大神基政著『龍鳴抄』(3訂版『群書類従』第19輯所収)続群書類従完成会 1959年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
三田村雅子「青海波再演―「記憶」の中の源氏物語」(「源氏研究」5号 2000年 pp.30-54)

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