« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

2006年9月の記事

2006年9月25日 (月)

青海波(4)加筆

青海波(4)」に、袍の色に関して加筆しました。
村上天皇治世での青色袍での「青海波」奏舞の例と、光源氏が青色袍で舞うことの意味を論じた論文のご紹介です。
記事末尾に《追記》として記載してありますので、既にお読みくださった方もよろしければご覧ください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月23日 (土)

『舞楽図』画像追加

納曽利(落蹲)」「迦陵頻」「胡蝶」に、それぞれ『舞楽図』の各舞の図を追加しました。
幕末~明治に制作されたこれらの図は、近世から現代に至る舞楽装束の代表的な絵画資料です。
平安時代の装束を考証した風俗博物館の展示と比較しながらご覧ください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月20日 (水)

青海波(7)垣代

059seigaiha_8 「青海波」の最大の特徴は、2人の舞人の他に「垣代(かいしろ)」と呼ばれる人達が付随することでしょう。
光源氏と頭中将が舞ったときも、「四十人の垣代」(紅葉賀巻)が付いたことが記されています。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より、垣代の人々。前列手前から順に、篳篥、反鼻、笙、竜笛、琵琶と並んでいます。右手前で横向きに立っているのは、楽の進行役を務める左衛門督)

060seigaiha_9_1 垣代は、「青海波(2)」でご紹介したように、舞の間舞台の後ろに立って列や輪をつくり、4人は笙・篳篥・竜笛・琵琶を、それ以外の人々は「反鼻(へんび。「扁皮」とも書きます)」という楽器を鳴らします。
反鼻は、蕨のような形をした木製の棒で、長さは30cmほど。
写真のように左手に構え、右手で持った撥で打って音を出します。
笙・篳篥・竜笛・反鼻を担う人々は、各々楽器を懐中して入場し、位置についたところで取り出しますが、琵琶は、立ったまま演奏しやすいように紐を付けて首から提げました。
061seigaiha_10jp(写真上は垣代が手に持った反鼻、下は琵琶を提げた垣代楽人。いずれも上記展示より)

垣代の役を担ったのは主に左右近衛府の将監以下の武官でしたが、算賀などの盛儀では蔵人や殿上人も務めました。
盛大な儀式になるほど通常よりも身分の高い人物が役に当たるのが当時の常で、紅葉賀巻でも
垣代など、殿上人、地下も、心殊なりと世人に思はれたる有職の限りととのへさせたまへり
と、その力の入れ様が記されています。

人数は、『仁智要録』(藤原師長[1138-1192]著の雅楽書)や『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書。狛近真著)には序破の舞人を含めて40人と記されていますが、史料を遡ると『源氏物語』以前で40人と確認できる例は見当たらず、20人強の例(『村上天皇御記』康保三[966]年十月七日条、『中右記』康和四[1102]年二月五日条)が見られます。
その一方で、院政期の算賀行幸では40人の垣代が立てられており、三田村雅子先生はこれを、『源氏物語』の場面を再現しようとの試みであると論じておられます(下記参考論文)。
『仁智要録』以降、現在に至るまで垣代が40人と規定されるのは、『源氏物語』を範と仰いだ院政期の事例に拠るのかもしれません。

垣代の装束は、正装である束帯や褐衣で、衛府の官人は胡簶(やなぐい)を背負い帯剣します。
「青海波」の装束を記述する史料に「徹平胡簶」(『中右記』康和四[1102]年三月廿日条)「不帯胡簶」(『玉葉』安元[1176]二年三月六日条)とあるのは、胡簶を負う垣代の武官装束との比較のためと思われます。
尚、風俗博物館の展示では管方装束を纏った垣代の姿もありますが、楽人が垣代に加わった例は私が調べた限りでは見つからず、この点の根拠は不明です。

紫や緋の袍を着た殿上人も加わっての40人もの垣代は、彩りも豪華に光源氏と頭中将の舞を取り囲んだことでしょう。
桐壺帝の聖代の象徴ともなり、光源氏の最も輝かしい記憶ともなって、物語の中で繰り返し回想される朱雀院行幸の「青海波」は、この垣代を取っても充分に特別なものとして描き出されたのだと思われます。

【参考文献】
藤原師長著 ; 神宮司廳編『仁智要録』(『古事類苑』普及版「楽舞部」所収)古事類苑刊行會 1931年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年
大神基政著『龍鳴抄』(3訂版『群書類従』第19輯所収)続群書類従完成会 1959年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
三田村雅子「青海波再演―「記憶」の中の源氏物語」(「源氏研究」5号 2000年 pp.30-54)

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月15日 (金)

青海波(6)装束その4~平緒・太刀・表袴~

057seigaiha_6055seigaiha_4舞楽「青海波」の衣裳をご紹介する最終回は、下半身に着ける装束類についてです。
(写真左は、風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より「青海波」を舞う光源氏の平緒と太刀のアップ。右は、『舞楽図』より「青海波」)

今回も、古文献の記述から確認いたしましょう。

用螺鈿野劒、是依舞太平樂也、青海波時用同野劒、(『中右記』康和四[1102]年三月九日)

螺鈿細劒、紺緒、[縫水等、](『中右記』康和四[1102]年三月廿日)

蒔絵螺鈿剣紺地平緒(『江家次第』巻第八「相撲召仰」)

表袴[文小葵](『河海抄』巻第四)

青海波(5)」で半臂と下襲に波を文様として施したことをご紹介しましたが、波の文様をもつはこの2つだけに留まりません。
『中右記』康和四[1102]年三月廿日条には、太刀を留める平緒にも「縫水等」つまり半臂と同様の海を表す模様を刺繍したことが記されています。
現行の装束ですと、立浪に加えて『舞楽図』に描かれているように千鳥の刺繍をしますが、袍と同じく平緒についても古文献に千鳥の刺繍のことは出てきません。
地色は紺(展示では夕陽を模した赤い照明がされていたため紫色に写っていますが、本来の色は多分淡い縹だと思います)で、この点も現行の白と紫の段だら模様とは異なります。

左の腰には、蒔絵と螺鈿で飾った細剣を帯びます。
現行の装束では太刀の鞘にも千鳥と波文様の飾りが施してありますが、古文献にはこうした飾りの記述は見当たりませんし、『中右記』康和四[1102]年三月九日条からは「太平楽」と「青海波」で同じ太刀を使い回していることがわかるので、平安時代の太刀には「青海波」専用の特殊な装飾はなかったと思われます。

通常、平舞で着用する襲装束では指貫を穿きますが、「青海波」の袴は、引用文のとおり古文献には「表袴」と記されており、現行の装束でも「差貫」とは呼ぶものの括り緒はなく、束帯装束の表袴に近い形をしています。
(したがって、この記事では「表袴」と表記することにします)

表袴の文様は、文献によって記述が異なります。
『河海抄』では上記のとおり小葵となっているのですが、『紫明抄』『原中最秘抄』にはいずれも「青海波(4)」で引用したように窠文と記されています。
成立年代は『紫明抄』『原中最秘抄』が13世紀後半(鎌倉中期)、『河海抄』が14世紀半ば(南北朝)ですので、その間の100年ほどで変遷が生じたのかもしれませんが、現行の装束の文様はやはり窠文ですので、『河海抄』の記述には疑問も残ります。
ついでながら、現行の装束では膝から下に金襴の別布を当てるということで、この点も古文献の記述とは大きく変わった仕立てになっています。
展示の表袴の文様がどうなっているかはよくわかりませんでしたが、時代の近さからいくと平安時代は窠文だったと考えるのが妥当でしょうか。

雅楽は伝統芸能として現存しているがゆえに、ついつい平安時代も同じだったと思いがちですが、調べてみると意外に激しく変遷していることがわかります。
ご紹介した風俗博物館の展示と古文献の記述から、「青海波」を舞う光源氏の姿をより具体的に想像していただけるようになったなら何よりです。

次回は、2人の舞人を囲む垣代についてご紹介します。

【参考文献】
多忠麿編 ; 林嘉吉撮影『雅楽のデザイン : 王朝装束の美意識』小学館 1990年
高島千春筆『舞楽図 左』(故實叢書第3輯第18回)吉川弘文館 1905年

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 9日 (土)

青海波(5)装束その3~半臂・下襲~

058seigaiha_7 055seigaiha_4舞楽「青海波」の衣裳、に引き続き今回は、袍の中に着る半臂と下襲のご紹介です。
(写真左は、風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より「青海波」を舞う光源氏の右肩から袖のアップ。右は、『舞楽図』より「青海波」)

まずは、史料に残された衣裳の記述を挙げておきます。

着青打半臂、[以銀押浜形・海浦・波文等、](中略)青海波舞人二人、次々舞間、猶着水文半臂(『中右記』康和四[1102]年三月廿日)

海浮半臂(『江家次第』巻第八「相撲召仰」)

大海浦半臂えひそめの下襲[面大海浦裏えひそめ](『紫明抄』巻第二)

蒲陶染下襲[面大海賦裏蒲陶]大海賦半臂(『河海抄』巻第四)

半臂は青色で、海をイメージした波や州浜の文様が描かれました。
『中右記』の記述に従えば、文様は銀箔押しで施されたようです。
展示写真で白く光を反射しているのが、箔押しの銀です。
(フラッシュのせいで文様が飛んでしまっています。ご容赦を)
因みに、現行の「青海波」の半臂は、古文献からの復元とは全く異なり、萌黄地の綾錦に牡丹・唐草・五窠・花菱を白や紫、橙などの色糸で織り出し、袖先と襟には紅地金襴に金箔まで施した、極めて絢爛豪華な仕立てです。
復元された半臂が青色と銀を基調としているのに対し、現代のものは萌黄色の地よりも色糸や金襴が目立つ影響で全体に朱色系統の印象を受けます。
時代的に両者の間に位置する『舞楽図』の半臂は、展示の半臂に近い緑の絵の具で描かれていますけれど、いつから現代のような仕立てになったのでしょうか?

下襲は、『紫明抄』『河海抄』の記述のとおり、裏が葡萄染で、表は文献にはっきりとした色の指定はありませんがおそらく白で、半臂と同じく波の文様を描きます。
展示写真からも、袖口や襟元に裏の葡萄染がおめり出されているのがおわかりいただけるかと思います。
現行の下襲は、袖先と襟に紅色繁菱文の綾絹で縁取りがされていますが、これは近世の女房装束(所謂「十二単」)に見られる“比翼仕立て”と同じで、本来は下襲の下に着る単を省いて見た目だけ重ね着しているようにした仕立てです。
展示では、平安時代に比翼仕立てはまだ存在しなかったことを考慮してのことでしょう、別に誂えた単を着せた上に下襲を重ねています。

次回で、装束については最終回となります(「青海波」全体では残り2回の予定)。
もうしばらくお付き合いください。

【参考文献】
多忠麿編 ; 林嘉吉撮影『雅楽のデザイン : 王朝装束の美意識』小学館 1990年
高島千春筆『舞楽図 左』(故實叢書第3輯第18回)吉川弘文館 1905年

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 6日 (水)

『平安時代史事典』復刊決定

『平安時代史事典』の記事で復刊リクエストへのご協力をお願いしておりましたこの本が、めでたく2006年10月にCD-ROM版で復刊されることとなりました。
リクエストに1票を投じただけの人間が僭越とは存じますが、復刊に尽力してくださった関係各位ならびにリクエスト投票にご協力くださった皆様に心から御礼申し上げます。

今回の復刊に関する情報は、以下のURLでご確認いただけます。

角川学芸出版:http://www.kadokawagakugei.com/cd-rom/cd-rom/005.html
※出版元が、当初の情報の角川書店から、角川学芸出版に変更になったため、リンク先を変更しました(2006.11.16)

復刊版の特徴などは、当Blogの『平安時代史事典 CD-ROM版』でもご紹介しておりますので、併せてご覧ください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 1日 (金)

青海波(4)装束その2~袍~

057seigaiha_6055seigaiha_4 とても豪華で特徴的な別様装束を用いる「青海波」、前回のに続いて袍をご紹介します。
(写真左は、風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より「青海波」を舞う光源氏の袍。右は、『舞楽図』より「青海波」)

平安時代の文献を考証して展示された袍は、現行のものとは柄が全く異なります。
『舞楽図』からも千鳥の模様がはっきり見て取れるように“青海波文様に千鳥の刺繍”というのが近世以来の袍の特徴ですが、展示では千鳥の刺繍はなく、文様も半円形を重ねた青海波文様ではありません。
千鳥の刺繍がないのは、『江家次第』『河海抄』など「青海波」の装束について記した古文献に千鳥の刺繍に関する記述が全く見られないことに拠るそうです。
私が調べた限りでも、千鳥の刺繍に言及している最も古い文献は、永正六[1509]年成立の豊原統秋著『舞曲口傳』でした。

青海波ハ龍宮楽ナリ。装束ノ色。青白浪ニ千鳥ノ文にヌヒモノニシ侍リ。

文様については、『紫明抄』と『原中最秘抄』(いずれも13世紀後半成立の『源氏物語』古注釈)に「こあふひ」と書いてあるのを発見したのですが、展示の文は小葵文とは違いそうです。

青海波御賀時装束事
(中略)表衣やまはといろ[号青色袍もえき]こあふひ表袴あられにくわんぞめ(『紫明抄』巻第二)

表衣やまふき色に紋はこあふひ表袴あられに瓜の紋(『原中最秘抄』上)

展示の袍は何の文様で典拠は何なのか、いずれも私にはよくわかりませんでした。

また「青海波」の袍は、上に引用した文献にも記述があったとおり、左方舞でありながら青色である点も大きな特徴ですが、これに関しては『小右記』に興味深い記述があります。

今日清〔青〕海波装束不似例季云々、前例着重装束、而着青色、(中略)但青海波舞人、天暦三季着青色、若彼例欤、抑両説乎、(寛弘二[1005]年七月廿九日条)

この日の相撲節会で舞われた「青海波」の装束に対する筆者・藤原実資の批評ですが、過去は他の舞と同じ襲装束を着たのに今日は青色だった、という内容です。
但し、実資自身が書いているとおり、過去にも「青海波」の舞人が青色の袍を着た例はあった訳です。
そして、この記事から100年ほど後に成立した『江家次第』には

若舞青海波時、王二人著麹塵袍、[或召蔵人袍給之、](巻第八「相撲召仰」)

と書かれていて、この頃にはすっかり青色に定まったようです。
天暦三季」とは天暦三[949]年、聖代と仰がれた村上天皇の治世ですので、その前例を模範としたのか、それとも青色の方が青海原の波を表したこの舞に相応しいと判断されたのか、そこのところはわかりませんが、ちょうど『源氏物語』の書かれた時代から転換期が始まったようです。

さて、光源氏が朱雀院行幸で纏った袍は、何色だったのでしょうか?

《追記》
『小右記』に示される天暦三[949]年の前例は当時の史料からの裏付けが取れませんでしたが、『村上天皇御記』康保三[966]年十月七日条には、この日内裏で催された舞楽御覧で藤原済時と藤原為光が「麹塵闕腋袍」を着て舞ったことが記されています。
同日条には「左衛門督藤原朝臣頼忠朝臣、重光朝臣以下廿四人為垣代」「朱紫交舞」とあり、三位~五位の人々が垣代を務めたことがわかります。
権門の貴公子が舞い、殿上人を含む高位の人々が垣代に立ったこの事例を、三田村雅子先生は「もっとも源氏物語の叙述に近い」と指摘しておられます(下記参考論文)。
また同論文では、朱雀院行幸本番での光源氏の舞について、天皇の衣裳である麹塵袍を身に着けることで本来ならば行幸という祭典の主催者・桐壺帝の似姿となり帝の勢威を荘厳する筈が、繰り返される「ゆゆし」「そぞろ寒し」の語によって光源氏自身が地上の王権を相対化する異界の王であるかのような畏怖を人々に齎した様を描き出している、との解釈が提示されています。
こういった先例との影響関係や場面解釈などを考えると、この場面で光源氏が着た袍はやはり青色だったと見るべきなのかもしれません。

【参考文献】
高島千春筆『舞楽図 左』(故實叢書第3輯第18回)吉川弘文館 1905年
河上繁樹執筆・編集『舞楽装束』(日本の美術No.383)至文堂 1998年
三田村雅子「青海波再演―「記憶」の中の源氏物語」(「源氏研究」5号 2000年 pp.30-54)

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »