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2006年10月30日 (月)

小野(修学院)

062shugakuin 夕霧巻の舞台となる小野の里は、比叡山の西麓一帯、北は大原から南は松ヶ崎の辺りまでを指しました。
歌枕として多く詠まれている他、文徳天皇の第一皇子でありながら立太子の叶わなかった惟喬親王が出家隠棲した地としても有名です。

御息所、もののけにいたう患ひたまひて、小野といふわたりに、山里持たまへるに渡りたまへり。(夕霧巻)

一条御息所と共に落葉宮が移り住んだ小野の山荘は、物語本文中に示される

  • 都から訪れる夕霧が、途中「松が崎の小山」(夕霧巻)を眺めている
  • ことに深き道」ではなく、都から比較的近い
  • 夕暮れ時に「山の蔭」になる=西側近くにも山がある
  • 音羽の滝(明治期に廃寺となった雲母寺付近にかつてあった滝。江戸中期までに消失)と思しき滝の音が「耳かしかましうとどろき響く」(夕霧巻)場所である
  • 浮舟を助けた小野の尼君の住まいが、御息所の山荘より「今すこし入りて、山に片かけたる家」(手習巻)である

などの条件から、現在の修学院離宮付近と考えられています。
勿論、平安時代には修学院離宮はまだ存在しません。
当時の小野には、炭窯や瓦窯、氷室などが点在していました。
その中で松ヶ崎や修学院の辺りは、都からの距離も近いため、気軽に訪れられる地域だったようです。
(松ヶ崎は、『枕草子』第九十五段「五月の御精進のほど」で清少納言が同僚の女房らと杜鵑の声を聞きに出かけた「なにさきとかや」の候補地の1つ)

063matsugasaki 修学院離宮の周辺は、現在ではすっかり住宅地になっていて、鄙びた山里の風情はほとんどありません。
それでも、滝は失われたものの音羽川の流れは健在ですし、左京区のWebサイトによると川縁から比叡山を遠望することもできるそうです。
(私が訪れたときは、残念ながらお天気が悪くて見えませんでしたが…)
また、川沿いに下って高野川に出ると、対岸に「松ヶ崎の小山」、緑に覆われた松ヶ崎東山が見えます。

尚、平安時代はこの地域も延暦寺の強い影響下にありました。

早うより御祈りの師に、もののけなど祓ひ捨てける律師、山籠もりして里に出でじと誓ひたるを、麓近くて、請じ下ろしたまふゆゑなりけり。(夕霧巻)

という本文からも、山中で修行中の僧が下りて行っても差し障りのない宗教的地域だったことが窺えますし、修学院離宮の北にある赤山禅院(仁和四[888]年に現地移転)が延暦寺の別院であることや、上述の雲母寺(元慶年間[877-884]創建)や「修学院」というこの地域の地名の由来となった修学院(別名修学寺。10世紀末創建)が延暦寺僧坊の1つだったこと、などからも当時の状況がわかります。
“洛北に位置する山寺の支配領域”という点では、若紫巻冒頭の舞台である北山と共通しており、舞台設定の方面から若紫・夕霧両巻の共通性や対照性を考えてみるのも面白いかもしれません。

写真は、上が修学院離宮正門、下が高野川から見た松ヶ崎東山です(いずれも撮影は2006年10月)。

【Data(修学院離宮)】
住所:京都市左京区修学院梅谷
交通:叡山電鉄修学院駅下車徒歩20分 市バス「修学院離宮道」下車徒歩15分

【参考文献】
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店 1994年
中野幸一編『常用源氏物語要覧』武蔵野書院 1995年
伊井春樹編『源氏物語の鑑賞と基礎知識23 夕霧』至文堂 2002年
京都市情報館(京都市役所)内「京都市左京区役所

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