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2006年11月の記事

2006年11月26日 (日)

宇治上神社・宇治神社

071ujigami_1 宇治十帖の主な舞台は名前のとおり宇治、中でも八の宮の邸がその舞台の中心となって展開していきます。

住みたまふ宮焼けにけり。いとどしき世に、あさましうあへなくて、移ろひ住みたまふべき所の、よろしきもなかりければ、宇治といふ所に、よしある山里持たまへりけるに渡りたまふ。(橋姫巻)

この八の宮の山荘は、

  • 川のこなた」(橋姫巻)つまり都側の宇治川東岸であること
  • 藤原頼通の宇治殿(=現在の平等院)がモデルと見られる夕霧の別荘から「たださし渡るほど」(椎本巻)の位置にあること

などの条件を踏まえ、現在の宇治上神社付近にあったと推定するのが一般的ですが、池浩三氏は

網代のけはひ近く、耳かしかましき川のわたりにて、静かなる思ひにかなはぬ方もあれど、いかがはせむ。花紅葉、水の流れにも、心をやる便によせて、いとどしく眺めたまふより他のことなし。(橋姫巻)
中将は参うでたまふ。遊びに心入れたる君たち誘ひて、さしやりたまふほど、「酣酔楽」遊びて、水に臨きたる廊に造りおろしたる階の心ばへなど、さる方にいとをかしう、ゆゑある宮なれば、人びと心して舟よりおりたまふ。(椎本巻)

などの記述を挙げ、「宇治上神社あたりとするのは少し奥まり過ぎていよう」と批判しています(「宇治十帖の舞台」『源氏物語の鑑賞と基礎知識16 椎本』所収)。
確かに、川岸から宇治上神社までは直線距離で200m以上あり、廊を伸ばすとしたら相当の距離になりますし、現地に行くとわかりますがこの間はずっと坂道で高低差も結構あります。
平安京における公卿クラスの貴族邸宅の一般的な広さが一町(約120m四方)ですから、山荘で200m超はちょっと広すぎるでしょう。
となると、次にご紹介する伝承との関連も含め、川岸から100mほどの距離で傾斜もまだ緩やかな宇治神社の辺りを想定した方が妥当かもしれません。

072uji_j 宇治上神社と宇治神社は、江戸時代までは両社一体で、平安時代には二社を合わせて「宇治鎮守明神」「離宮社」などと呼ばれていました。
神社としての創建年代は不詳ですが、『延喜式』巻九「神名上」に記されている「宇治神社二座」はこの神社のことと考えられています。
御祭神は応神・仁徳両天皇と、応神天皇の末子で仁徳天皇の弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)です。
仁徳天皇・菟道稚郎子の兄弟に関しては、神社創建の基となった、以下のような伝承があります(記紀にも類似の記述あり)。

応神天皇は末子の菟道稚郎子を皇太子に立てましたが、天皇の崩御後、菟道稚郎子は兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に帝位を譲って宇治に離宮を建て隠棲しました。
しかし大鷦鷯尊も、自分が即位しては先帝の定めに背くと辞退し、3年に亘り空位が続いて天下は乱れ、遂に菟道稚郎子が自ら命を絶つことで、大鷦鷯尊が即位するに至りました。

この伝承について『花鳥余情』(一条兼良著の注釈書。文明四[1472]年成立)は、兄弟間の皇位継承問題、郎子の宇治隠棲などの点から、菟道稚郎子を八の宮の準拠と指摘しています。
(尚、菟道稚郎子の死を“宇治川への身投げ”と記す資料が少なからず見られますが、『古事記』では早世、『日本書紀』では自害としか書かれておらず、浮舟の入水と重なるかとも思いたくなる菟道稚郎子の入水伝承は、実際はかなり後の時代になってからの脚色のようです)

073ujigami_2 宇治神社は、菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」(『山背国風土記』逸文。『日本書紀』では「菟道宮」)の跡地と伝えられ、「離宮社」の呼称も一説にはこれに由来すると言われます。
一方の宇治上神社は、ユネスコの世界遺産に登録されていますが、世界遺産登録の理由のひとつともなった国宝の拝殿は鎌倉初期に建てられた寝殿造風の建物で、平安時代の住宅建築が一切残っていない現在にあって、往時の寝殿造の建築を推測する貴重な資料となっています。
二社ともに、平安時代の面影を伝え、『源氏物語』とのつながりも深い神社です。

写真は、上から順に宇治上神社入り口の鳥居、宇治神社、宇治上神社拝殿(いずれも撮影は2006年10月)です。

【Data】
宇治上神社
 住所:宇治市宇治山田59
 交通:京阪電車宇治線宇治駅下車徒歩10分 JR奈良線宇治駅下車徒歩20分
 拝観:8:00~16:30 拝観無料(パンフレット100円)
 tel.:0774-21-4634
宇治神社
 住所:宇治市宇治山田1
 交通:京阪電車宇治線宇治駅下車徒歩5分 JR奈良線宇治駅下車徒歩15分
 拝観:境内自由 拝観無料
 tel.:0774-21-3041

【参考文献】
平凡社[編]『京都府の地名』(日本歴史地名大系26)平凡社 1981年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
雨海博洋編『源氏物語の鑑賞と基礎知識16 椎本』至文堂 2001年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
宇治上神社『世界文化遺産 宇治上神社』 ※拝観者用パンフレット

【この記事からのトラックバック】
京都の文化財:宇治上神社(古都京都へ行きたい!)
宇治神社(京のほっこり談話帖)

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2006年11月18日 (土)

小袿と細長(3)重ね着・被け物

※この記事は前の記事から続いています。
 「小袿と細長(1)小袿
 「小袿と細長(2)細長
 を未読の方は、そちらを先にお読みください。

068kasanegi 共に上流貴族女性の装いでありながら、少々異なる意味合いを帯びていたと思われる小袿と細長ですが、中には小袿と細長を重ね着するという着方も散見されます。
(写真左は、風俗博物館2006年上半期展示「女楽(若菜下巻)」より、葡萄染の小袿と薄蘇芳の細長を重ね着した紫の上)

撫子の細長に、このころの花の色なる御小袿、あはひ気近う今めきて、(『源氏物語』胡蝶巻)
 着用者:玉鬘
葡萄染にやあらむ、色濃き小袿、薄蘇芳の細長に、(『源氏物語』若菜下巻)
 着用者:紫の上
柳の織物の細長、萌黄にやあらむ、小袿着て、羅の裳のはかなげなる引きかけて、(『源氏物語』若菜下巻)
 着用者:明石の君
濃き袿に、撫子とおぼしき細長、若苗色の小袿着たり。(『源氏物語』宿木巻)
 着用者:浮舟
白い薄物の細長に、二藍の小袿を着たまひて、丈は三尺の几帳に足らぬほどなり。(『うつほ物語』楼上上巻)
 着用者:いぬ宮
御前には桜の織物の重ねたる、紅うち、桜・萌葱の細長、浮線綾の山吹の小袿などの、ところせくものはかばかしげなるを、(『狭衣物語』巻二)
 着用者:源氏の宮
※校訂者は桜重ねと萌黄重ねの2着の細長と解釈しているようですが、細長の重ね着は考えにくく類例も見当たらないので、私は「桜萌黄」(表萌黄・裏赤花)の細長だと思います。

小袿または細長だけを着るのと、両方を重ねるのとではどう意味合いが違うのか、詳細はわかりません。
『うつほ物語』の例は涼が幼いいぬ宮の姿を垣間見る場面で、何か特別な儀式や行事という訳ではない日常のひとコマなので、準正装である必要性は見出せません。
ですが『源氏物語』の用例については、胡蝶巻は行事などの折ではありませんが、親許ならぬ六条院で光源氏の訪問を受けた場面ですし、若菜下巻の2例はいずれも女楽の際のもの、また宿木巻も初瀬詣の帰りで、特別に格式が高いという訳ではありませんが、私生活の中では比較的改まった場での装いとして登場しているように思われます。
『狭衣物語』の例も、斎院に選ばれた源氏の宮が、潔斎所となる大弐の邸に渡る場面でのものです。
また、小袿と細長のどちらを上に着るのかも、これらの用例からははっきりしませんでした。

069kazuke 以上、『源氏物語』などの着用例を中心に考察してきましたが、この2つの衣裳は実際に女性が着ている場面だけでなく、引き出物としても頻繁に登場します。
(写真左は、風俗博物館2004年上半期展示「季の御読経(胡蝶巻)」より、禄の細長を肩に被けた夕霧)
使者への禄や宴の出席者へのご祝儀などには、身分や儀式の格式に応じて絹布や袿、女房装束一式などが授けられましたが、そうした贈り物に小袿や細長が用いられたり、「女の装束」に小袿や細長が添えられる例がよく見られるのです。
細長は、女性が着用する場面よりもむしろ引き出物として登場することの方が多いほどです。
『源氏物語』や『枕草子』『うつほ物語』『狭衣物語』『夜の寝覚』などの用例を見ていくと、特に盛大な儀式・宴の列席者や、内裏からの文遣いや後朝使のような重く扱うべき使者などに対して女房装束に小袿や細長が添えられており、華やかな色の織物で仕立てられたこれらの衣裳を加えることで、もてなしの盛大さを印象付ける狙いがあったのではないかと想像されます。
また単品で用いる場合は、「女の装束」ほど重々しくはなく普通の袿よりは格上、といった位置付けだったようです。

実際の着用においても、贈り物としても、格式の高さや華やぎを演出する衣裳として、小袿と細長の2つを捉えることができると思います。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
長崎盛輝著『かさねの色目 : 平安の配彩美』京都書院 1996年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「小袿と細長」に若干の加筆修正を加えたものです。

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2006年11月12日 (日)

小袿と細長(2)細長

※この記事は前の記事から続いています。
 「小袿と細長(1)小袿」を未読の方は、併せてご覧いただければ幸いです。

066hosonaga_1 細長は、諸説があってその形状は明確には判明していません。
また、同じ「細長」という名称でも、幼年男子が着用するものと女性が着用するものとがあり、形も当然異なっていました。
女性の装束として用いられた細長は、袿または表着の上に重ねるもので、『枕草子』に

衣の中に細長は、さも言ひつべし。(一二九段「などて、官得はじめたる」)

とあることから、身幅が狭く裾の長い衣裳だったと推測されています。
童女の正装である汗衫に似た形とも言われますが、 円領ではなく垂領で、衽がなく、腋の開いた身丈の長い衣とする説が有力です。
後身頃がふたつに分かれているとの説もあり、風俗博物館で展示しておられる細長は、この説を採用して、後身頃が上半身の部分からふたつに大きく分かれ、長く裾を引く形になっています。
(上の写真は、2003年下半期展示「歳暮の衣配り(玉鬘巻)」より、明石の姫君の新年の衣裳に選ばれた「桜の細長」と「つややかなる掻練」)
袿だけを重ねた状態とは違って、腰の部分で当帯を結ぶのも細長の特徴です。
材質は、綾織物や浮織物の他、羅などの薄物も用いられ、花などを表した華やかな重ね色目が好まれたようです。
『源氏物語』の用例を挙げると、「」(末摘花・玉鬘・胡蝶・若菜上・若菜下・竹河)「山吹」(玉鬘・胡蝶)「」(胡蝶)「撫子」(胡蝶・宿木)「紅梅襲」(梅枝)「薄蘇芳」(若菜下)「」(若菜下)「紫苑色」(総角)と、多彩で美しい色目が沢山見つかります。
(一方で、行幸巻で末摘花が玉鬘の裳着のお祝いに贈ったのは「青鈍の細長」で、贈り主を考慮する必要がありますが、珍しく地味な色です)

一般には、細長は幼年~若年女子の私的な晴れ着と言われますが、『源氏物語』若菜下巻では「今年は三十七にぞなりたまふ」と記される紫の上と、彼女とほぼ同年輩の明石の君が、また『うつほ物語』蔵開下では30代半ば以上と推測される女三の宮と、「年四十に一つ二つ足らねど」と明記される式部卿宮の中の君が、それぞれ着用しており、実際は若い女性に限定されていた訳ではないようです。

067hosonaga_2 『源氏物語』での「細長」の用例を見ると、全部で26例あり、紫の上、明石の姫君、玉鬘、女三の宮、明石の君、玉鬘の大君、浮舟が着用しています。
(写真左は、風俗博物館2006年春の出張展示「柏木の垣間見(若菜上巻)」より、「桜の織物の細長」を着て御簾際に立つ女三の宮)
年齢は七歳(玉鬘巻の明石の姫君)から三十七歳(若菜下巻の紫の上)と幅広いですが、全員が一家の女主人か姫君、つまり傅かれる側の女君であるという共通点が見て取れます。
ただし、薫が後見役として中の君に衣裳を贈る場面では

女の装束どもあまた領に、細長どもも、ただあるにしたがひて、ただなる絹綾などとり具したまふ。みづからの御料と思しきには、わが御料にありける紅の擣目なべてならぬに、白き綾どもなど、あまた重ねたまへるに、(宿木巻)

とあり、この細長が中の君本人のための衣裳なのか、仕える女房達のためのものなのかは、判断がつきかねます。
着用の場面としては、玉鬘巻で装束が用意される新年の他、若菜下巻の女楽、宿木巻の初瀬詣でからの帰途などが挙げられますが、一方で源氏と絵を描く若紫(末摘花巻)や蹴鞠を見物する女三の宮(若菜上巻)、妹と碁を打つ玉鬘の大君(竹河巻)など、日常的な場面もあります。

その他の作品に目を転じると、意外に細長を着た女性の姿を描いたものは少なく、同時代の作品では『うつほ物語』のみ、後期物語では『狭衣物語』に僅かに2例が見られる程度です。
着用している人物も、『うつほ物語』では女一の宮、女三の宮、式部卿宮の中の君、宰相の君、いぬ宮の5人、『狭衣物語』でも源氏の宮と飛鳥井女君の姫君の2人だけで、やはり主人の立場にある女性に限られます。
年齢も、四歳(『狭衣物語』巻三の飛鳥井女君の姫君)から三十八・九歳(『うつほ物語』蔵開下の式部卿宮の中の君)までとなっています。
着用の場面は、公卿との対面や転居などやや改まった折が主ですが、洗った髪を乾かす際に着ている『うつほ物語』蔵開中の女一の宮の例や、他の子供達と遊んでいる『狭衣物語』の飛鳥井女君の姫君の例のように、日常的な場面も見られます。
また逆に、『うつほ物語』楼上下で琴の伝授を終えて俊蔭女と共に楼から下りるいぬ宮は、嵯峨院・朱雀院両上皇の御幸があるにもかかわらず裳唐衣ではなく細長を着ています。
俊蔭女は唐衣を着用しているのですが、これはいぬ宮がまだ裳着を済ませていない未成年だからでしょうか?

以上のように、女房の着用例が(微妙な例はありますが)見当たらないこと、また儀式などでの着用例がなく、特段の格式を要する場面でない折に着ている例も多いことなどを考えると、細長は正式な場で着るものではない、あくまでプライベートな衣裳だったのではないかと思います。
略礼装として認められた小袿とは違い、日常生活の延長上にありつつ、重袿姿よりはきちんとした、着飾った装いという位置付けだったのだろうかと推測しています。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
長崎盛輝著『かさねの色目 : 平安の配彩美』京都書院 1996年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「小袿と細長」に若干の加筆修正を加えたものです。

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2006年11月 7日 (火)

『平安時代史事典 CD-ROM版』

074heian_cd 以前、同名の記事でご紹介しました『平安時代史事典』(角川書店 1994年)が、2006年10月にWindows対応のCD-ROM版で復刊されました。
本編(上下巻)の内容が1枚のCD-ROMに収録され、別冊の資料・索引編のうち資料編283ページ分が、書籍版と同じサイズのB5版ソフトカバーで添付されています。

『平安時代史事典 : for Windows CD-ROM版』
角田文衞監修;古代学協会, 古代学研究所編
出版:角川学芸出版 発売:角川書店 2006年10月刊行
ISBN:4-04-621991-2 税込定価\88,200(本体\84,000)

詳しい動作環境などは角川学芸出版商品案内ページをご覧いただくとして、ここでは1ユーザーとして使ってみての感想を書きたいと思います。

CD-ROM版では「見出し五十音別検索」「見出し入力検索」「分類検索」「全文検索」の4種類の検索メニューが用意されていますが、特筆すべきはやはり4つ目の全文検索です。
例えば清涼殿について調べるとき、勿論「清涼殿」という項目は事典の中に立っていますが、他の項目でも解説文の中でさまざまに清涼殿に関する言及がされています。
書籍版でそうした項目を拾うことは不可能でしたが、CD-ROM盤の全文検索を使えば簡単に一括抽出が可能です。
他にも、“『源氏”というキーワードでの全文検索で、解説文中に「『源氏』に「…」との記述がある」というようなことが書かれている項目を集めたり、AND検索も可能なので、“宇治”“別業”の掛け合わせで宇治にあった別業や別業を営んだ人物などを調べたり、といったことができます。
更に、解説文を表示させると文中のキーワードが黄色く網掛け表示されるので、知りたい部分を素早く確認できます。
この機能は本当に便利で、いろいろな場面で活用できるだろうと思います。

2つ目の「見出し入力検索」にも、デジタル媒体ならではの長所があります。
長所の1つ目は、漢字で検索できること。
本や論文に書かれている漢字の言葉、読み方がわからないときに書籍版で調べようと思ったら、索引編で最初の文字の総画数から辿って本編のページ数を探す必要がありましたが、CD-ROM版なら書いてある文字をそのまま検索窓に入力すればOK。
また、『平安時代史事典』は人名がすべて訓読み(例えば徽子女王は「きしじょおう」ではなく「よしこじょおう」)で収録されていて、書籍版では正直に言って非常に引きにくかったのですが、漢字検索が可能になったことでこの問題も解消されました。
長所2つ目は、部分一致や後方一致でも検索できること。
例えば白文の史料を読んでいて、どこで言葉が区切れるのかわからないとき、とりあえず適当に2・3文字入れてみて部分一致検索をすると、該当する言葉が見つかる可能性があります。
また、これも漢文史料に多い例ですが、「○○朝臣」のように下の名前しか書かれていない人物について知りたいとき、後方一致で検索すればその人物を探し出すことができます。

ユニークな検索メニューは、3つ目の「分類検索」
各項目を「人物」「政治」「有職」「考古」など14の分野に分類し、更に細分類を加えて分野毎に項目を通覧できるようになっています。
例えば「有職>年中行事」と展開すると、行事名や行事に関わる役名、行事に纏わる風物など、196件もの項目が並んでいて、調べ物の目的だけでなく順番に読んでいっても面白いのではないかと思います。

本文表示についても、「しおり」「履歴」などで前に見た項目に戻れたり、検索結果を複数選択してタブで同時に表示できたりする機能が付いている他、解説文中に出てくる他の見出し語にハイパーリンクで飛べる仕組みもデジタル媒体ならではの長所です。
更に、解説文の一部を選択してクリップボードにコピーしたり、項目全体をテキストファイルでダウンロードできる機能もあるので、必要な部分だけを抜き出して整理する作業も簡単です。
(言うまでもありませんが、ダウンロードした文章をそのまま自分のレポートなどに使用する行為は著作権侵害になります)

最初に書いた値段のとおり、決して気軽に手の出せる買い物ではありません。
ですが、『平安時代史事典』が刊行から12年を経た今も尚、代わりの利かない重要な資料であることは間違いありませんし、書籍版では調べられない情報も検索でき、便利な機能もいろいろ加わっていますので、今後も平安時代・平安文学と付き合っていく方なら絶対に買って損はないと思います。
お薦めです。

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2006年11月 3日 (金)

小袿と細長(1)小袿

064kouchiki_1 平安貴族女性の装束というと、真っ先に思い浮かぶのはいわゆる十二単(裳唐衣装束・女房装束)ですが、正装とは異なる私的な装いとして物語などによく描かれる衣裳に、小袿と細長があります。
以下、3回に分けてこれらの衣裳をご紹介いたします。
1回目は小袿について。

小袿とは、小形の袿の意で、形は袿や表着と同じ垂頸・広袖ですが、特に丈が短く仕立ててられています。
近世の小袿は、表地と裏地の間に中陪(なかべ)と呼ばれる色違いの裂を装飾として入れて三重に仕立てるのが特徴で、これをもって中陪のない袿と区別していますが、平安時代の段階では必ずしもこの区別は明確ではなかったようです。

材質は、唐衣と同様に一番上に着る衣ですので、表地には華やかな織物を用い、中陪と裏地には平絹を使うのが普通でした。
『源氏物語』にも、「紅、紫、山吹の地の限り織れる御小袿など」(紅葉賀巻)「紅梅のいと紋浮きたる葡萄染の御小袿」(玉鬘巻)「梅の折枝、蝶、鳥、飛びちがひ、唐めいたる白き小袿」(玉鬘巻)「このころの花の色なる御小袿」(胡蝶巻)「萌黄にやあらむ、小袿着て」(若菜下巻)「若苗色の小袿」(宿木巻)のように、明るく華やかな色と織の施された小袿がさまざまな場面で描かれています。
夏物の場合ですと、

かの薄衣は、小袿のいとなつかしき人香に染めるを、身近くならして見ゐたまへり。(『源氏物語』空蝉巻)
黄朽葉の織物、薄物などの小袿着て、(『枕草子』一九一段「野分のまたの日こそ」)

の例のように、薄物で仕立てたものもありました。

色目や文様に禁色はなく自由だったようで、袷の袿と同じく表・(中陪)・裏によって重ね色目を表現しました。
中陪が入る場合は、一般に表と裏が同色の場合はその淡色を、表裏が同色相の濃淡の場合はその中間の濃さの色を、表と裏で異なる色の場合はその中間の淡色を用いて変化をつけたようです。

高貴な身分の女性達の間では、正装である女房装束の略装として、唐衣の代わりに小袿を重ねることがありました。
これを「小袿姿」または「小袿装束」といい、男性装束の衣冠(束帯に次ぐ準正装)に相当する装いとされました。

『枕草子』では、定子中宮の妹である東宮妃・原子と中宮の母・貴子が小袿を着用している例が見られます。

紅梅いとあまた、濃く薄くて、上に濃き綾の御衣、すこし赤き小袿、蘇枋の織物、萌黄の若やかなる固紋の御衣たてまつりて、(一〇〇段「淑景舎、春宮にまゐりたまふほどのことなど」)
皆、御裳、御唐衣、御匣殿までに着たまへり。殿の上は、裳の上に小袿をぞ着たまへる。(二六三段「関白殿、二月二十一日に」)

一〇〇段の原子の例は中宮との対面の際、二六三段の貴子の例は積善寺供養の際のもので、褻の装束とは言ってもやはり全くの日常着ではなく、礼儀を正した衣裳という位置付けだったのだろうと思われます。
特に貴子の例は、小袿が唐衣の代用とされたことがよくわかります。
同様に『栄花物語』でも、太皇太后彰子と皇太后妍子が禎子内親王の裳着に列席した際、

このたびはもろともに二宮うちつづきて渡らせたまふほど、あなめでたと見えさせたまふ。皆御裳、小袿など奉りたり。(巻十九 御裳ぎ)

と、2人が揃って小袿と裳を着けていたことが記されています。

上臈女房になると、小袿姿で主人の前に出ることも許されたようで、『源氏物語』では落葉宮の母方の従姉妹にあたる上臈女房の小少将の君が

衣の色いと濃くて、橡の衣一襲、小袿着たり。(夕霧巻)

と、喪服の上に小袿を着ている例も見られます。

『源氏物語』中「小袿」の用例は24例あり、軒端の荻、空蝉、紫の上、大宮(桐壺帝の妹宮)、明石の君、玉鬘、宇治の中の君、浮舟と、一家の女主人や姫君が多く着用しています。
女房では、上に挙げた小少将の君の着用例がある他、明石の君が

柳の織物の細長、萌黄にやあらむ、小袿着て、羅の裳のはかなげなる引きかけて、ことさら卑下したれど(若菜下巻)

と、自ら遜って女房の格を示すために着けた裳と共に小袿を着用しています。
そしてこれも明石の君の着用例ですが、

端近うゐたまへるに、御前駆追ふ声のしければ、うちとけ萎えばめる姿に、小袿ひき落として、けぢめ見せたる、いといたし。(野分巻)

とあり、源氏の来訪に糊気の落ちた袿の上から小袿を羽織って居住まいを正す様子が描かれています。
これなども、改まった装いとしての小袿の位置付けを傍証する用例といえるでしょう。

小袿姿の女性が描かれている『蜻蛉日記』『うつほ物語』『落窪物語』『枕草子』『源氏物語』『紫式部日記』『栄花物語』の記述を総合すると、次のような傾向が見て取れます。

  • 着用者は皇族(太皇太后・皇太后・中宮・内親王など)から受領階級まで幅広いが、ほぼ主人の立場にある女性である。
  • 女房が着用する場合は、主人に非常に近しい上臈女房に限られる。
  • 着用する場は、正月や特別な行事・儀式、高位の人物や目上の親族との対面、旅先への出立時など、日常生活よりも一段格式の高い場面が多い。
  • 唐衣の代わりに裳と共に着用する場合もあり、準正装と見なされる。

065kouchiki_2 また風俗博物館Webサイト「日本服飾史 資料」内にある「公家姫君婚儀の装い」には、12世紀に行われた公家の婚儀において、花嫁である姫君は小袿姿だったことが紹介されています。

尚、『紫式部日記』には、

葡萄染めの織物の小袿、無紋の青色に、桜の唐衣着たり。

と、小袿と唐衣を重ね着しているように読める記述がありますが、小袿と唐衣の重ね着は考えにくく、また『紫式部日記絵巻』の本文には「こうちき」ではなく「うちき」と記されていることから、これは写本の誤写と見做されているようです。
(本文によっては、校訂者の判断で「」に改められているものもあります)

写真は、上が風俗博物館2003年下半期展示「歳暮の衣配り(玉鬘巻)」より、見立てられた衣裳を羽織る紫の上(一番上が「葡萄染の御小袿」)、下が2005年上半期展示「三日夜の餅の儀(藤裏葉巻)」より、夕霧との婚礼に臨む小袿姿の雲居雁です。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
長崎盛輝著『かさねの色目 : 平安の配彩美』京都書院 1996年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「小袿と細長」に若干の加筆修正を加えたものです。

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