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2006年12月の記事

2006年12月31日 (日)

追儺(ついな)

075inuki 追儺とは、大晦日の夜に疫神・悪鬼を駆逐する年中行事で、「鬼やらひ」「儺やらひ」とも言います。
(「やらひ」は、「遣る」の未然形+上代の反復・継続の助動詞「ふ」が結合した動詞「遣らふ」が名詞化したもので、“追い払う、追放する”の意)
中国の民間行事「大儺」が伝来して宮廷行事に取り入れられたもので、1年の最後の夜に邪気をすべて追い払い、清浄な状態で新年を迎えようという趣旨の行事です。
(写真は、風俗博物館2006年下半期展示「追儺~紫の君の雛あそび~」より、方相氏の真似をした犬君)

日本での文献上の初見は『続日本紀』慶雲三[706]年条の
是年。天下諸国疫疾。百姓多死。始作土牛大儺
という記述で、疫病の流行を鎮める目的で行われたことがわかります。
恒例の行事として定着した時期ははっきりしませんが、『内裏式』(弘仁十二[821]年成立の宮廷儀式書)に「十二月大儺式」と挙がっているところから見て、嵯峨天皇の時代には年中行事のひとつとなっていたと推測されます。
上記引用文にもあるとおり、当初は中国での名称そのままに「大儺」と称していましたが、『日本三代実録』貞観十二[870]年には「追儺」と表記され、以来「追儺」がこの儀式の名称となっていきました。

『内裏式』から『江家次第』まで平安時代各時期の儀式書から宮中での儀式次第をまとめると、概ね以下のようになります。

天皇が紫宸殿に出御し、定刻になると王卿が参入、続いて舎人など武官らが参入し、各自桃の弓と葦の矢を携えます。
次いで、黄金四目の仮面を着け楯と矛を持った方相氏(ほうそうし。疫鬼を駆逐する役。大舎人の中で身体の大きな者が選ばれました)が侲子(しんし。『内裏式』には官奴20人が務めると書かれていますが基本的には子供で、振り鼓を鳴らしながら方相氏に随います)8人を引き連れて南庭に参入、陰陽寮の下部により饗が供されます。
(この饗は、当初は疫鬼に対する供え物だった筈が、方相氏が疫鬼と同一視されるようになっていくに従って『西宮記』の頃には方相氏のための饗になり、更に『江家次第』の書かれた平安後期には行われなくなりました)
続いて陰陽師が、穢れ悪しき疫鬼の住処を日本国の外と定めて追放する旨の祭文を読み上げます。
方相氏は声を上げて楯を3度打ち、群臣はそれに唱和、四門に分かれて疫鬼を追います。
方相氏は、紫宸殿と清涼殿の間に位置する明義門・仙華門を経て滝口の戸を通り、北方の門へ向かいます。
(この点も方相氏と疫鬼を同一視する傾向に伴う変遷があり、はじめは方相氏が目に見えない疫鬼を追っていたのが、『江家次第』の時代になると殿上人らが方相氏を弓矢で射るように変化しました)
王卿らが大内裏の外まで疫鬼を追うと、京職が後を引き継いで方相氏・侲子と共に疫鬼を追って都の外まで練り歩きました。

この儀式で特徴的に登場するのが桃の弓と振り鼓ですが、いずれも邪気を払うものとしての意味があります。
中国での大儺は、声を上げ鉦鼓を打ち鳴らしてその音で鬼を追う他、弓矢で鬼を射ることも行われました。
その両方が追儺にも伝わっている訳です。
弓を桃の枝でつくるのは、黄泉国神話で伊弉諾尊が桃の実を投げて悪鬼を撃退する場面によく表れているように、桃が邪気を払う陽性の植物と信じられていたことに拠ると思われます。

追儺は、(おそらくは方相氏らが邸の前を通るのに合わせてでしょう)それぞれの家庭でも行われ、『源氏物語』の中にも2回登場します。

1回目は紅葉賀巻で、元旦に参内しようとした源氏が紫の君の部屋を覗くと、紫の君は新年早々雛遊びの道具類を広げ、源氏に向かって真剣な顔で
儺やらふとて、犬君がこれをこぼちはべりにければ、つくろひはべるぞ
と説明します。
犬君という童女は、若紫巻から登場している紫の君のよい遊び仲間ですが、初登場の場面でもそうだったように少々粗忽者らしく、ここでも「鬼やらいだ」と言って疫鬼を追い払う真似事をして、紫の君の大事な雛遊びの道具を蹴散らしてしまったようです。

2回目に描かれるのは幻巻の最後です。

年暮れぬと思すも、心細きに、若宮の、
「儺やらはむに、音高かるべきこと、何わざをせさせむ」
と、走りありきたまふも、「をかしき御ありさまを見ざらむこと」と、よろづに忍びがたし。

幼い匂宮は「大きな音を立てて鬼を追い払うには何をさせればいいだろう」と言って無邪気にはしゃいで走り回っており、紫の上を喪い年明けには出家することを決意している老年の源氏の寂寥感と鮮やかな対比を見せています。

その他の作品でも、

「鬼やらひ来ぬる」とあれば、あさましあさましと思ひ果つるもいみじきに、人は、童・大人ともいはず、「儺やらふ儺やらふ」と騒ぎのゝしるを、(『蜻蛉日記』中)
今の上、童におはしませば、つごもりの追儺に殿上人振鼓などしてまゐらせたれば、上振り興じさせたまふもをかし。(『栄花物語』月の宴)
つごもりになりぬれば、追儺とののしる。上いと若うおはしませば、振鼓などして参らするに、君達もをかしう思ふ。(『栄花物語』さまざまのよろこび)

などの記述があり、いずれの例でも、特に幼い子供にとって追儺が賑やかで面白い行事だったことが伝わってきます。
追儺が終わると、宮中では1年の最初の行事である四方拝が執り行われ、新しい年が始まります。

尚、現在も行われている節分の豆まきの源泉はこの追儺です。
悪鬼を追い払って新年を迎える行事を行う日が、本来の大晦日から二十四節気の上での一年の変わり目である立春前日に置き換わった結果で、豆まきの風習は室町時代から見られるようになります。
名前はほとんど知られていませんが、実は形を変えて現代にも伝わっている年中行事です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
山中裕, 鈴木一雄編集『平安時代の儀礼と歳事』至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編集『平安時代の環境』至文堂 1994年
石村貞吉[著] ; 嵐義人校訂『有職故実』(講談社学術文庫)講談社 1987年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年

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2006年12月25日 (月)

生い茂らない八重葎~蓬生の庭~

平成11[1999]年~17[2005]年にかけて制作された国宝『源氏物語絵巻』復元模写19図は、さまざまな点で見る人に衝撃を与えましたが、蓬生も大いに驚きを齎した図でした。
原画は、画面の大半を占める庭の部分が茶色く褪色し、そこに何が描かれているのかはほとんどわからない状態になってしまっています。
ところが復元された図では、庭には白く眩い銀の顔料が塗られ、その上に青々とした草が点々と描き込まれていたのです。
原画の色に馴染み、『源氏物語』原文を知る者として、最初に見たときの正直な感想は
「イメージと違う」
の一語に尽きました。
絵巻ができた当初から現在のような色合いでなかったのは当然としても、それにしたってあまりに庭が白すぎる。
そして邸の荒廃ぶりに比べて草の茂り方がおとなしすぎる。
…NHKの番組を通して初めて蓬生の復元模写を目にしたとき、私が強く感じたのはこの違和感でした。

違和感の多くは、復元模写の現物を実際に見ることで解消されました。
極めて直感的ではありますが、展覧会の会場で蓬生の図と向き合ったとき、
「露に反射する月の光を表すためには、これだけの銀の広さが必要だったのだ」
と納得できたのです。
原文に繰り返し描写される美しい月の光を表現するために、草を鬱蒼と茂らせることはせず、敢えて銀色の余白を多く残したのだろう、と自分なりに理解した次第でした。

その後、『描かれた源氏物語』(翰林書房 2006年)にも蓬生の草の解釈が書かれているのを見つけました。
巻頭に収録された佐野みどり先生、三田村雅子先生、河添房江先生による座談会の中に、こんなご発言があったのです。

三田村 (前略)植物一つ一つが建物のこわれかけた木材から伸びているように描かれている。こんなにたくさん伸びて、これは忍草じゃないかと思うんだけど、「偲ぶ」という意味の葉が、光源氏に向けて伸びているわけですよね。末摘花の思いがそちらに向けて、放射されている姿に思われる。(中略)
 しかも、この下にバラなんでしょうかね。とげとげのバラが三株、黒く描かれているんですね。この建物の下にしか描かれていないので、これもやはり末摘花を象徴しているように感じる。外からの人物がやってくることを遠ざけつつ、光源氏に対しては触手を伸ばしているという、末摘花の自閉とこだわりを表すような植物群になっているのではないか。(後略)

専門家の手にかかると、こうも細密な解釈になるのか、と感嘆するばかりですが。
『よみがえる源氏物語絵巻』(日本放送出版協会 2006年)によると、この図にはヨモギやカタバミなど10種類以上の草がとてもリアルに描き込まれているそうです。
すべての草の種類に象徴的な意味があるかどうかはわかりませんが、それぞれの草が種類を特定できる姿で描かれていなければ、そもそもこうした解釈を展開する余地はありません。
描かれた草がどれも背が低く、ひとつひとつの草葉の形が見て取れるほどに疎らなのには、あるいは「何の草が生えているのかを鑑賞者に読み取らせたい」という絵師の考えがあったのかもしれません。

蓬生巻原文の描く末摘花の邸の庭の荒廃は凄まじく、「浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒を争ひて生ひのぼる」「さる薮原」「かかる浅茅が原」と草深い様子が繰り返し描かれます。
現実の植物の育ち方を考えても、例えばヨモギは1m近く、チガヤ(=浅茅)も60cm程度には育つ草で、どちらも多年草です。
この場面がまだ本格的に夏が訪れる前の卯月のことといっても、多年草ですから越年して大きく育った株が全くなかったら不自然でしょう。
また葎の一種であるヤエムグラは、原文にも「葎は西東の御門を閉ぢこめたる」との描写があるように、単体では自立せず他の草木などに茎を引っ掛けながら上へ伸びていく性質があります。
こうした事柄を念頭にこの場面の庭の有様を想像すると、芽生えたての若葉のような背の低い草ばかりがちらほらと生えているだけの穏やかな状態で済むとはとても考えられません。
にもかかわらず、復元模写で明らかにされたように余白が多く疎らに草が描かれていたのなら、きっとそこには、敢えてそういう描き方をした絵師の意図がある筈です。
どの解釈が正しいか、正しくないかは、私には判断できませんが、原文や現実と描かれた内容との間にずれを感じたら、「何のためにこうした描かれ方がされたのか」と想像を巡らせてみると面白いだろうと思います。

【参考文献】
三田村雅子, 河添房江編『描かれた源氏物語』(源氏物語をいま読み解く 1)翰林書房 2006年
三田村雅子『草木のなびき、心の揺らぎ : 源氏物語絵巻を読み直す』(Ferris Books 10)フェリス女学院大学 2006年
NHK名古屋放送局「よみがえる源氏物語絵巻」取材班『よみがえる源氏物語絵巻 : 全巻復元に挑む』日本放送出版協会
 2006年

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2006年12月19日 (火)

大日本史料総合データベース

前回の古記録フルテキストデータベースに続き、東京大学史料編纂所の便利なデータベースをもうひとつご紹介いたします。

大日本史料総合データベース ※リンク先はデータベースページ表紙

  • 東京大学史料編纂所作成
  • 東京大学史料編纂所データベース検索ページ内コンテンツ
  • 『大日本史料』の綱文・書名・索引語および本文(一部のみ)を検索

『大日本史料』とは、東京大学史料編纂所が1902年から連綿と編纂を続けている歴史書で、六国史以後の日本史上の事件等を時系列順に並べて見出しを付け(この見出しが「綱文」です)、関連する史料の記述原文をそのまま掲載しています。
収録範囲は仁和三[887]年から始まって2006年12月現在で元和八[1622]年まで、370冊以上が刊行されており、そのうち平安時代(~建久三[1192]年)に当たるのは第1編之1~第4編之4と補遺の計82冊。
数字を見ただけで目眩がしそうなほどの量です。

この膨大な史料群を検索可能にしたのが、大日本史料総合データベースです。
例えば、「藤原道長に関して掲載されている出来事が知りたい」と思ったら、キーワードに「藤原道長」と入力し、検索対象に綱文を指定すれば、藤原道長に関する出来事の綱文が一覧できます。
(検索対象に索引を指定すると、道長本人だけでなく道長の親や子供などの縁者に関する記述も抽出されるようです)
特定の事件について知りたい場合は、キーワードに綱文に含まれそうな言葉を入れるか、項目検索画面でその事件が起きた和暦年月日を入力し、綱文を検索対象に指定すればOKです。
綱文の検索結果一覧には、綱文の文言と年月日が表示されます。
更に個々の詳細データを開くと、『大日本史料』掲載ページ、掲載史料名などが確認できる他、[刊本]のボタンから『大日本史料』の該当ページ画像を閲覧することも可能です。
画像ファイルは古記録フルテキストデータベース同様tiff形式で、WindowsパソコンならOS付属のビューアーで表示できます。
ブラウザ上で前後のページに移動できる点も、古記録フルテキストデータベースと同じです。
『平安時代史事典』をはじめ、記述の根拠に『大日本史料』を挙げている資料は多いので、裏付けを取るために第○編之×の△△ページが見たい…というようなときも、このデータベースを使えばすぐに確認できます。
(尚、編/冊検索は半角数字、和暦年月日は全角数字で入力しないとエラーになりますのでご注意ください)

綱文と索引語の検索については、それぞれ編年史料綱文データベース・大日本史料索引データベースという別個のデータベースができていて、データベース間の連携によってこの総合データベースからの検索が可能になっているそうです。
その関係なのか、総合データベースの簡易検索画面下部の概要説明には
「索引語のデータベース連携は一部にとどまっています。」
との注記があり、索引データベースの一部機能は総合データベースからは利用できず、別途索引データベースを検索する必要があるようです。
(将来的には、別々に分かれているデータベースも統合され、総合データベースのインターフェイスですべての検索が可能になるのではないかと思われます)
その他、編によって索引語の採録基準が多少異なっていたり、部分的に収録されていない冊があったりするので、ご利用にあたっては概要説明とヘルプを一読なさることをお勧めいたします。

尚、2001年からはフルテキストデータベース化も試行されており、今のところ近年刊行の一部の掲載史料本文が試験的に検索可能になっています。
本文検索用のテキストデータは新規刊行分を中心に追加していく予定とのことなので、初期に刊行された平安時代の本文が検索可能になるのは当分先になりそうですが、今後のますますの充実が期待されるところです。

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2006年12月15日 (金)

古記録フルテキストデータベース

平安貴族達が残した日記は、当時の政治や文化を知る上で欠かすことのできない第一級の史料です。
特に『源氏物語』の執筆時期に重なって書かれている藤原実資の『小右記』や藤原道長の『御堂関白記』は、作者の生きた時代の具体的な姿を教えてくれる、貴重な証人と言えます。
とはいえ、これらの漢文日記は、読みたくても大きな図書館にでも行かなければなかなか手に取れない専門書。
研究者ならぬ一般の『源氏物語』愛好家には近寄り難い存在だったように思います。

そんな状況を覆してくれたのが、東京大学史料編纂所がWebサイト上で公開している「古記録フルテキストデータベース」です。

古記録フルテキストデータベース ※リンク先はデータベースページ表紙

  • 東京大学史料編纂所作成
  • 東京大学史料編纂所データベース検索ページ内コンテンツ
  • 同編纂所が刊行している漢文日記の翻刻資料『大日本古記録』の全文データを収録

データベースには、『大日本古記録』の本文データ、日付・巻冊次・ページなどの管理データ、各ページの画像データが収録されています。
現在のところ収録史料数は13点、平安時代の文献としては『貞信公記』『九暦』『小右記』『御堂関白記』『後二条師通記』『中右記』『殿暦』があります。
学術研究目的であれば、資格不問・無料で利用できます。

データベース選択画面から古記録フルテキストデータベースに入ると、検索画面が表示され、キーワードや日付から全文を検索することができます。
特定の文献だけを検索することも、13点の全史料を横断検索することも可能です。
検索結果にはそれぞれ画像ファイルへのリンクが用意されており、クリックすると検索された文を含んだ日にちの最初のページ画像(tiff形式)が開きます。
ブラウザ上で前後のページへ移動もでき、『大日本古記録』を1ページずつ開いていくような感覚でディスプレイ上で読むことができます。

自宅にいながらにして全文が読めること自体ありがたい限りですが、データベースならではのありがたみはやはり検索機能です。
儀式や風俗を調べていて具体例が知りたいときなど、キーワードでの横断検索が威力を発揮します。
特に『小右記』や『中右記』には、儀式・行事の詳細な記録が残されている一方、全体はとても素人が通読できる量ではないので、関連する記述をピンポイントで拾えるのは本当に重宝です。
史料の原文を見たいけれど手に入らない…と諦めている方に、是非使っていただきたいデータベースです。

東京大学史料編纂所が公開しているデータベースは、これだけではありません。
他にも便利なデータベースが沢山あるのですが、そちらのご紹介はまた別の機会とさせていただきます。

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2006年12月 9日 (土)

宇治殿(平等院)

070byodoin 永承七[1052]年に藤原頼通が創建した平等院は、周知のとおり父・道長から受け継いだ別業を寺に改めたもので、10円玉にも刻まれている鳳凰堂の姿はあまりにも有名です。
道長が度々宇治を訪れたことは『御堂関白記』に記されているとおりで、「宇治別業」として登場する他、『小右記』にも「宇治家」「宇治第」「宇治殿」などの記述が見られます。
(写真は、阿字池対岸から見た鳳凰堂。2006年10月撮影)

平安時代の宇治は、喜撰法師が

わがいほは都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり(『古今集』巻十八・983)

と詠んだ厭世の地としてのイメージも漂う一方で、山と川に囲まれた風光明媚な別荘地でもありました。
歴史上、宇治川の両岸には、源融の別業や、『蜻蛉日記』にいずれも「宇治の院」と記される藤原兼家・藤原師氏の別業など、さまざまな貴族の別業があったことが知られており、『源氏物語』の中でも、八の宮の山荘(橋姫巻)、夕霧の別荘(椎本巻)、故朱雀院の宇治院(手習巻)などが登場します。
道長の宇治別業も、そうした平安貴族の数ある別荘の1つです。

現在の平等院には、寺に改められた後の建物がごく一部残っているのみですので、道長の別業の面影を見つけるのは難しいですが、鳳凰堂や復元された阿字池などから、平安貴族の優美な建築と造園を想像することができます。

『源氏物語』椎本巻では、上にも挙げたとおり光源氏から夕霧に伝領された宇治の別荘が登場し、このモデルが平等院の前身である別業と推定されています。

六条院より伝はりて、右大殿知りたまふ所は、川より遠方に、いと広くおもしろくてあるに、御まうけせさせたまへり。(椎本巻)

川より遠方に」との表現は、都から見て宇治川の向こう側であることを意味していると解釈されています。
(引用文に続いて、都側にあった宇治八の宮の山荘と「たださし渡るほど」の位置関係にあることが記されていることからも裏付けられます)
12世紀の平等院は、現存する阿弥陀堂(=鳳凰堂)の他、本堂(大日堂)・法華堂・多宝塔・五大堂・経蔵・不動堂・護摩堂・円堂などが立ち並ぶ壮麗かつ広大な伽藍だったと伝わっていますので、その基となった別業は、正に「いと広くおもしろくてある」邸宅だったことでしょう。

この夕霧の別荘が登場するのは、匂宮が初瀬詣の帰途、宇治の姉妹への興味からここで中宿をする、という場面ですが、菅原孝標女が同じく初瀬詣に際して宇治殿を見たことが、『更級日記』に記されています。

紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし。げにをかしき所かな、と思ひつつ、からうじて渡りて、殿の御領所の宇治殿を入りて見るにも、浮舟の女君のかかる所にやありけむなど、まづ思ひ出でらる。

宇治に来て真っ先に思い浮かぶのが『源氏物語』…というのがいかにもこの著者らしいところですが、孝標女に倣ってこの地で宇治十帖の世界に思いを馳せてみるのもよいかもしれません。

尚、観光ガイドをはじめ多くの資料に、
平等院は、元は源融の別業で、宇多天皇・源重信を経て藤原道長の所有となった
と記されていますが、その根拠は『花鳥余情』(一条兼良著の『源氏物語』注釈書。文明四[1472]年成立)の記述です。
『小右記』長保元[999]年八月九日条に
左府払暁引率人々向宇治家、[自六条左府後家手買領処也、]
とあるので、道長の前の所有者が「六条左大臣」と呼ばれた源重信だったことと、重信の死後に彼の妻から道長が購入したことは間違いないのですが、私が調べた限りでは、源融の別業が確かに平等院の位置だったと断定する根拠も、源融の別業が宇多天皇なり源重信なりに伝領されたことを示す史料も存在しないようでした。
『蜻蛉日記』に端的に表れているとおり、宇治には「宇治院」と呼ばれる別業がいくつもあり、『花鳥余情』の記述は複数の宇治院・宇治別業の事跡を混同している疑いもあります。
光源氏のモデルの1人と目される源融の別業が、変遷を経て夕霧が源氏から受け継いだ別荘のモデルとなった…という展開は、『源氏物語』読者にとっては魅力的ですが、史実と断言するには些か心許ないところだろうと思います。

【Data】
住所:宇治市宇治蓮華116
交通:JR奈良線宇治駅下車徒歩10分 京阪電車宇治線宇治駅下車徒歩10分
拝観:8:30~17:30(入園受付~17:15) 入園+鳳翔館600円 鳳凰堂内部300円
tel.:0774-21-2861

【参考文献】
平凡社[編]『京都府の地名』(日本歴史地名大系26)平凡社 1981年
今井源衛著『源氏物語の思念』(笠間叢書206)笠間書院 1987年
雨海博洋編『源氏物語の鑑賞と基礎知識16 椎本』至文堂 2001年
平等院ミュージアム鳳翔館編『CG写真集平安色彩美への旅 : よみがえる平安の色彩美』平等院 2005年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
平等院オフィシャルホームページ

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知ってますか?【平等院】(Royal Straight Flush!)

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