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2007年1月 9日 (火)

平安貴族のサボタージュ事情

受領を除く都の平安貴族の主なお仕事は、参内して書類を決裁したり会議や儀式を執り行ったりすることでした。
週休二日制などというものは当然まだないこの時代、ほぼ名誉職の太政大臣は別として、実務を担う公卿・殿上人らは基本的に年中無休。
では毎日“出勤”していたのか、といえばそうでもなくて、実際はなんだかんだとサボっていたようです。
そんな1000年前の中央官僚・平安貴族達のサボタージュ事情の一端をご紹介します。

サボる口実の代表格は、今も昔も「病気」
平安時代にも仮病を使って出勤拒否を図る公卿はいたようです。
例えば藤原経実。
この人は関白師実の三男で、最終的には大納言正二位まで上っているのですが、残念ながら官僚としては無能だったようです。
天仁元[1108]年に近隣の家に飛礫を投げて騒ぎを起こした際には藤原宗忠に痛烈に批判されており、その批判の中に「毎有公事、称病不出仕」(『中右記』同年五月二十日条)という一節があります。
どうやら経実は仮病常習犯だったらしいことが覗われます。
また、古記録フルテキストデータベースで「称病」を検索すると、45件もヒットします。
勿論これらすべてが仮病ではありませんし参内とも限りませんが、病気を理由に参内しないというのは比較的よくあることだったようです。

平安時代特有の便利な口実が「物忌」です。
物忌には、坎日や往亡日など具注暦に書き込まれる凶日の他、悪夢や怪異現象、触穢などの際に臨時に設けられる物忌があり、この臨時の物忌が格好のサボりの口実になりました。
こちらも古記録フルテキストデータベースで検索すると、「称物忌」で24件もヒットします。
中には「今日射場始、称物忌不参、連日之勤老骨難堪」(『小右記』寛仁元[1017]年十月五日条)のように、自らサボりを日記に書き残している例もあります。
こうした実態を巧みにストーリー展開に取り込んだのが『源氏物語』宇治十帖で、匂宮や薫が女君の許に籠るために、また二条院に身を寄せた浮舟が人目を避けるために、嘘の物忌をでっち上げる描写が10例も見られます。

権門の私事に奉仕して公事を欠席するということもありました。
例えば、長保元[999]年八月九日に藤原道長は人々を率いて宇治へ赴いていますが、この日は定子中宮が出産に備えて平生昌邸に行啓する日で、藤原実資は「似妨行啓事」(『小右記』同日条)と批判しています。
同日条には、道長に随行しなかった上達部なども道長の意向に憚って参内しなかったことが併せて記されています。
また長和元[1012]年四月二七日の藤原娍子立后儀に際しても、公卿・殿上人の多くが妍子中宮の里下がりしている東三条第に伺候して参内を拒否したことが、『小右記』同日条に書き残されています。

こうしたサボタージュへの朝廷側の対策のひとつに、「分配」が挙げられます。
分配とは、恒例の公事に参仕する上卿・弁官や蔵人を予め定めておくことで、平安中期以降に行われるようになりました。
最初に分配を定めた『類聚符宣抄』第六収録の寛和二[986]年十二月五日付宣旨には、祭祀・国忌は国の重要な行事であるにもかかわらず、公卿達が故障を申し立てて欠席し儀式が滞るため、「四時諸祭。二季大祓。及東西寺国忌等」を取り仕切る上卿を予め割り当てると定め、分担の公事を欠怠した際の罰則も記しています。
しかし、それでも公卿のサボりはなくならなかったようで、永祚元[989]年五月七日付宣旨で分配の勤めを怠った公卿への罰則が再度定められたことが、『大日本史料』2編1冊所引『壬生文書』の中に見えます。
分配を行う行事自体も、当初の祭祀・国忌のみに留まらず、女王禄・釈奠・追儺などが加えられ、更に分配の対象も公卿のみならず弁官や蔵人に対しても行われるようになっていきました。
それだけ公卿以下官人のサボりが様々な儀式行事で頻発したことの表れと思われます。

それでも尚懲りずにサボって、遂には勅勘を被った例もあります。
『中右記』及び『殿暦』(藤原忠実の日記)の長治二年[1105]正月朔日条には、前夜の追儺に分配の大納言・藤原経実をはじめ中納言・源国信、右衛門督・源雅俊、右大弁・藤原宗忠の4人もが故障を申し立てて参内せず、勅勘を被って新年早々閉門蟄居したことが記されています。
既にご紹介したようにサボり常習犯と批判された人物と批判した人物とが同時に処罰されている辺りに、なんとも始末に負えないものを感じます。

翻って『源氏物語』を見直すと、先に挙げた宇治十帖ばかりでなく、第一部での光源氏の行動の中にもサボタージュと思しきものがいくつも見つかります。
例えば夕顔巻。
八月十五夜、宮中では月の宴が催された筈ですが、源氏は夕顔の五条の宿に泊まり、翌朝からは丸1日某院で過ごしています。
2晩目に至って「内裏に、いかに求めさせたまふらむ」と反省していますが、それも当然といえば当然でしょう。
賢木巻では、右大臣方ばかりが栄える宮中への出仕を厭い、三位中将と共に「宮仕へをもをさをさしたまはず、御心にまかせてうち遊びておはする」という挑戦的な態度を示します。
更に行幸巻でも、大原野行幸に際して「今日仕うまつりたまふべく、かねて御けしきありけれど、御物忌のよしを奏せさせたまへりける」と欠席しており、ここは玉鬘に冷泉帝の麗姿を印象付けて尚侍出仕に乗り気にさせようとの思惑から自分がその場に並ぶことを避けたとも読めます。
「さすが光源氏」と言うべき気儘さでしょうか。

以上、“サボタージュ”という括りで各種文献に見える事例をご紹介してまいりました。
今も昔も変わらない勤め人の本音が垣間見える、平安貴族の一断面です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
山中裕, 鈴木一雄編集『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
秋山虔編『源氏物語事典』(別冊國文學 ; No.36)學燈社 1989年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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