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2007年2月の記事

2007年2月25日 (日)

算賀(6)仏事と賀宴

算賀(3)事前準備にて、天皇・上皇・太后の算賀では賀宴の前に諸寺で諷誦を修することをご紹介しましたが、その例に限らず、法要を催して無病息災や将来の福徳を祈願することが広く行われました。
歴史上の天皇・上皇算賀では、僧が賀の主催者となって造仏や写経を行ったり、御賀の巻数を奉じたりした事例がありますし、『栄花物語』巻二十「御賀」には被算者の年齢に合わせて60人の僧侶を招いたことが記されています。

『源氏物語』においては、紫の上主催の式部卿宮五十の賀と、同じく紫の上主催の光源氏四十の賀で、まず仏事を催し、後日に精進落としの祝宴を行ったことが語られます。
(式部卿宮五十の賀は、準備の描写のみ)

年返りて、ましてこの御いそぎのこと、御としみのこと、楽人、舞人の定めなどを、御心に入れていとなみたまふ。経、仏、法事の日の装束、禄などをなむ、上はいそがせたまひける。(乙女巻)

神無月に、対の上、院の御賀に、嵯峨野の御堂にて、薬師仏供養じたてまつりたまふ。(中略)二十三日を御としみの日にて、この院は、かく隙間なく集ひたまへるうちに、わが御私の殿と思す二条の院にて、その御まうけせさせたまふ。(若菜上巻)

また女三の宮主催の朱雀院五十の賀では、

五十寺の御誦経、また、かのおはします御寺にも、摩訶毘盧遮那の(若菜下巻)

と当日最初に読経が催され、ついで舞楽や女三の宮の琴演奏などが行われたと推測されます。

賀宴当日の儀式の概略は、『新儀式』の他、『小右記』や『栄花物語』などからわかります。

『新儀式』第四「奉賀天皇御算事」では、天皇が出御した後に内侍が人々を召し、それに応じて親王以下が参入・着座するとなっており、上皇・皇后算賀でも同様の儀式次第になっています。

仏事を当日に行う場合は、まず最初に法要が営まれたようです。

次いで献物がされ、被算者と列席者に食膳が供されます。
献物と食膳については、算賀(4)室礼・献上品でご紹介したとおりです。

084sanga_8 その後、楽人が参入して奏楽し、舞楽を行います。
舞楽は賀宴の華だったようで、仮名作品ではほとんど例外なく舞楽についての記述がありますし、漢文日記でもよく言及されています。
それらの記述で特に頻繁に登場するのが「陵王」と「納曽利(落蹲)」で、その他「万歳楽」「賀王恩」「賀殿」「秋風楽」「皇麞」「太平楽」「喜春楽」「青海波」などが見られます。
ただし「青海波」については、青海波(1)伝来と平安時代の事例で書きましたように、『源氏物語』の影響で算賀に取り入れられるようになったとも考えられます。
当然のことですが、行事の性格上、華やかでおめでたい演目が好まれたのでしょう。
(写真は、風俗博物館2004年下半期展示「紫の上主催源氏四十の賀」より、納曽利の入綾を舞う夕霧と柏木。左側に並んでいるのは、右方の楽人が控える平張)

舞楽が終わると儀式は終了で、列席者に禄が授けられ、被算者は退出します。
『新儀式』第四「奉賀天皇御算事」によると、帝が清涼殿へ還御した後、管弦に堪能な公卿や侍臣を御前に召して酒宴を賜い歌や管弦の遊びを催すこととなっており、内輪の宴で〆となったようです。
『栄花物語』巻二十「御賀」にも、舞楽の後に上達部によって管弦の遊びがなされたことが記されていますし、これはつくり物語の例になりますが『うつほ物語』菊の宴巻でも舞楽の後であて宮が琴を演奏する場面があります。

『源氏物語』の算賀の場面も、こうした史実の儀式次第に則った内容になっています。

朱雀院の御薬のこと、なほたひらぎ果てたまはぬにより、楽人などは召さず。(若菜上巻)

と断り書きの付いた玉鬘主催の光源氏四十の賀のみを例外として、当日の様子が描かれない式部卿宮五十の賀・朱雀院五十の賀も含めたすべての例で楽人と舞人の用意に特に気を配ったことが読み取れますし、当日の様子を描いた場面では、列席者に見事な禄が授けられた記述で儀式の様子が締め括られています。
085sanga_9 また、玉鬘主催・夕霧主催の源氏四十の賀での管弦の演奏や、朱雀院五十の賀で予定された女三の宮の琴演奏は、宴の終わりに催される内輪の遊びに当たると考えられます。
(写真は、風俗博物館2004年上半期展示「玉鬘主催源氏四十の賀」より、列席の公卿・親王達と、管弦の遊びのための楽器の用意をする人々)
舞楽の曲目については、「青海波」「秋風楽」(紅葉賀巻)「万歳楽」「皇麞」「落蹲」(若菜上・下巻)「賀王恩」(若菜上巻)「陵王」「太平楽」「喜春楽」(若菜下巻)の名前が挙がっています。

以上、歴史の記録や他の作品に記された算賀の記述から、『源氏物語』の算賀の場面を見てまいりました。
『源氏物語』の描写は、当時の慣習をよく踏まえており、歴史的にも価値が高いとされています。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
浅尾広良[著]『源氏物語の準拠と系譜』第Ⅱ篇第3章「光源氏の算賀―四十賀の典礼―」翰林書房 2004年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識14 若菜上(後半)』至文堂 2000年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識3 若菜上(前半)』至文堂 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2007年2月21日 (水)

算賀(5)屏風と屏風歌

083sanga_7 前回の記事で算賀の室礼に用いる調度をご紹介しましたが、屏風は、ある意味でこの儀式にとって最も重要な調度だったと言うことができます。
屏風を新調してそこに祝いの歌を書き記して贈り、賀宴の際に被算者の後ろに立てるのが通例だったからです。
(写真は、風俗博物館2004年下半期展示「紫の上主催源氏四十の賀」より、倚子に腰掛ける光源氏の後ろに立てられた屏風)

『古今集』巻第七「賀歌」所収の22首のうち、詞書に明記されているものだけで17首までが算賀の歌です。
特に、第三五一番歌~第三五四番歌、第三五七番歌~第三六二番歌は、その詞書から屏風に書くために詠まれたものであることがはっきりしています。
『拾遺集』でも、算賀の歌15首のうち9首が屏風歌になっています。
また『落窪物語』や『うつほ物語』『栄花物語』などの仮名作品が描く賀の場面には、屏風歌が列記されますし、源倫子六十の賀を描く『栄花物語』巻二十「御賀」には、敢えて新しく歌を詠出することはせずに賀の古歌を藤原行成が認めたことが詳しく書かれています。

算賀の歌に共通するのは、「千歳」「八千代」「万代」といった長寿を表す語や、「」「」「」といった長寿を象徴する景物が詠み込まれている点です。
詞書に「四季の絵かけるうしろの屏風にかきたりけるうた」とある『古今集』第三五七番歌~第三六二番歌の屏風歌でも、単なる四季歌に留まらず、「わかな」「よろづ代をいはふ」(第三五七番歌)、「ここらの年」(第三五九番歌)、「住の江の松」(第三六〇番歌)、「色もかはらぬときは山」(第三六二番歌)といった具合に、祝意を表す語句が織り込まれています。

『源氏物語』でも、算賀のために新調された屏風に言及がなされています。

屏風、壁代よりはじめ、新しく払ひしつらはれたり。(若菜上巻)

うしろの御屏風四帖は、式部卿宮なむせさせたまひける。いみじく尽くして、例の四季の絵なれど、めづらしき泉水、潭など、目馴れずおもしろし。(若菜上巻)

御屏風四帖に、内裏の御手書かせたまへる、唐の綾の薄毯に、下絵のさまなどおろかならむやは。おもしろき春秋の作り絵などよりも、この御屏風の墨つきのかかやくさまは、目も及ばず、思ひなしさへめでたくなむありける。(若菜上巻)

上から順に、玉鬘主催、紫の上主催、夕霧主催の光源氏四十の賀で用意された屏風についての記述です。
玉鬘が用意した屏風がいかなるものだったかはわかりませんが、紫の上主催の場合は『古今集』の例と同様に四季の絵、夕霧主催の場合は冷泉帝が筆を染めたことが語られます。

いずれも非常に素晴らしい屏風であることが語られますが、末沢明子氏「『源氏物語』の中の屏風をめぐって」(『源氏研究』第7号所収)が指摘するように、屏風歌については全く言及がないことに気が付きます。
そのことの文学的意味をここで云々する用意は私にはありませんが、算賀における屏風の位置付けや、三代集や他の物語の傾向を考えると、『源氏物語』の算賀の場面での屏風歌の不在というのが注目すべき事柄であることは確かだろうと思います。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
浅尾広良[著]『源氏物語の準拠と系譜』第Ⅱ篇第3章「光源氏の算賀―四十賀の典礼―」翰林書房 2004年
末沢明子著「『源氏物語』の中の屏風をめぐって」(『源氏研究』第7号 2002年 pp.21-32)
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識14 若菜上(後半)』至文堂 2000年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識3 若菜上(前半)』至文堂 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2007年2月17日 (土)

算賀(4)室礼・献上品

080sanga_4 儀式の室礼は、儀式書をはじめさまざまな文献に細かく記録されています。
全部を書き出すと非常に煩雑になりますので、概略のみをまとめます。
(写真は、風俗博物館2004年下半期展示「紫の上主催源氏四十の賀」より、細工物の鳥が花を銜えた姿に装飾された贈り物の挿頭)

『新儀式』によると、天皇・上皇・太后などの公の算賀では、会場となる殿舎の室礼を算賀の当日早朝に行いました。
ただし太后算賀の場合だけは、常寧殿を会場とするためか前日に室礼をすると定めています。

殿舎の中心には、被算者の座が設けられます。
天皇の算賀では節会と同様に倚子を立て、上皇・太后の算賀では大床子(背凭れや肘掛のない机に似た腰掛。上に円座を敷き脇息を置きます)が用いられました。
倚子や床子はほとんど宮中でのみ用いられた座具ですので、臣下の算賀は平敷の座だったようです。
ただし上皇算賀であっても、陽成天皇七十の賀のように倚子が立てられたり、逆に宇多上皇四十の賀のように平敷の御座だったりする例もあります。
『源氏物語』若菜上巻での光源氏四十の賀で、玉鬘主催のときは「うるはしく倚子などは立てず」、紫の上主催のときは「螺鈿の倚子立てたり」と倚子の有無が真っ先に言及されるのは、それが儀式の格式に直接的に関わってくるからでしょう。

被算者の座の後ろには屏風を立てます。
(屏風については次回詳述いたします)

その周囲には、被算者に贈呈される装束・日用品・杖・挿頭・酒食の膳などが、唐櫃や厨子や棚、机などの調度品に納められて並びます。

装束類は、『新儀式』第四「天皇奉賀上皇御算事」に

立御厨子各五基。[五基納夏冬御衣。五基積雑帛各五十疋。(後略)]

とあるように、1年間の衣類を満遍なく揃えるのが通例で、夏冬の衣裳の他、仕立てていない絹織物も含まれました。
日用品も非常に多岐にわたり、史実ではなく物語の記述ではありますが、『うつほ物語』菊の宴巻や『源氏物語』若菜上巻に列挙された品々からその具体的な中身を知ることができます。

かくて、后の宮の御賀、正月二十七日に出で来る乙子になむ仕りたまひける。設けられたる物、御厨子六具、沈、麝香、白檀、蘇枋。香の唐櫃など、覆ひ、織物、錦、御箱、薫物、薬、硯の具よりはじめて、御衣は女、御衾、御装ひ、夏、冬、春、秋、夜の御衣、唐の御衣、御裳。御箱の折立、ちらしろかね置きて、千鳥の蒔絵して、内の物、色に従へてありがたく清らにて、なずらへ据ゑたり。御手水の調度、白銀の手つきの御盥、沈を丸に削りたる貫簀、白銀の半挿、沈の脇息、白銀の透箱、唐綾の御屏風、御几帳の骨、蘇枋、紫檀、夏、冬、ありがたし。御几帳の帷子、冬、香ぐはしき御褥、御座、いふばかりなし。御台六具、金の御器に黄金の毛打てり。これらよりはじめてせぬことなし。(『うつほ物語』菊の宴)

嵯峨院后の宮六十の賀に用意された品々です。
およそ衣食住に関する身の回りの品々はすべて挙がっているといってよいかと思います。

南の御殿の西の放出に御座よそふ。屏風、壁代よりはじめ、新しく払ひしつらはれたり。うるはしく倚子などは立てず、御地敷四十枚、御茵、脇息など、すべてその御具ども、いときよらにせさせたまへり。
螺鈿の御厨子二具に、御衣筥四つ据ゑて、夏冬の御装束。香壷、薬の筥、御硯、ゆする坏、掻上の筥などやうのもの、うちうちきよらを尽くしたまへり。御插頭の台には、沈、紫檀を作り、めづらしきあやめを尽くし、同じき金をも、色使ひなしたる、心ばへあり、今めかし
く。(『源氏物語』若菜上巻)

寝殿の放出を、例のしつらひにて、螺鈿の倚子立てたり。
御殿の西の間に、御衣の机十二立てて、夏冬の御よそひ、御衾など、例のごとく、紫の綾の覆どもうるはしく見えわたりて、うちの心はあらはならず。
御前に置物の机二つ、唐の地の裾濃の覆したり。插頭の台は、沈の花足、黄金の鳥、銀
の枝にゐたる心ばへなど、淑景舎の御あづかりにて、明石の御方のせさせたまへる、ゆゑ深く心ことなり。
うしろの御屏風四帖は、式部卿宮なむせさせたまひける。いみじく尽くして、例の四季の絵なれど、めづらしき泉水、潭など、目馴れずおもしろし。北の壁に添へて、置物の御厨子、二具立てて、御調度ども例のことなり。
(『源氏物語』若菜上巻)

081sanga_5こちらは、上が玉鬘主催、下が紫の上主催の源氏四十の賀の描写です。
(写真は、風俗博物館2003年上半期展示「玉鬘主催源氏四十の賀」より、算賀のために用意された贈り物の薬や衣類、調度など)

算賀に特徴的な贈り物に、杖と挿頭があります。
いずれも老いを表すもので、長寿への祈りを込めて贈りました。

杖は、特に握りの部分を鳩の形に彫った「鳩の杖」が用いられました。
(記録で確認できるのは、もうちょっと後の時代の鎌倉時代初期ですが)
なぜ鳩か?というのは諸説ありますが、鳩は餌を食べるときに噎せないのでそれにあやかって、とするのが定説です。
また、長寿を象徴する竹でつくった杖が贈られた例も『拾遺集』に見られます。

一節に千世をこめたる杖なればつくともつきじ君が齢は(巻第五「賀」二七六番歌)
君がため今日切る竹の杖なればまたもつきせぬ世ゝぞこもれる(巻第五「賀」二八〇番歌)

挿頭は、元来は被算者の頭髪の老いを隠すための意味だったといわれますが、賀宴においては献上された挿頭が被算者から舞人に下賜される記述が多く見られます。
挿頭には季節の花が使われたと推測されますが、『後撰集』には

万世の霜にも枯れぬ白菊をうしろやすくもかざしつる哉(巻第二十「慶賀 哀傷」一三六八番歌)

と、菊の花を挿頭に用いた例が見られます。
菊は、重陽の節句に如実に表れているとおり、長寿の効用が信じられていた花です。

082sanga_6 酒食の膳は、被算者の正式な食膳(天皇や上皇の場合、「威儀御膳(いぎのおもの)」と呼びます)の他、列席の公卿・殿上人や楽人・舞人らに振舞う酒や料理も用意されました。
玉鬘主催の光源氏四十の賀では

御土器くだり、若菜の御羹参る。(若菜上巻)

とあって、被算者の源氏と列席の公卿らが若菜の羹と酒を共にしたことが描かれますし、紫の上主催の光源氏四十の賀で

西東に屯食八十具、禄の唐櫃四十づつ続けて立てたり。(若菜上巻)

とあるのは、『新儀式』第四「奉賀天皇御算事」に倣って諸大夫・楽人のために用意された食膳です。
(写真は風俗博物館2004年下半期展示「紫の上主催源氏四十の賀」より、庭に設えられた屯食と唐櫃)

これらの調度品は、上に引用した厨子や机、屯食、唐櫃などの個数にも見えるように、被算者の年齢に合わせて四十歳なら40個やその倍数の80個、五十歳なら50個や100個といった数に揃えるのが通例でした。
数字を合わせるのは、調度品だけでなく賀宴の楽人や仏事の僧侶の人数なども同様です。

次回は、この記事で省略した屏風と、そこに記される屏風歌についてご紹介します。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
浅尾広良[著]『源氏物語の準拠と系譜』第Ⅱ篇第3章「光源氏の算賀―四十賀の典礼―」翰林書房 2004年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識14 若菜上(後半)』至文堂 2000年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識3 若菜上(前半)』至文堂 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2007年2月 9日 (金)

算賀(3)事前準備

前の2回で算賀という儀式を「誰がいつどこで」行うかをご紹介しましたが、これから4回かけて「どのように」をご紹介いたします。
まずは、大掛かりな儀式らしく当日前の準備から。

算賀の日取りは前もって定め、その日に向けてさまざまな準備が行われます。
『新儀式』の定めるところでは、天皇主催の上皇・太后算賀に際して1・2年前から行事官を定めて準備に当たるとあります。
『源氏物語』でも光源氏の四十の賀について

明けむ年、四十になりたまふ、御賀のことを、朝廷よりはじめたてまつりて、大きなる世のいそぎなり。(藤裏葉巻)

と語られますが、史料に照らせばこれが決して物語的誇張などではないことがわかります。

天皇・上皇・太后の算賀では、当日に先立って諸寺において諷誦(ふうじゅ。経文を声に出して読み上げること)が修され、また京中に賑給(しんごう。本来は天災時に難民へ米・塩などを給付することを指しましたが、慶事にも民に米・塩・布などが給与されました)が行われます。
秋好中宮主催の光源氏四十の賀で、六条院秋の町での饗宴に先立って

奈良の京の七大寺に、御誦経、布四千反、この近き都の四十寺に、絹四百疋を分かちてせさせたまふ。(若菜上巻)

と誦経を行わせた記述があるのは、この諷誦に準ずるのではないかと思います。

天皇主催の上皇・太后算賀の場合は、数日前に試楽が行われます。
『新儀式』には、仁寿殿東庭に舞台を設け、天皇・東宮が出御して舞を検分し、列席の親王や公卿に酒肴を賜い舞童に禄を授けるとの次第が記されており、『西宮記』にも

承平四年三月廿四日、中宮御賀試楽、天皇御仁寿殿覧其儀、(巻十二「皇后御賀事」)

と記録されています。

こうした原則を踏まえると、『源氏物語』における朱雀院行幸の試楽を

主上も、藤壷の見たまはざらむを、飽かず思さるれば、試楽を御前にて、せさせたまふ。(紅葉賀巻)

と桐壺帝が御前(=清涼殿東庭)で執り行ったのは、藤壺のための特例措置だったと考えられます。
また、光源氏が六条院において朱雀院五十の賀の調楽を行うのを「試楽」(若菜下巻)と称していることに注意するなら、天皇主催の上皇算賀に準ずる儀式次第を踏んでいることになります。
浅尾広良氏「光源氏の算賀-四十賀の典礼-」(『源氏物語の準拠と系譜』所収)は、

「四十の賀といふことは、さきざきを聞きはべるにも、残りの齢久しき例なむ少なかりけるを、このたびは、なほ、世の響きとどめさせたまひて、まことに後に足らむことを数へさせたまへ」(若菜上巻)

という源氏の言葉を取り上げて、四十の賀を受けて程なく亡くなった仁明・村上両天皇を念頭に自らを天皇に重ねていると指摘していますが、ここでも源氏は天皇と重ね合わせられている訳です。

『新儀式』第四「天皇奉賀上皇御算事」には、算賀前日に内裏において行事所に命じて調度類の検分を行い、その後それらを会場となる朱雀院へ運び出すことも書かれています。

次回は、当日の室礼についてです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
浅尾広良[著]『源氏物語の準拠と系譜』第Ⅱ篇第3章「光源氏の算賀―四十賀の典礼―」翰林書房 2004年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識14 若菜上(後半)』至文堂 2000年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識3 若菜上(前半)』至文堂 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2007年2月 1日 (木)

算賀(2)時期と場所

078sanga_2 算賀の5W1H(誰がいつどこで何をなぜどのように)の2回目は、「いつ」と「どこで」について。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より、紅葉の下で青海波を舞う光源氏・頭中将と御簾の内で舞を見る桐壺帝・一院・東宮)

算賀の時期については、特段の決まりはないようです。
ただ、史実の例を見ると、10~12月に多い傾向が見られます。
何か理由があるのか、それともたまたまなのか、解説書などにも時期に関する説明は全く載っていないのでどうにもわかりません。

『源氏物語』では、この傾向に呼応するような設定がされています。
光源氏四十の賀は、正月に1回(玉鬘主催)あった他は十月(紫の上主催)と十二月(秋好中宮主催・夕霧主催)に合計3回催されており、朱雀院五十の賀も、正月(今上帝主催)と十月(女二の宮主催)と十二月(女三の宮主催)に1回ずつとなっています。
紅葉賀巻の朱雀院行幸も、十月のことですので傾向と合致します。
ただし、女三の宮主催の朱雀院五十の賀は、もともと二月の予定だったのが延引に延引を重ねた末に歳末にまで押し詰まってしまった結果ですので、傾向に即したものという訳ではありません。

079sanga_3 正月に催す場合は、年中行事の供若菜と絡めて若菜調進の祝賀を行ったようです。
※リンク先は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている考察です。
延長二[924]年正月二十五日の醍醐天皇四十の御賀に際して、父・宇多上皇が若菜の羹を献上した史実は有名で、

正月二十三日、子の日なるに、左大将殿の北の方、若菜参りたまふ。(若菜上巻)

と語り出される玉鬘主催の光源氏四十の賀の準拠ともされています。
『うつほ物語』に描かれる大宮主催の嵯峨院后の宮六十の賀も、正月乙子の日に設定され、若菜調進がされています。
(写真は風俗博物館2004年上半期展示「玉鬘主催源氏四十の賀」より、祝宴に用意された若菜の羹を載せた懸盤)

場所については、公事の算賀には一定の決まりが示されています。

基本的に天皇算賀では紫宸殿が会場とされたようです。
『新儀式』「奉賀天皇御算事」には、南殿(=紫宸殿)に帝の御座と公卿の座、宜陽殿西廂に侍従の座を設けると記されており、『西宮記』巻十二「天皇御賀」に挙がっている諸例でも紫宸殿で催されています。
ただし、東宮道康親王(後の文徳天皇)や右大臣藤原良房がそれぞれ主催した仁明天皇四十の賀のように、清涼殿が会場となった例も散見されます。

上皇算賀は、後院で催すのが通例でした。
『新儀式』「天皇奉賀上皇御算事」では会場を「朱雀院」と明記しています。
史実でも、淳和天皇主催の嵯峨上皇四十の賀が内裏で行われた他は、冷泉院(陽成上皇七十の賀)、朱雀院(宇多法皇四十の賀・五十の賀)、亭子院(宇多法皇五十の賀・六十の賀)が会場になったことがわかっています。

太后算賀は、主催者によって会場が異なってくるようです。
天皇主催の場合は常寧殿を基本としながらも、異なる例も少なからず見受けられます。
『新儀式』「天皇賀太后御算事」には、会場を常寧殿としつつも割注に

元應二年。設給宴於清涼殿云々。

とあって清涼殿開催の前例もあったことが記録されており、『西宮記』巻十二「皇后御賀事」にも、常寧殿と清涼殿で催されたそれぞれの事例が記されています。
また、陽成天皇主催の藤原明子五十の賀(清和院)のように、太后の御座所を会場とした場合もありました。
主催者が上皇になると、その仙洞御所が会場とされることがあり、二条院(=陽成院)で行われた陽成上皇主催の藤原高子五十の賀がその例として挙げられます。

また、いずれの場合も儀式や宴と並行して、寺院で長寿祈願の仏事が行われました。

臣下の算賀になると、一定の法則性や基本路線というのはよくわからず、大まかな傾向がまとめられる程度です。
パターンとしては以下の3つがあります。

  • 被算者の邸に主催者が赴いて儀式を行う
  • 主催者の邸に被算者を招いて儀式を行う
  • 被算者または主催者に縁の寺院などで仏事を修す

『源氏物語』の例をこれに照らし合わせると、やはり同様の分類になります。

  • 被算者邸会場
    • 桐壺帝主催一院四十の賀(朱雀院)
    • 玉鬘主催源氏四十の賀(六条院)
    • 夕霧主催源氏四十の賀(六条院)
    • 落葉の宮主催朱雀院五十の賀(西山御寺)
    • 〔女三の宮主催朱雀院五十の賀?〕
  • 主催者邸会場
    • 紫の上主催式部卿宮五十の賀(六条院)
    • 紫の上主催源氏四十の賀(二条院)
    • 秋好中宮主催源氏四十の賀(六条院秋の町)
  • 仏事
    • 紫の上主催源氏四十の賀(嵯峨御堂)
    • 秋好中宮主催源氏四十の賀(奈良七大寺・京四十寺)
    • 女三の宮主催朱雀院五十の賀(五十寺・西山御寺)
  • 会場不明
    • 今上帝主催朱雀院五十の賀

次回からは、「どのように」、具体的な儀式の進め方をご紹介します。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
浅尾広良[著]『源氏物語の準拠と系譜』第Ⅱ篇第3章「光源氏の算賀―四十賀の典礼―」翰林書房 2004年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識14 若菜上(後半)』至文堂 2000年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識3 若菜上(前半)』至文堂 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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