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2007年3月 4日 (日)

法華八講(2)目的

高木豊氏によると、法華八講の始修については、延暦十五[796]年に岩淵寺で営まれたとする『三宝絵詞』などの伝承と、延暦元[782]年に摂津弥勒寺で営まれたとする『諸寺縁起集』所収の伝承の2種類が残されているそうですが、どちらも死者の追善のために忌日に営まれた点は共通しているといいます。
そうした起源を持つがゆえに、平安貴族が法華八講を催す目的の多くは追善供養でした。

皇室における追善八講は、元慶五[881]年十一月二十六日から5日間催された太皇大后・藤原明子による清和上皇一周忌の八講(『三代実録』)や延喜元[901]年八月二十三日~二十六日の宇多法皇による光孝天皇国忌の八講(『日本紀略』)、村上天皇が天暦九[955]年一月四日に母后・藤原穏子の追善のために自ら法華経を書写して修した宸筆八講(『扶桑略記』)などが古い事例で、以後、院政期まで天皇・母后のための国忌における法華八講が年中行事的に営まれました。
貴族による私的な八講も同様で、貞観十一[869]年には安倍貞行が亡父の追善と自らの逆修のために、また元慶五[881]年には菅原道真が父母のために、それぞれ法華八講を営んだのが早い例として確認できます(『菅家文草』巻第十一)。
『源氏物語』が書かれた一条朝の頃を見ても、藤原道長がほぼ毎年父・兼家と姉・詮子の忌日に合わせて法華八講を営んでいる(それぞれ「法興院八講」「慈徳寺八講」と呼ばれます)他、恒例かどうかは不明ですが、以下のような故人のための八講の事例が見つかります。

年月日 主催者 供養の対象(続柄)
寛和元[985]年三月二十六日 宗子内親王 藤原伊尹(祖父)
正暦元[990]年四月二十八日 資子内親王 藤原安子(母)
正暦元[990]年十二月八日 藤原詮子 藤原時姫(母)
寛弘元[1004]年五月十九日 藤原道長 藤原詮子(姉)
寛仁二[1018]年十二月十四日 藤原道長 藤原兼家(父)・藤原時姫(母)

『源氏物語』でも、賢木巻・澪標巻・蜻蛉巻の法華八講が故人の追善供養として描かれています。

中宮は、院の御はてのことにうち続き、御八講のいそぎをさまざまに心づかひせさせたまひけり。(中略)
初めの日は、先帝の御料。次の日は、母后の御ため。またの日は、院の御料。(賢木巻)

賢木巻では、藤壺が父・先帝と母后、夫・桐壺院のために法華八講を営んだことが描かれます。
当時、父母への孝養を説いた儒教の思想からの延長で盛んになった両親の追善供養を中心に、「果て」と称した一周忌を終えても大小さまざまな規模で仏事が行われました。
ここで藤壺が、桐壺院の一周忌の後に両親と夫の菩提を弔うために八講を主催したのも、当時の歴史に沿ったものといえます。

さやかに見えたまひし夢の後は、院の帝の御ことを心にかけきこえたまひて、「いかで、かの沈みたまふらむ罪、救ひたてまつることをせむ」と、思し嘆きけるを、かく帰りたまひては、その御急ぎしたまふ。神無月に御八講したまふ。(澪標巻)

こちらの例は、光源氏が須磨で見た夢に桐壺院が現れた際、院が「おのづから犯しありければ」(明石巻)と語ったことを心にかけ、その贖罪を願って法華八講を営んだものです。
帰郷した源氏は「院の御ために、八講行はるべきこと、まづ急がせたまふ」(明石巻)と、真っ先にこの法要の準備に取り掛かっており、追善供養としての法華八講の重みが覗われます。
(尤もこの桐壺院追善八講については、孝心だけでなく政治的な意図も指摘されています。その点については法華八講(14)政治的な意味をご覧ください)

蓮の花の盛りに、御八講せらる。六条の院の御ため、紫の上など、皆思し分けつつ、御経仏など供養ぜさせたまひて、いかめしく、尊くなむありける。(蜻蛉巻)

源氏死後の蜻蛉巻では、明石中宮の主催で六条院において父・光源氏と養母・紫の上の追善供養が行われています。

088hakkou_03 法華八講を営むもうひとつの目的に、生前に自ら仏事を営んで現世安穏・後生善処を祈願する逆修がありました。
上に挙げた安倍貞行の例でも、亡父の追善と並んで自らの逆修が意図されていましたが、逆修は末法の世への人々の不安が高まるほど盛んになり、特に11世紀半ば以降には八講に限らず数多くの逆修が記録に残されています。
『源氏物語』の中では、紫の上の法華経千部供養が逆修であると指摘されており、そこから己の死後の追善を頼む実子を持たない紫の上の孤独を読もうとする解釈もあります(松木典子氏「法華八講について」『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』所収)。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、塗籠に座を設えて法会を見守る紫の上)
物語を読み進めば、明石中宮が娘として最期を看取り、上述のとおり追善供養も営んでいるので、実子のない紫の上の立場をそう深刻に読む必要はないようにも思いますが、紫の上が御法巻冒頭で自身を「うしろめたきほだしだにまじらぬ御身」と捉えている点を考慮すると、中宮に追善供養を期待する気持ちは確かになかったと言えるかもしれません。

法華八講の目的の3つ目には、法華経結縁が挙げられます。
八講に参会した人々が共に法華経に帰依し互いに仏法に縁を結ぼうという趣旨で、こうした目的の八講は「結縁八講」と呼ばれました。
『枕草子』には、清少納言が結縁八講に赴いたことが記されています。

菩提といふ寺に、結縁の八講せしに詣でたるに、(第三十一段「菩提といふ寺に」)

小白河といふ所は、小一条の大将殿の御家ぞかし、そこにて上達部、結縁の八講をしたまふ。世の中の人、いみじうめでたきことにて、「遅からむ車などは立つべきやうもなし」と言へば、露とともに起きて、げにぞ、ひまなかりける轅の上にまたさし重ねて、三つばかりまではすこしものも聞ゆべし。(第三十二段「小白河といふ所は」)

ちょうどこの頃から、法会などに出向いて説経を聞くことが流行し始めたようで、第三十段「説教の講師は」からもそうした風潮が読み取れます。
(尚、これとほぼ同時期からいくつかの寺で身分の貴賎を問わず結縁を促す法華八講が営まれ始めますが、基本的に貴族が主催した結縁八講はあくまで貴族社会の中だけで閉じたものだったようです)
089hakkou_04 『源氏物語』では、紫の上が法華経千部供養の際に花散里と交わした

絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを  

結びおく契りは絶えじおほかたの残りすくなき御法なりとも

の贈答歌が、結縁八講を意識したやり取りと見做されています(倉田実氏「法華経千部供養―法華八講」『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』所収)。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、法会に参会した花散里)

この他、歴史上には延命長寿を祈念して算賀の仏事として法華八講を営んだ例も散見されますが、『源氏物語』に描かれた算賀で特に法華八講と見做すべき仏事はありません。
(『源氏物語』での算賀の仏事については、算賀(6)仏事と賀宴をご参照ください)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
小町谷照彦編『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』至文堂 2001年
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
中野幸一編『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』至文堂 2000年
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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