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2007年3月の記事

2007年3月31日 (土)

法華八講(7)儀式次第

100hakkou_15 法華八講は、通常4~5日間かけて営まれる大掛かりな法会です。
4日間の場合は、1日二座で合計八座になりますが、5日間の場合は1日二座で事実上は法華十講である例と、何らかの都合で1日一座のみの日があって5日かかる例とがあったようです。

『源氏物語』の例を見ると、藤壺主催の八講では、1日ずつ先帝・母后・桐壺院の追善供養に当て最終日に自らの宿願として出家、と合計4日間となっていて、標準的な八講と言えます。
明石中宮主催の八講は、「五日といふ朝座に果てて」(蜻蛉巻)との記述があり、何日目かと最終日の5日目が一座のみだったことになります。
紫の上主催の法華経千部供養は「三月の十日なれば」(御法巻)と記され、夜を徹しての読経と音楽があって翌朝には終了したと読めます。
一昼夜という期間の短さは法華八講としては異例ですが、『日本仏教史辞典』(吉川弘文館 1999年)には

四日間朝夕二座で行われ、朝を朝座、夕方を夕座という。二日または一日にする場合もある。(法華八講)

とあり、必ずしも一昼夜で営まれたから八講でないとは言い切れないようです。
(ただし、私が調べた範囲では平安時代に1日ないし2日で営まれた実例は見つからず、この点については尚調査が必要と思われます)

次に、各日の儀式次第を見ていきましょう。

最初に書いたように1日二座で先に行う方を「朝座」と言いますが、実際に朝から行われたとは限りません。
当時の八講の様子を記した文献を読むと、まずは参会の公卿らに饗膳が設けられたことがわかります。

まだ講師ものぼらぬほど、懸盤して、なににかあらむ、ものまゐるなるべし。(中略)講師のぼりぬれば、皆、居静まりて、そなたをのみ見るほどに、(『枕草子』第三十二段「小白河といふ所は」)

諸卿並雲上人先着饗座、右大臣遅参、不着饗、抑酒三巡畢比、左相府令打鐘、左大臣已下起座、着御前座、次諸僧参入、(『小右記』長和元[1012]年五月十五日条)

相共参円教寺御八講、先着饗座、左大臣仰事由、令打鐘、了卿相着堂前座、(『小右記』長和四[1015]年六月廿二日条)

101hakkou_16102hakkou_17 酒食が振舞われた後、講座の開始を告げる鐘が打ち鳴らされます。
この「」は「磬(けい)」のことのようです。
磬は中国の古い楽器が仏事に取り入れられたもので、磬架という調度に紐で掛けて打ち鳴らします。
『枕草子』の書き振りだと講座を行う堂内で人々が食事をしていたように読めますが、『小右記』の記述から、饗膳が設けられたのは別の場所で、磬が鳴らされると共に堂内の席に移って法会を執り行う僧の参入を迎えたことがわかります。
(記事冒頭の写真は参考資料として、風俗博物館2002年第2期展示「女三の宮持仏開眼供養」より寝殿へ参入する僧達とそれを迎える殿上人。
記事中央の写真は、左が風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、本尊の前に設えた礼盤の右手に置かれた磬。〔博物館の許可を得て、模型上方より撮影〕
右は参考資料として、風俗博物館2004年上半期展示「秋好中宮主催による季の御読経」より、磬を正面から撮影したもの)

103hakkou_18 一同が入堂し、講師が高座に登ると、声明が唱えられ散華が行われます。
初日の最初の座では願文が読み上げられました。
願文は、法華八講に限らず仏事全般に言えることですが、主催者が優れた漢学者に依頼するのが一般的だったようで、『菅家文草』や『江都督納言願文集』にも、菅原道真・大江匡房がそれぞれ作文した種々の八講の願文が収められています。
その後、講説・論議・誦経・行香と展開し、講師が高座を降りて終了します。
一座にかかる時間は通常2~3時間程度とされますが、論議が白熱して長時間に及ぶこともあったようです。
(写真下は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、華籠を手に散華する僧)

朝座が終わると僧・参会者とも一旦退出するのが一般的だったと思われますが、退出せずにそのまま引き続き夕座が行われる場合もありました。
また、朝座と夕座の間に経典供養などが営まれることもあったようです。
朝座了後、就西対座、進数盃」(『御堂関白記』寛弘元[1004]年五月二十一日条)の例のように、朝座と夕座の間に酒席が設けられることもありました。
夕座が終わるのは夜になることが多く、公家日記では酉刻・戌刻といった時刻がよく見られます。

五巻を講ずる座では、講説などの後に薪の行道を行いました。
五巻の日は特に華やかな趣向を凝らすことが多く、座が果てた後に酒宴を催したり舟楽や舞楽を行う例も見られます。
結願の日には、最後の座が終了した後に、法会に奉仕した僧達へ布施が配られました。
また、どういう形でかはよくわかりませんが、初日には請僧に法服が授けられました。
紫の上主催の法華経千部供養で「七僧の法服など、品々賜はす」(御法巻)と記されるのは、これらの法服や布施を指しています。
(ただし、法華八講の請僧は證義・講師・問者などで、七僧〔講師・読師・呪願師・三礼師・唄師・散花師・堂達〕とは異なります。これも、紫の上の法華経千部供養を法華八講と見做してよいのか問題となる記述です)

概ね以上のような流れで、法華八講は進められました。
次回は、法会を司る僧達の役割をご紹介します。

【参考文献】
阿部猛, 義江明子, 相曽貴志編『平安時代儀式年中行事事典』東京堂出版 2003年
中村元[ほか]編『岩波仏教辞典』第2版 岩波書店 2002年
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
今泉淑夫編『日本仏教史辞典』吉川弘文館 1999年
天納傳中[ほか]編著『仏教音楽辞典』法蔵館 1995年
今成元昭「法華八講の<日>と<時>―古典解読のために―」(「立正大学人文科学研究所年報」31号 1994年 pp.1-9)
栗林史子「法華八講に関する二、三の問題―『御堂関白記』を中心に―」(『駿台史学』85号 1992年 pp.1-28)

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2007年3月15日 (木)

法華八講(6)堂の飾り・その2~供養具・机類~

096hakkou_11 法華八講での仏前の装飾や供養具について、『源氏物語』はあまり詳しく記していません。
“個別の仏具の名前が挙がっている”というレベルで

日々に供養ぜさせたまふ御経よりはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀の飾りも、世になきさまにととのへさせたまへり。(中略)仏の御飾り、花机のおほひなどまで、まことの極楽思ひやらる。(賢木巻)

と描かれる装飾経と巻物状の経を包む経帙、花机の覆いが見つかるくらいで、その他はほとんど何も具体的な記述がありません。

なので、実際の様子を知るには他の資料から補う必要があります。
一例として、皇太后彰子主催の法華八講の様子を記した『小右記』の記述を挙げてみます。

以金・銀・瑠璃荘厳御堂、其内安置白檀阿弥陀仏・観音得大仏、供以銀作飯・餅等、前机・経机・礼盤・燈台其飾異例、多用金・銀、(万寿二[1025]年三月廿日条)

引用文の前に「今日於上東門宮被修如八講之御読経、於寝殿有此事」(「」は「始」の誤り?)とあることから会場が土御門殿寝殿とわかるこの事例、金銀と瑠璃で装飾した堂内の煌びやかさと並んで、銀製の供物、金銀を多用した机と礼盤(らいばん)、燈台が特記されています。
(上の写真は風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、本尊の前の設え。手前から順に前机・経机・礼盤が並んでいます)

前机とは、本尊の前に置いて花や供物を載せる机のことです。
展示の前机には、閼伽器(閼伽・塗香・華鬘を入れる六器一組の茶碗型の器)と火舎(かしゃ。机の上に載せて香を焚く三脚式の据香炉)、樒(しきみ。仏教では、邪悪なものを退け清める力をもつ植物として仏前に供えます)を活けた花瓶、それから五鈷鈴(ごこれい)などの法具を載せた金剛盤などが載っていました。
経机は、名前のとおり経を載せたり読経のときに用いる机です。
写真からも、紺地の料紙に見返し絵が描かれた経の巻物が広げられているのがご覧いただけるかと思います。
礼盤は、修法のときに導師(=法会に際して中心になって儀式を執り行う僧)が座る四角い腰掛で、上には展示のように半畳を敷きます。

これらの仏具は木製の漆塗りが一般的で、「多用金・銀」とあるのは金銀の蒔絵をふんだんに施したものだったのではないかと想像されます。

097hakkou_12099hakkou_14 また、法華八講(4)会場と設営で引用した『小右記』長和元[1012]年五月十五日条に挙げられていた行香机は、法会の中で僧に配る焼香のための香を置く机で、香合(こうごう。薫香を入れておく容器)と火舎が用意されます。

因みに賢木巻に記されている「花机」は、特定の用途の机を指す言葉ではなく、脚に蓮華などの花を彫刻した机のことです。
(写真はいずれも参考資料。左は風俗博物館2002年下半期展示「女三の宮持仏開眼供養」より、花机にかけられた目染の覆い。右は風俗博物館2004年上半期展示「秋好中宮主催による季の御読経」より、行香の卓と散華の卓)

展示でも前机の上に載せられていた供養具については、法華八講ではありませんが、法成寺金堂供養を描いた『栄花物語』の記述が詳しいです。

仏の御前に螺鈿の花机、同じ螺鈿の高坏ども、黄金の仏器どもを据ゑつつたてまつらせたまへり。七宝をもて花を作り、仏供同じく七宝をもて飾りたてまつらせたまへり。火舎どもに色々の宝の香どもをたかせたまへれば、香薫じたり。(巻第十七「おむがく」)

高坏」「仏器」は、花束(けそく。餅や菓子を盛って仏前に供える台のこと)や閼伽器を指していると思われます。
火舎」は、上でご説明したとおりです。
閼伽は、「閼伽の具」という言葉が供養具の総称として使われるほど代表的な供養物で、仏前には必ず備えられます。
また、香は花・灯明と並ぶ基本的な供養物で、香を焚くことで場を清める意味があります。

一番上に載せた写真で言うと、机中央の経机寄りに置かれているのが火舎、その左右に3つずつ並んでいる器が閼伽器になります。
(閼伽器の横には杯のような形の器が左右に1つずつ置いてありますが、これはどういう仏具かわかりませんでした)
花束は木製の漆塗り、閼伽器や香炉は金銅製が多いようで、螺鈿や金、七宝で飾られた仏具の豪華さは如何ばかりかと思わされます。
098hakkou_13 (左の写真は参考資料として、2004年上半期展示「秋好中宮主催による季の御読経」より、仏前に供えられた閼伽器・花瓶・燈台)

このように、貴重な素材を惜しみなく注ぎ込んだ仏具類が本尊を取り囲み、堂を荘厳した様が、法華八講を含む平安時代の華麗な法会の装束だった訳です。
贅を尽くし、善美を尽くした法会の様相をご想像ください。

※掲載した写真のうち最初と最後の2枚は、いずれも博物館の許可を得て模型上方から撮影させていただいたものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
中野幸一編『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』至文堂 2000年
清水乞編『仏具辞典』新装版 東京堂出版 1999年
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)

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2007年3月12日 (月)

法華八講(5)堂の飾り・その1~華鬘・幡~

095hakkou_10 平安貴族が営んだ法華八講は、視覚的な華麗さに満ちていました。
『源氏物語』の描写にも
まことの極楽思ひやらる」(賢木巻)
生ける浄土の飾りに劣らず」(蓬生巻)
五巻の日などは、いみじき見物なりければ」(蜻蛉巻)
といった表現が見られ、その絢爛たる美しさが想像されます。
具体的にはどんな装飾がされたのでしょうか。

まず目に付くものとしては、法華八講(4)会場と設営で引用した『小右記』長和元[1012]年五月十五日条にも挙がっていた「花蘰代・幡」があります。
どちらも、堂の周囲を飾る荘厳具です。
(写真は風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、上長押と柱を飾る華鬘と幡)

華鬘(けまん)は、仏教の生まれ故郷・インドの風習から生まれた荘厳具です。
インドでは古来、糸で生花を綴るか結ぶかして輪にしたものを首にかけて装身具としたり、高貴な人に贈る習俗がありました。
それが仏教に取り入れられて仏への供養物となり、更には荘厳具となったのです。
やがて、生花はすぐに萎れてしまうことから、永続性のある牛皮や銅・木・ガラス玉などに花の文様を施したものが代わりに用いられるようになりました。
現在は、生花以外でつくられたものも含めて「華鬘」と呼びますが、細かく分類すれば生花以外を材料とするものは『小右記』が記すように「華鬘代」という呼び名になります。
はじめのうちは素材が替わっても輪の形をしていましたが、次第に花を結んだ紐の末端である総角結びと花輪の輪郭を残して内側に唐草文や迦陵頻伽、菩薩、梵字などをあしらった団扇形のものに鈴や垂れ飾りを下げた形へと変化します。
平安時代の遺物としては、東寺旧蔵の国宝・牛皮華鬘や中尊寺蔵の金銅製華鬘などがあります。
(東寺旧蔵の牛皮華鬘は現在奈良国立博物館で保管されており、国立博物館Webサイト・e国宝の「牛皮華鬘」のページで詳しい解説と共に画像を見ることができます。ご参照ください)
展示のように、堂内の上長押に掛けて飾ります。

幡(ばん・はた)は、もともと武人が戦場において己の武勲を敵や味方に誇示するために立てたもので、これが仏教に取り入れられて仏・菩薩の降魔の威徳を示す荘厳具となりました。
展示のように柱に掛ける他、天蓋に下げたり法要を行う庭や行道する両側に立てたりもしました。
三角形の幡頭、長方形の幡身、幡頭の下と幡身の左右から垂れる幡手、幡身の下から垂れる幡足の各部から構成されます。
材質も色も大きさも図柄も用途も使う場所もさまざまで、いろいろな分類方法があるようですが、展示のような布製が最も多く、絹や綾、金襴など豪華な生地を用いました。
長和元[1012]年五月十五日からの一条天皇追善八講でも、前日の十四日に
近習卿相・侍従給幡料錦等令縫」(『小右記』同日条)
と、錦などを材料として幡を縫ったことがわかります。

次回は、仏前に供える供養具を中心にご紹介します。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
清水乞編『仏具辞典』新装版 東京堂出版 1999年

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2007年3月 9日 (金)

法華八講(4)会場と設営

法華八講は、寺院で営まれる場合と貴族の私邸で営まれる場合とがありました。
ごく大雑把な分類ですが、毎年の恒例行事として営まれた追善八講は概ね故人の菩提寺を会場とし、逆に臨時の八講は主催者の私邸で営まれることが多かったようです。

例えば、一条天皇追善の八講は、六月二十二日の忌日に合わせて営まれる恒例のものは円教寺を会場としていますが、長和元[1012]年五月十五日を初日として皇太后彰子が臨時に修したものは枇杷殿で営まれています(『小右記』同日条)し、皇太后妍子が万寿三[1026]年五月十九日から営んだ臨時の三条天皇追善八講も、会場は寺院ではなく「皇太后宮」即ち枇杷殿です(『左経記』同日条)。
藤原道長が姉・詮子のために営んだ追善八講でも、恒例の忌日八講は慈徳寺を会場としている一方、寛弘元[1004]年五月十九日始修の臨時の八講については『御堂関白記』に「参××」といった記述が見えず、道長の自邸で営まれたのではないかと想像されます。
また、『枕草子』三十二段「小白河といふ所は」が記す藤原済時主催の結縁八講も、済時私邸の白河第で開かれています。

『源氏物語』では、具体的な描写がある4例のうち会場が特定できる3例はいずれも主催者の私邸に設定されています。
藤壺主催の例では
宮の内ゆすりて、ゆゆしう泣きみちたり」(賢木巻)
との描写から場所が藤壺の里邸の三条宮とわかりますし、紫の上の法華経千部供養は
わが御殿と思す二条院にてぞしたまひける」(御法巻)
とあるとおり、明石中宮主催も
五日といふ朝座に果てて、御堂の飾り取りさけ、御しつらひ改むるに」「釣殿の方におはしたるに」(蜻蛉巻)
などの描写から寺院や内裏ではなく貴族邸宅、つまり明石中宮の里邸である六条院と判明します。
源氏主催の例だけは会場が特定できませんが、
かの殿には、故院の御料の御八講、世の中ゆすりてしたまふ」(蓬生巻)
の「かの殿」を、源氏を指す婉曲表現ではなく直接的に場所を指すものと捉えれば、二条院が会場ということになります。

093hakkou_08会場の装束(設備の配置や飾り付け)に関しては、『栄花物語』や『小右記』『中右記』などに詳しい記述が残されています。
ここでは『源氏物語』に即して、貴族の私邸で催された例を中心に史料の記述を挙げてみます。

今日中宮奉為先帝、被修八講、仍未剋許参堀川院、於東対代廊母屋安置御仏、[等身金色阿弥陀三尊、造立西面、依便宜也、]母屋敷僧座、[北面二行、高麗端、]南面庇為公卿座、[高麗端、]南放出又庇為殿上人座、[紫端、](『中右記』嘉承二[1107]年閏十月十二日条)

この例は『源氏物語』の執筆時期より少々後の時代になりますが、堀川院で営まれた篤子内親王主催の堀川天皇追善八講の様子です。
東対代廊」というのが堀川院のいかなる建物のどういう部分なのか、私にはよくわかりませんが、ともかく母屋に本尊を安置し、その傍らに北向きに僧の座を設け、南廂に公卿、南又廂(おそらく南廂と簀子の間にもう一間廂があったのでしょう)に殿上人の座を配したことは確かです。
法華八講に限らず、母屋に本尊と僧の座、その外側の廂・簀子や周囲の廊などに参会者の座が配置されるのは、概ねどの仏事でも共通しています。
094hakkou_09 『源氏物語』ではあまり具体的な人・物の配置などを描きませんが、紫の上の法華経千部供養に参会した花散里と明石の君の座は「北の廂」(御法巻)に用意されていて、描かれた部分は実際の儀式と一致しています。
(写真上は参考資料として、風俗博物館2004年上半期展示「秋好中宮主催による季の御読経」より寝殿の装束。母屋に本尊の絵図が掲げられて周囲に僧が座り、南廂には列席の公卿が控えています。
写真下は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、北廂に設けられた花散里と明石の君の座。手前に座っているのは、それぞれの女君に付き従う女房達です)

皇太后宮従今日五箇日於枇杷殿奉為故院令講説給、(中略)御座所[寝殿母屋、]安置新仏、[釈迦如来・普賢・文殊、安置仏殿、]有金泥法華経、[納螺鈿筥、]並行香等机・雑具・花蘰代・幡皆是新作仏具也、不遑記耳、(『小右記』長和元[1012]年五月十五日条)

こちらは、上述の皇太后彰子による一条天皇追善八講の内容です。
寝殿母屋に新たに造立した釈迦三尊像を安置し、螺鈿の経箱に納めた金泥の装飾経を供え、机や供養具、華鬘や幡などもすべて新しく誂えたというのですから、その豪華さが覗えます。
仏の御飾り、花机のおほひなどまで、まことの極楽思ひやらる」(賢木巻)と描写された堂の飾りの具体像と言えるでしょうか。

この『小右記』引用文にもいろいろ挙がっているように、法会に用いられる仏具には、経を納める経帙や経箱、閼伽器・香炉・花瓶・燭台などの仏前に供える供養具、散華の花を盛る華籠、これらを乗せる机類、華鬘や幡などの堂内を飾る荘厳具…と、さまざまな種類があります。
次回は、そうした供養具や荘厳具をご紹介します。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
清水乞編『仏具辞典』新装版 東京堂出版 1999年
甲斐稔「『源氏物語』と法華八講」(「風俗」21巻3号 1982年 pp.43-58)
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
山本信吉「法華八講と道長の三十講」(上:「仏教芸術」77号 1970年 pp.71-84 下:「仏教芸術」78号 1970年 pp.81-95)
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2007年3月 6日 (火)

法華八講(3)本尊

090hakkou_05_2 法会では、仏像を安置したり仏画を掲げたりして本尊とします。
顕教である法華経の性格から、法華八講の本尊には通常は釈迦如来像を用いたと考えられますが、平安時代の事例を見ると、主催者や、追善供養の場合はその対象となる故人の宿願により、他尊を用いることも少なからずあったようです。
山本信吉氏がまとめた表に従うと、釈迦如来や釈迦三尊(釈迦如来を中尊として両脇侍に文殊菩薩・普賢菩薩が配されるのが一般的)の他、薬師如来や観音菩薩、阿弥陀如来などの名前が並び、更には大日如来や両界曼荼羅、大日曼荼羅など密教系の仏像・仏画が本尊となっている例もあります。

風俗博物館の展示では、普賢菩薩像が本尊とされていました。
(上の写真は2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、寝殿に安置された普賢菩薩像)
普賢菩薩は、法華経二十八品の最後である普賢菩薩勧発品に登場する菩薩で、釈迦入滅後の世界において法華経を受持し修行する者を守護することを誓願します。
その際、普賢菩薩は

是人若行若立。讀誦此經。我爾時乘。六牙白象王。與大菩薩衆。倶詣其所。而自現身。供養守護。安慰其心。
(この人、若しくは行み若しくは立ちて、この経を読誦せば、われはその時、六牙の白象王に乗り、大菩薩衆と倶にその所に詣りて、自ら身を現し、供養し守護して、その心を安んじ慰めん。)

と語ることから、絵画や彫刻に模られるときには、写真のように六牙の白象に乗り、法華経受持者を供養礼拝して合掌する姿とされるのが一般的です。
展示の普賢菩薩像は、大倉文化財団所蔵の国宝・普賢菩薩木像を参考に作成されたとのことでした。
『源氏物語』読者にとって普賢菩薩といえば、末摘花の鼻を譬えた「普賢菩薩の乗物とおぼゆ」(末摘花巻)という描写が真っ先に思い浮かぶところでしょうが、この譬えも、普賢菩薩が法華経受持者の守護者として信仰され、人々によく知られていればこそ可能だったと思われます。

法会に際して新たに仏像を造立する、あるいは新仏供養として八講を営むこともよく行われたようで、史料にいくつもの例を見ることができます。
(同様に新たに写経をして経供養を営む例もあり、仏像と経典の両方を誂えて供養する方がむしろ多いようですが、写経については後述します)
例えば、長和元[1012]年五月十五日から皇太后彰子が故一条院のために営んだ法華八講では釈迦三尊を新造していますし(『小右記』)、寛仁二[1018]年十二月十四日から営まれた藤原道長による両親追善の法華八講では
金色等身釈迦・阿弥陀仏、普賢・文殊・観音・徳大等菩薩」(『小右記』同日条)
と多様な仏像が造られています。
『栄花物語』にも、万寿三[1026]年五月十九日から営まれた皇太后妍子主催の故三条院追善八講(巻第二十七「ころものたま」)や治暦三[1067]年に中宮章子内親王が営んだ法華八講(巻第三十七「けぶりの後」)で仏像が造立され、供養が行われたことが記されています。
また、少々時代は下りますが、元永二[1119]年九月三十日に鴨院で源師子(時の関白・藤原忠実の妻)が仏経供養を営み、翌十月一日から講説が始まった法華八講の儀式次第は、『中右記』に詳細に記録されています。

『源氏物語』の中に本尊についての描写はありませんが、

六条の院の御ため、紫の上など、皆思し分けつつ、御経仏など供養ぜさせたまひて、いかめしく、尊くなむありける。(蜻蛉巻)

との記述があり、明石中宮主催の法華八講において、同時に仏経供養を営んだことがわかります。
皆思し分けつつ」とあるので、対象となる故人それぞれの生前の信仰に即して複数の仏像が造立されたのではないでしょうか。

091hakkou_06_1 092hakkou_07_1 最後に、イメージの参考として過去に風俗博物館で展示された仏像・仏画の写真を2枚掲載します。
左は2003年下半期展示「月見の宴~国宝源氏物語絵巻「鈴虫(一)」再現~」より、女三の宮の持仏として御帳台に安置された阿弥陀三尊像。
右は2004年上半期展示「秋好中宮主催による季の御読経」より、本尊として掲げられた大日如来・観音菩薩・虚空蔵菩薩図像。
(右側の写真は、博物館の許可を得て模型上方から撮影させていただいたものです)
こうした美しい仏像や仏画が法会の中心に位置していた筈で、平安時代の華麗な仏教信仰の形が想像される次第です。

【参考文献】
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
今成元昭「法華八講の<日>と<時>―古典解読のために―」(「立正大学人文科学研究所年報」31号 1994年 pp.1-9)
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
山本信吉「法華八講と道長の三十講」(上:「仏教芸術」77号 1970年 pp.71-84 下:「仏教芸術」78号 1970年 pp.81-95)
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2007年3月 4日 (日)

法華八講(2)目的

高木豊氏によると、法華八講の始修については、延暦十五[796]年に岩淵寺で営まれたとする『三宝絵詞』などの伝承と、延暦元[782]年に摂津弥勒寺で営まれたとする『諸寺縁起集』所収の伝承の2種類が残されているそうですが、どちらも死者の追善のために忌日に営まれた点は共通しているといいます。
そうした起源を持つがゆえに、平安貴族が法華八講を催す目的の多くは追善供養でした。

皇室における追善八講は、元慶五[881]年十一月二十六日から5日間催された太皇大后・藤原明子による清和上皇一周忌の八講(『三代実録』)や延喜元[901]年八月二十三日~二十六日の宇多法皇による光孝天皇国忌の八講(『日本紀略』)、村上天皇が天暦九[955]年一月四日に母后・藤原穏子の追善のために自ら法華経を書写して修した宸筆八講(『扶桑略記』)などが古い事例で、以後、院政期まで天皇・母后のための国忌における法華八講が年中行事的に営まれました。
貴族による私的な八講も同様で、貞観十一[869]年には安倍貞行が亡父の追善と自らの逆修のために、また元慶五[881]年には菅原道真が父母のために、それぞれ法華八講を営んだのが早い例として確認できます(『菅家文草』巻第十一)。
『源氏物語』が書かれた一条朝の頃を見ても、藤原道長がほぼ毎年父・兼家と姉・詮子の忌日に合わせて法華八講を営んでいる(それぞれ「法興院八講」「慈徳寺八講」と呼ばれます)他、恒例かどうかは不明ですが、以下のような故人のための八講の事例が見つかります。

年月日 主催者 供養の対象(続柄)
寛和元[985]年三月二十六日 宗子内親王 藤原伊尹(祖父)
正暦元[990]年四月二十八日 資子内親王 藤原安子(母)
正暦元[990]年十二月八日 藤原詮子 藤原時姫(母)
寛弘元[1004]年五月十九日 藤原道長 藤原詮子(姉)
寛仁二[1018]年十二月十四日 藤原道長 藤原兼家(父)・藤原時姫(母)

『源氏物語』でも、賢木巻・澪標巻・蜻蛉巻の法華八講が故人の追善供養として描かれています。

中宮は、院の御はてのことにうち続き、御八講のいそぎをさまざまに心づかひせさせたまひけり。(中略)
初めの日は、先帝の御料。次の日は、母后の御ため。またの日は、院の御料。(賢木巻)

賢木巻では、藤壺が父・先帝と母后、夫・桐壺院のために法華八講を営んだことが描かれます。
当時、父母への孝養を説いた儒教の思想からの延長で盛んになった両親の追善供養を中心に、「果て」と称した一周忌を終えても大小さまざまな規模で仏事が行われました。
ここで藤壺が、桐壺院の一周忌の後に両親と夫の菩提を弔うために八講を主催したのも、当時の歴史に沿ったものといえます。

さやかに見えたまひし夢の後は、院の帝の御ことを心にかけきこえたまひて、「いかで、かの沈みたまふらむ罪、救ひたてまつることをせむ」と、思し嘆きけるを、かく帰りたまひては、その御急ぎしたまふ。神無月に御八講したまふ。(澪標巻)

こちらの例は、光源氏が須磨で見た夢に桐壺院が現れた際、院が「おのづから犯しありければ」(明石巻)と語ったことを心にかけ、その贖罪を願って法華八講を営んだものです。
帰郷した源氏は「院の御ために、八講行はるべきこと、まづ急がせたまふ」(明石巻)と、真っ先にこの法要の準備に取り掛かっており、追善供養としての法華八講の重みが覗われます。
(尤もこの桐壺院追善八講については、孝心だけでなく政治的な意図も指摘されています。その点については法華八講(14)政治的な意味をご覧ください)

蓮の花の盛りに、御八講せらる。六条の院の御ため、紫の上など、皆思し分けつつ、御経仏など供養ぜさせたまひて、いかめしく、尊くなむありける。(蜻蛉巻)

源氏死後の蜻蛉巻では、明石中宮の主催で六条院において父・光源氏と養母・紫の上の追善供養が行われています。

088hakkou_03 法華八講を営むもうひとつの目的に、生前に自ら仏事を営んで現世安穏・後生善処を祈願する逆修がありました。
上に挙げた安倍貞行の例でも、亡父の追善と並んで自らの逆修が意図されていましたが、逆修は末法の世への人々の不安が高まるほど盛んになり、特に11世紀半ば以降には八講に限らず数多くの逆修が記録に残されています。
『源氏物語』の中では、紫の上の法華経千部供養が逆修であると指摘されており、そこから己の死後の追善を頼む実子を持たない紫の上の孤独を読もうとする解釈もあります(松木典子氏「法華八講について」『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』所収)。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、塗籠に座を設えて法会を見守る紫の上)
物語を読み進めば、明石中宮が娘として最期を看取り、上述のとおり追善供養も営んでいるので、実子のない紫の上の立場をそう深刻に読む必要はないようにも思いますが、紫の上が御法巻冒頭で自身を「うしろめたきほだしだにまじらぬ御身」と捉えている点を考慮すると、中宮に追善供養を期待する気持ちは確かになかったと言えるかもしれません。

法華八講の目的の3つ目には、法華経結縁が挙げられます。
八講に参会した人々が共に法華経に帰依し互いに仏法に縁を結ぼうという趣旨で、こうした目的の八講は「結縁八講」と呼ばれました。
『枕草子』には、清少納言が結縁八講に赴いたことが記されています。

菩提といふ寺に、結縁の八講せしに詣でたるに、(第三十一段「菩提といふ寺に」)

小白河といふ所は、小一条の大将殿の御家ぞかし、そこにて上達部、結縁の八講をしたまふ。世の中の人、いみじうめでたきことにて、「遅からむ車などは立つべきやうもなし」と言へば、露とともに起きて、げにぞ、ひまなかりける轅の上にまたさし重ねて、三つばかりまではすこしものも聞ゆべし。(第三十二段「小白河といふ所は」)

ちょうどこの頃から、法会などに出向いて説経を聞くことが流行し始めたようで、第三十段「説教の講師は」からもそうした風潮が読み取れます。
(尚、これとほぼ同時期からいくつかの寺で身分の貴賎を問わず結縁を促す法華八講が営まれ始めますが、基本的に貴族が主催した結縁八講はあくまで貴族社会の中だけで閉じたものだったようです)
089hakkou_04 『源氏物語』では、紫の上が法華経千部供養の際に花散里と交わした

絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを  

結びおく契りは絶えじおほかたの残りすくなき御法なりとも

の贈答歌が、結縁八講を意識したやり取りと見做されています(倉田実氏「法華経千部供養―法華八講」『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』所収)。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、法会に参会した花散里)

この他、歴史上には延命長寿を祈念して算賀の仏事として法華八講を営んだ例も散見されますが、『源氏物語』に描かれた算賀で特に法華八講と見做すべき仏事はありません。
(『源氏物語』での算賀の仏事については、算賀(6)仏事と賀宴をご参照ください)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
小町谷照彦編『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』至文堂 2001年
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
中野幸一編『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』至文堂 2000年
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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2007年3月 1日 (木)

法華八講(1)概要

086hakkou_01 法華八講とは、法華経(=鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』)八巻を一巻ずつ八座で読誦・講讃する法会です。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、薪の行道をする僧と参会者)
具体的には、読師が経題を唱えて講師が経文を講釈し、更に問者が教義上の質問をして講師がそれに答え、精義が問答を判定、堂達が進行を司ります。
実際にはその時々で短縮や延引があるものの、朝夕二座の四日間で行うのが標準的な儀式次第でした。
その始まりには複数の伝承がありますが、いずれも平安時代初頭に死者の追善供養を目的として営まれたとされています。

天台宗の根本経典である法華経は、「護国の経典、成仏の直道」として平安貴族に篤く信仰され、絢爛華麗な法会が盛んに営まれました。
中でも、第五巻に収められた提婆達多品は、仏敵と竜女の成仏を説くところから悪人・女人往生の根拠として特に尊重されました。
087hakkou_02 法華八講にもその点が反映されており、この巻を講じる日は特筆して「五巻の日」と呼ばれ、関係者がさまざまな仏への捧げ物(これを「捧物(ほうもち)」と言いました。「俸物」とも書きます)を携えて参会し薪の行道を行いました。
薪の行道は、釈尊が前世で薪を拾い水を汲んで仙人に仕え妙法を授かったという提婆達多品中の逸話を踏まえ、僧と参会者が薪と水桶を背負ったり捧物を捧げ持ったりして法華讃嘆を唄いながら本尊の周りを右回りに巡るもので、視覚的・聴覚的な華やかさも相俟って、法会のクライマックスともいうべき盛り上がりを見せました。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、薪の行道で捧物を手に本尊の周りを巡る上達部・殿上人達。
博物館の許可を得て、模型上方より撮影させていただきました)
『栄花物語』『紫式部集』『御堂関白記』『小右記』など、仮名・漢文を問わず多くの史料に五巻の日への言及が見られるのも、当時の人々の関心の高さを示すものといえます。

『源氏物語』の中では、藤壺主催(賢木巻)、光源氏主催(澪標巻)、紫の上主催(御法巻)、明石中宮主催(蜻蛉巻)の法華八講が描かれています。
(紫の上主催の法華経千部供養は八講と明記されておらず、甲斐稔氏のように八講とのずれを指摘して通常の経典供養と見做す研究者もいますが、帝・后や他の女君達が「俸物」を用意したり「薪こる讃嘆の声」と薪の行道を指すと思われる記述があるので、私は八講の形式で営まれたのではないかと考えます)
この他、出家した女三の宮が年に二回法華八講を営んでいることが匂宮巻に語られていますが、具体的な法会の描写はありません。

尚、法華会の種類としては、法華八講以外に法華十講や法華三十講などもありました。
十講は、法華経八巻に無量義経(=開経。釈尊が法華経に先立って説いた経典)と観普賢菩薩行法経(=結経。法華経を受け結びとして説いた経典)の各一巻を加えた全十巻を十座で、三十講は、『法華経』八巻二十八品と開結二経を三十座で講じるものです。
栄華を極めた藤原道長が法華三十講を度々営んだことは、よく知られています。
ただし、今成元昭氏の調査によると、史料の中には十講や三十講も「八講」と称している例が少なからずあるとのことで、「法華八講」の語には法華経の講説を行う法会の象徴としての意味合いもあったようです。

以下、『源氏物語』の記述と歴史上の事例を照らし合わせつつ、より詳しい儀式の内容をご紹介します。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
小町谷照彦編『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』至文堂 2001年
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
中野幸一編『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』至文堂 2000年
中村元[ほか]編『岩波仏教辞典』第2版 岩波書店 2002年
天納傳中[ほか]編著『仏教音楽辞典』法蔵館 1995年
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
今成元昭「法華八講の<日>と<時>―古典解読のために―」(「立正大学人文科学研究所年報」31号 1994年 pp.1-9)
甲斐稔「『源氏物語』と法華八講」(「風俗」21巻3号 1982年 pp.43-58)
山本信吉「法華八講と道長の三十講」(上:「仏教芸術」77号 1970年 pp.71-84 下:「仏教芸術」78号 1970年 pp.81-95)

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