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2007年4月15日 (日)

法華八講(11)捧物その2~風流と工夫~

108hakkou_23 109hakkou_24 平安時代の人々が残した法華八講の記録を読むと、薪の行道、中でもそこで巡った捧物が大変な見ものとして注目を集めたことがわかりますが、では具体的にどのようなものが捧物とされたかというと、例えば『栄花物語』の以下の記述が非常に詳しい内容になっています。

女院の御捧物、優曇華を造りたり。三条院の中将持ちて廻る。皇太后宮の、華籠に菊さまざまの花入れて、玉を貫きて緒にしたり。重ねたるをやがてその宮の亮公基取りてつづきたり。次には中宮の、菊の花を籬を結ひたり。黄金、銀、黄菊、白菊にて二つなり。新大納言の御子の四位少将基長取りたり。皇后宮のは、如意宝珠、金の糸して結び、玉を貫きたりなど三つありければ、源中将隆綱、宮の亮師基の弁、民部卿の中将とぞ持たまへる。東宮のは、金の水瓶、盥、やがて資仲の弁。女御殿のは鏡台の鏡、敦家の少将持たり。殿の一の宮のは、香壺の筥に壺四つ据ゑて、金の菊を挿したり。忠俊の前少将。前斎院のは、盥に水瓶、みな金なり。少納言実宗持ちて廻る。(中略)左の大殿、右の大殿、内の大殿など、さまざまに団扇、蝶の大きなるなどぞ持たせたまへりし。ただの上達部は香炉を五葉の枝につけたまへり。殿上人はわけさらなり。源大納言殿は、今は内の大殿と聞えさす、その御子の中納言こそ、桜の枝に鞠つけて持たせたまへりしか。(巻第三十七「けぶりの後」)

110hakkou_25 111hakkou_26治暦元[1065]年九月二十五日発願の高陽院内裏八講の記述です。
風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」の捧物は、正にこの記述を基に作成されたものだそうですので、百聞は一見に如かずで写真をご覧いただくのが一番かと思います。
まず写真上左の捧物が優曇華、右が金銀の造花を盛った華籠。
真ん中左は、手前の1人は籬を結って金銀の造花を植えた細工物を、奥の2人が金の亀の背に乗せた水晶の如意宝珠を持っています。
真ん中右の捧物は、手前から順に金の水瓶、鏡、香壺の筥に4つの壺を載せて金の造花を挿したもの。
下左の捧物は右側が団扇、左側が蝶を模った金細工で、下右のは右手前が五葉の枝に付けた球形の釣り香炉、左手奥が桜の枝に付けた鞠です。
上の『栄花物語』引用文とぴったり一致する展示になっています。

この他にも『栄花物語』の中では、巻第二十七「ころものたま」に万寿三[1026]年五月十九日発願の皇太后妍子主催三条天皇追善八講の捧物が詳しく列挙されています。
それらに『小右記』や『御堂関白記』『左経記』などの記述も加えてまとめると、帝や后の捧物として砂金を納めた瑠璃の壺というのがよく登場する他、香木・香炉・数珠・経典などの仏具、袈裟・横被(おうひ。七条袈裟の附属具で、右肩を覆う細長い縁付きの布のこと)・袿・袴などの衣類、皿や匕・染料・紙・墨・衣筥・火鉢・琴などの多様な日用品、綾・生絹などの布類が捧物とされた例が見られます。

112hakkou_27 113hakkou_28 『小右記』長和三[1014]年五月八日条には、道長主催の法華三十講に公卿の多くが袈裟を献じる中、実資は「此檀念珠」(「」は「紫」の誤り?)を捧物として道長に褒められた、という記述があります。
どうも他の人と重なってしまうのはあまり喜ばれなかったようで、繊細な美意識が求められた平安時代らしく、捧物にも他の人とは一味違う工夫が必要だったと見えます。
また、上の引用文にも似た例がありますが、小物を捧物にする場合は作り物の枝につけて風流を為したりもしたようです。

これだけ手の込んだものを用意する訳ですから、捧物を出す関係者は以前から入念に準備をしたようです。
『小右記』寛仁二[1018]年十二月七日条には、この10日後から始まる八講の捧物とするための香炉が届いた、という記述が出てきます。
これ以前に、予め注文を出してつくらせていたのでしょう。
『源氏物語』でも、紫の上による法華経千部供養で

内裏、春宮、后の宮たちをはじめたてまつりて、御方々、ここかしこに御誦経、俸物などばかりのことをうちしたまふだに所狭きに、まして、そのころ、この御いそぎを仕うまつらぬ所なければ、いとこちたきことどもあり。(御法巻)

とある「いとこちたきことども」の中には、このように趣向を凝らした捧物の用意も含まれていると思われます。

薪の行道の後、これらの捧物は堂内や庭に設けられた台の上に並べられました。
寛和元[985]年三月二十八日に五巻の日を迎えた宗子内親王主催の藤原伊尹追善八講のように、公卿の捧物は堂の上、それ以下の人々の捧物は庭に長筵を敷いてそこに置く、と身分によってはっきりと区別されることもありました(『小右記』同日条)。
また長和元[1012]年五月十七日が五巻の日であった皇太后宮彰子による一条天皇追善八講では、

左右近官人並相府随身等舁如舞台物、正当御殿南階立構高欄、曳帽額、不異舞台、[其構其二推合立、南有階、]予問左相府、被答云、可置捧物之料也、往古所不見聞、(『小右記』同日条)

と、寝殿前庭に舞台のような巨大な台が用意されたことが、驚きを込めて記録されています。
このときの八講は、法華八講(9)薪の行道で引用文を挙げたように、道長や実資も感嘆するほどの絢爛豪華な捧物が揃いましたが、量的にも「金銀瑠璃物置満捧物台」(『小右記』同日条)という状態になったということで、規模の大きさが窺われます。
因みに、この6年後の寛仁二[1018]年十二月に道長が営んだ亡父母追善の法華八講でも、同様に舞台が構えられたことが、同じく『小右記』同月十六日条に記されています。

捧物について、『源氏物語』では全くと言っていいほど具体的な描写がありませんが、史料が伝える捧物の有様は、当時の人々の注目の的であり平安貴族文化の栄華の極みを示したものだったと言えると思います。

※掲載した写真は、いずれも博物館の許可を得て模型上方から撮影させていただいたものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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