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2007年4月27日 (金)

法華八講(13)舞・音楽

117hakkou_32 法華八講(7)儀式次第でもご紹介しましたように、法華八講や法華三十講の五巻の日には、舞や音楽が供されることがありました。
ただし、舞にしても音楽にしてもそう頻繁に取り入れられる類のものではなく、主に単発・臨時の法会で主催者が特に盛大に催そうと意図した場合に付け加えられる要素だったようです。
『源氏物語』が書かれた時代の例を見ると、いずれも藤原道長が主催した以下6例の八講・三十講で、舞・音楽を伴って営まれたことが確認できます。
(因みに、私が調べた限りでは道長以前に法華八講で舞や音楽を供した事例は見つかりませんでした。
この仏事に歌舞音曲の趣向を持ち込んだのは、あるいは道長が最初なのかもしれません)

  • 寛弘元[1004]年五月二十一日(東三条女院詮子追善臨時八講)
    薪の行道の際に舟楽と舞(迦陵頻青海波)…『御堂関白記』
  • 寛弘七[1010]年五月十六日(法華三十講)
    講説終了後の酒席で音楽を供する…『御堂関白記』
  • 寛弘八[1011]年五月十六日(法華三十講)
    行道の前に奏楽、行道の後に舞楽…『御堂関白記』
  • 長和二[1013]年五月十五日(法華三十講)
    行道の後に舞楽…『御堂関白記』
  • 寛仁二[1018]年十二月十六日(亡父母追善臨時八講)
    舟楽の用意(敦康親王重病のため急遽中止)…『小右記』
  • 治安二[1022]年九月十七日(亡母?追善臨時八講)
    行道の際に舟楽…『小右記』

これらの音楽に関して、『御堂関白記』に興味深い記述があります。
舞と音楽があった寛弘八[1011]年五月十六日、「有俸物事如常、但行道前有音楽、如大会」と記しているのです。
大会」は大規模な法会という程度の意味でしょう。
浄妙寺三昧堂供養を記した『御堂関白記』寛弘二[1005]年十月十九日条に「大会儀如常、無楽」との記述もあり、堂供養のような法会を指して「大会」と称したこと、そうした法会にしばしば音楽が伴ったことが窺われます。

118hakkou_33 翻ってみれば、上に挙げた八講・三十講はいずれも道長が殊に力を入れて営んだことが伝わっています。
法華三十講の盛大さも勿論ですが、寛弘元[1004]年の東三条女院詮子追善八講は、道長が自ら写経し外題は具平親王に依頼、また30年以上朝廷の仏事への参仕を断り続けてきた高僧を講師に招請していて、この法会に対する意気込みが感じられますし、寛仁二[1018]年の亡父母追善八講も、道長は自ら『法華経』を2部書写すると共に、「よろづこのたびはわが宝ふるひてむ」(『栄花物語』巻第十四「あさみどり」)と語ったといい、その盛儀の様は『小右記』や『左経記』にも綴られています。
治安二[1022]年の八講についてはあまり詳しい記録が残っていませんが、故人の遺言によって営まれた法会であること、また会場が法成寺阿弥陀堂(無量寿院)で、この2ヶ月前に善美を尽くした金堂落慶供養が営まれたことなどを考え合わせると、やはり特別な配慮が加えられたのではないかと想像されます。

『源氏物語』に描かれた法華八講を見ると、まずはっきりと音楽と舞の両方が描かれているものとして、紫の上が営んだ法華経千部供養が挙げられます。

楽人、舞人などのことは、大将の君、取り分きて仕うまつりたまふ。(中略)
夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色いろ、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、もののあはれもおもしろさも残らぬほどに、陵王の舞ひ手急になるほどの末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに、(中略)
親王たち、上達部の中にも、ものの上手ども、手残さず遊びたまふ。(御法巻)

特に意を用いて楽人・舞人が準備され、一晩中読経が続いた後、明け方に舞楽、更には参会者達による管絃の遊びも催されています。
殊に舞楽の描写は春爛漫の自然描写と相俟って実に華やかで美しく、効果的に場面を盛り上げていますが、実際の法会の中での舞・音楽の位置付けを踏まえるとそれだけに留まらず、紫の上が「自分が催す行事はこれが最後」との覚悟の下に、万事に心を砕いてこの法会を執り行ったことがわかります。
おそらく紫の上には、出家して仏に仕えることができない代わりに、せめて丁重に盛大に経典を供養することで少しでも善行を積みたいという、切実な願いがあったのだろうと思います。
それと同時に、これまで二条院・六条院での多くの雅な行事に集い、今回の経供養にも列席してくれる人々への惜別の思いも。
そして準備を受け持った夕霧の方も、この経供養に舞人・楽人を必要とすること自体から、紫の上の気持ちを感じ取っていたのではないかと思います。
取り分きて」人員を調えた夕霧の心中には、単なる紫の上に対する思慕の念だけでなく、そうした思いを汲み取る心遣いもあったのではないでしょうか。
そんな想像をしてみたくなります。
(写真上は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より陵王の舞。
下は参考資料として、風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より竜頭鷁首の舟に乗った楽人達)

もうひとつ、明示はされませんが舞や音楽を伴ったのではないかと読めるのが、光源氏主催の桐壺院追善八講です。

権大納言殿の御八講に参りてはべるなり。いとかしこう、生ける浄土の飾りに劣らず、いかめしうおもしろきことどもの限りをなむしたまひつる。(蓬生巻)

八講に参仕した律師のこの台詞からは、世俗の楽しみを捨て仏に仕える身であってさえ目を奪われ人に語らずにはいられないほど、荘厳かつ興趣に富んだ法会だったことが伝わってきます。
政界復帰を果たし間もなく政権の中枢を担うことが確定している源氏が、亡き父院のために贅を尽くし趣向を凝らした営みの中には、大法会を模して取り入れられた舞楽や舟楽などもあったのではないかと思います。

さて次回は、上に引いた蓬生巻でも言われているように、しばしば「極楽もかくや」と語られる絢爛豪華な法華八講という仏事を営むことの社会的影響や政治的意図といった、極めて現世的な側面をご紹介します。

【参考文献】
甲斐稔「胡蝶巻の季の御読経」(室伏信助編『源氏物語の観賞と基礎知識18 初音・胡蝶・蛍』〔至文堂 2001年〕所収)
天納傳中[ほか]編著『仏教音楽辞典』法蔵館 1995年
栗林史子「法華八講に関する二、三の問題―『御堂関白記』を中心に―」(『駿台史学』85号 1992年 pp.1-28)
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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