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2007年4月28日 (土)

法華八講(14)政治的な意味

法華八講(2)目的でご紹介したような宗教上の意味とは別に、法華八講には極めて現世的な側面もありました。
それは、盛大な法会の挙行を通して一族の結束を確認する(この意味合いは特に一族の祖の追善供養において顕著に示されます)と共に、世間に主催者の権勢を誇示するというものです。

藤原道長が仏事を権勢の誇示に利用したことは、多くの研究者によって指摘されています。
道長女の中宮彰子によって年中行事化された、中宮主催の季の御読経もそのひとつです。
※リンク先は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている考察です。
道長が頻繁に営んだ法華八講・三十講についても、同様の指摘がなされています。
法華八講は、主催者の親族など関係者が参会し、また五巻の日にはそうした関係者が寄せた捧物を持って人々が行道するため、誰が参会し誰からどんな捧物が贈られたかは、主催者の権勢のバロメーターにもなりました。
親族であるか否かを問わず多くの公卿・殿上人らが集い、皇族からの捧物が廻る法会の場は、それだけの人々を結集させる道長の絶大な権力を示すものだった訳です。

そうした政治力学的側面を端的に表しているのが、高木豊氏が指摘する、源頼光による法華八講についての『小右記』の記述です。
道長の家司でこのとき内蔵頭であった頼光の法華八講は、公卿・殿上人を招待して長和四[1015]年閏六月十二日に発願、大納言藤原道綱、中納言藤原行成、参議藤原兼隆らが来訪しました。
藤原実資はこれを聞き、頼光の婿である道綱はともかくとして、行成・兼隆の2人は何の謂れがあって参会したのか、「棄恥到問乎、定有傍難欤、可謂不足言欤」(十三日条)と激しく非難しています。
更に、五巻の日には左大臣道長から捧物が贈られた他、道綱が三条天皇から賜った数珠を頼光が「内御捧物」(十五日条)と称して捧げ巡り、また同じく道綱が申し賜った蘇芳・薪料も実は頼光に賜った捧物であったと聞き及んだ実資は、「上下弾指、往古不聞、王威滅尽欤、可悲々々」(十五日条)と悲憤慷慨しています。
挙句、結願の十六日には、内裏での懺法御読経の初日にもかかわらず、請僧が頼光の八講に出座していて遅参するという事態が起きました。
血縁でもない公卿らが参会し僧侶も公事に優先して執り行い、時の左大臣や天皇までもが心遣いをした頼光の法華八講は、身分的には一受領に過ぎない彼の威勢を世間に見せ付けるに充分なものだったと思われます。
そうであればこそ、秩序や筋道を重んじる実資には許し難いことに感じられたのでしょう。

もうひとつ権勢の誇示と考えられるのは、非時調進の分担です。
請僧や参会者に提供する食膳は、主催者の一族・縁者・家人などが奉仕するのが通例だったと言いますが、東三条女院詮子は正暦元[990]年十二月八日発願の亡母時姫追善八講で公卿に過大な非時調進を分担させ、道長も毎年のように営んだ三十講で家司を中心とした受領層にその奉仕をさせています。
こうした分担を通して、詮子は公卿らを私的な営為に組み込んで支配し、道長もまた受領達との間に主従関係を形成していった、とは山本信吉氏の指摘です。

『源氏物語』の法華八講にも、やはり政治的・社会的側面が描き込まれています。
最も明確なのは、政界に復帰した光源氏が営んだ桐壺院追善八講です。

神無月に御八講したまふ。世の人なびき仕うまつること、昔のやうなり。
大后、御悩み重くおはしますうちにも、「つひにこの人をえ消たずなりなむこと」と、心病み思しけれど、帝は院の御遺言を思ひきこえたまふ。
(澪標巻)

一度は離れていった世間の人々がこぞって奉仕し、かつての華やぎをすっかり取り戻した源氏の様子に、彼の失脚を図った弘徽殿の大后も遂に自家の敗北を認めざるを得ない…という文脈が描くのは、間違いなくこの仏事を通して明らかにされる政権交代の構図です。
同じ法華八講を語った蓬生巻にも、「世の中ゆすりてしたまふ」と貴族社会全体を大動員して華々しく営んだことが記され、源氏の権勢の復活を印象付けています。
また甲斐稔氏は、この八講が桐壺院の追善供養として営まれたことにも、源氏及び源氏が後見する東宮(=冷泉帝)が桐壺院の正統な後継者であることを宣揚する政治的意図があったと解釈しています。

紫の上の法華経千部供養においても、光源氏の八講のようにはっきりとした形ではありませんが、「内裏、春宮、后の宮たち」(御法巻)が布施や捧物を用意し、「親王たち、上達部」(同巻)が参会したことが語られ、准太上天皇の妻であり中宮の養母である紫の上の社会的地位の重さがさりげなく示されています。
こうした点描は、その先の紫の上死去の場面で、光源氏や直接に関わった人達だけに留まらず世人が皆その死を惜しみ追慕したとする、紫の上称讃・哀悼の記述を支えるものと言えるでしょう。

また、これも甲斐稔氏の指摘と重なるところですが、賢木巻で藤壺が親王も参会しての華麗な法華八講を営み中宮の権威を示した、その結願の日に落飾し、源氏方の政治的衰退が決定的になる展開も、注目すべき点だと思います。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
小町谷照彦編『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』至文堂 2001年
甲斐稔「胡蝶巻の季の御読経」(室伏信助編『源氏物語の観賞と基礎知識18 初音・胡蝶・蛍』〔至文堂 2001年〕所収)
甲斐稔「『源氏物語』と法華八講」(「風俗」21巻3号 1982年 pp.43-58)
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
山本信吉「法華八講と道長の三十講」(上:「仏教芸術」77号 1970年 pp.71-84 下:「仏教芸術」78号 1970年 pp.81-95)

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