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2007年4月 6日 (金)

法華八講(8)僧の役割

104hakkou_19 法会の中心になるのは、勿論儀式を司る僧侶です。
法華八講は大規模な法会だけあって、多数の僧が招請されました。
請僧には、それぞれ精義(「證義」「證匠」とも)・講師・問者・聴衆などの役割が割り振られます。
精義・講師・問者については、既に法華八講(1)概要で述べたとおりで、問者と講師とが教義上の問答を行い、精義がその判定を行います。
聴衆は、法会に参列して説法を聴聞する伴僧です。
(写真上は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、行道する僧侶達)

それぞれの役割は別々の僧が勤めるのが基本と思われますが、中には
證義者、大僧都定澄・前大僧都院源、[兼講師、]」(『小右記』長和元[1012]年五月十五日条)
の例のように、1人の僧が精義と講師を兼ねる場合もありました。
また、
撰難問傑出之者廿人。為其聴衆。」(『扶桑略記』天暦九[955]年一月四日条)
朝講々師前大僧都院源、[則是證者、]問融碩、(中略)夕講々師少僧都澄心、問明尊、(中略)
聴衆、融碩・明尊・(後略)」(『小右記』長和元[1012]年五月十五日条)
などの記述から推測するに、聴衆の中から各座の問者が出る仕組みになっていたようです。
その他、記述のない例も多いので常にいたのかどうかははっきりしませんが、法会の中で唱える声明を担当する錫杖衆や梵音衆、法会の進行や雑務を担う堂達などが配されました。
(写真下は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、堂の端に控える堂達)

105hakkou_20 僧の人数は、天暦九[955]年一月四日から営まれた村上天皇宸筆八講では総勢65人(『扶桑略記』)、嘉承二[1107]年閏十月十二日初日の篤子内親王主催堀川天皇追善八講では10人(『殿暦』『中右記』)と、かなりの幅があります。
当時の記録を見ると、精義が2・3人、講師が10人前後、聴衆が10~20人程度といった構成が多く目に付きます。
錫杖・梵音について記録されている例を見ると、村上天皇宸筆八講では各16人(『扶桑略記』)、長保四[1002]年十月二十二日から一条天皇が営んだ母后藤原詮子追善八講では各14人(『権記』の記述。『本朝世紀』では梵音13人)、永延元[987]年四月二十九日からの円融法皇による母后藤原安子追善八講と万寿四[1027]年八月二十三日からの法成寺釈迦堂供養では各10人(いずれも『小右記』)と記されており、両方で20~30人が選ばれたようです。
堂達は、上述の藤原詮子追善八講で1人だったことが確認できる(『本朝世紀』)他、村上天皇宸筆八講で役割の確認できない1人(『扶桑略記』)がやはり堂達ではないかと推測されます。
精義・講師・聴衆と足し合わせると概ね40人以上、大規模になると60人を超える僧が招請されたことになります。

法華八講(1)概要でも触れたように、法華八講は経典の解釈を論じる法会です。
ですから、この出席する僧達(特に論議に関わる精義・講師・問者)には、当然のことながら深い学識が求められました。
光源氏主催の法華八講で

ことに僧などは、なべてのは召さず、才すぐれ行なひにしみ、尊き限りを選らせたまひければ、(蓬生巻)

と記されるのは、単に理想的な仏事の有様を表現したというだけでなく、法会の性格から必然的に要請された条件でもあったと言えます。

講座の主役は、説経をし問者の問いに答える講師です。
公家日記にも「朝座講師」「夕講々師」などの形で個々の座の講師の名を書き残した例が数多く見られ、それだけ当時の人々の講師に対する関心が高かったことを窺わせます。
清少納言に至っては

説教の講師は、顔よき。講師の顔を、つとまもらへたるこそ、その説くことの尊とさもおぼゆれ。ひが目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは罪を得らむとおぼゆ。(『枕草子』第三〇段「説教の講師は」)

などと書いており、あまりに俗な意見とも言えますが、講師への注目の一端がわかる内容です。
また講師には、宗教的な学識だけでなく主催者や世俗の参会者を感動させる話術も必要で、優れた講師の説経が人々を引き込む様は、しばしば同時代の記録に書き留められています。

朝座の講師清範、高座の上も光りみちたるここちして、いみじうぞあるや。(『枕草子』第三十二段「小白河といふ所は」)

永昭講経之間、殊尽弁才、大殿不堪感懐、忽解着剣、自進座下授之、(『左経記』寛仁二[1018]年十二月十八日条)

五日が説経いと尊し。かくめでたき事ども世にはありけりと見ゆ。(『栄花物語』巻第三十七「けぶりの後」)

『源氏物語』でも、先に挙げた蓬生巻の記述の他、藤壺主催の法華八講3日目の場面で

今日の講師は、心ことに選らせたまへれば、「薪こる」ほどよりうちはじめ、同じう言ふ言の葉も、いみじう尊し。(賢木巻)

との描写があります。
八講のクライマックスというべき五巻の日の講師は、中でも特に注目された筈ですので、「心ことに」と意を用いるのも自然なことです。

平安貴族の煌びやかな法華八講は、このように大勢の学才に秀でた僧達の手で執り行われていたのです。

【参考文献】
中村元[ほか]編『岩波仏教辞典』第2版 岩波書店 2002年
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
山本信吉「法華八講と道長の三十講」(上:「仏教芸術」77号 1970年 pp.71-84 下:「仏教芸術」78号 1970年 pp.81-95)
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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