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2007年4月11日 (水)

法華八講(9)薪の行道

華やかに営まれた法華八講の中でも、最も贅を尽くし絢爛たる趣向を極めたのが「五巻の日」に行われた薪の行道です。
行道とは、本尊または堂塔の周囲を右回りに巡る仏教の作法で、貴人の周囲を回る古代インドの礼法が源泉になっています。
法華八講の行道に特に“薪の”と冠される理由は、『法華経』第五巻に収められた第十二品「提婆達多品」に説かれる以下のような釈尊の過去世に基づきます。

かつて国王だった釈尊は、完全な悟りを得ることを念願し、「私に優れた教えを授けてくれる人がいれば、私はその人の奴隷となろう」と国の四方に告げ知らせました。
すると、1人の仙人がやってきて「あなたが私の奴隷になってくださるのでしたら、最も優れた教えを示す経典『法華経』をお教えしましょう」と言ったので、釈尊は喜んで仙人に随い、木の実を採り水を汲み、薪を拾い食事の仕度をし、時には自分の身を仙人の腰掛けとまでして奉仕しました。
釈尊は1000年もの間仙人に仕え、遂に『法華経』の教えを得て六波羅蜜の完成を成し遂げました。

106hakkou_21一般的な行道では僧達が華籠を手に散華しながら巡りますが、法華八講の行道では釈尊のこの苦行を偲んで、薪や水桶、菜籠などを背負った人々が加わり、
法華経を我が得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し
という、行基作とも光明皇后作とも伝わる法華讃嘆を唱えながら回りました。
「薪の行道」の呼び名は、ここに由来します。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、水桶〔手前〕と薪〔奥〕を背負って行道する六位の官人)

行道で薪や水桶を背負う作法がいつ頃始まったのかははっきりせず、法華八講の最初から行われていた訳でもないようですが、『大日本史料』第1編之1(東京大学史料編纂所提供tiff版)所引『願文集』二には、寛平元[889]年の光孝天皇一周忌に嘉祥寺で修された法華八講について「乙卯、彼八講、今日已当五巻之講、令先帝近侍者□荷薪搬水之役」との記述があり、9世紀末には既に行われていたことが確認できます。
他にも、

五巻日、殿上人持御捧物立王卿前、蔵人荷薪若菜籠、(『西宮記』巻第十三「御八講」)
衛府三人荷薪水菜等如恒(『小右記』長和元[1012]年五月十七日条)
きたなげなき六位の衛府など、薪こり、水など持たるをかし。(『栄花物語』巻第八「はつはな」)
蔵人、薪こり水とりなどして、(『栄花物語』巻第三十七「けぶりの後」)
僧侶下立東庭、舞人・楽人左右相交一行列立行道、次衆僧、[證義者以下次第列立、]次荷薪・菜籠・水桶、蔵人三人[左衛門尉盛季・進士実親・大舎人助泰隆、各着青色荷之、]持之相従、(『中右記』長治元[1104]年八月六日条)

などの記述が見え、概ね六位程度の下級の参会者がこの役目を担ったことがわかります。

107hakkou_22 薪の行道では、精義以下の僧侶達と荷薪搬水の役の後、各々の用意した捧物を捧げ持つ参会者が続きました。
会場に臨席しない高位の人や女性の捧物は、使者など代理の人物が持ちました。
やはりこれが最大の注目の的だったようで、『栄花物語』や『小右記』『中右記』などには、誰の捧物は何で誰が持って巡ったか、といった事柄が詳細に書き留められています。
捧物には各参会者が競って趣向を凝らしたようで、長和元[1012]年五月十七日に五巻の日を迎えた皇太后彰子主催一条天皇追善八講の捧物のように、「皆無不金銀、尽善尽美」「捧物甚優美、以金銀為風流」(『小右記』同日条)「数度見八講此度不如、自金銀無外物、衆人所感有之」(『御堂関白記』同日条)と、参会者の目を奪う絢爛豪華な品々が揃えられることもありました。
(捧物にどのようなものが用いられたかの具体例は、次回ご紹介いたします)

ですが、『源氏物語』で薪の行道の様子が多少なりとも具体的に描写されているのは、藤壺主催の法華八講だけです。

親王たちも、さまざまの捧物ささげてめぐりたまふに、大将殿の御用意など、なほ似るものなし。(賢木巻)

この場面でも、モノよりも人に焦点を当てる『源氏物語』の特徴が表れていて、捧物が何だったかには触れず、捧物を捧げて行道する源氏の立居振舞の素晴らしさを賞賛しています。
その他は、紫の上主催の法華経千部供養での「薪こる讃嘆の声」(御法巻)が、行道の際に唄う法華讃嘆を指していると推定される程度です。
あとは間接的な描写として、明石中宮主催の法華八講の場面で

五巻の日などは、いみじき見物なりければ、こなたかなた、女房につきて参りて、物見る人多かりけり。(蜻蛉巻)

との一文があります。
この「いみじき見物」の中心は、煌びやかな捧物を手に人々が巡る薪の行道だったと思われます。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、薪の行道で本尊の周りを巡る人々。
手前左端の僧を先頭にして、荷薪搬水役の官人、捧物を捧げ持つ殿上人・上達部の順に右回りで並んでいます)

ところで、これも上に引用した『中右記』の記述からわかる点ですが、薪の行道は基本的に屋外で行いました。
会場が寺院のときは堂の外縁を、貴族邸宅のときは寝殿の前庭を巡りました。
屋外での行道であればこそ、治暦元[1065]年九月二十五日から高陽院内裏で営まれた法華八講に際して
皇后宮下におはしませど、何ごとも向ひたるやうにて、行道などもやがて同じごと御覧じつべし」(『栄花物語』巻第三十七「けぶりの後」)
と、寛子皇后が自分の局にいながらにして見物することも可能だったと理解できます。
屋外で行うとなれば、必然的に天候に影響されることになり、雨天順延ということも起きてきます。
有捧物事、依雨不廻庭中、只廻殿上」(『小右記』長徳四[998]年三月二日条)の例のように、やむを得ず屋内で行道を行うこともありました。
尚、現在も比叡山延暦寺の法華大会では、正装した僧侶達が平安時代の薪の行道さながらに大講堂の周囲を巡り歩くそうです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
天納傳中[ほか]編著『仏教音楽辞典』法蔵館 1995年
今成元昭「法華八講の<日>と<時>―古典解読のために―」(「立正大学人文科学研究所年報」31号 1994年 pp.1-9)
坂本幸男, 岩本裕訳注『法華経』(岩波文庫 青(33)-304-1~3)改版 岩波書店 1976年
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
儀礼文化学会HP内「比叡山延暦寺/法華大会・広学竪義

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