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2007年4月の記事

2007年4月30日 (月)

法華八講(15)その他雑感

平安時代に営まれた法華八講という仏事について、またこの儀式の『源氏物語』での描き方について、14回に亘って書き連ねてまいりましたが、最後にこの連載の発端となった風俗博物館の展示や調べ物の中で引っかかった点を、メモとして挙げておきます。

<1>参会者の装束

087hakkou_02風俗博物館の展示を拝見してひとつ違和感を覚えたのが、行道する参会者の装束でした。
公事ならば束帯で参列するのが当然でしょうけれど、いかに准太上天皇の妻とはいえ、紫の上の私的な仏事に赴くのに束帯を着用するとは思えません。
また、紫の上や花散里・明石の君といった女君達が揃って裳唐衣を着ているのも気になりました。
展示レジュメを読むに、法華八講の展示全体が『栄花物語』巻第三十七「けぶりの後」の記述を参考に具現されているようなのですが、この巻で描かれているのは高陽院内裏で後冷泉天皇が営んだ亡父後朱雀院追善八講の様子で、こちらは歴とした公事です。
では私的に営まれた八講では、人々はどんな服装で列席したのでしょうか。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、薪の行道で捧物を手に本尊の周りを巡る上達部・殿上人達。
浅緋・深緋・浅紫・深紫の束帯姿で、老懸(おいかけ)を着けた武官装束の人もいます。
この写真は博物館の許可を得て、模型上方より撮影させていただきました)

男性の装束については、『枕草子』にはっきりした記述があります。
寛和二[986]年六月の藤原済時主催結縁八講に参会した人々の装束は、

二藍の指貫、直衣、あさぎのかたびらどもぞ透かしたまへる。すこし大人びたまへるは、青鈍の指貫、白き袴もいと涼しげなり。(中略)殿上人、若君達、狩装束、直衣などもいとをかしうて、(第三十二段「小白河といふ所は」)

と記され、身分の高い人々は直衣、下の身分の人々は狩衣で列席したことが確認できます。
また、兼家追善の法興院八講で「左府著直衣被参」(『小右記』長和[1013]二年七月二日条)、藤原道長が営んだ法華三十講五巻の日に「左府加着其座、[布袴装束、]」(『小右記』長和元[1012]年六月十八日条)だったと記録されています。
(引用文中の「左府」はいずれも道長のこと)
『小右記』で装束のことが記されるのは、通例と異なるとか、一部の人だけ周りと違う衣裳だったというような場合が多いので、これが標準的な服装だったと考えるのは少々危険な気もしますが、束帯を着る場面でないことは確かだと思います。

119hakkou_34 一方、女性の装束となるとこちらは皆目わかりません。
女房の衣裳は『栄花物語』に執拗なまでに詳しく記されていますが、対照的に女主人の衣裳については全くと言っていいほど記述がなく(例外的に記されているのが、上記高陽院内裏八講での皇后寛子と中宮章子内親王の装束)、彼女達は男性の目に触れることがないので公家日記にも当然そんな記録は残りません。
(写真は風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、法会に参会した明石の君。裳唐衣の正装です)
上と同じ『枕草子』第三十二段には、八講の見物に来た女車の様子が

下簾など、ただ今日はじめたりと見えて、濃きひとへがさねに二藍の織物、蘇枋の薄物の表着など、後にも摺りたる裳、やがてひろげながらうち下げなどして

と描写されており、中の女性は裳を着けていたかと思いたくなりますが、出車は『満佐須計装束抄』に記されているとおり装飾用に女房装束を掛け下げて車の外に引き出すものなので、乗っている人の衣裳との関連性はありません。
八講を主催した藤壺や紫の上は、法会の間どんな服装で簾中に座していたのでしょうか。
残念ながら、手がかりとなる事例は見つかりませんでした。

<2>紫の上の法華経千部供養は法華八講か否か

御法巻の記述は、これまでの記事の中でもあちこちで触れたように、八講であると考えても八講ではないと考えても矛盾が生じる不可解な内容になっています。

  • 八講であると考えた場合の疑問点
    • 法会にかけた期間が僅か一昼夜
      (「三月の十日」を五巻の日とする解釈もありますが、素直に読めば十日の日中に始まり十一日朝に終了)
    • 請僧が精義・講師・聴衆ではなく「七僧
  • 八講でないと考えた場合の疑問点
    • 捧物の用意される仏事は法華講会以外ほぼ皆無
      (例外的に、道長の比叡山舎利会を記した『御堂関白記』寛弘六[1009]年五月十七日条に「有捧物」)
    • 法華讃嘆を唱える仏事も法華講会以外に見当たらない
      (現代の仏教でも、法華讃嘆を唱える法会は法華八講と法華大会のみ)

本当のところ、法華経千部供養はどのような式次第で進められたのでしょうか。
あれだけの描写で、当時の人々は法会の様子を具体的に想像できたのでしょうか。
調べれば調べるほど不思議に思えてなりません。

【参考文献】
小町谷照彦編『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』至文堂 2001年
天納傳中[ほか]編著『仏教音楽辞典』法蔵館 1995年
甲斐稔「『源氏物語』と法華八講」(「風俗」21巻3号 1982年 pp.43-58)
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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2007年4月28日 (土)

法華八講(14)政治的な意味

法華八講(2)目的でご紹介したような宗教上の意味とは別に、法華八講には極めて現世的な側面もありました。
それは、盛大な法会の挙行を通して一族の結束を確認する(この意味合いは特に一族の祖の追善供養において顕著に示されます)と共に、世間に主催者の権勢を誇示するというものです。

藤原道長が仏事を権勢の誇示に利用したことは、多くの研究者によって指摘されています。
道長女の中宮彰子によって年中行事化された、中宮主催の季の御読経もそのひとつです。
※リンク先は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている考察です。
道長が頻繁に営んだ法華八講・三十講についても、同様の指摘がなされています。
法華八講は、主催者の親族など関係者が参会し、また五巻の日にはそうした関係者が寄せた捧物を持って人々が行道するため、誰が参会し誰からどんな捧物が贈られたかは、主催者の権勢のバロメーターにもなりました。
親族であるか否かを問わず多くの公卿・殿上人らが集い、皇族からの捧物が廻る法会の場は、それだけの人々を結集させる道長の絶大な権力を示すものだった訳です。

そうした政治力学的側面を端的に表しているのが、高木豊氏が指摘する、源頼光による法華八講についての『小右記』の記述です。
道長の家司でこのとき内蔵頭であった頼光の法華八講は、公卿・殿上人を招待して長和四[1015]年閏六月十二日に発願、大納言藤原道綱、中納言藤原行成、参議藤原兼隆らが来訪しました。
藤原実資はこれを聞き、頼光の婿である道綱はともかくとして、行成・兼隆の2人は何の謂れがあって参会したのか、「棄恥到問乎、定有傍難欤、可謂不足言欤」(十三日条)と激しく非難しています。
更に、五巻の日には左大臣道長から捧物が贈られた他、道綱が三条天皇から賜った数珠を頼光が「内御捧物」(十五日条)と称して捧げ巡り、また同じく道綱が申し賜った蘇芳・薪料も実は頼光に賜った捧物であったと聞き及んだ実資は、「上下弾指、往古不聞、王威滅尽欤、可悲々々」(十五日条)と悲憤慷慨しています。
挙句、結願の十六日には、内裏での懺法御読経の初日にもかかわらず、請僧が頼光の八講に出座していて遅参するという事態が起きました。
血縁でもない公卿らが参会し僧侶も公事に優先して執り行い、時の左大臣や天皇までもが心遣いをした頼光の法華八講は、身分的には一受領に過ぎない彼の威勢を世間に見せ付けるに充分なものだったと思われます。
そうであればこそ、秩序や筋道を重んじる実資には許し難いことに感じられたのでしょう。

もうひとつ権勢の誇示と考えられるのは、非時調進の分担です。
請僧や参会者に提供する食膳は、主催者の一族・縁者・家人などが奉仕するのが通例だったと言いますが、東三条女院詮子は正暦元[990]年十二月八日発願の亡母時姫追善八講で公卿に過大な非時調進を分担させ、道長も毎年のように営んだ三十講で家司を中心とした受領層にその奉仕をさせています。
こうした分担を通して、詮子は公卿らを私的な営為に組み込んで支配し、道長もまた受領達との間に主従関係を形成していった、とは山本信吉氏の指摘です。

『源氏物語』の法華八講にも、やはり政治的・社会的側面が描き込まれています。
最も明確なのは、政界に復帰した光源氏が営んだ桐壺院追善八講です。

神無月に御八講したまふ。世の人なびき仕うまつること、昔のやうなり。
大后、御悩み重くおはしますうちにも、「つひにこの人をえ消たずなりなむこと」と、心病み思しけれど、帝は院の御遺言を思ひきこえたまふ。
(澪標巻)

一度は離れていった世間の人々がこぞって奉仕し、かつての華やぎをすっかり取り戻した源氏の様子に、彼の失脚を図った弘徽殿の大后も遂に自家の敗北を認めざるを得ない…という文脈が描くのは、間違いなくこの仏事を通して明らかにされる政権交代の構図です。
同じ法華八講を語った蓬生巻にも、「世の中ゆすりてしたまふ」と貴族社会全体を大動員して華々しく営んだことが記され、源氏の権勢の復活を印象付けています。
また甲斐稔氏は、この八講が桐壺院の追善供養として営まれたことにも、源氏及び源氏が後見する東宮(=冷泉帝)が桐壺院の正統な後継者であることを宣揚する政治的意図があったと解釈しています。

紫の上の法華経千部供養においても、光源氏の八講のようにはっきりとした形ではありませんが、「内裏、春宮、后の宮たち」(御法巻)が布施や捧物を用意し、「親王たち、上達部」(同巻)が参会したことが語られ、准太上天皇の妻であり中宮の養母である紫の上の社会的地位の重さがさりげなく示されています。
こうした点描は、その先の紫の上死去の場面で、光源氏や直接に関わった人達だけに留まらず世人が皆その死を惜しみ追慕したとする、紫の上称讃・哀悼の記述を支えるものと言えるでしょう。

また、これも甲斐稔氏の指摘と重なるところですが、賢木巻で藤壺が親王も参会しての華麗な法華八講を営み中宮の権威を示した、その結願の日に落飾し、源氏方の政治的衰退が決定的になる展開も、注目すべき点だと思います。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
小町谷照彦編『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』至文堂 2001年
甲斐稔「胡蝶巻の季の御読経」(室伏信助編『源氏物語の観賞と基礎知識18 初音・胡蝶・蛍』〔至文堂 2001年〕所収)
甲斐稔「『源氏物語』と法華八講」(「風俗」21巻3号 1982年 pp.43-58)
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
山本信吉「法華八講と道長の三十講」(上:「仏教芸術」77号 1970年 pp.71-84 下:「仏教芸術」78号 1970年 pp.81-95)

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2007年4月27日 (金)

法華八講(13)舞・音楽

117hakkou_32 法華八講(7)儀式次第でもご紹介しましたように、法華八講や法華三十講の五巻の日には、舞や音楽が供されることがありました。
ただし、舞にしても音楽にしてもそう頻繁に取り入れられる類のものではなく、主に単発・臨時の法会で主催者が特に盛大に催そうと意図した場合に付け加えられる要素だったようです。
『源氏物語』が書かれた時代の例を見ると、いずれも藤原道長が主催した以下6例の八講・三十講で、舞・音楽を伴って営まれたことが確認できます。
(因みに、私が調べた限りでは道長以前に法華八講で舞や音楽を供した事例は見つかりませんでした。
この仏事に歌舞音曲の趣向を持ち込んだのは、あるいは道長が最初なのかもしれません)

  • 寛弘元[1004]年五月二十一日(東三条女院詮子追善臨時八講)
    薪の行道の際に舟楽と舞(迦陵頻青海波)…『御堂関白記』
  • 寛弘七[1010]年五月十六日(法華三十講)
    講説終了後の酒席で音楽を供する…『御堂関白記』
  • 寛弘八[1011]年五月十六日(法華三十講)
    行道の前に奏楽、行道の後に舞楽…『御堂関白記』
  • 長和二[1013]年五月十五日(法華三十講)
    行道の後に舞楽…『御堂関白記』
  • 寛仁二[1018]年十二月十六日(亡父母追善臨時八講)
    舟楽の用意(敦康親王重病のため急遽中止)…『小右記』
  • 治安二[1022]年九月十七日(亡母?追善臨時八講)
    行道の際に舟楽…『小右記』

これらの音楽に関して、『御堂関白記』に興味深い記述があります。
舞と音楽があった寛弘八[1011]年五月十六日、「有俸物事如常、但行道前有音楽、如大会」と記しているのです。
大会」は大規模な法会という程度の意味でしょう。
浄妙寺三昧堂供養を記した『御堂関白記』寛弘二[1005]年十月十九日条に「大会儀如常、無楽」との記述もあり、堂供養のような法会を指して「大会」と称したこと、そうした法会にしばしば音楽が伴ったことが窺われます。

118hakkou_33 翻ってみれば、上に挙げた八講・三十講はいずれも道長が殊に力を入れて営んだことが伝わっています。
法華三十講の盛大さも勿論ですが、寛弘元[1004]年の東三条女院詮子追善八講は、道長が自ら写経し外題は具平親王に依頼、また30年以上朝廷の仏事への参仕を断り続けてきた高僧を講師に招請していて、この法会に対する意気込みが感じられますし、寛仁二[1018]年の亡父母追善八講も、道長は自ら『法華経』を2部書写すると共に、「よろづこのたびはわが宝ふるひてむ」(『栄花物語』巻第十四「あさみどり」)と語ったといい、その盛儀の様は『小右記』や『左経記』にも綴られています。
治安二[1022]年の八講についてはあまり詳しい記録が残っていませんが、故人の遺言によって営まれた法会であること、また会場が法成寺阿弥陀堂(無量寿院)で、この2ヶ月前に善美を尽くした金堂落慶供養が営まれたことなどを考え合わせると、やはり特別な配慮が加えられたのではないかと想像されます。

『源氏物語』に描かれた法華八講を見ると、まずはっきりと音楽と舞の両方が描かれているものとして、紫の上が営んだ法華経千部供養が挙げられます。

楽人、舞人などのことは、大将の君、取り分きて仕うまつりたまふ。(中略)
夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色いろ、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、もののあはれもおもしろさも残らぬほどに、陵王の舞ひ手急になるほどの末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに、(中略)
親王たち、上達部の中にも、ものの上手ども、手残さず遊びたまふ。(御法巻)

特に意を用いて楽人・舞人が準備され、一晩中読経が続いた後、明け方に舞楽、更には参会者達による管絃の遊びも催されています。
殊に舞楽の描写は春爛漫の自然描写と相俟って実に華やかで美しく、効果的に場面を盛り上げていますが、実際の法会の中での舞・音楽の位置付けを踏まえるとそれだけに留まらず、紫の上が「自分が催す行事はこれが最後」との覚悟の下に、万事に心を砕いてこの法会を執り行ったことがわかります。
おそらく紫の上には、出家して仏に仕えることができない代わりに、せめて丁重に盛大に経典を供養することで少しでも善行を積みたいという、切実な願いがあったのだろうと思います。
それと同時に、これまで二条院・六条院での多くの雅な行事に集い、今回の経供養にも列席してくれる人々への惜別の思いも。
そして準備を受け持った夕霧の方も、この経供養に舞人・楽人を必要とすること自体から、紫の上の気持ちを感じ取っていたのではないかと思います。
取り分きて」人員を調えた夕霧の心中には、単なる紫の上に対する思慕の念だけでなく、そうした思いを汲み取る心遣いもあったのではないでしょうか。
そんな想像をしてみたくなります。
(写真上は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より陵王の舞。
下は参考資料として、風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より竜頭鷁首の舟に乗った楽人達)

もうひとつ、明示はされませんが舞や音楽を伴ったのではないかと読めるのが、光源氏主催の桐壺院追善八講です。

権大納言殿の御八講に参りてはべるなり。いとかしこう、生ける浄土の飾りに劣らず、いかめしうおもしろきことどもの限りをなむしたまひつる。(蓬生巻)

八講に参仕した律師のこの台詞からは、世俗の楽しみを捨て仏に仕える身であってさえ目を奪われ人に語らずにはいられないほど、荘厳かつ興趣に富んだ法会だったことが伝わってきます。
政界復帰を果たし間もなく政権の中枢を担うことが確定している源氏が、亡き父院のために贅を尽くし趣向を凝らした営みの中には、大法会を模して取り入れられた舞楽や舟楽などもあったのではないかと思います。

さて次回は、上に引いた蓬生巻でも言われているように、しばしば「極楽もかくや」と語られる絢爛豪華な法華八講という仏事を営むことの社会的影響や政治的意図といった、極めて現世的な側面をご紹介します。

【参考文献】
甲斐稔「胡蝶巻の季の御読経」(室伏信助編『源氏物語の観賞と基礎知識18 初音・胡蝶・蛍』〔至文堂 2001年〕所収)
天納傳中[ほか]編著『仏教音楽辞典』法蔵館 1995年
栗林史子「法華八講に関する二、三の問題―『御堂関白記』を中心に―」(『駿台史学』85号 1992年 pp.1-28)
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
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2007年4月20日 (金)

法華八講(12)写経・経供養

114hakkou_29 115hakkou_30法華八講に際しては、新たに仏像を造立したり経典を書写したりして供養することがよくありました。
特に写経は、『法華経』第十「法師品」、第十七「分別功徳品」、第十九「法師功徳品」などの中でその功徳が説かれていることもあり、盛んに行われました。
中でも第十「法師品」には

若復有人。受持。読誦。解説。書写。妙法華経。乃至一偈。於此経巻。敬視如仏。種種供養。華香。瓔珞。抹香。塗香。焼香。繒蓋。幢幡。衣服。伎楽。乃至合掌恭敬。薬王。当知是諸人等。已曽供養。十万億仏。於諸仏所。成就大願。愍衆生故。生此人間。
(若しまた人ありて、法華経の、乃至一偈を受持し、読・誦し、解説し、書写して、この経巻を敬い視ること仏の如くにして、種種に華・香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・繒蓋・幢幡・衣服・伎楽を供養し、乃至、合掌し恭敬せば、薬王よ、当に知るべし、この諸人等は、已に曽、十万億の仏を供養し、諸の仏の所において、大願を成就せるも、衆生を愍むが故に、この人間に生れたるなり。)

とあり、経典を書写し仏と同等に供養礼拝する功徳が説かれたことから、平安中期から後期にかけて、美しい装飾・装丁を施した装飾経が数多く制作されました。
その頂点に位置するのが、厳島神社に現存する平家納経です。
平家納経は『源氏物語』の書かれた時代より150年も後につくられたものですが、軸に高価な玉や水晶を嵌め、金具に精巧な細工を施し、表裏とも金銀の切箔や砂子・野毛をふんだんに散らした色紙に多彩な顔料で表紙・見返しの絵を描いた経典の姿は、善美を尽くした平安時代の装飾経の粋を現代に伝えてくれます。
またこれほど豪華ではなくとも、奈良時代以来の伝統的な紺や紫の地の紙に金泥または銀泥で書写した経典にも、10世紀頃から見返しに金銀で経意絵(経典の主旨を表現した仏画)を描く装飾が加えられるようになりました。
見返し絵を描いた写経の早い例と目されるのは、醍醐天皇が母后胤子のために書写し延長三[925]年八月二十三日に供養した宸筆法華経で、紺紙金字で紺の綾を裏に打ち、経意絵が描かれ水晶の軸と縹の組帯で仕立てられたと伝わっています(『大日本史料』1編5冊所引『勧修寺文書』)。
『栄花物語』には、法華八講の捧物として「銀の法華経一部」(巻第二十七「ころものたま」)が現れる他、治安元[1021]年秋に皇太后宮妍子の女房達30人が結縁して『法華経』二十八品及び開結二経を書写し経供養を営んだ記事では、極めて華麗な装飾経が描き出されています。

経の御有様えもいはずめでたし。あるは紺青を地にて、黄金の泥して書きたれば、紺泥のやうなり。あるは綾の文に下絵をし、経の上下に絵を書き、また経のうちのことどもを書き現し、涌出品の恒沙の菩薩の涌出し、寿量品の常在霊鷲山の有様、すべていふべきにもあらず。提婆品はかの竜王の家のかたを書き現し、あるは銀、黄金の枝につけ、いひつづけまねびやるべき方もなし。経とは見えたまはで、さるべきものの集などを書きたるやうに見えて好ましくめでたくしたり。玉の軸をし、おほかた七宝をもて飾り、またかくめでたきこと見えず。経函は紫檀の函に、色々の玉を綾の文に入れて、黄金の筋を置口にせさせたまへり。唐の紺地の錦の小紋なるを折立にせさせたまへり。あなめでた、同じくはかうやうにしてこそ、持経にしたてまつらめと見えたり。(巻第十六「もとのしづく」)

『源氏物語』でも、藤壺主催の法華八講で

日々に供養ぜさせたまふ御経よりはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀の飾りも、世になきさまにととのへさせたまへり。(賢木巻)

と、美麗な装飾経を用意したことが、藤壺賛美の口調で語られます。
現代人から見ると、こうした記述はいかにも貴族趣味的・唯美主義的に思えるところですが、当時の人々にとっては単なる美的趣味に留まらず、写経の功徳を頼む信仰心の表出でもあったのだと想像されます。
(上の写真はいずれも風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より。
左は、北廂に立てられた経机の上の経巻。右は、本尊前の経机に乗った経巻。
どちらも金泥で本文と見返し絵が描かれています)

ところで、『法華経』を書写するにはどのくらいの労力がかかったのでしょう。
鳩摩羅什訳『妙法法華経』は八巻から成り、文字数は70,000文字を超えると言います。
高木豊氏は『平安時代法華仏教史研究』(平楽寺書店 1973年)の中で、

時代は降るが、『二中暦』では、法華経一部八巻二十八品を一日で書写するには、書手三十人、催二人、調巻師三人を要し、費用は書手に浄衣三十両、書手布三十段、催二人に各疋絹、調巻師には布三段と浄衣が与えられ、さらに墨三十廷・筆三十管・饗三十五前(料米三解五斗)・酒肴一度(料米三斗)・外題書料一段を必要とした。

116hakkou_31と述べており、これに従えば、紫の上のように1,000部を書写させるには人員延べ35,000人、1日1部のペースで3年近くかかる計算になります。
紫の上の法華経千部供養が「げに、石上の世々経たる御願にや」(御法巻)と評されるのも納得です。
法華八講では、主催者が自ら書写した『法華経』を供える例が少なからずありますが(例えば、天暦九[955]年一月四日発願の村上天皇宸筆八講、寛弘元[1004]年五月十九日発願の藤原道長による東三条女院追善八講、寛仁二[1018]年十二月十四日発願の藤原道長主催亡父母追善八講など)、1人で書写すると終日かかりきりでも1部完成させるのに30日かかる訳で、故人への強い思いがなければ難しいことだったのではないかと思われます。
それ故に、自筆の写経は

永昭いみじくめでたく仕うまつれり。御経は手づからかかせたまへればにや、いみじくめづらかなることども言ひつづけたり。殿ばらなどいみじう聞しめしはやしたまふ。「瑠璃の経巻は霊鷲山の暁の空よりも緑なり。黄金の文字は上茅白の春の林よりも黄なり」など、いみじくしもてゆけば、(『栄花物語』巻第十四「あさみどり」)

というように、講師も大いに褒め称え功徳を讃美したのでしょう。
(写真は風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、唐櫃に収められた1,000部の経巻。
美しい絹布の表紙が付けられています)

尚、書写した経典を地中に埋める埋経が盛んに行われたのも平安中期以降の法華信仰の特色のひとつで、埋経に当たっての経典供養として、法華八講とは形式が異なりますが法華講会(法華経を講説・礼讃する法会)が営まれることがありました。
今年は、藤原道長が金峯山に法華経をはじめとする多数の経巻を埋納してからちょうど1000年に当たります。

※掲載した写真は、いずれも博物館の許可を得て模型上方から撮影させていただいたものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
奈良国立博物館編集『厳島神社国宝展 : 台風被災復興支援』読売新聞大阪本社 2005年 ※展覧会図録
小町谷照彦編『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』至文堂 2001年
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
今泉淑夫編『日本仏教史辞典』吉川弘文館 1999年
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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2007年4月15日 (日)

法華八講(11)捧物その2~風流と工夫~

108hakkou_23 109hakkou_24 平安時代の人々が残した法華八講の記録を読むと、薪の行道、中でもそこで巡った捧物が大変な見ものとして注目を集めたことがわかりますが、では具体的にどのようなものが捧物とされたかというと、例えば『栄花物語』の以下の記述が非常に詳しい内容になっています。

女院の御捧物、優曇華を造りたり。三条院の中将持ちて廻る。皇太后宮の、華籠に菊さまざまの花入れて、玉を貫きて緒にしたり。重ねたるをやがてその宮の亮公基取りてつづきたり。次には中宮の、菊の花を籬を結ひたり。黄金、銀、黄菊、白菊にて二つなり。新大納言の御子の四位少将基長取りたり。皇后宮のは、如意宝珠、金の糸して結び、玉を貫きたりなど三つありければ、源中将隆綱、宮の亮師基の弁、民部卿の中将とぞ持たまへる。東宮のは、金の水瓶、盥、やがて資仲の弁。女御殿のは鏡台の鏡、敦家の少将持たり。殿の一の宮のは、香壺の筥に壺四つ据ゑて、金の菊を挿したり。忠俊の前少将。前斎院のは、盥に水瓶、みな金なり。少納言実宗持ちて廻る。(中略)左の大殿、右の大殿、内の大殿など、さまざまに団扇、蝶の大きなるなどぞ持たせたまへりし。ただの上達部は香炉を五葉の枝につけたまへり。殿上人はわけさらなり。源大納言殿は、今は内の大殿と聞えさす、その御子の中納言こそ、桜の枝に鞠つけて持たせたまへりしか。(巻第三十七「けぶりの後」)

110hakkou_25 111hakkou_26治暦元[1065]年九月二十五日発願の高陽院内裏八講の記述です。
風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」の捧物は、正にこの記述を基に作成されたものだそうですので、百聞は一見に如かずで写真をご覧いただくのが一番かと思います。
まず写真上左の捧物が優曇華、右が金銀の造花を盛った華籠。
真ん中左は、手前の1人は籬を結って金銀の造花を植えた細工物を、奥の2人が金の亀の背に乗せた水晶の如意宝珠を持っています。
真ん中右の捧物は、手前から順に金の水瓶、鏡、香壺の筥に4つの壺を載せて金の造花を挿したもの。
下左の捧物は右側が団扇、左側が蝶を模った金細工で、下右のは右手前が五葉の枝に付けた球形の釣り香炉、左手奥が桜の枝に付けた鞠です。
上の『栄花物語』引用文とぴったり一致する展示になっています。

この他にも『栄花物語』の中では、巻第二十七「ころものたま」に万寿三[1026]年五月十九日発願の皇太后妍子主催三条天皇追善八講の捧物が詳しく列挙されています。
それらに『小右記』や『御堂関白記』『左経記』などの記述も加えてまとめると、帝や后の捧物として砂金を納めた瑠璃の壺というのがよく登場する他、香木・香炉・数珠・経典などの仏具、袈裟・横被(おうひ。七条袈裟の附属具で、右肩を覆う細長い縁付きの布のこと)・袿・袴などの衣類、皿や匕・染料・紙・墨・衣筥・火鉢・琴などの多様な日用品、綾・生絹などの布類が捧物とされた例が見られます。

112hakkou_27 113hakkou_28 『小右記』長和三[1014]年五月八日条には、道長主催の法華三十講に公卿の多くが袈裟を献じる中、実資は「此檀念珠」(「」は「紫」の誤り?)を捧物として道長に褒められた、という記述があります。
どうも他の人と重なってしまうのはあまり喜ばれなかったようで、繊細な美意識が求められた平安時代らしく、捧物にも他の人とは一味違う工夫が必要だったと見えます。
また、上の引用文にも似た例がありますが、小物を捧物にする場合は作り物の枝につけて風流を為したりもしたようです。

これだけ手の込んだものを用意する訳ですから、捧物を出す関係者は以前から入念に準備をしたようです。
『小右記』寛仁二[1018]年十二月七日条には、この10日後から始まる八講の捧物とするための香炉が届いた、という記述が出てきます。
これ以前に、予め注文を出してつくらせていたのでしょう。
『源氏物語』でも、紫の上による法華経千部供養で

内裏、春宮、后の宮たちをはじめたてまつりて、御方々、ここかしこに御誦経、俸物などばかりのことをうちしたまふだに所狭きに、まして、そのころ、この御いそぎを仕うまつらぬ所なければ、いとこちたきことどもあり。(御法巻)

とある「いとこちたきことども」の中には、このように趣向を凝らした捧物の用意も含まれていると思われます。

薪の行道の後、これらの捧物は堂内や庭に設けられた台の上に並べられました。
寛和元[985]年三月二十八日に五巻の日を迎えた宗子内親王主催の藤原伊尹追善八講のように、公卿の捧物は堂の上、それ以下の人々の捧物は庭に長筵を敷いてそこに置く、と身分によってはっきりと区別されることもありました(『小右記』同日条)。
また長和元[1012]年五月十七日が五巻の日であった皇太后宮彰子による一条天皇追善八講では、

左右近官人並相府随身等舁如舞台物、正当御殿南階立構高欄、曳帽額、不異舞台、[其構其二推合立、南有階、]予問左相府、被答云、可置捧物之料也、往古所不見聞、(『小右記』同日条)

と、寝殿前庭に舞台のような巨大な台が用意されたことが、驚きを込めて記録されています。
このときの八講は、法華八講(9)薪の行道で引用文を挙げたように、道長や実資も感嘆するほどの絢爛豪華な捧物が揃いましたが、量的にも「金銀瑠璃物置満捧物台」(『小右記』同日条)という状態になったということで、規模の大きさが窺われます。
因みに、この6年後の寛仁二[1018]年十二月に道長が営んだ亡父母追善の法華八講でも、同様に舞台が構えられたことが、同じく『小右記』同月十六日条に記されています。

捧物について、『源氏物語』では全くと言っていいほど具体的な描写がありませんが、史料が伝える捧物の有様は、当時の人々の注目の的であり平安貴族文化の栄華の極みを示したものだったと言えると思います。

※掲載した写真は、いずれも博物館の許可を得て模型上方から撮影させていただいたものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
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2007年4月14日 (土)

法華八講(10)捧物その1~参会者と非参会者~

087hakkou_02平安時代の法華八講において衆目を集めた薪の行道を煌びやかに彩ったのは、参会者が持ち寄るさまざまな捧物(ほうもち)でした。
捧物は、読んで字のとおり仏前に供える捧げ物で、「以其捧物分施請僧」(『扶桑略記』天暦九[955]年正月四日条)との記述が伝えるように、実質的には法会に奉仕した僧達への布施になりました。

今日の御捧物はをかしうおぼえたれば、事好ましき人々はおのづからゆゑゆゑしうしたり。それは制あるべきことならねばにこそあらめ。(『栄花物語』巻第八「はつはな」)

との記述が物語るように、仏様への捧げ物という性格から、贅を尽くし数寄を凝らしても過差を咎められることはなかったらしく、人々は競って華麗で風雅な捧物を用意しました。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、思い思いに趣向を凝らした捧物を手に行道する上達部・殿上人達。
この写真は、博物館の許可を得て模型上方から撮影させていただいたものです)

法会に列席する人は勿論のこと、主催者よりも身分が高く自ら会場に足を運ぶことのない人も、主催者との関係に応じて五巻の日に使者を立て、捧物を届けました。
一例として藤原道長の場合を取り上げてみると、寛弘元[1004]年五月十九日発願で自ら営んだ東三条女院詮子追善八講には一条天皇・花山院・中宮彰子から捧物を賜っており(『御堂関白記』同月二十一日条)、彼の家司であった源頼光が長和四[1015]年閏六月十二日から営んだ法華八講には捧物を出している(『小右記』同月十五日条)、といった具合です。
自分が主催した八講・三十講に関する『御堂関白記』の記述は概ね簡略なのですが、その中で后の宮なり院なりから捧物として何々を賜った、ということは比較的よく記録されている印象があります。
高位の人物から贈られる捧物には、参会者の顔ぶれと並んで主催者の権勢のバロメーターのような意味合いがありましたので、道長の記録の仕方もあるいはそれと関連するのかもしれません。
(この点については後の回で改めてご説明いたします)

『源氏物語』の場合ですと、紫の上主催の法華経千部供養で

内裏、春宮、后の宮たちをはじめたてまつりて、御方々、ここかしこに御誦経、俸物などばかりのことをうちしたまふだに所狭きに、
(御法巻)

とあるうち、帝と東宮、后達(秋好中宮・明石中宮)は参会せずに捧物を届けるパターンで、御方々(花散里・明石の君)は捧物を持参して列席したということになります。
また、藤壺主催の法華八講では

親王たちも、さまざまの捧物ささげてめぐりたまふに(賢木巻)

とあり、親王達が自ら捧物を手に行道したと読めますが、これは主催者が中宮であり内親王である藤壺であればこそのことではないかと思います。

では、具体的にどのような捧物が用意されたか、次回ご紹介いたします。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
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2007年4月11日 (水)

法華八講(9)薪の行道

華やかに営まれた法華八講の中でも、最も贅を尽くし絢爛たる趣向を極めたのが「五巻の日」に行われた薪の行道です。
行道とは、本尊または堂塔の周囲を右回りに巡る仏教の作法で、貴人の周囲を回る古代インドの礼法が源泉になっています。
法華八講の行道に特に“薪の”と冠される理由は、『法華経』第五巻に収められた第十二品「提婆達多品」に説かれる以下のような釈尊の過去世に基づきます。

かつて国王だった釈尊は、完全な悟りを得ることを念願し、「私に優れた教えを授けてくれる人がいれば、私はその人の奴隷となろう」と国の四方に告げ知らせました。
すると、1人の仙人がやってきて「あなたが私の奴隷になってくださるのでしたら、最も優れた教えを示す経典『法華経』をお教えしましょう」と言ったので、釈尊は喜んで仙人に随い、木の実を採り水を汲み、薪を拾い食事の仕度をし、時には自分の身を仙人の腰掛けとまでして奉仕しました。
釈尊は1000年もの間仙人に仕え、遂に『法華経』の教えを得て六波羅蜜の完成を成し遂げました。

106hakkou_21一般的な行道では僧達が華籠を手に散華しながら巡りますが、法華八講の行道では釈尊のこの苦行を偲んで、薪や水桶、菜籠などを背負った人々が加わり、
法華経を我が得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し
という、行基作とも光明皇后作とも伝わる法華讃嘆を唱えながら回りました。
「薪の行道」の呼び名は、ここに由来します。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、水桶〔手前〕と薪〔奥〕を背負って行道する六位の官人)

行道で薪や水桶を背負う作法がいつ頃始まったのかははっきりせず、法華八講の最初から行われていた訳でもないようですが、『大日本史料』第1編之1(東京大学史料編纂所提供tiff版)所引『願文集』二には、寛平元[889]年の光孝天皇一周忌に嘉祥寺で修された法華八講について「乙卯、彼八講、今日已当五巻之講、令先帝近侍者□荷薪搬水之役」との記述があり、9世紀末には既に行われていたことが確認できます。
他にも、

五巻日、殿上人持御捧物立王卿前、蔵人荷薪若菜籠、(『西宮記』巻第十三「御八講」)
衛府三人荷薪水菜等如恒(『小右記』長和元[1012]年五月十七日条)
きたなげなき六位の衛府など、薪こり、水など持たるをかし。(『栄花物語』巻第八「はつはな」)
蔵人、薪こり水とりなどして、(『栄花物語』巻第三十七「けぶりの後」)
僧侶下立東庭、舞人・楽人左右相交一行列立行道、次衆僧、[證義者以下次第列立、]次荷薪・菜籠・水桶、蔵人三人[左衛門尉盛季・進士実親・大舎人助泰隆、各着青色荷之、]持之相従、(『中右記』長治元[1104]年八月六日条)

などの記述が見え、概ね六位程度の下級の参会者がこの役目を担ったことがわかります。

107hakkou_22 薪の行道では、精義以下の僧侶達と荷薪搬水の役の後、各々の用意した捧物を捧げ持つ参会者が続きました。
会場に臨席しない高位の人や女性の捧物は、使者など代理の人物が持ちました。
やはりこれが最大の注目の的だったようで、『栄花物語』や『小右記』『中右記』などには、誰の捧物は何で誰が持って巡ったか、といった事柄が詳細に書き留められています。
捧物には各参会者が競って趣向を凝らしたようで、長和元[1012]年五月十七日に五巻の日を迎えた皇太后彰子主催一条天皇追善八講の捧物のように、「皆無不金銀、尽善尽美」「捧物甚優美、以金銀為風流」(『小右記』同日条)「数度見八講此度不如、自金銀無外物、衆人所感有之」(『御堂関白記』同日条)と、参会者の目を奪う絢爛豪華な品々が揃えられることもありました。
(捧物にどのようなものが用いられたかの具体例は、次回ご紹介いたします)

ですが、『源氏物語』で薪の行道の様子が多少なりとも具体的に描写されているのは、藤壺主催の法華八講だけです。

親王たちも、さまざまの捧物ささげてめぐりたまふに、大将殿の御用意など、なほ似るものなし。(賢木巻)

この場面でも、モノよりも人に焦点を当てる『源氏物語』の特徴が表れていて、捧物が何だったかには触れず、捧物を捧げて行道する源氏の立居振舞の素晴らしさを賞賛しています。
その他は、紫の上主催の法華経千部供養での「薪こる讃嘆の声」(御法巻)が、行道の際に唄う法華讃嘆を指していると推定される程度です。
あとは間接的な描写として、明石中宮主催の法華八講の場面で

五巻の日などは、いみじき見物なりければ、こなたかなた、女房につきて参りて、物見る人多かりけり。(蜻蛉巻)

との一文があります。
この「いみじき見物」の中心は、煌びやかな捧物を手に人々が巡る薪の行道だったと思われます。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、薪の行道で本尊の周りを巡る人々。
手前左端の僧を先頭にして、荷薪搬水役の官人、捧物を捧げ持つ殿上人・上達部の順に右回りで並んでいます)

ところで、これも上に引用した『中右記』の記述からわかる点ですが、薪の行道は基本的に屋外で行いました。
会場が寺院のときは堂の外縁を、貴族邸宅のときは寝殿の前庭を巡りました。
屋外での行道であればこそ、治暦元[1065]年九月二十五日から高陽院内裏で営まれた法華八講に際して
皇后宮下におはしませど、何ごとも向ひたるやうにて、行道などもやがて同じごと御覧じつべし」(『栄花物語』巻第三十七「けぶりの後」)
と、寛子皇后が自分の局にいながらにして見物することも可能だったと理解できます。
屋外で行うとなれば、必然的に天候に影響されることになり、雨天順延ということも起きてきます。
有捧物事、依雨不廻庭中、只廻殿上」(『小右記』長徳四[998]年三月二日条)の例のように、やむを得ず屋内で行道を行うこともありました。
尚、現在も比叡山延暦寺の法華大会では、正装した僧侶達が平安時代の薪の行道さながらに大講堂の周囲を巡り歩くそうです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
天納傳中[ほか]編著『仏教音楽辞典』法蔵館 1995年
今成元昭「法華八講の<日>と<時>―古典解読のために―」(「立正大学人文科学研究所年報」31号 1994年 pp.1-9)
坂本幸男, 岩本裕訳注『法華経』(岩波文庫 青(33)-304-1~3)改版 岩波書店 1976年
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
儀礼文化学会HP内「比叡山延暦寺/法華大会・広学竪義

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2007年4月 6日 (金)

法華八講(8)僧の役割

104hakkou_19 法会の中心になるのは、勿論儀式を司る僧侶です。
法華八講は大規模な法会だけあって、多数の僧が招請されました。
請僧には、それぞれ精義(「證義」「證匠」とも)・講師・問者・聴衆などの役割が割り振られます。
精義・講師・問者については、既に法華八講(1)概要で述べたとおりで、問者と講師とが教義上の問答を行い、精義がその判定を行います。
聴衆は、法会に参列して説法を聴聞する伴僧です。
(写真上は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、行道する僧侶達)

それぞれの役割は別々の僧が勤めるのが基本と思われますが、中には
證義者、大僧都定澄・前大僧都院源、[兼講師、]」(『小右記』長和元[1012]年五月十五日条)
の例のように、1人の僧が精義と講師を兼ねる場合もありました。
また、
撰難問傑出之者廿人。為其聴衆。」(『扶桑略記』天暦九[955]年一月四日条)
朝講々師前大僧都院源、[則是證者、]問融碩、(中略)夕講々師少僧都澄心、問明尊、(中略)
聴衆、融碩・明尊・(後略)」(『小右記』長和元[1012]年五月十五日条)
などの記述から推測するに、聴衆の中から各座の問者が出る仕組みになっていたようです。
その他、記述のない例も多いので常にいたのかどうかははっきりしませんが、法会の中で唱える声明を担当する錫杖衆や梵音衆、法会の進行や雑務を担う堂達などが配されました。
(写真下は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、堂の端に控える堂達)

105hakkou_20 僧の人数は、天暦九[955]年一月四日から営まれた村上天皇宸筆八講では総勢65人(『扶桑略記』)、嘉承二[1107]年閏十月十二日初日の篤子内親王主催堀川天皇追善八講では10人(『殿暦』『中右記』)と、かなりの幅があります。
当時の記録を見ると、精義が2・3人、講師が10人前後、聴衆が10~20人程度といった構成が多く目に付きます。
錫杖・梵音について記録されている例を見ると、村上天皇宸筆八講では各16人(『扶桑略記』)、長保四[1002]年十月二十二日から一条天皇が営んだ母后藤原詮子追善八講では各14人(『権記』の記述。『本朝世紀』では梵音13人)、永延元[987]年四月二十九日からの円融法皇による母后藤原安子追善八講と万寿四[1027]年八月二十三日からの法成寺釈迦堂供養では各10人(いずれも『小右記』)と記されており、両方で20~30人が選ばれたようです。
堂達は、上述の藤原詮子追善八講で1人だったことが確認できる(『本朝世紀』)他、村上天皇宸筆八講で役割の確認できない1人(『扶桑略記』)がやはり堂達ではないかと推測されます。
精義・講師・聴衆と足し合わせると概ね40人以上、大規模になると60人を超える僧が招請されたことになります。

法華八講(1)概要でも触れたように、法華八講は経典の解釈を論じる法会です。
ですから、この出席する僧達(特に論議に関わる精義・講師・問者)には、当然のことながら深い学識が求められました。
光源氏主催の法華八講で

ことに僧などは、なべてのは召さず、才すぐれ行なひにしみ、尊き限りを選らせたまひければ、(蓬生巻)

と記されるのは、単に理想的な仏事の有様を表現したというだけでなく、法会の性格から必然的に要請された条件でもあったと言えます。

講座の主役は、説経をし問者の問いに答える講師です。
公家日記にも「朝座講師」「夕講々師」などの形で個々の座の講師の名を書き残した例が数多く見られ、それだけ当時の人々の講師に対する関心が高かったことを窺わせます。
清少納言に至っては

説教の講師は、顔よき。講師の顔を、つとまもらへたるこそ、その説くことの尊とさもおぼゆれ。ひが目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは罪を得らむとおぼゆ。(『枕草子』第三〇段「説教の講師は」)

などと書いており、あまりに俗な意見とも言えますが、講師への注目の一端がわかる内容です。
また講師には、宗教的な学識だけでなく主催者や世俗の参会者を感動させる話術も必要で、優れた講師の説経が人々を引き込む様は、しばしば同時代の記録に書き留められています。

朝座の講師清範、高座の上も光りみちたるここちして、いみじうぞあるや。(『枕草子』第三十二段「小白河といふ所は」)

永昭講経之間、殊尽弁才、大殿不堪感懐、忽解着剣、自進座下授之、(『左経記』寛仁二[1018]年十二月十八日条)

五日が説経いと尊し。かくめでたき事ども世にはありけりと見ゆ。(『栄花物語』巻第三十七「けぶりの後」)

『源氏物語』でも、先に挙げた蓬生巻の記述の他、藤壺主催の法華八講3日目の場面で

今日の講師は、心ことに選らせたまへれば、「薪こる」ほどよりうちはじめ、同じう言ふ言の葉も、いみじう尊し。(賢木巻)

との描写があります。
八講のクライマックスというべき五巻の日の講師は、中でも特に注目された筈ですので、「心ことに」と意を用いるのも自然なことです。

平安貴族の煌びやかな法華八講は、このように大勢の学才に秀でた僧達の手で執り行われていたのです。

【参考文献】
中村元[ほか]編『岩波仏教辞典』第2版 岩波書店 2002年
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
山本信吉「法華八講と道長の三十講」(上:「仏教芸術」77号 1970年 pp.71-84 下:「仏教芸術」78号 1970年 pp.81-95)
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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