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2007年6月11日 (月)

陵王

117hakkou_32128ryooh_1 「陵王」は、左方唐楽の代表的な一人舞で、走舞の傑作とされています。
雅楽会の公演や法会などでの奏舞の機会が非常に多く、最近では2005年のNHK大河ドラマ「義経」のオープニング映像にも登場しましたので、全般に現代人には馴染みの薄い舞楽の中にあってはよく知られた舞だろうと思います。
調子は沙陀調(壱越調の枝調子)。
番舞は、こちらも名作と名高い「納曽利(落蹲)」です。
「陵王」の他に「蘭陵王」「羅陵王」「竜王」などとも称され、舞を「陵王」、曲を「蘭陵王」と呼び分けるとも、「陵王」は単に「蘭陵王」を略したものとも言われます。
更に「没日還午楽」の別称もあります。
(写真左は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、陵王の舞。右は高島千春筆『舞楽図』より「蘭陵王」)

作舞の由来は、『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書。狛近真著)巻第一に次のように記されています。

北斉の王・長恭(=蘭陵王)は大変な美貌の持ち主で、兵士達が戦よりも王の姿を見ようとばかりするので、軍の士気を高めるために戦場ではその容貌を隠して獰猛な仮面を被って指揮を執り、見事勝利を収めました。
この舞はその武勇を象ったもので、「蘭陵王入陣曲」と言います。

一方で『教訓抄』は異なる由来も伝えており、そちらは以下のような内容です。

隣国との戦の最中に死去した王の後を継いだ脂那国の太子が、争いを鎮められず父王の墓前で苦戦を嘆いたところ、父王の魂が沈みかけていた日を中天に呼び戻し、敗れかけていた合戦に勝利することができました。
人々はこぞってこれを祝して舞い歌い、「没日還午楽」と名づけました。

どちらの説も、戦勝にまつわる中国の伝承に基づくという点は同じです。
日本へは林邑(現在のベトナム一帯)僧仏哲が伝え、尾張連浜主(8世紀の楽師。生没年不詳)が孝謙天皇の命を受けて一部改作したとされます。

129ryooh_2 130ryooh_3 装束は別様装束(特定の舞にのみ用いる専用の装束のこと)で、赤大口・差貫袴(さしぬきのはかま)・袍・毛縁裲襠(けべりりょうとう)・当帯・糸鞋(しかい)に、面と牟子、右手に持つ金色の桴(ばち)から構成されます。
袍は闕腋袍で、平舞で着用する襲装束の袍とは違って袖先に露紐が通っており、着装時には露紐を絞って手首で括ります。
毛縁裲襠は、名前のとおり毛で縁取りされた袖なしの貫頭衣で、袍の上に着ます。
首の部分がV字になっているのは、風俗博物館の展示レジュメによると『春日権現験記』(延慶二[1309]年作)『舞楽図巻』(応永十五[1408]年作?)に基づいての古様の再現だそうです。
当帯も、現行の舞楽ですと銅製で金メッキを施したものを用いますが、展示では裲襠と別布の摂腰(せびえ)になっています。
糸鞋は白絹糸で編んで牛皮の底を張った履物で、舞人・管方共通です。
この曲の装束を特徴付けるのは何と言っても面で、上部に竜頭もしくは金翅鳥が付いた金色の猛々しい吊顎面を着用します。
桴は、『教訓抄』に従えば「鞭(べん)」と呼ばれる中国の武器を模ったもので、伝来当初はもっと長かったのが、改作によって一尺二寸(約36cm)に縮められたと言います。
全体に赤と金を基調とする、非常に豪華な舞装束です。
(写真はいずれも風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より)

131ryooh_4 曲の構成は、まず〈小乱声〉が奏され、次に〈陵王乱序〉の演奏と共に舞人が登台して〈出手〉を舞います。
この〈陵王乱序〉の所作にはそれぞれ名前があり、中に「日掻返手(ひをかきかへすて)」という桴を翻す動きがあります。
『源氏物語』橋姫巻の薫が宇治の姉妹を垣間見る場面で大君が「入る日を返す撥こそありけれ」と言う台詞は、この所作を典拠としたものです。
続いて〈囀〉で、一度音楽が途切れ舞人の動きだけになります。
〈囀〉という名前からも窺われるとおり、本来はここで舞人が謡うのですが(『教訓抄』には3説の詞が記されています)、発声法が失われているため現代の奏舞では言葉は発しません。
その後、〈沙陀調音取〉を挟んで、当曲〈破〉。
〈破〉の振りは非常に活発で、桴を振り上げたり高く脚を上げたりする所作があります。
最後に〈安摩乱声〉が奏される中〈入手〉を舞って降台、退場します。
『教訓抄』巻第一には、〈囀〉と〈沙陀調音取〉の間に「嗔序(しむじょ)」、〈沙陀調音取〉と当曲の間に「荒序(くわうじょ)」が記されていますが、後に廃絶してしまい現代には伝わっていません。
また、『源氏物語』御法巻の紫の上による法華経千部供養の場面に「陵王の舞ひ手急になるほどの末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに」という描写がありますが、以上のとおりこの曲には〈急〉が存在せず廃絶した形跡も見られないため、古くから諸注が疑問を呈しています。
(最後の写真は、平安雅楽会による「陵王」。2007年5月20日撮影)

平安時代には競馬・相撲・賭弓などの勝負事で左方が勝利した際に舞われた他、算賀や法会での奏舞の例も多く、算賀では特に童舞で幼い子供が舞う例が目立ちます。
『源氏物語』の中では、若菜下巻の朱雀院五十の賀の試楽で髭黒大将の三男(玉鬘腹の第一子)が童舞で舞う件と、上に挙げた御法巻に描かれています。
平安時代から、さまざまな折に盛んに舞われる人気の曲目だったようです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編;須貝稔作図『源氏物語図典』小学館 1997年
多忠麿編 ; 林嘉吉撮影『雅楽のデザイン : 王朝装束の美意識』小学館 1990年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
音楽之友社編『邦楽百科辞典:雅楽から民謡まで』音楽之友社 1984年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年

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