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2007年6月20日 (水)

賀王恩

132gaoon_1 133gaoon_2 「賀王恩」は、左方唐楽の大食調の曲で、四人舞の平舞です。
「王」の代わりに「皇」の文字を用いる場合もあり、別名「感皇恩」とも言います。
嵯峨天皇の時代に大石峯良がつくったと伝えられますが、大石峯良は10世紀中葉の人物で嵯峨朝では時代が合わず、また中国にも唐の太宗の作とされる同名の曲が存在することもあり、大陸から輸入された後に日本で改作されたものかとも推測されています。
曲名のとおり皇恩を賀(よろこ)ぶ意を表す曲で、特に上皇算賀の際に参音声(まいりおんじょう。楽人・舞人が入場して所定の位置へ着くまでの間に奏する音楽)として演奏されました(*注)。
(写真左は、2005年風俗博物館出張展示「六条院へ出かけよう」より、「賀王恩」を舞う童。右は、高島千春筆『舞楽図』より「賀王恩」)

この曲は、舞が早くに失われてしまったため、現在では具体的な内容を知る術がほとんど残されていません。
上に写真を載せたとおり、『舞楽図』(高島千春筆。文政六[1823]年作)には賀王恩の舞姿が載っているのですが、舞自体はずっと以前に廃絶しており、また情報源に類する記述が残されていないため、何を元に描かれたのかわかりません。
最初に「四人舞」と書きましたが、これも本によって一人舞または六人舞と書かれているものもあり、はっきりと断言はできないのが実際のところです。
番舞も、『楽家録』(元禄三[1690]年成立の雅楽書。安倍季尚著)巻之三十六では「石川」と「綾切」が挙げられていますが、『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書。狛近真著)には「無答舞」(巻第七)と記されていて、やはりよくわかりません。
また奏楽についても、『教訓抄』に「昔ハ五切アリケレドモ、二切ハ絶テ、今三切ゾ侍ル」(巻第三)と記されていて、鎌倉時代には既に一部が失われていました。

こんな訳で今となってはわからないことだらけの舞曲ですが、『教訓抄』巻第三に

光近ノ口伝云、「第三帖ハ四方ヲ拝シテ居。東南西北也」。皇恩を賀心ト謂之。

とあり、舞の終わりの方で東から時計回りに四方を拝する所作があったことはわかります。
同巻には詠があったことも記されていますが、その詞は現代には伝わっていません。

134gaoon_3 135gaoon_4 「賀王恩」の装束は、「襲装束」または「常装束」と呼ばれる、平舞で汎用的に用いられる舞装束です。
赤大口(紅の下袴)・差貫袴(さしぬきのはかま。裾に付けた紐で足首を括る形の袴で、赤大口の上に着用する)・糸鞋(しかい。白絹糸で編んで牛皮の底を張った履物)・踏懸(ふがけ。脚絆に似た装飾具)・下襲・半臂・忘緒(わすれお。半臂を締める)・袍・金帯・鳥甲(とりかぶと)で構成されます。
風俗博物館では、天之社(高野山金剛峰寺の鎮守社)に伝わる装束や『舞楽図巻』(応永十五[1408]年作?)を参考に再現なさったそうで、童舞なので鳥甲の代わりに天冠を着けています。
(写真はいずれも、2005年風俗博物館出張展示「六条院へ出かけよう」より、「賀王恩」を舞う童)
この装束についての詳細は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に「六条院行幸『藤裏葉』巻より 賀皇恩」として掲載していただいておりますので、よろしければ併せてご参照ください。

『源氏物語』の中では、藤裏葉巻の最後を飾る冷泉帝・朱雀院の六条院行幸と、若菜上巻の冷泉帝の勅命による夕霧主催の源氏四十の賀の場面で登場します。

わざとの大楽にはあらず、なまめかしきほどに、殿上の童べ、舞仕うまつる。朱雀院の紅葉の賀、例の古事思し出でらる。「賀王恩」といふものを奏するほどに、太政大臣の御弟子の十ばかりなる、切におもしろう舞ふ。内裏の帝、御衣ぬぎて賜ふ。(藤裏葉巻)

例の、「万歳楽」、「賀王恩」などいふ舞、けしきばかり舞ひて、大臣の渡りたまへるに、めづらしくもてはやしたまへる御遊びに、皆人、心を入れたまへり。(若菜上巻)

歴史上の事例では、永祚元[989]年三月二十三日の春日大社行幸で胡蝶と番えられて童舞で、治安元[1021]年十月十五日の同じく春日大社行幸でこちらも胡蝶と共に、舞われたことが『小右記』に記述されています。

*注
『源氏物語図典』に「祝賀、特に太上天皇の御賀に用いられる」、また源氏物語音楽用語事典(上原作和氏編集)に「太上天皇の御賀などで舞われた」とあるところから、私も上記リンク先のレポートではそのまま踏襲して「特に太上天皇の御賀で舞われました」と記述しましたが、現在は若干疑問を抱いています。
『教訓抄』巻第三に「太上天皇御賀参音声、奏此曲」とあり、実例としても
参入音声、[賀王恩、]」(『中右記』康和四[1102]年三月十八日条:白河法皇五十の賀)
此間奏参入音声、[賀王恩、]」(『深心院関白記』文永五[1268]年一月二十四日条:後嵯峨上皇五十の賀の試楽)
といった記録が残っているのですが、上皇算賀で舞として奏された例が見つからないのです。
何分にも素人のしていることですので私の調査不足ということも充分に考えられますが、もしかしたら『教訓抄』の記述の「参音声」の部分が見落とされたか、『源氏物語』の用例に解説が逆に引っ張られてしまった可能性もあるのではないか…という気が少々しています。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編;須貝稔作図『源氏物語図典』小学館 1997年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
安倍季尚撰 ; 正宗敦夫編纂校訂『楽家録』(覆刻日本古典全集)現代思潮社 1977年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年
神宮司廳編『古事類苑43 楽舞部一』普及版 古事類苑刊行會 1931年
高島千春筆『舞楽図 左』(故實叢書第3輯第18回)吉川弘文館 1905年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
上原作和編「源氏物語音楽用語事典

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