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2007年7月の記事

2007年7月29日 (日)

万歳楽

143manzairaku_1 144manzairaku_2 「万歳楽」は左方唐楽平調の舞曲で、平舞の代表的名作とされています。
作曲の由来は諸説ありますが、賢帝の治世に現れるとされる鳳凰が「賢王万歳」と囀り舞い飛ぶ姿を舞曲にしたとする『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書。狛近真著)巻第一の伝承をはじめ、いずれも君主の治世を寿ぐ曲としており、その由来に相応しく、平安時代には堂塔供養などの大法会や行幸・算賀などのおめでたい場での奏舞の例が多く見られます。
現代でも、天皇即位式で舞われたり在位記念の切手の図柄になったりと、皇室の慶事と縁の深い演目です。
隋の煬帝が作らせたとする伝承から「煬帝万歳楽」、また「鳥歌万歳楽」との別名もあります(ただし「鳥歌万歳楽」は「万歳楽」とは別の曲とする説もあり)。
(写真は、左が風俗博物館2007年下半期展示「朱雀院五十賀の試楽」より万歳楽の舞、右が高島千春筆『舞楽図』より「万歳楽」)

現行の舞は四人舞ですが、平安時代には四人舞の他に六人舞の例も散見され、天暦四[950]年の残菊の宴では六人の童女が舞った記録が残り(『九暦』同年十月八日条)、『教訓抄』巻第七には内教坊で八人の女舞として教習することが記されています。
童舞の例も多く、舞人の人数にも種類にもさまざまなバリエーションがあったようです。
奏楽の方も「此楽、参音声、並ニ船楽、立楽ニ奏ス」(『教訓抄』巻第一)と、いろいろな形で演奏されました。

楽曲構成は、まず〈平調調子〉で舞人が登台し、〈出手〉を舞います。
続いて〈当曲〉に入りますが、この曲は元来七帖だったものが時代と共に省略と脱落を繰り返したようで、現在では最初の半帖と少しの譜と舞しか伝わっていません。
『仁智要録』(藤原師長[1138-1192]著の雅楽書)には早くも
長秋卿横笛譜云、本是舞七帖也、而今世舞五帖、近代弾三反[舞一二五帖也]
と記され、『教訓抄』になると
昔ハ舞五返アリケレドモ、三・四帖ハタヘテ、今ハ一・二・五帖バカリゾツタハリテ侍ル」(巻第一)
と、元が七帖だったことは既に忘れられ平安末期に省略された三・四帖は廃絶、更に一帖半(一帖すべてと五帖の前半)、一帖(一帖と五帖の各前半のみ)、半帖(一帖の前半)で舞う省略法も記載されています。
ほぼ同時期の『雑秘別録』(嘉禄三[1227]年成立の雅楽書。藤原孝道著)にも
りやくするには一反廿拍子。すゑにこのごろはいたく略して。半帖よりかみ十拍子をするに
との記述があり、一帖の前半しか現代に伝わらなかった事情を窺わせます。
現行の奏舞では、半帖で〈志止禰拍子〉(しとねびょうし)という最後の旋律で打つ太鼓を付け加えて〈当曲〉を終えます。
最後に〈入調〉で舞人が〈入手〉を舞って降台します。

145manzairaku_3 146manzairaku_4 装束は左方平舞装束で、赤大口(紅の下袴)・差貫袴(さしぬきのはかま。裾に付けた紐で足首を括る形の袴で、赤大口の上に着用する)・糸鞋(しかい。白絹糸で編んで牛皮の底を張った履物)・踏掛(ふがけ。脚絆に似た装飾具)・下襲・半臂・忘緒(わすれお。半臂を締める)・紅の袍・金帯・鳥甲(とりかぶと)から構成されます。
風俗博物館の展示では袍の色が麹塵になっていますが、これは具現した朱雀院五十の賀の試楽の場面の原文に
かの御賀の日は、赤き白橡に、葡萄染の下襲を着るべし、今日は、青色に蘇芳襲」(若菜下巻)
と記されているのに従ったもので、本来は左の装束として赤白橡(迦陵頻の袍と同じ色)の袍を用います。
片肩袒で、写真のように袍の右肩を脱いで着装します。
展示では童舞のため、鳥甲の代わりに天冠を着けています。
(写真はいずれも風俗博物館2007年下半期展示「朱雀院五十賀の試楽」より、万歳楽を舞う童)

番舞は、現行では延喜楽にほぼ固定されていますが、平安時代には地久と番えられる例が多く、他にも新鳥蘇・長保楽・綾切・皇仁などさまざまな曲が答舞になっています。

『源氏物語』では、いずれも算賀の宴を彩る舞として登場しており、若菜上巻の紫の上による光源氏四十の賀の薬師仏供養の精進落としと冷泉帝の勅命による夕霧主催の光源氏四十の賀では名前だけですが、若菜下巻の朱雀院五十の賀の試楽では、髭黒大将の四男・夕霧の三男・式部卿宮の孫2人による四人の童舞として描写されています。
また『紫式部日記』にも、一条天皇の土御門殿行幸の際に舞われたことが記されています。
この頃は、七帖で緩やかに奏舞されていたのでしょうか。今は想像するより他ありません。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編;須貝稔作図『源氏物語図典』小学館 1997年
音楽之友社[編]『邦楽百科辞典 : 雅楽から民謡まで』音楽之友社 1984年
安倍季尚撰 ; 正宗敦夫編纂校訂『楽家録』(覆刻日本古典全集)現代思潮社 1977年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年
塙保己一編『群書類従 第19輯』訂正3版 続群書類従完成会 1960年
神宮司廳編『古事類苑43 楽舞部一』普及版 古事類苑刊行會 1931年
高島千春筆『舞楽図 左』(故實叢書第3輯第18回)吉川弘文館 1905年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2007年7月22日 (日)

皇麞(おうじょう)

140ojo_1 「皇麞(おうじょう)」は、左方唐楽平調の舞楽曲で、別名「海老葛(えびかずら)」とも言います。
「黄麞」と書くこともあり、『楽家録』(元禄三[1690]年成立の雅楽書。安倍季尚著)巻之三十一は、唐の景竜年間[707~710]に黄麞谷で戦死した王孝傑の忠義を悼んで中宗が作ったとする作曲の由来を伝えています。
(『楽家録』同巻にはもう1つ、音生公が明帝即位のときに作った曲とする説も併記されています)

楽曲形態は〈遊声〉〈序〉〈破〉〈急〉から成っていましたが、〈遊声〉と〈序〉は平安末期には早くも失われ、後には舞も廃絶してしまいました。
現存するのは〈破〉と〈急〉の奏楽のみで、〈急〉以外はほとんど演奏の機会もないそうです。
舞の様子は、遺された文献から想像する他ありません。
(写真は、風俗博物館2007年下半期展示「朱雀院五十賀の試楽」より、皇麞の舞装束を着けた童。以下、本記事中の写真はすべて同展示より)

舞は童舞で、角髪の上に甲を被り、白楚(ずわえ・ずばえ)と呼ばれる杖の先端を曲げて白毛の束を付けた、ちょっとハタキに似た舞具を持ちました。
装束は襲装束だったようですが詳細はよくわからず、『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書。狛近真著)巻第七や『楽家録』巻之三十六には「片肩袒」と記されていますが、『信西古楽図』(平安後期成立と推定される現存最古の舞楽図)の皇麞と目される図は諸肩袒のように描かれています。
(襲装束の構成については、賀王恩の中で紹介しておりますのでご参照ください)
また『信西古楽図』では、白楚も真っ直ぐな細い棒のような形に描かれていて、現行の舞楽で「白楚」と呼ぶものとはだいぶ形が異なります。

141ojo_2 142ojo_3 風俗博物館では『信西古楽図』と『舞楽図巻』(谷地八幡宮伝来。応永十五[1408]年作?)を参考に衣裳を作成されたそうで、袍は諸肩袒にしてあります。
白楚は『信西古楽図』には拠らず、『楽家録』巻之三十八に記されているような近世以降の形になっていますが、あるいは『舞楽図巻』の方にこうした形の白楚が描かれているのかもしれません。
(私自身は『舞楽図巻』の皇麞図を確認できてはおりません)

尚、展示ではご覧のとおり「青白橡」と称するやや茶色がかった緑色の袍を着ていますが、これは展示された朱雀院五十の賀の試楽の場面の原文に
かの御賀の日は、赤き白橡に、葡萄染の下襲を着るべし、今日は、青色に蘇芳襲」(若菜下巻)
と記されているのを再現した結果で、本来は赤白橡(迦陵頻の袍と同じ色)の袍を着用したと考えられます。

舞人の数は、雅楽書の類にははっきりした記述がなく、よくわかりません。
『源氏物語』若菜下巻では夕霧の次男と式部卿宮の孫が舞っているので、これに従えば二人舞ということになります。
また『教訓抄』巻第七によると、答舞のない舞だったようです。

『源氏物語』の中では、先に挙げた若菜下巻の朱雀院五十の賀の試楽と若菜上巻の紫の上主催の光源氏四十の賀の薬師仏供養精進落としで舞う場面があり、また胡蝶巻の六条院春の町での舟遊びでも(舞を伴ったかはわかりませんが)演奏されています。
作曲の由来の割には祝賀の際に奏舞されることが多く、また「おうじょう」の音が「往生」に通じることから仏事でも用いられたようです。
『平家物語』や『吾妻鏡』には、捕虜となって鎌倉に護送された平重衡が「往生の急」と洒落て横笛で皇麞急を奏でた逸話が収められています。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編;須貝稔作図『源氏物語図典』小学館 1997年
平野健次[ほか]監修『日本音楽大事典』平凡社 1989年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
正宗敦夫編纂校訂『信西古楽図』(覆刻日本古典全集)現代思潮社 1977年
安倍季尚撰 ; 正宗敦夫編纂校訂『楽家録』(覆刻日本古典全集)現代思潮社 1977年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年
神宮司廳編『古事類苑43 楽舞部一』普及版 古事類苑刊行會 1931年

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2007年7月 8日 (日)

乞巧奠(きこうでん)

136tanabata_1 七夕(たなばた)は、平安時代には「乞巧奠(きこうでん)」とも呼び、宮中や貴族の家庭で広く行われた年中行事です。
牽牛・織女の伝説を基にふたつの星の逢瀬を眺め、女性達は織女にあやかって裁縫の上達を祈願しました。
グレゴリウス暦(新暦)の現代ですと7月7日は沖縄と北海道を除いて梅雨真っ只中ですが、平安時代の七夕は太陰太陽暦(旧暦)の七月七日、立秋も過ぎた後の初秋の行事でした。
(今年の旧暦七月七日は、新暦の8月19日です)

乞巧奠自体は、牽牛・織女の伝説と共に中国から伝わった行事ですが、日本古来の棚機津女(たなばたつめ)信仰や祖霊を迎えるお盆の準備なども絡み合っており、成立の背景は非常に複雑です。
また“平安時代”と一口に言っても、400年の間で行事の内容はかなり変遷しています。
ここでは、『源氏物語』が書かれた平安中期~後期の行事を中心にご紹介します。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より、梶の葉に和歌を書く光源氏・紫の上と乞巧奠の祭壇)

乞巧奠は中国で古くから行われていた行事で、『荊楚歳時記』(宗懍著。南朝・梁代〔6世紀〕荊楚地方〔現在の湖北省・湖南省一帯〕の年中行事記)には、七月七日を牽牛・織女聚会の夜とし、女性達が針に五色の糸を通し庭に酒肴や瓜の実などを供えて裁縫の上達を願ったことが記されています。
日本への伝来も古く、『万葉集』には牽牛・織女の二星会合を詠んだ歌が数多く収められていますし、正倉院にはこの行事に用いたと推測される針と色糸が現存するそうです。
(「七夕」の漢字表記は「七月七日の夕べ」を意味し、二星会合の伝説に由来します)

一方の棚機津女信仰は、乙女が水辺の棚に設けた機屋に一夜籠って神の降臨を迎え、翌朝帰り去る神に穢れを持ち去ってもらうという信仰で、ごく最近まで「七夕送り」と称して笹飾りを川や海に流す風習が各地で見られたのは、この穢れを祓う儀式としての七夕の名残とされています。
(「たなばた」という読みは、こちらの棚機津女に由来しています)

また、八世紀前半から七月七日に宮廷行事として相撲が行われていたことが確認でき、天長三[826]年に平城天皇国忌を避けて十六日に移されるまで、この日は相撲節会の日でした。
現代でもあちこちの神社で奉納相撲があるとおり、相撲は元々神事であり、特に水の神との関係が深いことから、この日の相撲には日本固有の収穫祭や祓の意味があったと推測されています。
更に、この日からお盆に入るとされ(ここでの詳述は避けますが、お盆の行事は仏教と日本固有の祖霊信仰とが結び付いて成立しました)、乞巧奠と盂蘭盆会とで供え物が共通しているとか、長竿に提灯のようなものを付けて立てる祖霊迎えの風習が七夕の笹飾りのルーツであるとか、さまざまな関連性が指摘されています。
『西宮記』や『江家次第』にはこの日に宮中の調度の虫干しをすることが記されていますが、あるいはこれも、中国から輸入された行事であると同時に祖霊を迎えるために家中を清める意味もあったのかもしれません。

このように多様な起源を持つ七月七日の行事ですが、平安中期以降の行事の中心は二星会合と乞巧奠でした。
宮中の乞巧奠の儀式次第や室礼は、『江家次第』『雲図抄』に記されています。
以下、二書の内容を簡単にまとめます。
(下の写真は、風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より乞巧奠の祭壇)

137tanabata_2 予め行事蔵人が用意を整え、当日に掃部寮が清涼殿東庭の南第三間(階の間)の位置に葉薦と長筵を重ねて敷き、その上に朱漆の高机四脚を立てます(雨天の際は仁寿殿西砌の内側)。
机に載せる供え物は内蔵寮が調えて雑色が伝え取り、東南と西南の机に梨・棗・桃・大角豆(ささげ)・大豆・熟瓜・茄子・薄鮑(一説には干鯛も。『雲図抄』は棗の代わりに干鯛を挙げています)と酒を各机に一坏ずつ、西北の机に香炉、神泉苑の蓮の花十房または五房を盛った朱彩の華盤、縒り合わせた五色の糸を金銀の針各七本に通して楸(ひさぎ)の葉一枚に挿したもの、東北の机にも針を除く西北と同じものを供えます。
また北側東西の机には、秋の調子に調弦した筝(和琴の場合もあり)一張を置きます。
机の周りには黒漆の灯台九本を立て、内侍所の白粉を机や筵の上に撒きます。
次に、天皇が二星会合を見るために殿上間の御倚子を庭に立てます。
蔵人は天皇の挿鞋(そうかい。殿上での履物)を取って控え、竹河台の東に座を敷いて雑色以下が伺候します。
その後、御遊と作文、給禄がなされ、暁に再度白粉を撒いて机などを撤去し、清涼殿の格子を下ろします。

貴族の家庭での乞巧奠の様子は、『御堂関白記』や『枕草子』、種々の和歌などが伝えてくれます。
『御堂関白記』長和四[1015]年七月七日条には「庭中祭如常」とあって恒例行事として行われていたことが確認され、翌八日条にも藤原教通が「夜部二星会合見侍りし」と語ったことが記されています。
また『枕草子』にも

七月七日は、曇り暮して、夕方は晴れたる空に、月いと明く、星の数も見えたる。(第七段「正月一日、三月三日は」)

とあり、やはり二星の逢瀬を見ることが行事の中心だったことが窺えます。
曇り空にやきもきし、夜の晴天を待ち望む気持ちが伝わってくる一文です。

138tanabata_3 139tanabata_4 「星を見る」というと、現代人は夜空を仰ぎ見るものと思いますが、この時代は盥に水を張ってそこに映る星影を見ていました。
例えば『伊勢集』には「七月七日、盥に水いれて、影みるところ」という詞書の屏風歌が収められていますし、『新古今和歌集』にも

  花山院御時、七夕の歌つかうまつりけるに   藤原長能
袖ひちてわが手にむすぶ水の面にあまつ星あひの空をみるかな
(巻第四「秋歌上」)

という歌が採られています。

また『荊楚歳時記』に、供え物の瓜に蜘蛛が巣を張れば裁縫が上達するとの俗信があったことが記されていますが、この言い伝えも日本に齎されていたらしく、『兼盛集』には「七月七日女とも庭に出て尾花にいとかけたり」という詞書の屏風歌があります。
この他、梶の葉に和歌を書く風習もあり、

  七月七日、梶の葉に書き付け侍りける   上総乳母
天の川とわたる舟のかぢの葉に思ふことをも書き付くるかな
(『後拾遺和歌集』巻第四「秋上」)

秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつつ、天のとわたる梶の葉に、思ふ事書く比なれや。(『平家物語』巻第一「祇王」)

といった例が見られます。
(写真はいずれも風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より。左は梶の葉を用意する女房と星影を映す盥、右は梶の葉に和歌を書く光源氏)

珍しい記述としては、七月七日に女性達が賀茂川で洗髪をする『うつほ物語』藤原の君巻の場面が挙げられます。
このような風習は平安時代の他の文献からは見つからないようですが、祓としての七夕の性質を伝えるものとして注目されます。

『源氏物語』で乞巧奠に関係した記述は2ケ所あります。
1ヶ所目は帚木巻の雨夜の品定めで、左馬頭が指喰いの女の染色裁縫の技量を評して
龍田姫と言はむにもつきなからず、織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし
と語り、頭中将が
その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし
と応じています。
織女に裁縫の上達を願う乞巧奠の趣旨と、逢瀬は年に一度とはいえ永遠に結ばれた二星の伝説とを踏まえた会話です。
もう1ヶ所は幻巻で、例年のように管絃の遊びもなく星合を見る人もない六条院で、独り夜明け前に起き出した源氏が
七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て別れの庭に露ぞおきそふ
と二星の逢瀬と別れに寄せて紫の上との永訣を嘆く場面があります。
川の両岸に引き裂かれ、年に一度しか逢うことを許されない恋人達の切ない悲恋の伝説を、より悲観的な文脈で利用するところが『源氏物語』らしいと言えるかもしれません。

七月七日に関してはあともうひとつ、索餅(さくべい)というものを食べる風習がありましたが、この点については改めて別記事でご紹介したいと思います。

【2007.8.16追記】
索餅(さくべい)の記事を掲載しました。こちらもご参照ください。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
阿部猛, 義江明子, 相曽貴志編『平安時代儀式年中行事事典』東京堂出版 2003年
秋山虔, 小町谷照彦編;須貝稔作図『源氏物語図典』小学館 1997年
故實叢書編集部編『江家次第』(故實叢書第2巻)改訂増補版 明治図書出版 1993年
故實叢書編集部編『西宮記 第一』(故實叢書第6巻)改訂増補版 明治図書出版 1993年
『日本大百科全書』小学館 1984-1994年
宗懍[撰] ; 守屋美都雄訳注 ; 布目潮渢, 中村裕一補訂『荊楚歳時記』(東洋文庫324)平凡社 1978年
鈴木棠三著『日本年中行事辞典』(角川小辞典16)角川書店 1977年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年
『雲図抄』(塙保己一編『群書類従 第6輯』訂正3版所収)続群書類従完成會 1960年

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