乞巧奠(きこうでん)
七夕(たなばた)は、平安時代には「乞巧奠(きこうでん)」とも呼び、宮中や貴族の家庭で広く行われた年中行事です。
牽牛・織女の伝説を基にふたつの星の逢瀬を眺め、女性達は織女にあやかって裁縫の上達を祈願しました。
グレゴリウス暦(新暦)の現代ですと7月7日は沖縄と北海道を除いて梅雨真っ只中ですが、平安時代の七夕は太陰太陽暦(旧暦)の七月七日、立秋も過ぎた後の初秋の行事でした。
(今年の旧暦七月七日は、新暦の8月19日です)
乞巧奠自体は、牽牛・織女の伝説と共に中国から伝わった行事ですが、日本古来の棚機津女(たなばたつめ)信仰や祖霊を迎えるお盆の準備なども絡み合っており、成立の背景は非常に複雑です。
また“平安時代”と一口に言っても、400年の間で行事の内容はかなり変遷しています。
ここでは、『源氏物語』が書かれた平安中期~後期の行事を中心にご紹介します。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より、梶の葉に和歌を書く光源氏・紫の上と乞巧奠の祭壇)
乞巧奠は中国で古くから行われていた行事で、『荊楚歳時記』(宗懍著。南朝・梁代〔6世紀〕荊楚地方〔現在の湖北省・湖南省一帯〕の年中行事記)には、七月七日を牽牛・織女聚会の夜とし、女性達が針に五色の糸を通し庭に酒肴や瓜の実などを供えて裁縫の上達を願ったことが記されています。
日本への伝来も古く、『万葉集』には牽牛・織女の二星会合を詠んだ歌が数多く収められていますし、正倉院にはこの行事に用いたと推測される針と色糸が現存するそうです。
(「七夕」の漢字表記は「七月七日の夕べ」を意味し、二星会合の伝説に由来します)
一方の棚機津女信仰は、乙女が水辺の棚に設けた機屋に一夜籠って神の降臨を迎え、翌朝帰り去る神に穢れを持ち去ってもらうという信仰で、ごく最近まで「七夕送り」と称して笹飾りを川や海に流す風習が各地で見られたのは、この穢れを祓う儀式としての七夕の名残とされています。
(「たなばた」という読みは、こちらの棚機津女に由来しています)
また、八世紀前半から七月七日に宮廷行事として相撲が行われていたことが確認でき、天長三[826]年に平城天皇国忌を避けて十六日に移されるまで、この日は相撲節会の日でした。
現代でもあちこちの神社で奉納相撲があるとおり、相撲は元々神事であり、特に水の神との関係が深いことから、この日の相撲には日本固有の収穫祭や祓の意味があったと推測されています。
更に、この日からお盆に入るとされ(ここでの詳述は避けますが、お盆の行事は仏教と日本固有の祖霊信仰とが結び付いて成立しました)、乞巧奠と盂蘭盆会とで供え物が共通しているとか、長竿に提灯のようなものを付けて立てる祖霊迎えの風習が七夕の笹飾りのルーツであるとか、さまざまな関連性が指摘されています。
『西宮記』や『江家次第』にはこの日に宮中の調度の虫干しをすることが記されていますが、あるいはこれも、中国から輸入された行事であると同時に祖霊を迎えるために家中を清める意味もあったのかもしれません。
このように多様な起源を持つ七月七日の行事ですが、平安中期以降の行事の中心は二星会合と乞巧奠でした。
宮中の乞巧奠の儀式次第や室礼は、『江家次第』『雲図抄』に記されています。
以下、二書の内容を簡単にまとめます。
(下の写真は、風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より乞巧奠の祭壇)
予め行事蔵人が用意を整え、当日に掃部寮が清涼殿東庭の南第三間(階の間)の位置に葉薦と長筵を重ねて敷き、その上に朱漆の高机四脚を立てます(雨天の際は仁寿殿西砌の内側)。
机に載せる供え物は内蔵寮が調えて雑色が伝え取り、東南と西南の机に梨・棗・桃・大角豆(ささげ)・大豆・熟瓜・茄子・薄鮑(一説には干鯛も。『雲図抄』は棗の代わりに干鯛を挙げています)と酒を各机に一坏ずつ、西北の机に香炉、神泉苑の蓮の花十房または五房を盛った朱彩の華盤、縒り合わせた五色の糸を金銀の針各七本に通して楸(ひさぎ)の葉一枚に挿したもの、東北の机にも針を除く西北と同じものを供えます。
また北側東西の机には、秋の調子に調弦した筝(和琴の場合もあり)一張を置きます。
机の周りには黒漆の灯台九本を立て、内侍所の白粉を机や筵の上に撒きます。
次に、天皇が二星会合を見るために殿上間の御倚子を庭に立てます。
蔵人は天皇の挿鞋(そうかい。殿上での履物)を取って控え、竹河台の東に座を敷いて雑色以下が伺候します。
その後、御遊と作文、給禄がなされ、暁に再度白粉を撒いて机などを撤去し、清涼殿の格子を下ろします。
貴族の家庭での乞巧奠の様子は、『御堂関白記』や『枕草子』、種々の和歌などが伝えてくれます。
『御堂関白記』長和四[1015]年七月七日条には「庭中祭如常」とあって恒例行事として行われていたことが確認され、翌八日条にも藤原教通が「夜部二星会合見侍りし」と語ったことが記されています。
また『枕草子』にも
七月七日は、曇り暮して、夕方は晴れたる空に、月いと明く、星の数も見えたる。(第七段「正月一日、三月三日は」)
とあり、やはり二星の逢瀬を見ることが行事の中心だったことが窺えます。
曇り空にやきもきし、夜の晴天を待ち望む気持ちが伝わってくる一文です。
「星を見る」というと、現代人は夜空を仰ぎ見るものと思いますが、この時代は盥に水を張ってそこに映る星影を見ていました。
例えば『伊勢集』には「七月七日、盥に水いれて、影みるところ」という詞書の屏風歌が収められていますし、『新古今和歌集』にも
花山院御時、七夕の歌つかうまつりけるに 藤原長能
袖ひちてわが手にむすぶ水の面にあまつ星あひの空をみるかな(巻第四「秋歌上」)
という歌が採られています。
また『荊楚歳時記』に、供え物の瓜に蜘蛛が巣を張れば裁縫が上達するとの俗信があったことが記されていますが、この言い伝えも日本に齎されていたらしく、『兼盛集』には「七月七日女とも庭に出て尾花にいとかけたり」という詞書の屏風歌があります。
この他、梶の葉に和歌を書く風習もあり、
七月七日、梶の葉に書き付け侍りける 上総乳母
天の川とわたる舟のかぢの葉に思ふことをも書き付くるかな(『後拾遺和歌集』巻第四「秋上」)
秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつつ、天のとわたる梶の葉に、思ふ事書く比なれや。(『平家物語』巻第一「祇王」)
といった例が見られます。
(写真はいずれも風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より。左は梶の葉を用意する女房と星影を映す盥、右は梶の葉に和歌を書く光源氏)
珍しい記述としては、七月七日に女性達が賀茂川で洗髪をする『うつほ物語』藤原の君巻の場面が挙げられます。
このような風習は平安時代の他の文献からは見つからないようですが、祓としての七夕の性質を伝えるものとして注目されます。
『源氏物語』で乞巧奠に関係した記述は2ケ所あります。
1ヶ所目は帚木巻の雨夜の品定めで、左馬頭が指喰いの女の染色裁縫の技量を評して
「龍田姫と言はむにもつきなからず、織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし」
と語り、頭中将が
「その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし」
と応じています。
織女に裁縫の上達を願う乞巧奠の趣旨と、逢瀬は年に一度とはいえ永遠に結ばれた二星の伝説とを踏まえた会話です。
もう1ヶ所は幻巻で、例年のように管絃の遊びもなく星合を見る人もない六条院で、独り夜明け前に起き出した源氏が
「七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て別れの庭に露ぞおきそふ」
と二星の逢瀬と別れに寄せて紫の上との永訣を嘆く場面があります。
川の両岸に引き裂かれ、年に一度しか逢うことを許されない恋人達の切ない悲恋の伝説を、より悲観的な文脈で利用するところが『源氏物語』らしいと言えるかもしれません。
七月七日に関してはあともうひとつ、索餅(さくべい)というものを食べる風習がありましたが、この点については改めて別記事でご紹介したいと思います。
【2007.8.16追記】
索餅(さくべい)の記事を掲載しました。こちらもご参照ください。
【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
阿部猛, 義江明子, 相曽貴志編『平安時代儀式年中行事事典』東京堂出版 2003年
秋山虔, 小町谷照彦編;須貝稔作図『源氏物語図典』小学館 1997年
故實叢書編集部編『江家次第』(故實叢書第2巻)改訂増補版 明治図書出版 1993年
故實叢書編集部編『西宮記 第一』(故實叢書第6巻)改訂増補版 明治図書出版 1993年
『日本大百科全書』小学館 1984-1994年
宗懍[撰] ; 守屋美都雄訳注 ; 布目潮渢, 中村裕一補訂『荊楚歳時記』(東洋文庫324)平凡社 1978年
鈴木棠三著『日本年中行事辞典』(角川小辞典16)角川書店 1977年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年
『雲図抄』(塙保己一編『群書類従 第6輯』訂正3版所収)続群書類従完成會 1960年
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