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2007年8月の記事

2007年8月30日 (木)

下襲(2)材質と色目

158shitagasane_3 下襲は、裾の長さだけでなく材質についても身分によって制限がありました。
下襲(1)裾の長さで引用した『李部王記』天暦元[947]年十一月十七日条の記述「公卿節会日得用綾」からは、公卿のみ節会の日に限って綾織物の下襲が許されたことがわかります。
ですがこの半世紀後の『小右記』には、一条天皇初めての官奏御覧に伺候した左大臣・源雅信の下襲について

左府着平絹青朽葉下襲、今日猶可被着綾歟、就中着白阿古め、無威儀也(正暦四[993]年四月二十八日条)

と記されています。
この頃には、節会に限らず威儀を正すべきときは綾の下襲が相応しいと考えられていたようです。
また、同じく『小右記』の長和元[1012]年四月二十六日条には、翌日に婿取りをする藤原公任のために綾の袍と下襲を貸したとの記事もあり、綾織物の使用制限はかなり緩んでいたらしいことが窺われます。
更に『小右記』の記事から200年弱時代の下った『満佐須計装束抄』には

冬躑躅の下襲。上達部綾。殿上人平絹なり。(中略)躑躅といふはつねの下襲をいふなり。(巻二)

とあって、時代と共に綾織物の使用が日常化していったと推測されます。
その一方で、公卿以上しか綾織物の下襲の着用が許されないという線引きは、天暦元[947]年の倹約令から『満佐須計装束抄』の書かれた平安末期まで守られたことも見て取れます。
やはり身分の低い者が華美な装いをすることには厳しかったようで、例えば『小右記』には、寛弘二[1005]年三月八日、蔵人兵部丞・藤原定佐が「織物下襲」を着用して彰子中宮の大原野神社行啓に供奉し、検非違使別当の藤原斉信に咎められたとの記述があります。
(写真は、2005年夏に京都文化博物館で開催された風俗博物館出張展示「六條院へ出かけよう」より、“一日晴”の織物の下襲を着た四位の殿上人)

159shitagasane_4 160shitagasane_5 色目については禁色を除いて特に制約はなく、さまざまな色を折に合わせて着用しました。
『満佐須計装束抄』には、

夏は上達部あか色の下襲。殿上人二藍。おとなしき人青朽葉つねのことなり。冬躑躅の下襲。上達部綾。殿上人平絹なり。又さもあるをり柳桜。裏山吹又おりによりて着るなり。殿上人も色を聴りたるこれらをみな着る。わかき人裏濃蘇芳萌黄又つねのことなり。表袴もかくのごとし。おとなしき人は柳の下襲とて着る。裏は青黒色に染むるなり。豆染と申す。(巻二)

と記されており、日常に着る色目はある程度決まっているものの、それ以外の色も時節や年齢などの要素を踏まえながら多彩に取り入れていたらしいことがわかります。
尚、上の引用文で冬の基本の色目とされている「躑躅」は、絵巻の彩色や『装束抄』(室町中期成立の装束に関する有職故実書。三條西実隆著)の

冬ハ表浮線綾。色白。裏ハ遠菱ノ綾。色蘇芳ノ濃打也。是ヲ蘇芳打ノ下襲ト云。(中略)又禁色ヲ聴サレザル殿上人以下ハ。躑躅ノ下襲トテ平絹也。色ハ蘇芳ノ下襲ニ同ジ。

という記述を見合わせるに、よく解説される表蘇芳・裏萌黄ではなく表白・裏蘇芳の重ねを指すと推測されます。
(写真左は、風俗博物館2004年上半期展示「斎宮女御と弘徽殿女御の絵合」より、躑躅の下襲を着た束帯装束の光源氏。右は風俗博物館2002年下半期展示「女三の宮持仏開眼供養」より、紅の下襲を着た夏の束帯装束の上達部)

具体例をいくつか見てみましょう。
上で引用した『小右記』正暦四[993]年四月二十八日条で源雅信が着用しているのは、青朽葉の下襲です。
雅信はこの年数え七十四歳ですから、『満佐須計装束抄』に言うところの“年配者の夏の普段使いの色目”と言えます。
藤原定佐が過差を咎められた彰子中宮の大原野神社行啓では、左大臣・藤原道長は赤白橡の袍に砧で打って光沢を出した桜の下襲を、権中納言・藤原隆家は織物の桜色の下襲に山吹の表袴を装って供奉しました(『小右記』同日条)。
2人が着た桜の下襲は、ちょうど桜の時節の行啓に合わせての選択だったと思われます。
また、天暦七[953]年十月二十八日に催された殿上菊合では、左右に分けられた殿上人が左方は葡萄染、右方は紅色の下襲をそれぞれお揃いで装う企画がなされたことが、『九暦』同日条からわかります。
(ただし、当初十月二十七日開催の予定で人々はそのように装ったものの、穏子中宮病悩によりその日は中止、1日順延で行われた二十八日は各人が意に任せて下襲を着用したので左右の色分けは実現しなかった、と記されています)
『枕草子』にも、

冬は、躑躅。桜。掻練襲。蘇芳襲。夏は、二藍。白襲。(第二六九段「下襲は」)

とさまざまな色目の下襲が挙がっています。

勿論、『源氏物語』にも多彩な下襲が登場します。

まず束帯装束の下襲としては、葵の上の喪に服した源氏が桐壺院の許に参った際の「無紋の表の御衣に、鈍色の御下襲、纓巻きたまへるやつれ姿」(葵巻)、冷泉帝の朱雀院行幸に供奉した人々の「青色に、桜襲」(乙女巻)、同じく冷泉帝の大原野行幸に供奉した人々の「青色の袍、葡萄染の下襲」(行幸巻)、六条院の住吉詣でに付き従った若い上達部達の「匂ひもなく黒き袍に、蘇芳襲の、葡萄染の袖」(若菜下巻)などが挙げられます。
また着用している例ではありませんが、「いときよらなる朽葉の羅、今様色の二なく擣ちたるなど」(野分巻)を広げて冬の装束の用意をしている最中の花散里を訪れた源氏が、「中将の下襲か。御前の壺前栽の宴も止まりぬらむかし」(同巻)と話しかける場面があります。
喪服の例はさておき、その他は華やかな色が並んでおり、宮廷の行事を美しく彩った様子が想像できます。

布袴装束(束帯装束の表袴に換えて指貫を穿く略礼装)の例も1ヶ所あります。
式部卿宮が北の方を自邸に引き取ってしまったと聞いた髭黒大将が面会に出かける場面で、「よき上の御衣、柳の下襲、青鈍の綺の指貫」(真木柱巻)に着替えます。
いとものものし」(同巻)という語り手の評価のとおりの重々しい色の取り合わせですが、柳の下襲は『満佐須計装束抄』の上記引用文によれば年配者の着用で、青鈍の指貫も『枕草子』などを読むと年配者の着用例が多く、「年三十二三のほど」(藤袴巻)という年齢よりは老けた装いとも言えます。

もうひとつの下襲の着用法に、直衣布袴があります。
(ただし、『源氏物語』の時代はまだ「直衣布袴」とは呼ばず、「直衣下襲」「直衣に下襲を加ふ」などの言い方をしたようです)
直衣は基本的にプライベートな服装ですが、下襲を加えると冠直衣より更に1段階フォーマルな装いになり、例えば冷泉院からの招請の手紙を受けた源氏が六条院に集まっていた蛍宮や夕霧などと共に参院するにあたって「直衣にて、軽らかなる御よそひどもなれば、下襲ばかりたてまつり加へて」(鈴虫巻)とする場面などに、直衣布袴という衣裳の格が端的に表れています。
(因みに、この場面の原文では下襲の色目は書かれていませんが、国宝『源氏物語絵巻』鈴虫(二)では黒っぽい菱紋の薄物に描かれています)
色目が語られている場面としては、若き日の光源氏の麗姿としてひときわ読者に印象深い右大臣家の藤花の宴での「桜の唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲」(花宴巻)、三条宮に母を訪ねる内大臣の「葡萄染の御指貫、桜の下襲」(行幸巻)の2ヶ所があります。

このように女房装束にも負けない華やかな色目で、下襲はフォーマルな場での貴族男性のお洒落の要として重要な役割を担っていました。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
五島邦治監修;風俗博物館編集『源氏物語と京都:六條院へ出かけよう』光村推古書院 2005年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
長崎盛輝著『かさねの色目:平安の配彩美』京都書院 1996年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
あかね会編『平安朝服飾百科辞典』講談社 1975年
塙保己一編『群書類従 第8輯』訂正3版 続群書類従完成會 1960年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「下襲」を加筆修正したものです。

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2007年8月21日 (火)

下襲(1)裾の長さ

156shitagasane_1 下襲は、束帯装束において袍または半臂の下に着る垂領(たりくび)の内衣です。
両脇は縫わない闕腋で、丈は前身頃が腰の辺りまで、後身頃は長く伸ばして引きずります。
後身頃の長く伸びた部分を「(きょ)」または「」と呼びました。
材質や裾の長さには身分に応じた定めがありましたが、位袍のような厳しい制約はなく色目などは自由が利き、また特に文官束帯装束では袍の下から裾がはみ出す形になるため、束帯装束における重要な装飾的役割を担いました。
(写真は、風俗博物館2005年下半期展示「六条院行幸」より高欄に掛けられた下襲の裾。手前は龍頭鷁首の舟に乗った迦陵頻の舞童達)

裾の長さは、制約の緩さと目立ちやすさのゆえに、淳和朝頃までは身丈程度だったのが華美を競って次第に長くなっていき、目に余ると過差禁止令により制限される、ということを繰り返しました。
『政治要略』巻六十七所引の『李部王記』逸文には

近日有被定行倹約事、(中略)就中下襲長、親王出袍襴一尺五寸、大臣一尺、納言八寸、参議六寸、公卿節会日得用綾(天暦元[947]年十一月十七日条)

とあり、特に下襲の過差が目立つとして倹約令でその長さと材質が定められたことが知られます。
このときの長さは、一番長い親王でも少々床に引きずる程度です。
しかしこの後も下襲の長大化は止まらず、『玉英記抄』(一条経通の日記『玉英』を一条兼良が抄出した有職故実書)「衣服」の項に、

為限裾長守延久二年符宣為大臣七尺大中納言六尺参議散三位五尺四位五位四尺(建武元年九月七日 宣旨)

と記されているように、延久二[1070]年に再び身分毎の長さが規定されました。
120年ほどの間に軒並み長さが7~8倍に伸びているのには驚かされます。
更に時代が下って鎌倉時代に入ると、一層丈が伸びた上に寸法の規定自体よくわからなくなり、

仮令。大臣一丈四五尺。大納言一丈二三尺。中納言一丈一二尺。参議八尺。四位七尺歟。但近年無存寸法之人。(『餝抄』上)

という状態に至ります。
『餝抄』の成立は嘉禎年間[1235-1238]と推定されていますので、延久二[1070]年の符宣からおよそ170年弱後の記述ということになりますが、この頃には延久二[1070]年の規定の約2倍、天暦元[947]年の規定の実に15倍前後にも及んでいた訳です。

『源氏物語』の書かれた頃の下襲の裾の長さはよくわかりませんが、

桜の唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲、裾いと長く引きて。皆人は表の衣なるに、あざれたる大君姿のなまめきたるにて(花宴巻:右大臣家の藤花の宴に招かれた光源氏の装い)

葡萄染の御指貫、桜の下襲、いと長うは尻引きて、ゆるゆるとことさらびたる御もてなし(行幸巻:大宮を訪ねる内大臣の装い)

といった描写から、やはり長々と裾を引きずっていることがわかり、その様がいかにも悠然たる高貴の人の姿に見えたのだろうと想像できます。
『枕草子』にも「弁などは、いとをかしき官に思ひたれど、下襲の裾短くて、随身のなきぞ、いとわろきや」(第四五段「をのこは」)という一文があり、やはり長く引く裾が憧れの眼差しで見られていた様子が窺われます。

157shitagasane_2 これだけ裾が長くなると立居振舞に支障を来たすため、座るときは折り畳むか高欄に掛ける、屋外を歩くときは人に持たせたり石帯の上手や剣に引き掛けたりする、などの作法が生じました。
下襲を高欄に掛けた様子は『駒競行幸絵巻』や『源氏物語絵巻』鈴虫(二)などに描かれている他、『枕草子』の

五位、六位などの、下襲の裾はさみて、笏のいと白きに扇うち置きなど、行き違い、(第五七段「よき家の中門あけて」)

狭き縁に、所狭き御装束の下襲ひき散らされたり。(第一〇〇段「淑景舎、春宮にまゐりたまふほどのことなど」)

といった記述からも、立居の動作における下襲の扱いが見て取れます。
(写真は、風俗博物館2004年上半期展示「玉鬘による光源氏四十の賀」より、賀宴に列席した布袴姿の柏木〔左〕と直衣下襲姿の式部卿宮〔右〕)

このように長大化した下襲ですが、一方で検非違使など実働部隊の武官は機動性を確保するために「纔著(さいじゃく)」と呼ばれる足首くらいまでの丈の袍と下襲を着用しました。
例えば『年中行事絵巻』巻一「朝覲行幸」を見ると、鳳輿を取り囲む闕腋袍を着た武官とその左右に控える縫腋袍を着た文官では、明らかに下襲の長さが違っているのがわかります。
(但し、三位以上は武官であっても縫腋袍を着用するので、図の中には胡簶を背負い下襲を長く引いた人物の姿も見られます)

尚、現代の束帯装束では「別裾」と言って下襲本体と裾を切り離し、裾を女房装束の裳のように腰に結び付けますが、このような形式になったのは長大化が進み着装が難しくなった鎌倉時代以降のことです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
五島邦治監修;風俗博物館編集『源氏物語と京都:六條院へ出かけよう』光村推古書院 2005年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
小松茂美編集・解説『年中行事絵巻』(日本の絵巻 8)中央公論社 1987年
あかね会編『平安朝服飾百科辞典』講談社 1975年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「下襲」を加筆修正したものです。

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2007年8月16日 (木)

索餅(さくべい)

154sakubei_1 索餅(さくべい)は、和名を「むぎなは」と言い、素麺(そうめん)の原型と目される中国伝来の食べ物です。
「索」は両手で縄を綯う意味、「餅」は小麦粉製品を意味し、小麦粉を練って細くしたものを縄のように縒り合わせた食品だったと推定されています。
『和名類聚抄』の「索餅」の項には「和名無木奈波(中略)皆隨形而名」との記述があり、縄のような形状だったことが確認できます。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より、索餅の膳)

『延喜式』巻三十三「大膳下」には、「索餅料」として材料と必要な道具類が列記されています。
この記述から永山久夫氏が索餅の作り方を推考しており(『日本古代食事典』)、それを箇条書きにまとめると

  • 小麦粉に米粉と塩を混ぜてよく練る
    (明注:『延喜式』の記述に従うと、小麦粉・米粉・塩の割合は100:30:9または100:40:3)
  • できた生地を布に包んでしばらく寝かせ、塩を馴染ませる
  • 生地を薄平たく伸ばし、刀子で細長く切る
  • 切った麺を更に細く伸ばして縄のように縒り合わせる
  • 竹竿にかけて干す

となっています。
ただし岡田哲編『たべもの起源事典』によると、米粉を3割近くも含むと生地が切れやすくなるそうで、細く伸ばして縒り合わせることが可能だったのか疑問視する意見もあります。
食べるときには、蒸したり茹でたりして醤や味醤、酢などを付けたようです。
唐菓子の一種とする説もありますが、「唐菓子」と言ったときによくイメージされる「油で揚げる」という工程は、『延喜式』や『和名類聚抄』の記述からは窺うことができません。

155sakubei_2 索餅は平安京の東西の市で売られており、また『今昔物語集』巻十九には寺の別当が仕舞い込んだ麦縄が蛇に変わる話が収められていて、民間にも普及した食品だったようですが、宮中では節会や旬儀で群臣に供され、また七月七日に内膳司が献上した索餅を天皇が食べる歳事がありました。
七月七日に索餅を食べる風習の起源には、古くから2種類の伝承があり、1つは『年中行事抄』(建保二[1214]年以降成立の儀式書。著者未詳)などにある
昔、高辛氏(明注:古代中国の伝説上の帝)の子が七月七日に死に、その霊が鬼神となって人々に瘧病を患わせた。その子は生前に日頃麦餅を食べていたので、命日に麦餅を供えて祭った。この日に麦餅を食べると一年中瘧病にかからない
という中国の故事、もう1つは『師光年中行事』(鎌倉時代の儀式書。中原師光[1204-1265]著)所引の『宇多天皇御記』寛平二[890]年二月三十日条が記す
民間で行われている正月十五日の七草粥、三月三日の桃花餅、五月五日の五色粽、七月七日の索餅、十月初餅などのことを、これより宮廷に採り入れて歳事とする
という日本古来の民間行事です。
乞巧奠(きこうでん)の記事でご紹介したように、七月七日の行事は中国から伝来した風習と古くから日本で行われていた収穫祭や祖霊信仰の神事などとが混ざり合って成立しています。
索餅を食べるのも、同様に中国伝来の瘧病除けのまじないと、穀物の収穫に感謝し祖先の霊を祭る日本古来の習俗とが合わさって成立したと考えられます。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より、索餅を用意する女房)

索餅は、鎌倉時代に油を用いて小麦粉生地を細長く伸ばす製法の「索麺(索麪)」が伝えられ、これが室町時代に「素麺」の字に変わって現代に至ります。
現代も行われている七夕に素麺を食べる習慣は、この索餅に遡ることができる訳です。
今となっては実態のよくわからなくなってしまっている索餅ですが、実は形を変えて現代までつながっている食べ物です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
阿部猛, 義江明子, 相曽貴志編『平安時代儀式年中行事事典』東京堂出版 2003年
岡田哲編『たべもの起源事典』東京堂出版 2003年
永山久夫著『日本古代食事典』東洋書林 1998年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年
『続群書類従 第10輯上』續群書類從完成會 1926年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2007年8月 5日 (日)

京都御所

147gosho_1『源氏物語』の舞台となった場所は沢山ありますが、実在する建造物で最も多くの場面の舞台となっているのは、何と言っても平安宮内裏です。
清涼殿は、桐壺帝の桐壺の更衣追慕の場面や光源氏の元服、冷泉帝御前での絵合わせ、夜居の僧都の密奏、などの物語の重要な場面の舞台として度々登場しますし、花宴巻冒頭の桜の宴の舞台となった紫宸殿、雨夜の品定めが繰り広げられた淑景舎など、読者の印象に深い場面がいくつも内裏の中で展開しています。

平安宮内裏があった場所は、現在では西陣の市街地に埋もれており、承明門や内郭回廊の跡が発掘された地点に建てられている石碑と説明書きの看板くらいしか往時を想像する手がかりはありません。
(ただし、ヨウダさんのWebサイト・平安京探偵団の「平安宮跡めぐり5」によると、2006年頃に弘徽殿や一本御書所の跡にも石碑が建てられ、綾綺殿跡にはショップ&カフェ「綾綺殿」というお店もできたそうで、だんだんと平安宮内裏の形跡を辿るよすがは増えてきているようです)
対して、場所は異なりますが復元された建物を通して内裏の面影を伝えてくれるのが、平安宮内裏跡から1.6kmほど東にずれた位置に現存する京都御所です。

148gosho_2 149gosho_3 京都御所の起源は、里内裏のひとつであった土御門東洞院殿で、元弘元[1331]年に光厳天皇がここで践祚して以降、事実上の内裏として固定化しました。
平安時代の平安宮内裏と同様に火災による焼失と再建を繰り返した御所は、天明八[1788]年の火災後、『大内裏図考証』の著者・裏松光世(法名固禅)による有職故実研究の成果を取り入れ、古制に則って寛政二[1790]年に再興されました。
このときの御所も再建から64年後、嘉永七[1854]年の大火で灰燼に帰してしまいますが、その後の再建に際しては寛政の造営が踏襲され、安政二[1855]年に現在の京都御所が完成しました。

150gosho_4151gosho_5 京都御所と平安宮内裏では、当然のことながら規模も建物の配置もかなり異なりますが、紫宸殿・清涼殿・飛香舎の3つの殿舎と建礼門、承明門、玄輝門などの一部宮門が再現されています。
建礼門、宜秋門、朔平門、建春門の外側の4門はいつでも京都御苑側から見られる他、通常の参観では承明門越しの紫宸殿と清涼殿の東側を見ることができます。
152gosho_6清涼殿の東庭には『年中行事絵巻』さながらに河竹・呉竹の台があり、昼御座や石灰壇、『枕草子』第二十段「清涼殿の丑寅の隅の」でお馴染みの「荒海の障子」なども見られます。
また、春と秋の一般参観では日華門をくぐって紫宸殿の前まで行くことができ、特に春は運がよければ左近の桜の開花時期に当たって花宴巻冒頭の世界を味わえます。
斎王卜定など朝廷の公式の占いを行った軒廊(紫宸殿東脇から宜陽殿につながる回廊)も、一般参観で見ることのできる場所です。
更に京都御所の歴史や皇室にとって記念の年に当たると、一般参観のコースが拡大され、普段は非公開の飛香舎の東・北側と玄輝門も見学できます。
153gosho_7「藤壺」の別称の由来となった藤棚は、残念ながら南庭にあるので建物越しにちらっとしか見えませんが、格子が上がっているので廂の間までは見通すことができます。
薫が今上帝の碁のお相手をして菊の花一枝を許されたのは、飛香舎のどの辺りだったのだろう?などと想像するのも楽しいでしょう。
最近の例では、1998年(天皇陛下御即位10年記念)と2005年(安政の内裏造営150周年記念)の秋に特別公開が行われました。
この傾向でいくと、今上天皇在位20年となる来年・2008年の一般参観は要チェックです。

平安時代の雅を現代に伝える華やかな葵祭の行列も、この京都御所から出発します。
『源氏物語』の世界をイメージとして掴む上で欠かせない建造物です。

写真は上左から順に、以下のとおりです。

  • 承明門越しに見た紫宸殿(2004年12月2日撮影)
  • 承明門側から見た建礼門(2005年11月5日撮影)
  • 紫宸殿の扁額と左近の桜(2005年4月9日撮影)
  • 清涼殿と東庭(2005年4月9日撮影)
  • 弘徽殿上御局の格子と「荒海の障子」(2005年4月9日撮影)
  • 紫宸殿と軒廊(2005年11月4日撮影)
  • 北東隅から見た飛香舎(2005年11月5日撮影)

【Data】
住所:京都市上京区京都御苑
交通:市営地下鉄烏丸線今出川駅または市バス烏丸今出川から徒歩5分
拝観:通常は要事前申込(宮内庁ホームページ内「参観案内」参照)
   春と秋の一般参観は申込不要(時期は年によって異なる。概ね4月と11月の上旬)
   いずれも参観無料
tel.:075-211-1215(宮内庁京都事務所参観係)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
『京都御所』伝統文化保存協会 2002年
五島邦治監修;風俗博物館編集『源氏物語 六條院の生活』(改訂版)青幻舎 1999年
平安京探偵団「平安京を歩こう」

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