索餅(さくべい)
索餅(さくべい)は、和名を「むぎなは」と言い、素麺(そうめん)の原型と目される中国伝来の食べ物です。
「索」は両手で縄を綯う意味、「餅」は小麦粉製品を意味し、小麦粉を練って細くしたものを縄のように縒り合わせた食品だったと推定されています。
『和名類聚抄』の「索餅」の項には「和名無木奈波(中略)皆隨形而名」との記述があり、縄のような形状だったことが確認できます。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より、索餅の膳)
『延喜式』巻三十三「大膳下」には、「索餅料」として材料と必要な道具類が列記されています。
この記述から永山久夫氏が索餅の作り方を推考しており(『日本古代食事典』)、それを箇条書きにまとめると
- 小麦粉に米粉と塩を混ぜてよく練る
(明注:『延喜式』の記述に従うと、小麦粉・米粉・塩の割合は100:30:9または100:40:3) - できた生地を布に包んでしばらく寝かせ、塩を馴染ませる
- 生地を薄平たく伸ばし、刀子で細長く切る
- 切った麺を更に細く伸ばして縄のように縒り合わせる
- 竹竿にかけて干す
となっています。
ただし岡田哲編『たべもの起源事典』によると、米粉を3割近くも含むと生地が切れやすくなるそうで、細く伸ばして縒り合わせることが可能だったのか疑問視する意見もあります。
食べるときには、蒸したり茹でたりして醤や味醤、酢などを付けたようです。
唐菓子の一種とする説もありますが、「唐菓子」と言ったときによくイメージされる「油で揚げる」という工程は、『延喜式』や『和名類聚抄』の記述からは窺うことができません。
索餅は平安京の東西の市で売られており、また『今昔物語集』巻十九には寺の別当が仕舞い込んだ麦縄が蛇に変わる話が収められていて、民間にも普及した食品だったようですが、宮中では節会や旬儀で群臣に供され、また七月七日に内膳司が献上した索餅を天皇が食べる歳事がありました。
七月七日に索餅を食べる風習の起源には、古くから2種類の伝承があり、1つは『年中行事抄』(建保二[1214]年以降成立の儀式書。著者未詳)などにある
“昔、高辛氏(明注:古代中国の伝説上の帝)の子が七月七日に死に、その霊が鬼神となって人々に瘧病を患わせた。その子は生前に日頃麦餅を食べていたので、命日に麦餅を供えて祭った。この日に麦餅を食べると一年中瘧病にかからない”
という中国の故事、もう1つは『師光年中行事』(鎌倉時代の儀式書。中原師光[1204-1265]著)所引の『宇多天皇御記』寛平二[890]年二月三十日条が記す
“民間で行われている正月十五日の七草粥、三月三日の桃花餅、五月五日の五色粽、七月七日の索餅、十月初餅などのことを、これより宮廷に採り入れて歳事とする”
という日本古来の民間行事です。
乞巧奠(きこうでん)の記事でご紹介したように、七月七日の行事は中国から伝来した風習と古くから日本で行われていた収穫祭や祖霊信仰の神事などとが混ざり合って成立しています。
索餅を食べるのも、同様に中国伝来の瘧病除けのまじないと、穀物の収穫に感謝し祖先の霊を祭る日本古来の習俗とが合わさって成立したと考えられます。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より、索餅を用意する女房)
索餅は、鎌倉時代に油を用いて小麦粉生地を細長く伸ばす製法の「索麺(索麪)」が伝えられ、これが室町時代に「素麺」の字に変わって現代に至ります。
現代も行われている七夕に素麺を食べる習慣は、この索餅に遡ることができる訳です。
今となっては実態のよくわからなくなってしまっている索餅ですが、実は形を変えて現代までつながっている食べ物です。
【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
阿部猛, 義江明子, 相曽貴志編『平安時代儀式年中行事事典』東京堂出版 2003年
岡田哲編『たべもの起源事典』東京堂出版 2003年
永山久夫著『日本古代食事典』東洋書林 1998年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年
『続群書類従 第10輯上』續群書類從完成會 1926年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース」
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