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2007年9月 8日 (土)

下襲(3)着る側と見る側の意識

161shitagasane_6 長い裾と比較的自由の利く華やかな色目が特徴の下襲は人々の注目の的であり、儀式行事の折には殿上人らは思い思いに下襲に意を凝らしました。
『源氏物語』や『枕草子』『栄花物語』など当時の仮名文学には、端麗に装った公卿・殿上人らの下襲の長さと美しさを綴った例が多数見られます。

下襲の注目度の高さを窺わせる記述の例を、最初に『栄花物語』から2つ挙げてみます。

いづれの殿ばらも皆御装束めでたきなかに、関白殿の御下襲の菊の引倍木耀きて、目留まりたり。(巻第二十三「こまくらべの行幸」)

みな御茵にゐたまひて、北向きにゐさせたまへれば、御下襲の裾どもは高欄にうちかけつつ、ゐさせたまへり。掻練襲、柳、桜、葡萄染、若うおはする殿ばはら紅梅などにても着たまへり。色々に見え耀き照りわたりたるほど、いみじうをかし。(巻第二十四「わかばえ」)

上は、『駒競行幸絵巻』で知られる万寿元[1024]年の壮麗な高陽院行幸の様子を記した中の一文です。
下は高陽院行幸の翌年・万寿二[1025]年正月に催された皇太后宮妍子の大饗に列席した関白以下の色とりどりの下襲を記したもので、晴れの席での美々しい装いをよく伝えています。
色々に見え耀き照りわたりたる」下襲の具体例としては、200年ほど後の文献ですが『餝抄』上「下襲色之事」に、火色・紅梅・蘇芳・松重・紅葉・菊・花橘・女郎花・柳・萌黄・桜・白重・二藍・青朽葉などなど季節毎の多様な色目が挙げられ、晴れの席を華やかに彩っただろうことを想像させてくれます。

また行幸や行啓、祭などの際には、供奉の人々の下襲が行列を飾る要素となり、公事以外の例でも前駆や車副の人々に美しい下襲を着せて権勢を誇示したりした様子が、『うつほ物語』や『源氏物語』の描写から窺えます。
まずは『うつほ物語』の例を挙げましょう。

御車の御前駆、四位十八人、五位三十人、六位五十人。馬の毛、下襲の色整へたり。(春日詣巻)

宮の副車は、褐の衣、冠したり。あるは白襲、白袴、あるは薄色の下襲、裾濃の袴、心々にせられたり。女御の御方の副車は、狩装束、車ごとに心々なり。
かくて、東宮は、東の大路の前、大宮の大路に引き立てたり。宮の御車は赤糸毛にて、輦車の大きなるやうなり。黄なる御車牛懸けたり。御車副は、嵯峨の院の厨の人の子なるを、丈等しく、かたちあるを選びて十二人、掻練襲の下襲、深い沓履きて、後には、宮の蔵人所の衆ぞ仕うまつる。女御、御車は、南の御門、三条の大路に引き立てたり。御車牛黒うて懸けたり。御車副、御方の侍の人十二人、葡萄染めの下襲着たり。後に二十人仕うまつる。
(国譲下巻)

大将、「尚侍の殿の御前どもは、若やかなる女郎花色の下襲を着よ」とのたまふ。「宮の御方のは、薄き二藍を着よ」とのたまふ。(楼の上上巻)

1番目は、春日詣に出立する源正頼一行の描写です。
美々しい行列を仕立てるために前駆の馬の毛並みから意を用いており、並んで下襲の色が挙げられています。
2番目は、里下がりしていたあて宮が、新東宮に決まった息子と共に参内する場面で、何事も省略なしに列記する『うつほ物語』らしく車の種類から牛の毛の色まで事細かに描写した中に、副車・車副それぞれの下襲が記されています。
この場面では、長くなるので引用は省きましたが、新東宮母子参内の威勢を一目見ようと物見車が立ったという描写もあり、こうした行列が見物の対象として世間の注目を集めたことがわかります。
3番目は、いぬ宮への琴伝授のために京極邸へ移るに当たり、俊蔭女と女一の宮の車それぞれに付き添う従者に着せる下襲の色を指示した仲忠の言葉です。
国譲下巻の描写と表裏をなすように、行列を用意する側も見られることを充分意識しており、特に自由に色が選べる下襲には注意を払っている様子が感じられます。

『源氏物語』でも、有名な車争いが起こる新斎院御禊の場面で、

御禊の日、上達部など、数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに、容貌ある限り、下襲の色、表の袴の紋、馬鞍までみな調へたり。とりわきたる宣旨にて、大将の君も仕うまつりたまふ。かねてより、物見車心づかひしけり。(葵巻)

と、新帝の同母姉妹であり桐壺院鍾愛の内親王である新斎院の御禊を華やかに飾ろうと、供奉の人々の装束に趣向を凝らしたこと、それに伴って見物する側まで身嗜みに気を遣うほど注目の集まる儀式になったことが語られています。
ここで特に調えたものとして挙がっている下襲と表袴は、どちらもぱっと見にも目に付く衣裳ながら袍とは違って色や紋に厳格な規制はなく、やはり目立って尚且つ工夫の余地のあるこうした部分が、自然と他人や前例との差の付け所として力を入れることになったのだろうと想像されます。

162shitagasane_7 163shitagasane_8 こうした自他の意識の下で、当時の男性貴族がいかに下襲に気を配ったかがよくわかるエピソードが、『枕草子』に記されています。

正暦五[994]年の積善寺供養には、定子中宮と東三条女院詮子が行啓・御幸しました。
その際、まず関白以下が女院の御幸に供奉し、中宮はその人々が戻ってきてから出発との手筈になっており、早朝から清少納言ら中宮付きの女房達が二条大路に車を並べて待ちわびていたのですが、実際には女院一行の車が行き過ぎた後、久しく待たされてからようやく出発しました。
そして積善寺に到着した後、定子中宮は清少納言に長時間待たされた理由をこのように語るのです。

「久しうやありつる。それは、大夫の、院の御供に着て人に見えぬる同じ下襲ながらあらば、人、わろしと思ひなむとて、異下襲縫はせたまひけるほどに、遅きなりけり。いと好きたまへりな」とて、笑はせたまふ。(第二六三段「関白殿、二月二十一日に」)

大夫」は中宮大夫・藤原道長のこと。
彼が「女院のお供に着て人々に見られた、その同じ下襲でまた中宮のお供をしたのではみっともない!」と別の下襲を仕立てさせたので出発が遅くなった、というのです。
新しく下襲を1着縫うのにどのくらいの時間がかかるのかわかりませんが、なんとも大変な凝り様で驚かされます。
一体道長はこの日、女院と中宮それぞれの供奉にどんな下襲を着たのでしょうか。
清少納言が何も書き残してくれていないのが、とても残念に思われます。

フォーマルな席での男性貴族のお洒落の要だった下襲。
風俗博物館の展示や葵祭・時代祭の行列など、束帯装束を目にする機会には、下襲に注目してみるのも楽しいかもしれません。
(記事中の写真はいずれも2005年風俗博物館出張展示「六條院へ出かけよう」より、
上:下襲の裾を高欄に掛けた公卿・殿上人達
下左:紫苑〔推定〕の下襲を着た光源氏
下右:小栗色〔推定〕の下襲を着た左近少将)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
長崎盛輝著『日本の傳統色 : その色名と色調』京都書院 1996年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
あかね会編『平安朝服飾百科辞典』講談社 1975年
古典総合研究所作成「語彙検索

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「下襲」を加筆修正したものです。

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