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2007年9月の記事

2007年9月30日 (日)

遣水

166yarimizu_1 平安時代の貴族邸宅においては庭に趣向が凝らされ、新居造営の際には家屋以上に力を入れたことが知られていますが、そうした寝殿造の庭園に欠かせなかったものに、池と並んで遣水が挙げられます。
遣水は、邸宅の敷地内の泉や外から水路を設けて引き込んだ川の水を、南庭の池に注ぎ込むように流しました。
平安時代の造園指南書とも言うべき『作庭記』(橘俊綱著?平安後期成立)には、

経云、東より南へむかへて西へながすを順流とす。西より東へながすを逆流とす。しかれバ東より西へながす、常事也。又東方よりいだして、舎屋のしたをとおして、未申方へ出す、最吉也。(中略)南庭へ出すやり水、おほくハ透渡殿のしたより出テ西へむかへてながす、常事也。又北対よりいれて二棟の屋のしたをへて透渡殿のしたより出ス水、中門のまへより池へいるゝ常事也。

と記されており、敷地の東側から殿舎の下をくぐって南西方向へ流し出すのが最もよく、透渡殿の下を通って中門の前から池に至るのが常道とされました。
平安時代の実例では、東三条殿に千貫泉という泉があり、また藤原道長の土御門殿や藤原実資の小野宮は平安京の東縁を流れる京極川(=中川)から水を引き入れていたと言います。
『源氏物語』の中では帚木巻に、紀伊守邸が中川の水を堰き入れ、渡殿付近に泉も湧いていた描写があります。

とはいえ、そう都合よく敷地の東部に泉が湧くなり北東側から水が引けるとは限らない訳で、例外はまま生じました。
例えば『源氏物語図典』掲載の東三条殿平面図では千貫泉は寝殿西側にあり、遣水はそこから北の対の前を通って東側に迂回してから南庭に向かう流れになっていますし、六条院夏の町は西の対に面して遣水が流れている(篝火巻)他、二条院でも西の対の西側に更に壺庭があって遣水が流れている描写があります(東屋巻)。
同じ『作庭記』の中には、
太子伝云、青竜常にまもるれい水、東へながる。この説のごとくならば、逆流の水也といふとも、東方にあらば吉なるべし
経云、家より東に流水あるを青竜とす。もしその流水なけれバ、柳九本をうゑて青竜の代とす
といった記述もあるので、土地の事情などで定石どおりに遣水を流せない場合は逆流させたり遣水を設けない場合もあったことがわかります。

167yarimizu_2 168yarimizu_3 遣水は、流路の所々に石を立てて左右に蛇行させたり水を石にぶつけて白く泡立てたりして、谷川や野の川の流れを模り、変化をつけて流しました。
また流れの一部を堰き止めて、滝をつくる場合もありました。
当時は遣水の流れそのものが重要な観賞の対象となっていたようで、『作庭記』には、沢山石を立てすぎると遠くから見渡したときに無闇に石だらけに見えてよくないとか、周りに見通しを妨げるような大きく茂る前栽は植えず、桔梗や女郎花、吾亦紅、擬宝珠などの草花を植えるのが良いとか、景観を整えるための細かな注意点が書かれています。
こうした『作庭記』流の遣水の姿を現代に伝えているのが平泉にある毛越寺で、庭園の北東から大泉が池に流れ込む遣水は、発掘調査によってほぼ完全な形で検出された平安時代の遺構を復元したものです。
その他、絵画資料として『年中行事絵巻』や『源氏物語絵巻』などが挙げられ、『源氏物語絵巻』鈴虫(一)の復元模写では、原画では剥落してわからなくなってしまった前栽として薄・萩・女郎花などの秋草も描き込まれています。

『源氏物語』の中にも、遣水はいろいろな形で度々登場します。
六条院秋の町に「泉の水遠く澄ましやり、水の音まさるべき巌立て加へ、滝落として」(乙女巻)秋の野の風情をなした遣水が設けられたのをはじめ、六条院春の町・夏の町、二条院、祖母大宮から夕霧夫妻が受け継いだ三条第、常陸宮邸、一条宮、紀伊守邸、明石の入道邸、北山の僧都の庵、八の宮の宇治山荘、小野の尼君の山荘に遣水の描写が見られます。
居住者の階級や邸の規模、本宅か別荘かなどの差異を問わず描かれているところから、遣水は寝殿造の庭園に不可欠な要素だったことが感じられます。

169yarimizu_4 一方で、遣水は常に手入れをしていないとすぐに落ち葉などで埋もれて詰まってしまったようです。
『源氏物語』の遣水は、ときとして家を守る主を失って荒れた邸の象徴としても登場し、埋もれた遣水を掻き払い心地よい流れを甦えらせる描写を通して荒れた邸に活気が戻る様子が描かれます。
こうした遣水の描かれ方が最も顕著なのが、再び源氏の庇護を受けるようになった常陸宮邸を描く蓬生巻末で、他にも大宮の死後住む人のいなかった三条第に夕霧夫妻が移り住む藤裏葉巻や、源氏が転地療養中の紫の上と共に二条院の庭を眺める若菜下巻の場面が挙げられます。
それらと表裏をなすように、『紫式部日記』には道長が指図して遣水の掃除をさせる姿が彰子中宮の出産前後2度にわたって書き留められ、土御門殿行幸の記述では「いとよく払らはれたる遣水の心地ゆきたる気色して」と賞賛しています。
紫式部は、手入れの行き届いた遣水にその邸の繁栄と主の心配りの細やかさを見ていたのかもしれません。

記事中の写真は上から順に以下のとおりです。

1枚目
:2004年風俗博物館出張展示より、寝殿と東の対をつなぐ渡殿の下をくぐる遣水
2・3枚目
:毛越寺庭園の遣水(2007年9月撮影)
4枚目
:えさし藤原の郷「伽羅御所」東の対から見た透渡殿と遣水(2007年9月撮影)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
NHK名古屋放送局「よみがえる源氏物語絵巻」取材班著『よみがえる源氏物語絵巻:全巻復元に挑む』日本放送出版協会 2006年
池浩三, 倉田実編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識17 空蝉』至文堂 2001年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
森蘊著『「作庭記」の世界 : 平安朝の庭園美』(NHKブックス<カラー版>C27)日本放送出版協会 1986年

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2007年9月15日 (土)

大原野

164oharano_1 現在の京都市西京区大原野の一帯は、長岡京遷都を機に開発された遊猟地でした。
桓武天皇から陽成天皇まで、大原野での遊猟の記録は多く見られ、その後も醍醐天皇が大原野に行幸して鷹狩を行っています。
(天皇が遊猟のために行幸することは、平安前期には盛んに行われ、「野行幸」と呼んで『新儀式』や『西宮記』に儀式次第の記述があります)
中でも、延長六[928]年十二月五日の醍醐天皇の大原野行幸は『李部王記』に詳しく遺されており、『源氏物語』行幸巻の冷泉帝の大原野行幸は、この史実が準拠されています。
山本登朗氏は、この行幸の場面で帝一行が野に着いて平張を設けた辺りを
「大原野地域の中でもやや小高い位置を占め、眺望にも恵まれた、小塩山(現在は「おじおやま」と呼ばれている)の麓の大原野神社周辺の地(現在の大原野南春日町)と考えることが、もっとも自然であろう」
と推定しています(『源氏物語の鑑賞と基礎知識30 行幸・藤袴』)。
(写真は、紅葉に彩られた大原野神社の社殿。2006年12月撮影)

大原野神社は、長岡京遷都に際して桓武天皇の皇后であった藤原乙牟漏が参詣の不便を解消するために創祀したと伝わり、藤原氏出身の后と深い関わりがありました。
大原野神社の例祭・大原野祭は宮廷儀式として位置づけられていて天皇・東宮と共に中宮も奉幣した他、儀式書には「中宮職供酒食」(『儀式』巻第一)「無氏后之時、氏一人祭之」(『西宮記』巻六)といった記述が見られ、祭の中で中宮が一定の役割を担っていたことがわかります。
また、皇太后・藤原順子を皮切りにしばしば后の行啓もありました。
『源氏物語』が書かれた一条朝にも、寛弘二[1005]年三月八日に中宮・藤原彰子が妹の尚侍・妍子と共に「如行幸時」(『小右記』)「如行幸儀式」(『御堂関白記』)と記されるほどの盛大さで行啓していますし、『古今和歌集』巻第十七や『伊勢物語』第七十六段に収められている

大原や小塩の山もけふこそは神代のことも思ひいづらめ

の歌は、このとき東宮妃であった藤原高子の大原野神社参詣に際して贈った在原業平の詠歌です。

165oharano_2 上記の業平の歌や、『源氏物語』行幸巻での冷泉帝と光源氏の贈答歌

雪深き小塩山にたつ雉の古き跡をも今日は尋ねよ
小塩山深雪積もれる松原に今日ばかりなる跡やなからむ

に詠み込まれている小塩山は、先に引用した山本氏の記述にもあったとおり、大原野神社がちょうど麓で、2kmほど西へ登っていくと標高642mの山頂になります。
現在はハイキングコースとして、また中腹に建つ金蔵寺が紅葉の名所として親しまれており、頂上はこの地に散骨されたと伝わる淳和天皇の御陵となっています。
平安時代には大原野神社と関わって、藤原氏の繁栄を祝い祈念する歌に多く詠まれてきた歌枕です。
また『紫式部集』には、

  暦に初雪降ると書きたる日、目に近き日野岳といふ山の雪、いと深う見やらるれば
ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松に今日やまがへる

と、越前の日野岳を見ながら小塩山に思いを馳せた歌が収められており、紫式部もあるいは雪の大原野を見たことがあったのではないかとも想像できます。
(写真は大原野神社付近から見た、小塩山を含む西山の山並み。2006年12月撮影)

尚、『源氏物語』とは直接関わりませんが、大原野には在原業平ゆかりの十輪寺や西行桜で有名な勝持寺もあり、少々交通の便は悪いものの、平安時代がお好きな方にとっては散策のし甲斐がある地域だと思います。

【Data】
大原野神社
 住所:京都市西京区大原野南春日町1152
 交通:阪急電鉄京都線東向日駅またはJR向日町駅より阪急バス「南春日町」下車徒歩10分
 拝観:無料
 tel.:075-331-0014
小塩山
 住所:京都市西京区大原野石作町
 交通:阪急バス「南春日町」下車徒歩約1時間

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
阿部猛, 義江明子, 相曽貴志編『平安時代儀式年中行事事典』東京堂出版 2003年
久保木哲夫編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識30 行幸・藤袴』至文堂 2003年
久保田淳, 馬場あき子編『歌ことば歌枕大辞典』角川書店 1999年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
大原野神社(公式Webサイト)

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2007年9月 8日 (土)

下襲(3)着る側と見る側の意識

161shitagasane_6 長い裾と比較的自由の利く華やかな色目が特徴の下襲は人々の注目の的であり、儀式行事の折には殿上人らは思い思いに下襲に意を凝らしました。
『源氏物語』や『枕草子』『栄花物語』など当時の仮名文学には、端麗に装った公卿・殿上人らの下襲の長さと美しさを綴った例が多数見られます。

下襲の注目度の高さを窺わせる記述の例を、最初に『栄花物語』から2つ挙げてみます。

いづれの殿ばらも皆御装束めでたきなかに、関白殿の御下襲の菊の引倍木耀きて、目留まりたり。(巻第二十三「こまくらべの行幸」)

みな御茵にゐたまひて、北向きにゐさせたまへれば、御下襲の裾どもは高欄にうちかけつつ、ゐさせたまへり。掻練襲、柳、桜、葡萄染、若うおはする殿ばはら紅梅などにても着たまへり。色々に見え耀き照りわたりたるほど、いみじうをかし。(巻第二十四「わかばえ」)

上は、『駒競行幸絵巻』で知られる万寿元[1024]年の壮麗な高陽院行幸の様子を記した中の一文です。
下は高陽院行幸の翌年・万寿二[1025]年正月に催された皇太后宮妍子の大饗に列席した関白以下の色とりどりの下襲を記したもので、晴れの席での美々しい装いをよく伝えています。
色々に見え耀き照りわたりたる」下襲の具体例としては、200年ほど後の文献ですが『餝抄』上「下襲色之事」に、火色・紅梅・蘇芳・松重・紅葉・菊・花橘・女郎花・柳・萌黄・桜・白重・二藍・青朽葉などなど季節毎の多様な色目が挙げられ、晴れの席を華やかに彩っただろうことを想像させてくれます。

また行幸や行啓、祭などの際には、供奉の人々の下襲が行列を飾る要素となり、公事以外の例でも前駆や車副の人々に美しい下襲を着せて権勢を誇示したりした様子が、『うつほ物語』や『源氏物語』の描写から窺えます。
まずは『うつほ物語』の例を挙げましょう。

御車の御前駆、四位十八人、五位三十人、六位五十人。馬の毛、下襲の色整へたり。(春日詣巻)

宮の副車は、褐の衣、冠したり。あるは白襲、白袴、あるは薄色の下襲、裾濃の袴、心々にせられたり。女御の御方の副車は、狩装束、車ごとに心々なり。
かくて、東宮は、東の大路の前、大宮の大路に引き立てたり。宮の御車は赤糸毛にて、輦車の大きなるやうなり。黄なる御車牛懸けたり。御車副は、嵯峨の院の厨の人の子なるを、丈等しく、かたちあるを選びて十二人、掻練襲の下襲、深い沓履きて、後には、宮の蔵人所の衆ぞ仕うまつる。女御、御車は、南の御門、三条の大路に引き立てたり。御車牛黒うて懸けたり。御車副、御方の侍の人十二人、葡萄染めの下襲着たり。後に二十人仕うまつる。
(国譲下巻)

大将、「尚侍の殿の御前どもは、若やかなる女郎花色の下襲を着よ」とのたまふ。「宮の御方のは、薄き二藍を着よ」とのたまふ。(楼の上上巻)

1番目は、春日詣に出立する源正頼一行の描写です。
美々しい行列を仕立てるために前駆の馬の毛並みから意を用いており、並んで下襲の色が挙げられています。
2番目は、里下がりしていたあて宮が、新東宮に決まった息子と共に参内する場面で、何事も省略なしに列記する『うつほ物語』らしく車の種類から牛の毛の色まで事細かに描写した中に、副車・車副それぞれの下襲が記されています。
この場面では、長くなるので引用は省きましたが、新東宮母子参内の威勢を一目見ようと物見車が立ったという描写もあり、こうした行列が見物の対象として世間の注目を集めたことがわかります。
3番目は、いぬ宮への琴伝授のために京極邸へ移るに当たり、俊蔭女と女一の宮の車それぞれに付き添う従者に着せる下襲の色を指示した仲忠の言葉です。
国譲下巻の描写と表裏をなすように、行列を用意する側も見られることを充分意識しており、特に自由に色が選べる下襲には注意を払っている様子が感じられます。

『源氏物語』でも、有名な車争いが起こる新斎院御禊の場面で、

御禊の日、上達部など、数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに、容貌ある限り、下襲の色、表の袴の紋、馬鞍までみな調へたり。とりわきたる宣旨にて、大将の君も仕うまつりたまふ。かねてより、物見車心づかひしけり。(葵巻)

と、新帝の同母姉妹であり桐壺院鍾愛の内親王である新斎院の御禊を華やかに飾ろうと、供奉の人々の装束に趣向を凝らしたこと、それに伴って見物する側まで身嗜みに気を遣うほど注目の集まる儀式になったことが語られています。
ここで特に調えたものとして挙がっている下襲と表袴は、どちらもぱっと見にも目に付く衣裳ながら袍とは違って色や紋に厳格な規制はなく、やはり目立って尚且つ工夫の余地のあるこうした部分が、自然と他人や前例との差の付け所として力を入れることになったのだろうと想像されます。

162shitagasane_7 163shitagasane_8 こうした自他の意識の下で、当時の男性貴族がいかに下襲に気を配ったかがよくわかるエピソードが、『枕草子』に記されています。

正暦五[994]年の積善寺供養には、定子中宮と東三条女院詮子が行啓・御幸しました。
その際、まず関白以下が女院の御幸に供奉し、中宮はその人々が戻ってきてから出発との手筈になっており、早朝から清少納言ら中宮付きの女房達が二条大路に車を並べて待ちわびていたのですが、実際には女院一行の車が行き過ぎた後、久しく待たされてからようやく出発しました。
そして積善寺に到着した後、定子中宮は清少納言に長時間待たされた理由をこのように語るのです。

「久しうやありつる。それは、大夫の、院の御供に着て人に見えぬる同じ下襲ながらあらば、人、わろしと思ひなむとて、異下襲縫はせたまひけるほどに、遅きなりけり。いと好きたまへりな」とて、笑はせたまふ。(第二六三段「関白殿、二月二十一日に」)

大夫」は中宮大夫・藤原道長のこと。
彼が「女院のお供に着て人々に見られた、その同じ下襲でまた中宮のお供をしたのではみっともない!」と別の下襲を仕立てさせたので出発が遅くなった、というのです。
新しく下襲を1着縫うのにどのくらいの時間がかかるのかわかりませんが、なんとも大変な凝り様で驚かされます。
一体道長はこの日、女院と中宮それぞれの供奉にどんな下襲を着たのでしょうか。
清少納言が何も書き残してくれていないのが、とても残念に思われます。

フォーマルな席での男性貴族のお洒落の要だった下襲。
風俗博物館の展示や葵祭・時代祭の行列など、束帯装束を目にする機会には、下襲に注目してみるのも楽しいかもしれません。
(記事中の写真はいずれも2005年風俗博物館出張展示「六條院へ出かけよう」より、
上:下襲の裾を高欄に掛けた公卿・殿上人達
下左:紫苑〔推定〕の下襲を着た光源氏
下右:小栗色〔推定〕の下襲を着た左近少将)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
長崎盛輝著『日本の傳統色 : その色名と色調』京都書院 1996年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
あかね会編『平安朝服飾百科辞典』講談社 1975年
古典総合研究所作成「語彙検索

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「下襲」を加筆修正したものです。

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