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2007年11月の記事

2007年11月28日 (水)

椿市(つばいち)

176tsubaichi_1 さすらいのヒロイン・玉鬘が、かつての夕顔の女房・右近と劇的な再会を果たす椿市(つばいち。「海石榴市」とも書きます)の地は、大和国城上郡の長谷山口(現在の奈良県桜井市金屋)にあり、初瀬詣が盛んになった平安時代以降、長谷寺への参詣者を受け入れる宿泊地として栄えました。
『枕草子』には

海石榴市、大和にあまたあるなかに、長谷にまうづる人のかならずそこに泊るは、観音の縁のあるにやと、心異なり。(第十一段「市は」)

と書かれており、長谷寺とのつながりの深さがわかります。
(海石榴市の名前は奈良時代の文献にも見えますが、『古代地名大辞典』は、『万葉集』の時代に「八十の衢」と詠まれて交通の要衝に位置する市場として賑わった海石榴市は金屋よりも南方にあり、初瀬詣の盛行に伴って道路が初瀬川沿いに変更され、市の場所も金屋に移ったとする推論を注記しています)

『蜻蛉日記』や『源氏物語』玉鬘巻、『小右記』などには、初瀬詣の人々の椿市での様子がよく描かれています。

けふも寺めく所に泊りて、又の日は椿市といふ所に泊る。
又の日、霜のいと白きに、詣でもし帰りもするなめり、脛を布の端して引きめぐらかしたる者ども、ありき違ひ騒ぐめり。蔀さし上げたる所に、宿りて、湯沸かしなどする程に、見れば、さまざまなる人の行き違ふ、おのがじしは思ふことこそはあらめと見ゆ。
(『蜻蛉日記』安和元[968]年九月)

からうじて、つばいちにいたりて、例のごと、とかくして出で立つ程に、日も暮れ果てぬ。(中略)椿市に帰りて、「としみ」など言ふなれど、われは猶精進なり。そこより初めて饗する所、行きもやらずあり。(『蜻蛉日記』天禄二[971]年七月)

からうして、椿市といふ所に、四日といふ巳の時ばかりに、生ける心地もせで、行き着きたまへり。(中略)大御燈明のことなど、ここにてし加へなどするほどに日暮れぬ。(『源氏物語』玉鬘巻)

寅剋許従此寺歩行参長谷寺、於途中朝食、午終到椿市、令交易御明・燈心器等、(中略)申時許参着御寺、(『小右記』正暦元年九月八日条)

払暁従御寺騎馬、(割注省略)罷出於椿市、国守聊有食儲、(『小右記』同月十一日条)

『蜻蛉日記』の最初の記述からは、身分も事情もさまざまの人々が初瀬観音の霊験に縋って椿市の地を行き交った様子が窺われます。
また『蜻蛉日記』の2つ目の記述と『源氏物語』玉鬘巻の描写、『小右記』の記述からは、椿市で長谷寺に参詣する仕度を整え、参詣後にはまた精進落しなどをしたことがわかります。
参詣の仕度の具体的な内容は、上記引用文に「大御燈明のこと」「御明・燈心器等」とあるように仏前に供える灯明などでした。
どのような理由があったのかはわかりませんが、椿市で仕度を整えた後、夜になってから長谷寺に入るのが常だったようです。

177tsubaichi_2 178tsubaichi_3 現在、桜井市金屋の集落に往時の椿市の面影は全く残っておらず、僅かに海石榴市観音堂にその名を留めるのみです。
海石榴市観音堂は、二体の観音石仏を本尊として安置しており、『奈良県の地名』によれば、一体には「元亀二[1571]年八月吉日」、もう一体には「元亀三[1572]年四月十八日」との銘が刻まれているそうです。
現存の石仏が祀られる以前から観音堂が存在したかどうかははっきりしません。

椿市から長谷寺までは、東へと初瀬川を遡る約4kmの道のりです。
両側を山に囲まれた谷中の道を、長谷寺へと登ってゆくことになります。

写真は、上から順に

  • 金屋の集落内に立つ、海石榴市の歴史を記した看板と海石榴市観音堂への道標
  • 海石榴市観音堂外観
  • 大和川(初瀬川)の川岸から見た金屋地区

です。撮影はすべて2007年11月。

【Data】
住所:奈良県桜井市金屋
交通:JR桜井線三輪駅または桜井駅・近鉄大阪線桜井駅下車徒歩20分
tel.:0744-42-9111(桜井市観光課)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
平田喜信編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識12 玉鬘』至文堂 2000年
角川文化振興財団編『古代地名大辞典』角川書店 1999年
平凡社編『奈良県の地名』(日本歴史地名大系30)平凡社 1981年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2007年11月23日 (金)

「階」か「橋」か~『枕草子』能因本「黒木のはし」の正体~

1年ほど前から、『源氏物語』の中にも登場する平安時代のバラ「薔薇(さうび)」の種類を調べています。
このテーマはまだまだ調査継続中で、記事にできるほどまとまってきてはいないのですが、調べていく中で繰り返し出会った、気になる文章があります。
『枕草子』能因本の「草の花は」の段(小学館『日本古典文学全集』では第七〇段に相当)にある、

さうびは、ちかくて、枝のさまなどはむつかしけれど、をかし。雨など晴れゆきたる水のつら、黒木のはしなどのつらに、乱れ咲きたる夕映え。

という記述です。
近年底本にされることの多い三巻本をはじめとする他の系統の写本にはない文章のため、間違いなく清少納言の手による記述とは言い切れない危うさもあるのですが、何分にも平安時代の文献で「薔薇」のことを書き記したものは非常に少ないためか、「薔薇」について述べた論文などには必ずと言っていいほど引用されています。

『枕草子』や『源氏物語』が書かれた当時、「薔薇」と言えば白居易の漢詩の一節

甕頭竹葉経春熟。階底薔薇入夏開。(甕頭の竹葉春を経て熟し、階底の薔薇夏に入りて開く。)
(「薔薇正開。春酒初熟。因招劉十九・張大夫・崔二十四同飲」第一・二句)

が大変に有名で、『和漢朗詠集』にも「首夏」の題で採録されるなど平安貴族に愛唱され、広く知れ渡っていました。
平安中期以降、白詩が公家の間で絶大な人気を誇り、文学作品にも多大な影響を与えたことはよく知られていますが、この詩句もその例に漏れず、
階のもとの薔薇、けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきほどなるに、」(『源氏物語』賢木巻)
甕のほとりの竹葉も末の世はるかに見え、階の下の薔薇も夏を待ち顔になどして、」(『栄花物語』巻第十一「つぼみ花」)
立石、遣水底浄、汀ニ生ル杜若、階ノ本ノ薔薇モ折知ガホニ開ケタリ。」(『源平盛衰記』巻十一「経俊入布引滝事」)
のような表現が生まれました。
また、『永昌記』(白河院政期の公卿・藤原為隆の日記)や『明月記』(藤原定家の日記)にはこの詩句をモチーフにしたと思しき牛車や衣裳の装飾の記録が見られ、人々の間に深く浸透していた様子が窺われます。

こうした事情を踏まえてなのでしょう、私が目にした文献はどれも『枕草子』能因本の「薔薇」の描写もこの詩句に拠ったものと判断し、「黒木のはし」を「黒木の階(きざはし)」と解釈していました。
その上で、例えば
「白詩以来「階」のもとに咲く薔薇というイメージは固有のものとなっていた」(沼尻利通氏「「階の底の薔薇」と光源氏」)
「当時の貴族たちはこと「さうび」に関しては、揃ってこの「階底薔薇」を下敷きにする」(吉田加奈子氏「薔薇の受容変化」)
といった評価を下しています。
しかし、「黒木のはし」は本当に階なのでしょうか?

疑問に思った理由は、「黒木の」という形容にあります。
平安時代に「黒木」と言うと、意味は通常“皮を剥いでいない丸太のままの材木”です。
古典好き・歴史好きの方にとっては、『源氏物語』賢木巻にも登場する野の宮の黒木の鳥居でお馴染みでしょう。
でも、この文の「黒木」がその意味だとしたら、丸太のままの状態でどうやって階段にするのでしょう?
現存する建築物であれ絵巻などの絵画資料であれ、曲面になっている階など見たことがありませんし、円柱状では材木同士を組み合わせても極めて不安定で、実用性を考えればあり得ないと言ってしまってよいと思います。

『日本国語大辞典』を引くと、「黒木」の語は黒檀の別名としても使われたことが記されています。
ただし、黒檀の意味とする「黒木」の最初の用例として載っているのは『源氏物語』河内本の文で、また同じ『日本国語大辞典』の「黒檀」の項には、『和名抄』に載る「黒柿」が古来の黒檀の和名ではないかとの推測も記されており、平安中期に「黒木」が黒檀の意味で用いられたかどうかは定かではありません。
それに、黒檀は日本国内では産出せず、南方から輸入されて楽器や調度品などに使われた木材です。
現代でも黒檀製の家具は高級品ですが、海外からの舶載品が珍重された1000年前の黒檀の価値は、現代の比ではなかった筈です。
そのような貴重な木材を、大型の角材を多量に必要とする階に使ったとはちょっと考えられません。

では、ここに記された「黒木のはし」とは何なのか。
それは、「皮を剥いでいない丸太のままの木材でできた橋」なのではないでしょうか。
当時の寝殿造庭園には、遣水を跨ぎ越す橋や池の中島へ渡る橋などがありました。
そうした庭の橋なら、素朴な風情を出すために敢えて丸太のままこしらえた橋があっても不自然ではありません。
黒木のはし」の前に提示されている情景が「水のつら」、つまり池や遣水のような水のほとりである点からも、階よりも橋と考えた方が相応しく思われます。

そもそも「階底薔薇」の詩句を踏襲したにしては、『枕草子』能因本の「薔薇」の描写は、雨上がり・水辺・夕暮れ時…と、白詩とは異なる情景の設定がいくつもされています。
他の作品のように「はしのもと」ではなく「はしなどのつら」であるところも、違うと言えば違う点です。
こうした独自の表現を、単なる白詩のアレンジと解釈してしまってよいのでしょうか。
私には、有名な詩句に基づいた観念的な表現などではなく、筆者が実際に見て心に留まった具体的な情景の描写であるように思えてなりません。

沼尻氏が上記論文の中で指摘しておられるように、『源氏物語』賢木巻の「階のもとの薔薇」の一節は、河内本系の諸本と別本の国冬本・伝冷泉為相本では「くろきのはしの」と書かれています。
賢木巻のこの場面は漢詩や和歌・催馬楽などの表現が重層して用いられていて、白詩もその中に取り込まれていると考えるべきなだけに、「黒木の階」が本当にあり得るのか、再度検討する必要があるのは確かです。
ですが、少なくとも『枕草子』能因本のこの記述に関しては、“「薔薇」と「はし」が並んで出てきたら白詩の踏襲に決まっている”というような読み方に、ささやかながら疑問を呈してみたい次第です。

【参考文献】
沼尻利通「「階の底の薔薇」と光源氏」(「中古文学」73号 2004年 pp.13-24)
吉田加奈子「薔薇の受容変化―平安から鎌倉初期の「薔薇」―」(「服飾美学」37号 2003年 pp.33-48)
日本国語大辞典第二版編集委員会, 小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典』第2版 小学館 2000-2002年
中野幸一編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』至文堂 2000年
松尾聰, 永井和子校注・訳『枕草子』(日本古典文学全集11)小学館 1972年
田中重太郎著『枕冊子全注釈 1』(日本古典評釈・全注釈叢書)角川書店 1972年
池田亀鑑編著『源氏物語大成 校異篇1』中央公論社 1953年
神宮司廳 [編]『古事類苑 神祇部4』普及版「賀茂祭」 古事類苑刊行会 1935年

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2007年11月11日 (日)

長谷寺

172hasedera_1 大和国城上郡(現在の奈良県桜井市初瀬)に位置する長谷寺は、聖武天皇の勅願によって安置されたと伝わる十一面観世音菩薩像を本尊とし、平安京から直線距離にして50km以上(『源氏物語の鑑賞と基礎知識12 玉鬘』によれば旅の行程は約72km)離れているにもかかわらず、霊験あらたかな観音霊場として都の貴族達が盛んに参詣しました。
『源氏物語』の書かれた一条朝の頃を見ると、円融院・東三条女院詮子による御幸をはじめ、藤原道長や藤原実資、藤原頼通、隆姫女王、藤原教通などの参詣が見つかります。
現世利益・後世救済を齎すとする観音菩薩への信仰は女性の間にも広く浸透したことから、石山寺と同じく女性の参詣が盛んで、『蜻蛉日記』『更級日記』の初瀬詣の記述は有名ですし、『枕草子』の記述から清少納言も一度ならず長谷寺に詣でたことがわかります。
脛を布の端して引きめぐらかしたる者ども、ありき違い騒ぐめり」(『蜻蛉日記』安和元[968]年九月)
蓑虫などのやうなる者ども、集りて、立ち居、額づきなどして」(『枕草子』一本二十七「初瀬に詣でて」)
といった記述も見られ、貴族に限らず民衆も数多く参詣し非常に賑わっていたことが窺われます。

173hasedera_2 『源氏物語』にもそうした初瀬詣の盛行が反映されており、実際に参詣の様子が描かれる巻こそ玉鬘巻のみですが、この場面では各地からの参拝者でごった返す長谷寺の賑わいが活写されており、また宇治十帖では初瀬詣を背景とした物語の展開が繰り返し現われます。
まず椎本巻冒頭には匂宮が初瀬詣の帰路に宇治で中宿りをする場面があり、ここから中の君と匂宮との交渉が始まりますし、宿木巻では浮舟が僅か3ヶ月ほどの間に2度も参詣したことが語られ、この2度目の初瀬詣の中宿りで宇治の山荘に立ち寄った折に、薫にその姿を見られることになります。
更に、進退窮まって山荘を抜け出した浮舟が横川の僧都に助けられる手習巻冒頭の場面も、僧都が山を下りて宇治へやってきた理由は初瀬詣から戻る途中の母大尼君の急病でしたし、小野に引き取られた浮舟が出家を果たすのも、小野の妹尼が亡き娘の代わりに浮舟を得たお礼参りにと再度初瀬へ赴いた留守中のことでした。
また
仏の御なかには、初瀬なむ、日の本のうちには、あらたなる験現したまふと、唐土にだに聞こえあむなり」(玉鬘巻:豊後介)
さりとも、初瀬の観音おはしませば、あはれと思ひきこえたまふらむ」(東屋巻:浮舟の乳母)
といった登場人物達の発言からも、当時の長谷観音の霊験に対する信仰と期待の深さが見て取れます。

都から長谷寺までの道のりは、片道3~4日もかかる長旅でした。
『蜻蛉日記』安和元[968]年九月の参詣を例に取ると、暁に都を出立して宇治川・木津川を渡り、3日目に椿市(現在の奈良県桜井市金屋)着、その日は椿市に宿泊し、4日目に寺に入っています。
『更級日記』永承元[1046]年十月の参詣も同様に暁に都を発ち、宇治川を渡り栗駒山を越え、途中東大寺・石上神宮にも参拝しながら3日目の夜に寺に到着しました。
どちらの場合も牛車での旅であることを考えると、玉鬘一行が徒歩で「四日といふ巳の時ばかり」即ち4日目のお昼前に椿市に辿り着いているのは、かなりの強行軍だったと言えそうです。
椿市から長谷寺までは4kmほどですから、日頃は自分の足で歩き回ることなどほとんどない平安時代の姫君が3.5日で山越えを含む68kmもの行程を歩いた計算になり、「生ける心地もせで」(玉鬘巻)というのも頷けます。

174hasedera_3 175hasedera_4 長谷寺は初瀬川の北岸、初瀬山の山腹にあり、川沿いの参道から石段を上って仁王門をくぐり、更に399段もある登廊(のぼりろう)を上って本堂に至ります。
長旅の末に山を登っての参詣は、外出する機会の少ない女性にとっては心身共に相当に堪えたようで、
雨や風、猶やまず。火ともしたれど、吹き消ちて、いみじく暗ければ、夢の道の心ちして、いとゆゝしく、いかなるにかとまで思ひまどふ。(中略)御堂に物する程に、心ちわりなし。おぼろけに思ふこと多かれど、かくわりなきに物おぼえずなりにたるべし」(『蜻蛉日記』天禄二[971]年七月)
いみじき心おこしてまゐりしに、川の音などの恐ろしう、呉階をのぼるほどなど、おぼろけならず極じて」(『枕草子』一本二十七「初瀬に詣でて」)
といった記述が見られます。
清少納言の書いた「呉階」はこの登廊のことと思われますが、登廊が初めて建てられたのは長暦三[1039]年のことと言います。
では登廊建立以前はというと、「古い参道は、東の谷の二本(ふたもと)の杉辺りから椙坂の急坂を登ったもの」(『奈良県の地名』)だそうで、現在も東参道の途中に二本の杉が植わっています。
この杉のことは、参籠を終えた右近が玉鬘に詠みかけた歌
二本の杉のたちどを尋ねずは古川野辺に君を見ましや」(玉鬘巻)
の中に詠み込まれていますが、彼女達が本堂に上る際に通ったのはどちらの道だったのでしょうか。

長谷寺は度々火災に見舞われているため、現在ある建物の大半は江戸~昭和に再建されたもので、ご本尊も室町時代の再造です。
そのため平安時代の寺院の様子を窺い知る術はほとんど残されていませんが、長い登廊を上りきって本堂に入り、高さ10mを越す大きなご本尊の立ち姿を見上げると、平安時代の女性達の苦労とは比べ物にならないながらも、仏様の前に辿り着いた安堵感に包まれます。
形あるものは姿を変えても、今尚ご本尊の霊験に与ろうと山を登った人々の思いを偲ばせる、山と川に抱かれたお寺です。

写真は上から順に、

  • 石段から見上げた仁王門
  • 現代も変わらず多くの参拝客が上ってゆく登廊
  • 礼堂の外舞台から見た礼堂とその奥の本堂内陣
  • 外舞台から見下ろした仁王門(写真中央)と登廊

です。すべて2007年11月撮影。

【Data】
住所:奈良県桜井市初瀬731-1
交通:近鉄大阪線長谷寺駅下車徒歩20分
拝観:受付時間8:30~17:00(10~3月は9:00~16:30)拝観料500円
tel.:0744-47-7001

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
平田喜信編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識12 玉鬘』至文堂 2000年
山中裕, 鈴木一雄編集『平安時代の信仰と生活』至文堂 1994年
平凡社編『奈良県の地名』(日本歴史地名大系30)平凡社 1981年
奈良・総本山 長谷寺(公式ホームページ)
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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