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2008年2月の記事

2008年2月16日 (土)

初瀬詣の道を辿る

『源氏物語』で玉鬘や浮舟が長谷観音の加護を求めて辿った初瀬詣の道のり。
平安時代は片道3・4日もかかる長旅でしたが、現在はその道を1日で辿ることができます。
道中の史跡を訪ねながら、現代の初瀬詣の旅をご紹介しましょう。

都の出立を京都駅に設定するなら、JR奈良線に乗るところから旅が始まります。

京都駅を出発して、最初の停車駅は、東福寺。
平安時代、この駅の200mほど北にある一橋小学校付近から次の稲荷山駅辺りにかけての広大な地域に、藤原忠平が建立した法性寺の大伽藍がありました。
都を出て宇治や大和へ向かう道筋のランドマークとして『源氏物語』や『蜻蛉日記』『更級日記』などに登場します。

更に15分ほど電車に揺られると、宇治川を越えて宇治駅に着きます。
宇治は、平安時代には貴族の別業が数多く営まれ、初瀬詣の際には往復とも中宿りに利用されました。
殊に『源氏物語』椎本巻で匂宮が初瀬詣の帰りに中宿りをする夕霧の宇治別業は、平等院の前身である藤原道長・頼通父子の別業「宇治殿」がモデルと見られています。

宇治から更に2駅先の新田駅は、みやこ路快速は停まらない駅ですが、周辺の大久保・広野付近が平安時代の栗隈郷と比定されており、この辺りの丘陵が『更級日記』に登場する「栗駒山」と見られています。
また、こちらも『源氏物語』には登場しないものの、『枕草子』の「初瀬に詣でしに、水鳥のひまなく居て、立ち騒ぎしが、いとをかしう見えしなり」(第三十五段「池は」)との記述をはじめとして『蜻蛉日記』『更級日記』にもその名が見える「贄野の池」は、中世末には消滅してしまったようで現在でははっきりした位置がわかりませんが、各書の注釈などは綴喜郡井手町付近としています。
私が見た中で一番詳しい記述がされていたのは『京都府の地名』で、綴喜郡井手町多賀の南谷川北側に生じた後背湿地と推定しています。
多賀は、新田駅から4つ先の山城多賀駅から直線距離で2kmほど東に位置していますので、この辺りのJR奈良線は平安時代の道よりもやや西を走っていることになります。

更に奈良線で南下してゆくと、木津駅に着く直前で木津川を渡ります。
木津川は平安時代には「泉川」と呼ばれ、渡し舟が往来していました。
JRの鉄橋より400mほど西の泉橋寺の門前に渡し場があったようです。
『源氏物語』宿木巻で、浮舟の初瀬詣に同行した女房が「泉川の舟渡りも、まことに、今日はいと恐ろしくこそありつれ」と語ったのは、ちょうどこの辺りのことです。

奈良線からそのまま関西本線(大和路線)に乗り入れ、終点の奈良駅に着いたらJR桜井線に乗り換えます。
奈良駅から30分ほど南に下った三輪駅で下車して20分ばかり歩くと、初瀬詣に向かう人々が参詣の準備を整えた椿市に着きます。
現在は桜井市が設置したと思われる看板が立っているだけで、清少納言が「大和にあまたあるなかに、長谷にまうづる人のかならずそこに泊るは、観音の縁のあるにやと、心異なり」(『枕草子』第十一段「市は」)と記した往時の面影を留めるものは何もありませんが、『源氏物語』玉鬘巻で玉鬘一行と右近が邂逅したのがこの場所です。

椿市からは、一旦初瀬川を渡って桜井駅まで歩き、近鉄大阪線に乗り込みます。
その名もずばりの長谷寺駅は、桜井駅から2つ目。
電車を降りると、駅から初瀬川までは急な下り坂で、川を渡ると今度は川の流れに沿うように長谷寺へ至る参道の緩やかな上り坂が続きます。
参道の道のりは、山に囲まれた谷間を山に向かって歩いているのがよくわかり、記紀・万葉の時代から「こもりくの初瀬」と詠われたこの土地の地形が実感できます。

駅から20分ほど歩くと、目的の長谷寺に到着です。
参道の終点は石段、そしてその先の仁王門をくぐると、長い長い登廊が姿を現します。
399段の登廊を上って、ようやくご本尊の観音菩薩像の前に辿り着きます。
現在は、本堂と礼堂の間の通路のようなところから仏様の姿を覗き込むような格好でのお参りになりますが、平安時代は堂内に局を設え、一晩中そこに籠って祈りを捧げました。
右近が局は、仏の右の方に近き間にしたり。この御師は、まだ深からねばにや、西の間に遠かりけるを、」「暮るれば、御堂に上りて、またの日も行なひ暮らしたまふ。」(『源氏物語』玉鬘巻)といった描写から、当時の参籠の様子が窺えます。

尚、私は気づかずに通り過ぎてしまったのですが、長谷寺の拝観案内パンフレットによると、境内東側にある駐車場前の初瀬川対岸には「玉鬘の大銀杏」と名づけられた銀杏の木が植わっており、また『源氏物語の鑑賞と基礎知識12 玉鬘』によれば、川にかかる小橋の欄干には、右近が「二本の杉のたちどを尋ねずは古川野辺に君を見ましや」(玉鬘巻)と詠んだ「古川野辺」の文字が刻まれているそうです。

以上の道のりは、『源氏物語』に登場しない場所を除き、実際に私が途中下車をしながら辿ってみたものです。
朝京都を出発すれば、日帰りで充分に行って戻ってくることができます。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
平田喜信編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識12 玉鬘』至文堂 2000年
平凡社[編]『京都府の地名』(日本歴史地名大系26)平凡社 1981年
総本山長谷寺『長谷寺』 ※拝観者用パンフレット

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2008年2月 3日 (日)

法性寺

182hosshoji 平安中期、平安京を鴨川沿いに南へ下っていくと、九条大路の先、都の東南端と向き合うようにして、川の東側に壮大な寺院が建っていました。
藤原忠平が建立した藤原氏の氏寺・法性寺(ほっしょうじ)です。

法性寺の創建時期は明らかではありませんが、『貞信公記』延長ニ[924]年ニ月十日条に「参法性寺、始聴鐘音」と名前が出てきますので、これ以前に建立されていたことは確かです。
その後も鐘楼や新堂の建設や仏像の新造安置など拡張・充実が続けられ、承平年間[931-938]には朱雀天皇が御願堂2棟を建てて御願寺とし、天慶八[945]年には皇太后藤原穏子が多宝塔と一切経を供養するなど、皇室による供養もさまざまに行われました。
天暦三[949]年に忠平が没すると、亡骸は法性寺の東北の地に埋葬され、忠平の追善供養も法性寺で営まれました。
法性寺は天暦八[954]年に亡くなった穏子の国忌法要の場ともなり、以後も藤原北家の法要が数多く執り行われました。
更に寛弘年間[1004-1012]には、忠平の曾孫に当たる藤原道長が堂宇の整備に力を注ぎ、焼失したままになっていた堂の再建や既存の堂の修理を行った他、境内には新たに道長建立の五大堂や藤原公季建立の三昧堂などが加わりました。
また『小右記』に度々登場する東北院は、忠平の子・実頼が法性寺内に創立した子院です。
久安四[1148]年に藤原忠通(道長の5代後の子孫)の妻・宗子が造営した最勝金剛院も、面積としては法性寺の大部分を占める大規模なものだったようですが、形式的には法性寺の子院だったと見られます。

183tofukuji 多数の堂塔や子院があったことが文献から知られる法性寺ですが、その寺域は、南北は法性寺大路一の橋(現在の一橋小学校付近)から稲荷山まで、東西は鴨川から東山山麓までという、実に広大なものだったと推測されています。
現在の東福寺は、最勝金剛院を受け継いだ九条道家(忠通の曾孫)がその地に建立したものですが、東福寺の大伽藍造営に伴って法性寺の伽藍配置は改変され、次第に東福寺に吸収されるようにその姿を失っていったようです。
更に京都の町を幾度も襲った兵火が追い討ちをかけ、法性寺の堂宇は尽く焼失してしまいました。
現在は、本町通沿いに建つ浄土宗の小さな尼寺が「法性寺」の名を受け継いでいます。
現・法性寺の本尊である千手観音像は、延長三[925]年建立の法性寺灌頂堂の本尊と推定され、忠平による創建当初から伝わる唯一の仏像と見られています。

先に法性寺の歴史をざっとご紹介しましたが、『源氏物語』の書かれた平安中期の話に戻りましょう。
当時、人々にとって法性寺は、都から宇治や大和へ南下する際の最初のランドマークだったようです。
『蜻蛉日記』と『更級日記』では、いずれも初瀬詣での道行きの中で法性寺が登場します。

日あしければ、門出ばかり法性寺の辺にして、暁より出で立ちて、午時ばかりに、宇治の院にいたり着く。(『蜻蛉日記』安和元[968]年九月)

道顕証ならぬさきにと、夜深う出でしかば、立ち遅れたる人々も待ち、いとおそろしう深き霧をも少し晴るけむとて、法性寺の大門に立ちとまりたるに、田舎より物見に上る者ども、水の流るるやうにぞ見ゆるや。(『更級日記』永承元[1046]年十月)

日柄が悪いために仮の出立をして法性寺の辺りに一泊したという『蜻蛉日記』の記事からは、都の外であり同時に都に近接している法性寺の地理的な特徴が感じられます。
また『更級日記』の記事は、後冷泉天皇大嘗会の御禊の日、その見物に上京してくる人々が引きも切らない中を逆らうように都から初瀬へ向かうという内容で、法性寺の門前が都と宇治・奈良方面とを結ぶ街道であったことがわかります。

『源氏物語』の中でも、法性寺は宇治への道を辿る場面で姿を見せます。

「近きほどにや」と思へば、宇治へおはするなりけり。牛などひき替ふべき心まうけしたまへりけり。河原過ぎ、法性寺のわたりおはしますに、夜は明け果てぬ。(東屋巻)

京のうちだに、むげに人知らぬ御ありきは、さはいへど、えしたまはぬ御身にしも、あやしきさまのやつれ姿して、御馬にておはする心地も、もの恐ろしくややましけれど、もののゆかしき方は進みたる御心なれば、山深うなるままに、「いつしか、いかならむ、見あはすることもなくて帰らむこそ、さうざうしくあやしかるべけれ」と思すに、心も騷ぎたまふ。法性寺のほどまでは御車にて、それよりぞ御馬にはたてまつりける。(浮舟巻)

東屋巻は、薫が浮舟を三条の小家から宇治に連れ出す場面です。
車に掛け換える牛の手配と並んで、鴨川の河原から更に法性寺の名前を挙げることで、「都を出て遠く宇治まで向かうのだ」と、薫からどこへ行くとも知らされていなかった浮舟らと共に、語り手と読者も行き先を確認するような書き方になっています。
浮舟巻の方は、薫が宇治に浮舟を隠れ住まわせていると知った匂宮が、密かに宇治へ赴く場面で、人目を避けるために都の中は牛車で移動し、法性寺から馬に乗り換えています。
どちらの場面からも、都を出て、宇治へと南下するその起点として、法性寺の位置が意識されていることが感じられます。

現在も、京都から宇治を経て奈良に至るJR奈良線に乗ると、最初の停車駅は「東福寺」。
停車している間の一時、1000年前の旅路の見守った大伽藍の姿にちょっと思いを馳せてみるのもいかがでしょう?

写真は、上が現在の法性寺(2007年7月撮影)、下が東福寺臥雲橋から見た境内(2004年11月撮影)です。

【Data】
法性寺
 住所:京都市東山区本町16丁目307
 交通:京阪本線・JR奈良線東福寺駅下車徒歩3分
 拝観:要事前申込 拝観料志納
 tel.:075-541-8767
東福寺
 住所:京都市東山区本町15丁目778
 交通:京阪本線・JR奈良線東福寺駅下車徒歩10分
 拝観:9:00~16:00 通天橋・開山堂400円 方丈八相庭園400円
 tel.:075-561-0087

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
雨海博洋編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識16 椎本』至文堂 2001年
『日本大百科全書』小学館 1984-1994年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
京都市情報館(京都市役所)内「東山区役所
JR東海「そうだ 京都、行こう。」内「法性寺」(京都便利帖 > スポット情報 > 法性寺)※拝観情報

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