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2008年2月 3日 (日)

法性寺

182hosshoji 平安中期、平安京を鴨川沿いに南へ下っていくと、九条大路の先、都の東南端と向き合うようにして、川の東側に壮大な寺院が建っていました。
藤原忠平が建立した藤原氏の氏寺・法性寺(ほっしょうじ)です。

法性寺の創建時期は明らかではありませんが、『貞信公記』延長ニ[924]年ニ月十日条に「参法性寺、始聴鐘音」と名前が出てきますので、これ以前に建立されていたことは確かです。
その後も鐘楼や新堂の建設や仏像の新造安置など拡張・充実が続けられ、承平年間[931-938]には朱雀天皇が御願堂2棟を建てて御願寺とし、天慶八[945]年には皇太后藤原穏子が多宝塔と一切経を供養するなど、皇室による供養もさまざまに行われました。
天暦三[949]年に忠平が没すると、亡骸は法性寺の東北の地に埋葬され、忠平の追善供養も法性寺で営まれました。
法性寺は天暦八[954]年に亡くなった穏子の国忌法要の場ともなり、以後も藤原北家の法要が数多く執り行われました。
更に寛弘年間[1004-1012]には、忠平の曾孫に当たる藤原道長が堂宇の整備に力を注ぎ、焼失したままになっていた堂の再建や既存の堂の修理を行った他、境内には新たに道長建立の五大堂や藤原公季建立の三昧堂などが加わりました。
また『小右記』に度々登場する東北院は、忠平の子・実頼が法性寺内に創立した子院です。
久安四[1148]年に藤原忠通(道長の5代後の子孫)の妻・宗子が造営した最勝金剛院も、面積としては法性寺の大部分を占める大規模なものだったようですが、形式的には法性寺の子院だったと見られます。

183tofukuji 多数の堂塔や子院があったことが文献から知られる法性寺ですが、その寺域は、南北は法性寺大路一の橋(現在の一橋小学校付近)から稲荷山まで、東西は鴨川から東山山麓までという、実に広大なものだったと推測されています。
現在の東福寺は、最勝金剛院を受け継いだ九条道家(忠通の曾孫)がその地に建立したものですが、東福寺の大伽藍造営に伴って法性寺の伽藍配置は改変され、次第に東福寺に吸収されるようにその姿を失っていったようです。
更に京都の町を幾度も襲った兵火が追い討ちをかけ、法性寺の堂宇は尽く焼失してしまいました。
現在は、本町通沿いに建つ浄土宗の小さな尼寺が「法性寺」の名を受け継いでいます。
現・法性寺の本尊である千手観音像は、延長三[925]年建立の法性寺灌頂堂の本尊と推定され、忠平による創建当初から伝わる唯一の仏像と見られています。

先に法性寺の歴史をざっとご紹介しましたが、『源氏物語』の書かれた平安中期の話に戻りましょう。
当時、人々にとって法性寺は、都から宇治や大和へ南下する際の最初のランドマークだったようです。
『蜻蛉日記』と『更級日記』では、いずれも初瀬詣での道行きの中で法性寺が登場します。

日あしければ、門出ばかり法性寺の辺にして、暁より出で立ちて、午時ばかりに、宇治の院にいたり着く。(『蜻蛉日記』安和元[968]年九月)

道顕証ならぬさきにと、夜深う出でしかば、立ち遅れたる人々も待ち、いとおそろしう深き霧をも少し晴るけむとて、法性寺の大門に立ちとまりたるに、田舎より物見に上る者ども、水の流るるやうにぞ見ゆるや。(『更級日記』永承元[1046]年十月)

日柄が悪いために仮の出立をして法性寺の辺りに一泊したという『蜻蛉日記』の記事からは、都の外であり同時に都に近接している法性寺の地理的な特徴が感じられます。
また『更級日記』の記事は、後冷泉天皇大嘗会の御禊の日、その見物に上京してくる人々が引きも切らない中を逆らうように都から初瀬へ向かうという内容で、法性寺の門前が都と宇治・奈良方面とを結ぶ街道であったことがわかります。

『源氏物語』の中でも、法性寺は宇治への道を辿る場面で姿を見せます。

「近きほどにや」と思へば、宇治へおはするなりけり。牛などひき替ふべき心まうけしたまへりけり。河原過ぎ、法性寺のわたりおはしますに、夜は明け果てぬ。(東屋巻)

京のうちだに、むげに人知らぬ御ありきは、さはいへど、えしたまはぬ御身にしも、あやしきさまのやつれ姿して、御馬にておはする心地も、もの恐ろしくややましけれど、もののゆかしき方は進みたる御心なれば、山深うなるままに、「いつしか、いかならむ、見あはすることもなくて帰らむこそ、さうざうしくあやしかるべけれ」と思すに、心も騷ぎたまふ。法性寺のほどまでは御車にて、それよりぞ御馬にはたてまつりける。(浮舟巻)

東屋巻は、薫が浮舟を三条の小家から宇治に連れ出す場面です。
車に掛け換える牛の手配と並んで、鴨川の河原から更に法性寺の名前を挙げることで、「都を出て遠く宇治まで向かうのだ」と、薫からどこへ行くとも知らされていなかった浮舟らと共に、語り手と読者も行き先を確認するような書き方になっています。
浮舟巻の方は、薫が宇治に浮舟を隠れ住まわせていると知った匂宮が、密かに宇治へ赴く場面で、人目を避けるために都の中は牛車で移動し、法性寺から馬に乗り換えています。
どちらの場面からも、都を出て、宇治へと南下するその起点として、法性寺の位置が意識されていることが感じられます。

現在も、京都から宇治を経て奈良に至るJR奈良線に乗ると、最初の停車駅は「東福寺」。
停車している間の一時、1000年前の旅路の見守った大伽藍の姿にちょっと思いを馳せてみるのもいかがでしょう?

写真は、上が現在の法性寺(2007年7月撮影)、下が東福寺臥雲橋から見た境内(2004年11月撮影)です。

【Data】
法性寺
 住所:京都市東山区本町16丁目307
 交通:京阪本線・JR奈良線東福寺駅下車徒歩3分
 拝観:要事前申込 拝観料志納
 tel.:075-541-8767
東福寺
 住所:京都市東山区本町15丁目778
 交通:京阪本線・JR奈良線東福寺駅下車徒歩10分
 拝観:9:00~16:00 通天橋・開山堂400円 方丈八相庭園400円
 tel.:075-561-0087

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
雨海博洋編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識16 椎本』至文堂 2001年
『日本大百科全書』小学館 1984-1994年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
京都市情報館(京都市役所)内「東山区役所
JR東海「そうだ 京都、行こう。」内「法性寺」(京都便利帖 > スポット情報 > 法性寺)※拝観情報

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