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2008年5月の記事

2008年5月 4日 (日)

注釈者が鞍馬寺に惹かれる訳

198kuramadera_6 前回の記事で、若紫巻に登場する北山の「なにがし寺」を鞍馬寺とする注釈類が最近でも多いと書きました。
たとえば、『新編日本古典文学全集20 源氏物語1』(小学館 1994年)や『常用源氏物語要覧』(武蔵野書院 1995年)では、角田文衞氏が提唱する大雲寺説を併記しつつも鞍馬寺を通説として紹介していますし、『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』(至文堂 1999年)も、諸説を挙げはしながらも「源氏ゆかりの地を訪ねて」で取り上げているのはやはり鞍馬寺です。
また、現物を確認してはいませんが、『人物で読む源氏物語6 紫の上』(勉誠出版 2005年)の出版社Webサイト掲載の目次にも「鞍馬寺の満開の桜―若紫の登場」との項目があり、やはり鞍馬寺を「なにがし寺」とする文章が掲載されているようです。

私も現地に行ってみて実感しましたが、なるほど鞍馬寺には、現在でも「なにがし寺」の描写を髣髴とさせる情景がそこかしこに残されています。
加えて、大雲寺や霊巌寺、神名寺(神明寺)など、候補とされる他の寺院はいずれも現存しなかったり現存しても往時の面影を留めていなかったりするため、一層鞍馬寺の雰囲気が重視されているのではないかとも思われます。
ですが、調べてみるとそれだけではなく、若紫巻と鞍馬寺とを結び付けたくなる資料が『枕草子』以外にもいろいろとあることがわかってきました。

1つは、鞍馬山が桜の名所だったことを示す和歌の存在です。

  うず桜といふを人のもてまうできたりければ
これやこの音に聞きつるうず桜鞍馬の山に咲けるなるべし
(『定頼集』45番歌)

かすみたつ鞍馬の山のうず桜てぶりをしてな折りぞわづらふ(『六条修理大夫集』156番歌)

『定頼集』は、藤原公任の四男・定頼(長徳元[995]年~寛徳二[1045]年)の家集で、『源氏物語』が書かれた時期よりは若干後になりますが、ほぼ同時代に鞍馬の桜が「雲珠桜」と呼ばれて名高かったことがわかります。
『六条修理大夫集』は、白河院の近臣であった藤原顕季(天喜三[1055]年~保安四[1123]年)の家集で、この歌は「於七条亭人人、桜の歌十首よみしに」という詞書で始まる歌群の6首目に当たります。
『定頼集』の歌と同様に、10首の桜の歌に名が挙がるほど有名だったとわかる他、霞と桜という、
山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば」(若紫巻)
と記されたのと重ねたくなる情景が詠まれていることが注目されます。
(とはいえ、霞と桜の組み合わせを詠んだ和歌自体は、この時代そんなに珍しいものではありませんが)

更に興味を惹くのが、柏木由夫氏も「鞍馬寺―北山のなにがし寺」(『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』所収)の中で紹介しておられる次の歌です。

咲きやらぬ鞍馬の山のかば桜春のとぢめににほふなりけり(『為忠家後度百首』153番歌)

『為忠家後度百首』は、鳥羽院近臣であった丹後守藤原為忠が保延元[1135]年に主催した内輪の百首会で詠まれた歌を記録したもので、この歌は「山寺桜」という題で詠まれています。
樺桜といえば、『源氏物語』読者なら誰しも
春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す」(野分巻)
の一節を連想することでしょう。
改めてご説明するまでもなく、紫の上の比喩に用いられた桜こそ、この歌に詠まれたのと同じ樺桜です。
その後、樺桜は
一重散りて、八重咲く花桜盛り過ぎて、樺桜は開け、(中略)その遅く疾き花の心をよく分きて、いろいろを尽くし植ゑおきたまひしかば」(幻巻)
と、生前の紫の上が花期を考慮して植えた花の1つとしても登場します。
『源氏物語』の中で樺桜の名前が挙がるのは、この2ヶ所のみ。
紫の上に関わってだけ登場する特別な桜なのです。
こうなると、紫の君が登場した北山で「三月のつごもり」(若紫巻)に咲いていた山桜が「春のとぢめ」に咲く鞍馬山の樺桜だったら、いかにも相応しい・・・と考えたくなるのは、源氏読みにとっては自然な感情ではないかと思います。

もう1つ、同じく柏木氏が挙げておられるのが、『赤染衛門集』や『更級日記』に記された、鞍馬山を滾り落ちる滝の存在です。
特に『更級日記』の「山際霞みわたりのどやかなるに」「たぎりて流れゆく水、水晶を散らすやうにわきかへる」といった記述は、確かに若紫巻で繰り返される春霞と滝の音の描写と重なるようにも思えます。
ただ、初瀬詣の道すがら宇治を通った際には
紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし
殿の御領所の宇治殿を入りて見るにも、浮舟の女君のかかる所にやありけむなど、まづ思ひ出でらる
と、真っ先に『源氏物語』に思いを巡らせたことを記している筆者が、若紫巻と同じ春の終わりに鞍馬寺に参詣したというのに全くその手の感慨を記していないのは、筆者の憧れのヒロインが夕顔と浮舟であって紫の上ではなかったことを割り引いても釈然としません。
私は、少なくとも孝標女は鞍馬寺を「なにがし寺」のモデルとは考えていなかったのではないか、と感じています。

以上ご紹介したこれらの資料は、「なにがし寺」を鞍馬寺と見做す根拠とするには弱すぎますし、『源氏物語』より後に成立した資料が特に若紫巻を意識している様子も見られません。
ですが、資料の存在を知った後世の注釈者が、若紫巻と結び付けて考えたくなるのもわかる気がします。
敢えて勝手な推測をすれば、諸々の知識をお持ちの専門家の方がより一層、難が多い筈の鞍馬寺説に捨て難い魅力を感じてしまうのかもしれません。

掲載の写真は、2008年4月撮影の鞍馬寺本殿金堂。鞍馬寺の記事に載せたのとは反対方向から撮影しています。

【参考文献】
角田文衞, 加納重文編『源氏物語の地理』思文閣出版 1999年
伊藤博編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』至文堂 1999年
「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観』角川書店 1983-1992年
国際日本文化研究センター作成「和歌データベース」

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