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2008年6月 6日 (金)

大雲寺

199daiunji_1 京都北部・岩倉にある観光文化施設というと、実相院や岩倉具視幽棲旧宅が有名ですが、そのすぐ傍に大雲寺という小さなお寺があります。
1985年に火災に遭って江戸時代から続いた本堂が焼失してしまったそうで、現在は墓地の傍らにひっそりと建つ仮の本堂に本尊の観音菩薩像を安置していますが、1000年前の平安中期は広大な境内に講堂・五大堂・灌頂堂・法華堂・阿弥陀堂・真言堂の六堂宇を備えた大寺院でした(『扶桑略記』寛和元[985]年二月二十二日条)。
先月95歳で天寿を全うされた歴史学者の角田文衞氏が「北山のなにがし寺」(『若紫抄 : 若き日の紫式部』〔至文堂 1968年〕所収)以来若紫巻の「なにがし寺」のモデルとして繰り返し主張してこられたのが、この大雲寺です。

大雲寺公式ホームページによると、天禄二[971]年、延暦寺において西方の山に紫雲がたなびくのを見た円融天皇が藤原文範(紫式部の母方の曽祖父)を遣わし、文範がその地に真覚を開基として大雲寺を創建した、とあります。
天元三[980]年に円融天皇の御願寺となり、続いて寛和元[985]年には皇太后昌子内親王の発願によって余慶を開基とした観音院が大雲寺内に建立されました。
同年二月二十二日の観音院堂供養は内親王自ら行啓して盛大に営まれたことが『小右記』や『日本紀略』などに記録されており、長保元[999]年に亡くなった内親王の亡骸はこの地に葬られました。
現在、観音院跡と比定される場所に昌子内親王の岩倉陵があります。
その後も大雲寺・観音院には余慶の弟子達が深く関わっており、例えば、寛弘二[1005]年六月七日に権僧正勝算が営んだ不動尊像供養は、大僧正観修が講師を務め公卿・殿上人らが列席しての盛大なものだったことが『小右記』に記されています。
(勝算・観修はどちらも余慶の高弟。勝算は『紫式部日記』寛弘五[1008]年の五壇の御修法の記事にも「観音院の僧正」の呼称で姿を見せています)

大雲寺は園城寺の別院として建立された寺門派(延暦寺第五代座主・円珍を始祖とする学派)の寺院で、しばしば対立する山門派(延暦寺第四代座主・円仁の門流)との抗争の舞台となりました。
天元四[981]年に余慶が法性寺座主に任命されたことに端を発した山門派との対立により、余慶及びその門徒数百人が大雲寺に移り住んだ(『大日本史料』所収『四箇大寺古今伝記』)のをはじめ、その後は寺門派の重要拠点として山門派の攻撃に晒されたらしく「寺中多破壊」(『小右記』寛仁二[1018]年閏四月六日条)という状態に陥ったり、更に保安二[1121]年には焼き討ちに遭った記録(『史料綜覧』所収『百練抄』同年五月二七日条・『華頂要略』天台座主記)もあります。

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また、これは史実としても『源氏物語』の執筆時期より後のことになりますが、後三条天皇第三皇女佳子内親王が境内に湧く霊泉を飲んで心の病が平癒したとの伝説があります。
1985年の火災まで本堂があった場所は、現在は北山病院の敷地になっていますが、この病院も歴史的に見ると、心の病の治療のために大雲寺に参詣する人々の滞在を引き受けた籠屋(こもりや)が発展したものだそうです。

大雲寺が地理的にいかに若紫巻の「なにがし寺」に相応しいかは、角田氏のご論文に力を込めて列記されていますのでそちらをご覧いただくことにして、今はその姿を留めていない平安時代の大寺院を偲びつつ、現在の大雲寺の様子をご紹介します。

202daiunji_4 バス停から実相院の手前の道を右に進むと、まず現在の大雲寺本堂に行き当たります。
隣の墓地から東南東の方角を望むと、意外なほど比叡山が近くに見えます。
なるほど、この距離なら比叡山の影響を大きく受けたのも当然だろうと思わされる景色です。

現本堂の前の坂を上って岩座神社を通り過ぎ、北山病院の敷地に入ると、突き当たりの駐車場の一角に不動の滝と水飲堂があります。
大雲寺設置の説明版によると、不動の滝は大雲寺で心の病を治すための加持祈祷を受ける人々の「垢離場(こりば)」で、この滝に打たれると病が本復すると信じられてきたそうです。
水飲堂の傍らには閼伽井があり、同じく説明版には、この水は「観音水」または「智弁水」と呼ばれ、心の病・目の病に霊験がある…と記されていました。
佳子内親王が飲んで病を癒したというのはこの水のことなのでしょう。
京都市による「源氏物語ゆかりの地」説明版が立っているのもここで、不動の滝の左手に設置されています。
このように大雲寺の歴史を示す名残のようなものは点々と存在していますが、何分にも現在は病院の駐車場、「寺のさまもいとあはれなり」(若紫巻)と記された「なにがし寺」を現在の光景から思い描くのは困難と言わざるを得ません。

203daiunji_5 204daiunji_6 角田氏は、水飲堂の辺りを僧都の庵と想定し、水飲堂の右手から谷沿いに登る山道を聖の巖屋に至る「つづら折」(若紫巻)に当てはめています。
この道を「一五〇メートルばかり登ると、右手の五メートルほど高い位置に岩陰が望まれ」(「北山のなにがし寺」)、ここを聖が籠った「峰高く、深き巖屋」(若紫巻)に当たるとしておられます。
この山道、現在も通れることは通れますがほとんど獣道に近く、道幅は狭く谷に迫っており、かなり勾配も急ですので、単独・雨天の探索はお薦めしません(と言いつつ、私が訪れた日は本降りの雨でしたが…到達できたのは道をよく知る先達が同行してくれたお蔭です)。
悪天候で足下も悪かったのでこの岩陰から更に上に登ってみることはできませんでしたが、仰ぎ見るだけでも鬱蒼とした気配で、果たして病身の光源氏が「後への山に立ち出でて、京の方を見たまふ」(若紫巻)などと気軽に登れたのだろうか?との疑問は感じました。
この点は、柏木由夫氏「北山「なにがし寺」諸説」(『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』所収)や鈴木幸子氏「北山のなにがし寺」(『源氏物語紀行』所収)でも指摘されているとおりです。

大雲寺は、先にご紹介した鞍馬寺とはちょうど反対で、地理的には若紫巻の記述とよく合っているものの、現在ではほとんどその雰囲気を感じることのできない土地になっています。

写真は左上から順に

  • 現在の大雲寺本堂
  • 不動の滝
  • 水飲堂
  • 大雲寺墓地から望んだ比叡山
  • 水飲堂の脇から伸びる山道(岩陰に向かうには、石段から逸れて正面奥へ直進します)
  • 聖の巖屋に想定される岩陰

です。現本堂のみ2008年4月、それ以外はすべて2008年5月撮影。

【Data】
住所:京都市左京区岩倉上倉町305
交通:京都バス岩倉実相院下車徒歩2分
拝観:境内自由
tel.:075-791-8569

【参考文献】
鈴木幸子著『源氏物語紀行』創英社 2007年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
伊藤博編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』至文堂 1999年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
大雲寺公式ホームページ

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