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2008年10月の記事

2008年10月19日 (日)

牛車にまつわる決まりのあれこれ(1)『延喜式』から

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何事によらず身分秩序や先例が重んじられた平安時代、牛車に関してもさまざまな決まり事がありました。
今回は、全部を網羅した訳では勿論ありませんが、これまでの調べ物などで見つけた、牛車にまつわる法律やしきたりをご紹介します。
1回目は、『延喜式』に記された規定についてです。

『延喜弾正台式』には、さまざまな身分に基づく規定が列記されています。
弾正台は不法行為を取り締まる役所ですので、どの身分がどのようなことをするのは許されてどの身分では許されないのかといったことが示されている訳です。
色聴されたる」という表現で仮名作品によく出てくる「禁色」も、『延喜弾正台式』に記述されています。

牛車に関する規定で『源氏物語』との関連がありそうな項目としては、
凡内親王。三位已上内命婦。及更衣已上。並聴乗糸葺有庇之車。并著緋牛鞦。
という一条があります。
この規定と、薫に降嫁した女二の宮が三条宮に渡御する場面の
庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふ」(宿木巻)
との描写を考え合わせると、宮が乗った「庇の御車」は廂のある糸毛車ではないかと想像できます。

高貴な身分の人が乗る車には、「車副(くるまぞひ)」と呼ばれる、車の両脇に供奉して威儀を整える人々が付き添いますが、この人数も身分によって決まっていました。
概ね乗車する人が女性のときの方が人数が多く、最も多い妃には22人、女御には16人、更衣には10人、また親王及び左右大臣には14人、内親王には20人と定められています。
この規定を踏まえると、宮中で重病に陥った桐壺の更衣が退出する場面で
かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ」(桐壺巻)
と記される「忍びてぞ」の中身は、あるいは宮中を娘の死で穢すことを恐れた母北の方が、規定の従者の人数を省いて素早く娘を連れ出そうとした「心づかひ」だったのではないでしょうか。

また、『源氏物語』ではなく『紫式部日記』の記述になりますが、敦成親王出産後の中宮が内裏に還御するに当たって、上臈女房の大納言の君と宰相の君が「黄金造り」の車に乗ったことが記されています。
この車も、『延喜弾正台式』の規定に従えば内親王・孫王・女御・内命婦・参議以上及び非参議三位以上の嫡妻と娘・大臣の孫にのみ許されたものでした。
(尤も、実際は下の身分の者が定めを超えた車に乗る違反も多く、度々禁令が出されたようです)

日常的に使用された牛車ですが、大内裏の中は原則車馬乗入禁止で特定の物資運搬用の他は大内裏の内側に入れず、そうした車馬も行き先に応じて使用する門が特定されているほど、厳しい制限が設けられていました。
公卿や親王といえども、大内裏を囲む宮城門で車を降り、その先は歩いて勤務地に向かった訳です。
但し、特別に勅許を得た高官は例外的に内側の宮門(慣例では内裏外郭南東隅にある春華門。朔平門や建春門の場合もあり)まで牛車で進むことが許されました。
この勅許を「牛車の宣旨」と言います。
出生の秘密を知った冷泉帝が源氏への譲位をほのめかして辞退され、更に太政大臣昇進も先延ばしになって
ただ御位添ひて、牛車聴されて参りまかでしたまふ」(薄雲巻)
に留まったことを残念に思う場面がありますが、この「牛車聴されて」が牛車の宣旨を賜ったことを意味します。
ところが、『平安時代史事典』「牛車宣旨」の項目には、
「この宣旨は、本来老いた功臣をいたわる目的のものであるから、宣旨が下っても四十歳以上にならないと実際に牛車で宮門を出入しないのが例である。」
とあります。
上に引用した薄雲巻の書き方ですと、この場面ではまだ三十二歳の源氏が牛車で参内・退出したように読めますが、牛車の宣旨まで遠慮したら冷泉帝が再び譲位を言い出しかねないと懸念した源氏が、敢えて慣例を破った…と解釈すべきなのでしょうか。
尚、時代の下った史料ではありますが『世俗浅深秘抄』(後鳥羽上皇著述の有職故実書。13世紀初頭成立)によると
執政家之牛車之人用上東門。自余之輩用待賢門歟。(中略)入待賢門時泰春花門。」(上「聴牛車輦車人作法事」)
ということで、このとき内大臣の源氏は待賢門から春花門までの間を牛車で通行したと考えられます。

写真は、風俗博物館2008年下半期展示「六條院移徙」より、廂付きの青糸毛車です。

次回は、法律とは角度の異なる習慣・しきたりなどをご紹介します。

【2008年11月24日追記】
10月19日にUPした記事を加筆の上、内容の一部を牛車にまつわる決まりのあれこれ(2)習慣・しきたりに移しました。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2008年10月11日 (土)

唐車

207karaguruma_1 平安貴族の一般的な乗り物は牛車でしたが、一口に「牛車」「」と言ってもさまざまな種類がありました。
その中で唐車は、牛車の中では最も格式が高く、輩輿(れんよ。駕輿丁が轅を肩に担ぐ種類の輿)に次ぐ位置づけにありました。
輩輿のうち、鳳輦は天皇専用、葱花輦は帝・后・斎王のみ乗ることができましたが、対する唐車はそうした身分の人々に加えて、上皇・女院・東宮・親王・摂関も乗用が可能でした。
『栄花物語』で、禎子内親王の裳着のために内親王とその母・皇太后宮妍子が枇杷殿から土御門殿へ渡御する際、「大宮は御輿にておはしますべけれど、一品宮の異に奉らんが便なかるべければ、唐の御車にておはします」(巻第十九「御裳ぎ」)と記されているのは、内親王に許される乗り物の格式を明確に示しています。
また『枕草子』には、積善寺供養に向かう東三条女院詮子一行の車列について「一の御車は唐車なり」(第二六三段「関白殿、二月二十一日に」)と記されており、詮子が唐車を使ったことがわかります。

208karaguruma_2唐車は、格式が高いと同時に最も大きな車でもあり、時代は平安時代から大幅に下りますが『輿車図考附図』(松平定信編 文化元[1804]年成立)を参照すると、牛車の傍らに付き添う従者の烏帽子の高さよりも大きく車輪が描かれており、他の牛車に比べて明らかに大型であることがわかります。
『栄花物語』巻第十七「おむがく」の中には、法成寺金堂落成供養の後に太皇太后彰子をはじめとする后妃・内親王総勢5人(『権記』逸文に従えば倫子も加わって6人)が唐車に同乗して諸堂を見て回った記述があり、「通常4人乗りの牛車に、女性ばかりとはいえあの裾が長く嵩張る衣裳を着込んで5・6人も乗ることができたのか?!」と驚いたのですが、これも大型の唐車なればこそ可能なことだったのかもしれません。

209karaguruma_3「唐車」という名称は屋根が唐破風の形をしていることに由来し、「唐廂車」とも呼びました。
『輿車図考』から唐車の形状をまとめると、まず屋根には檳榔の葉で葺き、廂と屋形の腰にも檳榔の房を垂らします。
檳榔はヤシ科の植物で、九州や沖縄などの南国でしか採れない稀少なものだったため、檳榔の葉を葺くことはその車の権威を誇示する意味もあったのではないかと思われます。
立板(屋形の側面の板)と袖(立板の端)には彩色を施し、簾は蘇芳で染め錦の縁を付けたもの、下簾は唐草や唐花・唐鳥を刺繍した蘇芳の浮線綾を掛けます。
鞦(しりがい。牛の胸から尻にかけて取り付けて車の轅を固定させる緒)は房がある場合とない場合の両方があったようです。
綱には唐綾または白妙を用います。
尚、『源氏物語図典』には
「ほかの車の乗降には榻(しじ)を用いるが、この車は桟(はしたて)という梯子(はしご)を用いた」
と書いてありますが、私が調べた限りでは桟に関する記述は見つからず、『輿車図考附図』の唐車の図には榻を持つ牛飼が描かれており、また『桃華蘂葉』にも「御榻[鷺足入角、有總黄金物]」(一車事)との記述があって、その根拠がよくわかりませんでした。
車の大きさを考えると、踏み台ではなく梯子を使った方が確かに合理的な気はしますが。

『源氏物語』の中で、はっきりと唐車だと断定できる車の例はありません。
車の種類がわかるのは、男主人公達が人目を忍ぶ微行で身をやつしたときの「網代車」(須磨巻・若菜上巻・橋姫巻)と、女二の宮が三条宮に渡御する場面で宮が乗った「庇の御車」(宿木巻)くらいです。
風俗博物館展示では、朱雀院鍾愛の内親王の権威を示す乗り物として、女三の宮降嫁の場面の具現で登場しました。
写真はすべて、2006年上半期展示「女三の宮六條院降嫁」で撮影したものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
小町谷照彦編『必携源氏物語を読むための基礎百科』(別冊國文學No.56)學燈社 2003年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
『輿車圖 ; 輿車圖考. 舞楽圖説. 三條家奥向恒例年中行事』(故實叢書第36巻)改訂増補版 明治図書出版 1993年
神宮司廳[編]『古事類苑 器用部二』普及版 古事類苑刊行会 1934年

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