« 2008年10月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年11月の記事

2008年11月24日 (月)

牛車にまつわる決まりのあれこれ(2)習慣・しきたり

210gissha_1前回、車に関わる法律を『延喜式』からご紹介しましたが、法律以外にも守るべき決まり事はいろいろとありました。

まずは、古典の便覧などにもよく載っている牛車の乗り方。
榻(しじ)を踏み台にして、後ろから乗って前から降ります。
木曽義仲がこれを無視して後ろから降りて牛飼に呆れられたエピソードが『平家物語』「猫間」に出てきますが、牛車が常の乗り物だった都の貴族にとっては作法以前の当たり前の所作だったのでしょう。
女性の場合は屋内から直接乗り降りするのが普通で(詳しくは牛車の乗降~女性の場合~をご覧ください)、『源氏物語』夕顔巻の
高欄に御車ひきかけて立ちたまへり
という描写は、高欄に轅(ながえ)を引きかけて牛車の前方から簀子へ降りるようにしたものです。

もう1つ基本的な知識としてよく出てくるのが、車内で座る位置の序列です。
序列が上の方から、前方右,前方左,後方左,後方右,の順になります。
大雑把に言えば、地位の高い人の方から先に乗る、ということになるでしょうか。
若紫巻に、左大臣が内裏から退出する光源氏を自邸に連れ帰る場面で
我が御車に乗せたてまつりたまうて、自らは引き入りてたてまつれり
という一文が出てきますが、これは源氏を上座に座らせて自分は手前に遠慮したということで、左大臣の正に下にも置かぬもてなし振りが表れています。
他方、空蝉巻の河内守邸再訪の翌朝の場面では
小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ
とあって、源氏が上座に座り、下座に空蝉の弟・小君を同乗させて二条院に帰っています。
また松風巻で、大堰の山荘にいた源氏が、ご機嫌伺いに参上した殿上人達を連れて桂の院に向かう場面でも
いとよそほしくさし歩みたまふほど、かしかましう追ひ払ひて、御車の尻に、頭中将、兵衛督乗せたまふ
と記されていて、源氏が上座、訪ねてきた殿上人達が下座になっています。
普通はこれが当然な訳で、それだけに最初に引いた若紫巻の左大臣の行為は痛々しくも滑稽にも見える過剰な振舞と言えます。

211gissha_2牛車の習慣でよく物語に描かれるのが、「出車(いだしぐるま)」です。
車の簾の下から女性の衣裳の袖口や裾などの端を出して見せた車のことで、乗っている本人の衣裳そのものではなく飾りとして車内に配置しました。
『満佐須計装束抄』巻一「車の衣を出だすこと」には、竹を削って車内に差し、そこに衣裳を掛けると書かれています。
この衣裳の色合いなどが、乗っている女性の趣味や教養を推し量る要素のひとつとなりました。
『源氏物語』きっての教養人として描かれる六条御息所とその下の女房の車は、それだけによく褒められていて、葵巻の車争いの場面では
ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫など、ものの色、いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車、二つあり
娘の斎宮と共に伊勢に旅立つ賢木巻の場面では
八省に立て続けたる出車どもの袖口、色あひも、目馴れぬさまに、心にくきけしきなれば
と描かれています。
また、関屋巻で常陸から戻ってきた空蝉一行が石山詣に向かう源氏と逢坂の関ですれ違う場面で
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる
との描写があり、国宝『源氏物語絵巻』関屋にも出車が描かれていることが復元模写で明らかになりました。

それから、『源氏物語』には出てきませんが、牛車に関する当時のちょっと面白い習慣を見つけました。
車で訪れた場所に既に高貴な身分の人がいる場合には、通常よりも手前で降りたり、牛を外して輦車のように人手で引いたりしたものだったようです。
例えば、高陽院での駒競行幸の際、
到御関白第、[所謂高陽院、]留鳳輦、(中略)進乗輿于中門、先是鋪長筵、居御輿、敷筵道到西対・渡殿・寝殿、(中略)次東宮参給、留御車西門、及諸卿迎候、鋪長筵、其上敷筵道、」(『小右記』万寿元[1024]年九月十九日条)
と、後一条天皇は中門、東宮敦良親王は更に手前の西門で輿・車を降り、そこからは筵道の上を歩いて寝殿に入ったことが記録されています。
これは数日前から高陽院に滞在している母后(と、東宮は先着している兄帝)を憚っての行為と思われます。
また、『栄花物語』巻第十七「おむがく」には、法成寺金堂落成供養のために皇太后宮妍子と禎子内親王が法成寺へ渡御した際の記述として
大宮おはしませば、御車は中門の外より手引にて入らせたまふ
同じく『栄花物語』巻第十九「御裳ぎ」にも、禎子内親王裳着のために枇杷殿から土御門殿へ渡御する皇太后宮妍子と禎子内親王の車の描写で
土御門殿には大宮おはしませば、御車をば陣よりかきおろして、手引にて入らせたまふ
とあり、いずれも「大宮」即ち太皇太后宮彰子に遠慮して中門の手前で牛を外し、人手で車を引いて中に入ったことが記されています。
(ただし「おむがく」については、史実では妍子の方が先に法成寺に入っており、この記述は『栄花物語』の創作)
女性の場合は、降車するのではなく人が引く形を取ったようです。

話は若干ずれますが、先月、奈良時代の大宰府条坊跡で車の轍跡や人・牛などの足跡が見つかったとの報道がありました。
発掘された遺構からは、道路の中央を車幅1.0~1.2mの車が行き交い、路肩の脇の側溝を歩行者が通行していたのではないか…と推測できるそうで、もしかしたら平安京にもそんな交通ルールが存在していたかも?と想像したりもしています。

日常的に用いられた乗り物だけに、その乗り方などが事細かに記されることは却ってありませんが、当時の決まりや習慣を知っておくと、ちらっと触れる程度の描写もより具体的にイメージできるのではないかと思います。

記事中の写真は、上が風俗博物館2006年上半期展示「女三の宮六條院降嫁」より、榻を置いて車から降りようとする女童、下が風俗博物館2006年出張展示「六條院へ出かけよう」より、唐車です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
NHK名古屋放送局・NHK名古屋ブレーンズ編集『よみがえる源氏物語絵巻』NHK名古屋放送局・NHK名古屋ブレーンズ 2005年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
「古代大宰府に“交通ルール”!?牛車と人 分かれて通行 奈良時代 道路にわだち跡」西日本新聞2008年10月9日朝刊27面

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

« 2008年10月 | トップページ | 2009年1月 »