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2009年5月の記事

2009年5月 9日 (土)

鹿苑寺

215kinkakuji 「金閣寺」の通称で知られる鹿苑寺は、言わずと知れた北山文化の代表で、室町幕府第3代将軍足利義満によって造営された別邸・北山第の中に建てられた舎利殿(=金閣)などが基となった寺院です。
『源氏物語』の書かれた時代から400年も後に建てられたお寺がどうして『源氏物語』ゆかりの地なんだ?と疑問に思われる向きもおありでしょうが、この地が『源氏物語』の舞台と考えられていなかったら、金閣寺はここにはなかったかもしれない・・・今回ご紹介するのは、そんなお話です。

舎利殿としてあの絢爛豪華な金閣を備えた北山第は、西園寺家の別業・北山殿を義満が買い取って大々的に造り改めたものですが、歴史を更に遡ると、西園寺家がこの地に別業を営んだ理由に『源氏物語』があったという『増鏡』の記述にぶつかります。

今后の御父は、さきにもきこえつる右大臣実氏のをとゞ、その父、故公経の太政大臣、そのかみ夢見給へる事ありて、源氏中将わらはやみまじなひ給し北山のほとりに、世に知らずゆゝしき御堂を建てて、名をば西園寺といふめり。この所は、伯三位資仲の領なりしを、尾張国松枝といふ庄にかへ給てけり。もとは、田畠など多くて、ひたぶるにゐ中めきたりしを、さらにうち返しくづして、艶ある園を造りなし、山のたゝずまゐ木深く、池の心ゆたかに、わたつうみをたゝへ、峯よりおつる瀧のひゞきも、げに涙もよほしぬべく、心ばせ深きところのさまなり。
(中略)めぐれる山のときは木ども、いと旧りたるに、なつかしきほどの若木の桜なんど植へわたすとて、大臣うそぶき給ける。
  山ざくら峯にも尾にも植へをかんみぬ世の春を人や忍と
(第五「内野の雪」)

文中の「今后」とは後嵯峨天皇中宮の藤原姞子のことで、その祖父・公経が尾張国松枝の荘園と土地を交換する形でこの地を取得したことが語られています。
ここで注目すべきは「源氏中将わらはやみまじなひ給し北山のほとり」という一節で、当時この地が『源氏物語』若紫巻に登場する北山の「なにがし寺」の位置と考えられていたことが窺われます。
更に「峯よりおつる瀧のひびきも、げに涙もよほしぬべく」の一節は、公経が光源氏の詠んだ歌
吹きまよふ深山おろしに夢さめて涙もよほす滝の音かな」(若紫巻)
を意識して庭園を造営しており、その意図に『増鏡』の語り手が共感している、と読める表現ですし、それらを踏まえると「若木の桜」を植えて公経が偲ぼうとした「みぬ世の春」も、「山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう」(若紫巻)と語られた『源氏物語』の北山の春を指していると想像できます。

この記述を『源氏物語』研究の分野で最初に取り上げたのは今西祐一郎氏の論文「若紫巻の背景」で、この一節が「まじなひ給し」と経験過去の助動詞「き」をもって語られていることから、若紫巻の北山の物語には先行する事実譚があったと推測し、『異本紫明抄』所引『宇治大納言物語』及び『今昔物語集』『宇治拾遺物語』に遺されている藤原公季のわらはやみ療治説話がこの物語の源泉であると説いています。
そして、公季の説話に登場する僧侶や寺の名前を手がかりに、神名寺という寺が平安時代から南北朝の時代に至るまで現在の鹿苑寺付近に存在し、この寺が若紫巻の「なにがし寺」である、と結論付けました。
更に今西氏は続く論文「公季と公経」において、公季を祖とする閑院流の正嫡を巡って、公経の血筋である西園寺家と、公季から数えて4代目に枝分かれした三条家との間で争いがあったことを指摘し、公経は公季ゆかりの地に別邸を構えることで自らが閑院流の正嫡であることを一門の人々に対して主張しようとしたのではないか、と推測しています。

今西氏の論文ではあまり強調されていませんが、公経が山荘造営を通して『源氏物語』の北山再現を意図していた点にも注目すべきだろうと思います。
この点は三田村雅子先生が『記憶の中の源氏物語』「I 男と女の源氏物語」の中で指摘しておられ、公経は公季と光源氏とを重ね合わせることで自己の家格の卓越性をアピールし、権威化された『源氏物語』の世界を統括する存在であることを誇示しようとした、との解釈を示しています。

以後、西園寺家の北山殿には度々盛大な行幸が行われ、天皇家と、外戚である西園寺家の繁栄を寿ぐ祝祭が催されてゆきました。
特に『源氏物語』紅葉賀巻の再現を目指したと見られる元徳三[1331]年の後醍醐天皇主催の舞御覧と、それを受け継ぐような北朝の天皇達による度重なる北山行幸を経て、足利義満による北山第造営と応永十五[1408]年の後小松天皇北山行幸をもって『源氏物語』再現の舞台としてのこの地の輝きはピークに達します。

後小松天皇の北山行幸は三月八日から二十八日まで21日間をも費やし、期間中には数々の華麗な行事が催されました。
実に大掛かりな行幸の規模には圧倒されるばかりですが、この行幸の様子を詳細に書き留めた一条経嗣の『北山殿行幸記』を読むと、四十余人の垣代を伴って舞われた青海波や、義満の秘蔵っ子・義嗣の描写などにおいて、明らかに『源氏物語』を意識した叙述がされていることに気づきます。
詳しくは『記憶の中の源氏物語』「II 青海波舞の紡ぐ「夢」」をお読みいただきたいのですが、冷泉帝の六条院行幸さながらに、表向きは方違え行幸の形を取りながら実質は義満に対する朝覲行幸と見做せる行幸の形式や、季節こそ秋と春で異なるものの紅葉賀巻の再現を強烈に印象付ける青海波の舞、天杯を賜るなど破格の待遇を受け「ひかる源氏のわらはすがたもかくや」(『北山殿行幸記』)と絶賛され、後世の歴史家によって皇位継承の可能性まで指摘された義嗣の存在(もし義嗣の皇位継承が実現すれば義満は、形は違えど光源氏と同じく“帝の父”になります)など、この北山行幸の中には何重にも『源氏物語』のイメージが取り込まれていると言えます。
光源氏が罪への恐れと病悩という心身の危機から再生し、比類ない栄華への道を歩み出す始発点となった北山の地(と信じられた土地)で、天皇を巻き込んで『源氏物語』の世界を再現しようとした試みには、あるいは光源氏のように天皇さえも超える存在にならんとした義満の野望が込められていたのでしょうか。

北山行幸の僅か1ヶ月少々後の応永十五[1408]年五月六日、義満は咳病で急逝し、同時に北山第の栄華も失われることになります。
義満の後を継いだ第4代将軍・義持は北山第を放棄して三条坊門の新第に居住し、「北山院」の尊号を持ち北山第に住み続けた義満の妻・日野康子が応永二十六[1419]年に亡くなると、建物の多くを解体して南禅寺などの寺院に寄進しました。
金閣など僅かに残った建物は、義満の菩提寺として義持がこの地に営んだ鹿苑寺に引き継がれた訳ですが、火災と戦乱で堂舎の多くは失われ、ほぼ唯一創建時のまま遺されてきた金閣も1950年に放火によって焼失、現在の金閣は1955年に再建されたものです。

あまりにも有名で、定番中の定番とも言うべき観光地となっている金閣寺ですが、その背景に『源氏物語』があったことを知ると、少し見方が変わりそうな気もします。
意外なところに影響を与えている『源氏物語』の底知れなさには驚くばかりです。

記事トップの写真は現在の金閣です。2003年5月撮影。

【参考文献】
今西祐一郎「若紫巻の背景―「源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山」―」(「国語国文」53巻5号 1984年 p.1-18)
今西祐一郎「公季と公経―閑院流藤原氏と『源氏物語』―」(「国語国文」53巻6号 1984年 p.30-40)
三田村雅子著『記憶の中の源氏物語』新潮社 2008年
今谷明著『室町の王権 : 足利義満の王権簒奪計画』(中公新書978)中央公論社 1990年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
Yahoo!百科事典
 「足利義満」(田中博美執筆)「西園寺公経」(多賀宗隼執筆)「西園寺家」(飯倉晴武執筆)
 「鹿苑寺」(平井俊榮執筆)各項目
伊藤博編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』至文堂 1999年
秋山虔編『新・源氏物語必携』(別冊國文學50)学燈社 1997年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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