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2009年8月30日 (日)

夏の氷

216tsuridono 盛夏の折、冷たいものが食べたくなるのは、現代も1000年前も変わりません。
冷蔵庫など当然ない平安時代、貴重な「冷たい食べ物」が氷でした。
『源氏物語』をはじめとする物語などには、しばしば暑さを凌ぐための氷を使った食事が登場します。

古代の夏、そもそもどうやって氷を手に入れたかと言うと、冬の間にできた氷を氷室に貯蔵しておき、それを少しずつ取り出して使用していました。
氷室の歴史は古く、『日本書紀』仁徳紀六十二年是歳条には氷室の起源伝説とも言える記述があります。
そしてそれを裏付けるように1988年に長屋王邸跡から「都祁氷室」と記された木簡が発見されて8世紀初めの氷室の実態が明らかになり、更にその3年後の1991年には奈良県都祁村(当時。現在は奈良市の一部)で8世紀末~9世紀初頭に造られたと見られる氷室の遺構が出土しました。
これらの資料から、当時の氷室は深さ3mほどに掘られた穴で、断熱材として氷の周りに草やもみ殻などを入れ、穴の上には覆屋を建てて日光や雨を防いだと推測されます。
いずれも『源氏物語』が書かれた時代より200~300年前の資料ではありますが、氷室の構造は平安中期も基本的に変わらなかったのではないかと思います。

平安時代の氷室は朝廷が管理しており、『延喜主水司式』に規定されています。
(長屋王邸跡の木簡の記述から長屋王家専用の氷室が存在した可能性が指摘されており、必ずしも朝廷の管理下にはなく私有に近い形態の氷室もあったのではないかとの推測もありますが、平安時代に関しては氷室の私有を窺わせる史料は見つかっていないようですので、ここでは朝廷管轄の氷室を前提としてご紹介します)
これによると、山城・大和・河内・近江・丹波の各国に合計21ヶ所の氷室が設けられ、氷を生産するための氷池(氷室の設置場所と同じ5ヶ国に合計540ヶ所もの池がありました)から採取された氷が貯蔵されていました。
現在、京都市内には「北区衣笠氷室町」「北区西賀茂氷室町」「左京区上高野氷室山」などの地名が見られますが、これらはいずれも『延喜主水司式』に記されている氷室に由来する地名と推測されています。
氷室から氷が供給されるのは四月一日から九月三十日までと限定されており、天皇・中宮・東宮などの避暑の料として用いられ、一部は臣下にも下賜されました。

話は若干脱線しますが、元日節会の儀式次第には、主水司が氷室から運んできて豊楽殿の庭に安置した氷の厚さを測って帝に奏上する「氷様奏(ひのためしのそう)」と呼ばれる儀式がありました。
氷が厚いと豊年の徴とされ、1年の吉凶を占う意味があったようですが、山中裕氏はこの氷様奏と、同じく元日節会の中で献上の鱒を奏する「腹赤奏(はらかのそう)」とを指して
「これらの奏は初春の慶賀の意を表する主旨から、山海の珍品を献上することとなり、いつしかそれが恒例となるにいたったのであろう」
と述べています(『平安朝の年中行事』)。
当時の氷の稀少性が窺われる儀式です。

そんな貴重品の夏の氷が『源氏物語』の中で描かれるのは常夏巻と蜻蛉巻の2ヶ所、そのうち常夏巻に食事に用いられた氷が登場します。

いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、西川よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。(中略)大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。

巻冒頭、暑さを凌ぐために釣殿に出た源氏が、伺候する夕霧や殿上人らに食事を振舞う場面です。
水飯」は炊いたご飯またはそれを干したものを水に浸した食べ物で、お湯に浸した「湯漬」が冬場のものだったに対して夏に食べるものでした。
この場面では水飯に氷水を用いており、格別に冷たく贅沢な食べ方と言えます。
こんなところにも太政大臣・光源氏の権勢の一端が表れているようです。

217kezurihi 一方、『枕草子』には「平安時代のかき氷」とも言える食べ物が登場します。

削り氷にあまづら入れて、新しき金まりに入れたる。(第三十九段「あてなるもの」)

薄く削った氷を新しい金属製のお椀に入れ、甘葛(諸説あるようですが、『日本古代食事典』によればブドウ科のツタ)から採取した液を煮詰めて作った甘いシロップをかけたもの、というのが清少納言にとっては「薄色に白襲の汗衫」や「水晶の数珠」などと並んで上品に感じられるものだったようです。
確かに、文章から想像しただけでも涼しげで品良く思われます。
また『御堂関白記』寛仁二[1018]年四月廿日条には、「参大内、御風発給、是日来依召氷也」、即ち後一条天皇が風邪を引き、その原因は数日来氷を食べていたことだとする記述がありますが、もしかしたらこのとき十一歳の天皇が食べた氷も清少納言が書き留めたような削り氷だったのかも?と想像したくなります。
尚、削り氷は食の進まない病人などがわずかばかり口にするものとして挙がることもあり、『うつほ物語』国譲中では懐妊中の女一宮が食事をせずに削り氷ばかりを食べたがる場面が、また『栄花物語』巻第二十五「みねの月」では、娘の寛子を亡くしたショックで放心状態になった源明子が食事も喉を通らないため、周囲の者達が削り氷を用意して口に入れるよう絶えず勧めた、との記述があります。

勿論シンプルに喉を潤す氷水も文献上に登場します。
例えば『小右記』には、「参上殿上、不耐苦熱飲氷水」(寛仁二[1018]年五月廿一日条)、「以宰相召氷水飲、不堪苦熱耳」(治安三[1023]年七月二十七日条)、「禅閣曰、所労不快、枯槁尤甚者、被飲氷水」(『小右記』治安三[1023]年六月十日条)などの記述があります。
引用文は順番に、寛仁二[1023]年が道長の法華三十講に参上した折に暑さに耐えかね氷水を飲んだこと、治安三[1023]年七月が相撲節会に先立つ擬近奏の際に氷水を飲んでも暑さが耐え難かったとの感想、最後の治安三[1023]年六月は道長が「ひどく喉が渇く」と言って氷水を飲む姿を記録したものです。
うだるような京都の酷暑を、なんとか氷水で和らげようとする様子がリアルに伝わってきます。
また、最初にご紹介した『日本書紀』仁徳紀六十二年是歳条には、氷の用途について「水酒に漬して用ふ」とあり、氷水だけでなくお酒に氷を浮かべる謂わばオンザロックも古代からあったことがわかります。
上に挙げた『源氏物語』常夏巻の「大御酒」にも、あるいは氷が入っていたのかもしれません。

当然のことながらこんな風に氷で涼を取ることができたのはごく限られた上流階級の人々だけだった訳ですが、意外と平安貴族にとっては身近な存在だった夏の氷についてご紹介しました。

写真は、上が風俗博物館2003年下半期展示「釣殿の涼み」、下が同2006年上半期展示「あてなるもの」にてそれぞれ撮影したものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
河地修編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識21 常夏・篝火・野分』至文堂 2002年
永山久夫著『日本古代食事典』東洋書林 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
「『氷室』の木簡、初めて発見 奈良・長屋王邸跡で出土 国立文化財研が公開」読売新聞1988年10月26日朝刊1面
「古代の氷室跡初出土 奈良・都祁村」朝日新聞1991年7月2日朝刊29面

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