« 2009年8月 | トップページ | 2010年5月 »

2009年10月の記事

2009年10月 3日 (土)

月の宴

218tsukinoen_1 今日(2009年10月3日)は旧暦八月十五日、仲秋の名月です。
現在では薄とお団子をお供えしてお月見をする家庭は少ないかもしれませんが、お月見の習慣は平安時代まで遡ります。
八月十五日の夜に仲秋の名月を愛で、供物を供えて詩歌管弦の遊びをする宴を催す「月の宴」です。
内裏をはじめ貴族の邸宅で広く行われ、時代が下ると庶民の間でも広く行われました。
月を観賞して宴を設ける大陸の風習が伝わったものです。

月の宴の文献上の初見は、島田忠臣の『田氏家集』に収められた「八月十五夜宴月」「八月十五夜惜月」などと題された漢詩であるとされます(『平安朝の年中行事』)。
文人達が大陸の観月の風習に倣って仲秋の名月を愛で漢詩を詠む宴を催す例は、文徳天皇の時代辺りから始まったようです。
『竹取物語』の「在る人の「月の顔見るは、忌むこと」と制しけれども」との記述から窺われるように、平安時代以前の日本にはお月見の習慣はなかったと見られます。

宮廷行事としては、『日本紀略』延喜九[909]年の
閏八月十五日。夜太上法皇召文人於亭子院。令賦月影浮秋池之詩。
との記事が早い例とされています。
(『平安時代史事典』は仁和元[885]年八月十五日に光孝天皇が神泉苑で催した詩宴を初期の例として挙げていますが、『日本三代実録』同日条には「日暮鸞輿還宮」と記されていて行幸は日中のこととわかるので、月の宴の例と言えるかどうかは若干疑問です)
その後、宮中の行事として定着していったようで、平安中期までに30例近くが数えられるそうです(『源氏物語の鑑賞と基礎知識26 横笛・鈴虫』)。
中でも村上天皇が康保三[966]年八月十五日の晩に清涼殿で催した「前栽合わせ」を伴っての月の宴は特に有名で、その様子は『西宮記』にも記録され、『栄花物語』巻一の巻名「月の宴」もこの宴の記事が由来となっています。

尚、宮中で月の宴が盛んになった宇多・醍醐朝でも、恒例の晴儀ではなく、詩歌管弦の遊宴の性格が強かったようです。
そうした月の宴の位置付けは、『西宮記』において8月の年中行事を載せる巻五にその記述がなく、臨時の儀式を集める巻八に「宴遊」として康保三年の前栽合わせの記録が載っている点からも見て取ることができます。

月を愛で漢詩や和歌・音楽を楽しむ習慣は、宮廷行事としてだけでなく貴族の私的な楽しみとしても取り入れられました。

人の家の、前近き泉に、八月十五夜、月の影映りたるを、女ども見る程に、垣の外より、大路に笛吹きてゆく人あり。
  雲居よりこちくの声を聞くなへにさし汲むばかり見ゆる月影
(『蜻蛉日記』中巻・安和二年八月)

上の例は現実の景色ではなく、作者が頼まれて藤原師尹の五十の賀のために詠んだ屏風歌の記述です。
この頃には月次屏風に描かれるほど仲秋の名月を愛でる習慣が定着していたことがわかると同時に、その絵の構図から肩肘を張らずにのどかに月を楽しむ当時の様子も推測できます。
また、この屏風歌を詠んだ時期も八月のことで、「宵の程、月見るあひだなどに、一つ二つなど、思ひて物しけり」との描写からは、あるいは作者自身も名月を眺めながら歌を考えたのだろうか?などとも想像されます。

また『枕草子』第九十六段には、「八月十よ日の月明き夜」のこととして、定子中宮が端近に出て琵琶の演奏を聴きながら女房達と共に月を見たエピソードが記されています。
この出来事は長徳三[997]年か翌四[998]年のことと推定されており、中宮を取り巻く状況は厳しくなっていたときですが、逆境にあっても折々の行事や季節感を楽しむことを忘れなかった中宮の姿を描く『枕草子』全体のトーンを考えると、このエピソードも仲秋の名月をひっそりと、しかし鬱屈した様子を見せることなく愛でた一夜のことだったのではないかと思います。

219tsukinoen_2 では、『源氏物語』において仲秋の名月はどのように描かれているかを見てみると、八月十五日と特定できる月の場面は全部で7例あります。

最初に仲秋の名月が描かれるのは夕顔巻、五条の宿での逢瀬の場面です。
八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、残りなく漏りて来て」という描写が、続く隣家の住人同士の会話と並んで夕顔の住まいの陋屋ぶりを印象付けます。
十五夜が明けた翌十六日の暁に、2人はここから某院に赴いて1日を過ごす訳ですが、某院で夜を迎えた源氏が「内裏に、いかに求めさせたまふらむを、いづこに尋ぬらむ」と考えるのも、前夜内裏で催された筈の月の宴にも出席せず、翌日も1日参内しなかったことを思えば当然と言えるでしょう。

2番目の例は、須磨の地で遥かに内裏の月の宴を思いやる場面です。

月のいとはなやかにさし出でたるに、「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて、殿上の御遊び恋しく、「所々眺めたまふらむかし」と思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。(須磨巻)

都でも須磨でも同じ月を眺めているとの思いが、却って源氏の侘しい境遇を浮き上がらせる効果を果たしており、中でも「殿上の御遊び」の華やぎが謹慎の地での十五夜との対照を形づくっています。

続く明石巻では、都に召還された源氏と朱雀帝の対面の場面が「十五夜の月おもしろう静かなる」八月十五日の宵に設定されています。
長く眼病を患い程なく帝位を退くことを決めている帝の御前では、月の宴が催されることもなく、退場を間近に控えた朱雀帝の寂寥がさりげなく示されます。
桐壺帝が行った朱雀院行幸や花の宴、冷泉帝が催した絵合わせなどの盛儀の狭間で、朱雀帝が主催した儀式行事は物語には描かれることがなく、ここでも当然あってしかるべき年中行事の空白が示されることで、源氏と比較され敗者の役割を担わなくてはならない朱雀帝の位置付けが間接的に明らかにされていると言えます。

そして鈴虫巻では、仲秋の名月を背景に、女三の宮と源氏の微妙な語らい、蛍兵部卿宮や夕霧らと虫の音を語り合う鈴虫の宴、漢詩や和歌を詠み合う冷泉院での月の宴、の3つの場面が描かれます。
今宵は、例の御遊びにやあらむと推し量りて、兵部卿宮渡りたまへり」「内裏の御前に、今宵は月の宴あるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに」といった語りからは、六条院でも内裏でも月の宴は当然催されるべきもの、というような期待感が窺われます。
しかし登場する人物達は、世を捨てた女三の宮、老いを噛み締める光源氏、帝位を去った冷泉院、といずれも翳りを色濃く漂わせ、更にその背景には、内裏の月の宴が中止になったことがあります。
かなり変則的な月の宴の描かれ方です。

そして、物語の中で最後に仲秋の名月が描かれるのは、紫の上の葬送の場面です。

昔、大将の君の御母君亡せたまへりし時の暁を思ひ出づるにも、かれは、なほもののおぼえけるにや、月の顔の明らかにおぼえしを、今宵はただくれ惑ひたまへり。
十四日に亡せたまひて、これは十五日の暁なりけり。
(御法巻)

紫の上との死別によって目の前が真っ暗になってしまった源氏の悲嘆の激しさが、1年の内でも最も明るい仲秋の名月の光との対照から浮き彫りにされています。

意外なことに、宴の様子そのものを描いているのは鈴虫巻の2例(六条院での鈴虫の宴と冷泉院での月の宴)のみで、宮廷行事としての月の宴は全く描かれていません。
更に、描かれた2例の宴を含めていずれの例も寂寥感・悲哀感の漂う描写を見せており、作者が仲秋の名月をどのように捉えていたのか、非常に興味深い点だと思います。

尚、楢原茂子氏は松風巻の桂の院での宴と鈴虫巻の鈴虫の宴との対応を指摘していますが(『源氏物語の鑑賞と基礎知識26 横笛・鈴虫』)、松風巻の場面が月の宴なのかどうかは、可能性は充分考えられるものの確定できないため、この記事では取り上げませんでした。

写真はいずれも、風俗博物館2009年下半期展示「月の宴」(国宝源氏物語絵巻「鈴虫(二)」再現)にて撮影したものです。

【参考文献】

古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
永井和子編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識26 横笛・鈴虫』至文堂 2002年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編集『平安時代の儀礼と歳事』至文堂 1994年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年
佐藤和雄作成「源氏物語の語彙検索(KWIC)

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「月の宴(仲秋の名月)」をリライトしたものです。

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

« 2009年8月 | トップページ | 2010年5月 »