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2010年6月11日 (金)

河原院跡

223kawaranoin 224hongakuji 乙女巻でその造営が語られ、以後光源氏の後半生の主な舞台となる六条院は、『河海抄』以来源融の河原院がモデルとされ、その場所は六条四坊十一町~十四町(現在の地図に重ねると河原町五条交差点付近から南西の一帯)と目されています。
物語本文に
六条京極のわたりに、中宮の御古き宮のほとりを、四町をこめて造らせたまふ」(乙女巻)
とあるとおりです。
源融は河原院に陸奥国の歌枕である塩竃を模した庭園を造ったと伝えられ、後世には難波江から海水を運んで塩焼きの風情を楽しんだとの伝説まで生まれましたが、その名残を現代に伝えるように付近には「塩竃町(しおがまちょう)」「本塩竃町(もとしおがまちょう)」の町名が残る他、本塩竃町内にある上徳寺は塩竈山(えんそうざん)と号し、同じ町内の本覚寺境内には第二次世界大戦中の強制疎開で撤去されるまで塩竃神社がありました。
観光寺院ではないため非公開ですが、本覚寺には現在も塩竃神社の掛額と源融像が守り伝えられているそうです。
また、1994年には六条四坊十一町の東北隅に当たる五条通河原町西入本覚寺前町で平安前期の池状遺構が発見され、「河原院の池跡出土」と地元で大きく報じられました。

一方、河原院跡の石碑は、平安京の東の境界線である東京極大路より僅かに東に外れた高瀬川左岸、下京区木屋町通五条下東側に建っています。
大正四[1915]年に京都市教育会によって建立されたこの碑は従来「河原院の正確な位置を示していない」と言われてきましたが、近年、河原院は京外の鴨河原にあったとする説が有力視されるようになり、この説に従えば石碑は正しく河原院の位置に建っていることになります。

河原院の位置を京外の鴨河原とする説は、建築学の分野では太田静六氏が『寝殿造の研究』の中で既に述べていますが、日本文学においてよく取り上げられているのは増田繁雄氏の論文「河原院哀史」で、この中で増田氏は、

  • 源融は京内の六条京極の邸と、東京極大路を挟んで隣り合う鴨河原の邸の2つを所有していた
  • 融の死後、邸は宇多上皇に献上され、京内の邸が「東六条院(略して「六条院」とも)」、鴨河原の邸が「河原院」と呼ばれた
    東六条院」は、宇多上皇の仙洞御所「中六条院」(六条三坊十三町)との区別から付いた呼称
  • 宇多上皇崩御後は有力な所有者がなく、分割して融の子孫が住んだり寺に改められたりした
  • 本来の「河原院」の地が度重なる鴨川の洪水で削り取られていったこともあり、院政期頃には「東六条院」の地も一括りに「河原院」と呼ばれるようになった

とまとめています。

現在の地図に平安京条坊図を重ねると、鴨川が東京極大路の間近まで迫ってきていて河原院のような大邸宅を造営する土地はとてもありませんが、この点については増田氏に先立って矢野貫一氏の論考(「河原院」)があり、平安京遷都の時点では鴨川は人工的に河合から九条まで南北一直線に流されており、その流路が時代と共に東高西低の京都の地形に沿って西に偏り、現代に至っていると推測しています。
一直線の流れであれば鴨川は現在の大和大路通の辺りになり、その西側に四町の大邸宅が充分に造営可能だという訳です。
矢野氏は、河原院内に安置されていた仏像が長保二[1000]年四月二十日に祇陀林寺に移された記録(『日本紀略』『権記』)から、河原院の土地はこの時点で仏像を避難させなければならないほど鴨川の浸食を受けていたとし、その4年後の長保六[1004]年三月十日に行われた鴨川の流路を東へ移す工事(『権記』『御堂関白記』)の現場も、『御堂関白記』同年三月十二日の記述から五条大路付近だったと推測しています。

以上のような研究の進展を踏まえると、光源氏の六条院のモデルが源融の邸であることは間違いないものの、厳密には「河原院」ではなく「東六条院」の方だと考えた方がよさそうです。

四町の邸宅というのがどれほどの広さであるかは、実際に現地を歩いてみるのが一番でしょう。
リンク集にも掲載しております、なぎさんのWebサイト花橘亭内のコンテンツ「『源氏物語』 光源氏の邸宅「六條院」を歩く」では、ご本人が地図を見ながら六条院の位置に現存する源融ゆかりの地を散策なさった様子が写真付きで紹介されています。
現地を訪れる際には事前にご覧になっておくことをお薦めします。

写真は、河原院跡の石碑(左)と本覚寺の外観(右)です。いずれも2009年9月撮影。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD- ROM版』角川学芸出版 2006年
紫式部顕彰会編纂『京都源氏物語地図』思文閣出版 2007年
針本正行編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識27 少女』至文堂 2003年
須田哲夫編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典26 京都府』角川書店 1982年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
平安京探偵団「平安京を歩こう」内 河原院跡
「河原院の池跡出土 庭園の存在裏付けか」京都新聞1994年9月9日朝刊1面
発掘調査現地説明会資料:平安京左京六条四坊十一町(PDFファイル)
 ※京都市埋蔵文化財研究所ホームページ「データ室」内に掲載されています
増田繁雄「河原院哀史」(『源氏物語と貴族社会』〔吉川弘文館 2002年〕所収)
 ※論文初出:後藤祥子[ほか]編『文学空間としての平安京』(論集平安文学1)勉誠社 1994年
矢野貫一「河原院」(「国語科通信」36号 p.73-75 1977年)
太田静六著『寝殿造の研究』「左大臣源融の河原院と六条院」吉川弘文館 1987年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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