カテゴリー「原文読解」の記事

2019年6月26日 (水)

頭中将の人となり

 宮腹の中将は、なかに親しく馴れきこえたまひて、遊び戯れをも人よりは心安く、なれなれしく振る舞ひたり。右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処は、この君もいともの憂くして、好きがましきあだ人なり。
 里にても、わが方のしつらひまばゆくして、君の出で入りしたまふにうち連れきこえたまひつつ、夜昼、学問をも遊びをももろともにして、をさをさ立ちおくれず、いづくにてもまつはれきこえたまふほどに、おのづからかしこまりもえおかず、心のうちに思ふことをも隠しあへずなむ、睦れきこえたまひける。

桐壺巻の終わりに
宮の御腹は、蔵人少将にていと若うをかしきを、右大臣の、御仲はいと好からねど、え見過ぐしたまはで、かしづきたまふ四の君にあはせたまへり。
と語られた葵の上の同母兄弟が、こちらも光源氏と同じく中将に昇進した形で改めて紹介されます。
源氏の生涯の友となる頭中将です。

臣籍降下したとはいえ桐壺帝鍾愛の皇子である光源氏に誰もが遠慮する中、この人は「親しく馴れきこえ」「人よりは心安く、なれなれしく振る舞」っていると語られます。
そうした振舞の根底には、頭中将が桐壺帝の同母姉妹の内親王を母に持ち、源氏と従兄弟の関係にあるという出自の高さと同時に、「学問をも遊びをももろともにして、をさをさ立ちおくれず」とあるように、何事においても人々から絶賛される才能の持ち主である源氏に対して「自分も負けないだけのものを持っている」という強い自負があるのだと思われます。
頭中将が光源氏に対抗心を持って並び立とうとする様はこの後も繰り返し描かれ、帚木巻からは遥か先になりますが、絵合巻では冷泉帝の後宮における覇権を源氏と競うことにもなります。

また、親同士の思惑で宛がわれた妻には満足がいかず、女性関係が派手な「好きがましきあだ人」とも設定されています。
この君も」と語られているところからもわかる通り、親が整えた縁組に満足できず妻の許へ通うのが途切れがちなのは源氏も同じな訳で、その辺も頭中将が「親しく馴れきこえ」る一因と思われます。
そして「おのづからかしこまりもえおかず、心のうちに思ふことをも隠しあへず」、自然と遠慮がなくなって心の中にしまっておくようなことも隠し切れずにしゃべってしまう、ある種の人の好さも見て取ることができます。
(方や光源氏はと言うと、葵の上との間に親密な夫婦関係が築けずにいるのは藤壺への禁忌の恋ゆえで、そのことは決して他人に悟られる訳にはいかないのですから、頭中将が一方的に打ち解けて心を開いているとも読め、そう考えると、上記の原文に続く雨夜の品定めの場面で源氏がほとんど相槌程度の言葉しか発しないのも自然なことに思えてきます)

更にもう1つここから読み取れるのは、「里にても、わが方のしつらひまばゆくして」という派手好きな性格です。
実はこの設定は非常に一貫性があり、後々まで「人がら、いとすくよかに、きらきらしくて」(乙女巻)「いとものきらきらしく、かひあるところつきたまへる人」(常夏巻)「きらきらしうものきよげに」(行幸巻)「あなきらきらしと見えたまへるに」(行幸巻)といった描写が見られる他、頭中将の娘である弘徽殿女御方の室礼や玉鬘の容姿が繰り返し「今めかし」と評されています。
こうして見ると、帚木巻冒頭で紹介された段階で、頭中将の人物像は作者の中でかなり具体的に出来上がっていたのではないかと思われます。

因みに、頭中将の心中の言葉として「わが妹の姫君」(帚木巻)とあることから葵の上の兄とされていますが、本文中に頭中将の年齢を示す記述は見当たりません。
(古語で「妹」は年齢の上下を問わず女きょうだいの意味で用いられますが、『源氏物語』では年長の姉妹の場合には「姉」の語が用いられているので、ここは現代語と同じ年少の姉妹の意味に取るべきかと思います)
後に葵の上が源氏より「四年ばかりがこのかみにおはす」(紅葉賀巻)と明かされることと、中将光源氏の年齢でご紹介したように歴史上の中将任官年齢は早くて十七・八歳、通常は二十歳を過ぎてからだという玉上氏の説に従うと、帚木巻時点で二十二・三歳といったところでしょうか。
ただ、桐壺巻で頭中将は「いと若うをかしき」、葵の上は「すこし過ぐしたまへるほど」と語られていることを踏まえると、もしかしたら桐壺巻執筆時点では姉弟の設定だったのが、途中で兄妹に変更されたのかもしれません。

女好きで派手好きで、歳下の光源氏にライバル心を燃やしつつ他の人々のように気後れすることなく親しく接し、隠し事まで思わずしゃべってしまう人の好い頭中将という人物。
1000年後の現代から見ても、なかなかに魅力的な男性だと思います。

|

2019年6月25日 (火)

帚木巻冒頭と桐壺・若紫両巻との連続性

 光る源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。さるは、いといたく世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなくて、交野少将には笑はれたまひけむかし。
 まだ中将などにものしたまひし時は、内裏にのみさぶらひようしたまひて、大殿には絶え絶えまかでたまふ。忍ぶの乱れやと、疑ひきこゆることもありしかど、さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性にて、まれには、あながちに引き違へ心尽くしなることを、御心に思しとどむる癖なむ、あやにくにて、さるまじき御振る舞ひもうち混じりける。

光源氏が十二歳で元服し葵の上と結婚したところまでを語った桐壺巻に続く帚木巻冒頭のこの文章は、古くから様々な研究テーマを呼び起こしてきました。
例えば、「語り伝へけむ人」と、その人を「もの言ひさがなさよ」と批評する人の存在が読み取れるところから、語り手の位相を考察する論文が多数ありますし、現在はほぼ否定されていますが玉上琢彌氏の「物語音読論」でもこの箇所が取り上げられました。
また、桐壺巻で「光る君」という呼称が紹介され、一途に藤壺に想い焦がれる姿が描かれたのとは一転して、帚木巻冒頭では「光る源氏」という呼称で好ましくない女性関係が多い好き者として語り出されるところから、桐壺巻と帚木巻の間には断絶があるとして、昭和10~30年代を中心に「成立論」と呼ばれる各巻の執筆順序を推定する研究に発展しました(但し、成立論は作品内部の記述からの推測に留まり客観的に論証する作品外部の根拠が不足しているため行き詰まりを見せ、現存する作品それ自体を対象にする「構造論」、更には「作品」という固定された概念をも覆す「テクスト論」へと展開していきました)。

研究としては下火になったものの、現在に至るまでなんとなく「桐壺巻と帚木巻の間で主人公のイメージが変貌する」「帚木三帖と若紫巻とは連続しない」と思われがちですが(例えば『源氏物語の鑑賞と基礎知識7 帚木』P.28-29には「印象の違う光源氏」という題の補助論文が収められています)、先日、上記の冒頭部分から帚木三帖を積極的に前後の桐壺巻・若紫巻への橋渡しの巻として読み解こうと試みた論文を見つけました。

麻生裕貴 / 帚木巻冒頭の語り. 学芸古典文学 (4), p.65-77, 2011-03
※リンクをクリックすると論文全文のPDFファイルをダウンロードできます

この論では、語り手は「言ひ消たれたまふ咎多かなる」ことよりも「さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性」の方を強調しており、これから語られる空蝉、軒端の荻、夕顔との交渉のような「さるまじき御振る舞ひ」も一途な藤壺思慕が背景にあればこそ引き起こされることを読者に訴えようとしている、という解釈を提示しています。
そして、帚木三帖において光源氏のそのような性格を具体的に示したエピソードを語ることが、続く若紫巻で藤壺本人との間の物語を本格的に語るための布石となっている、と論じています。
確かに、帚木三帖では「君は、人一人の御ありさまを、心の中に思ひつづけたまふ」「思すことのみ心にかかりたまへば、まづ胸つぶれて」(以上、帚木巻)「人やりならず、心づくしに思し乱るることどもありて」「おほけなくあるまじき心の報いに、かく、来し方行く先の例となりぬべきことはあるなめり」(以上、夕顔巻)のように藤壺への禁忌の恋とその罪悪感が一貫して底流しており、続く若紫巻で源氏が僅か十歳の少女に執着して周囲の人々を困惑させた末に誘拐同然の形で二条院に引き取る展開は正しく藤壺思慕を発端にした「さるまじき御振る舞ひ」と言えます。

また、帚木巻と若紫巻の共通性と相互関連性は早くに石田穣二氏も指摘しており(「帚木の冒頭をめぐって―あるいは帚木と若紫―」むらさき (11), 1973)、帚木巻冒頭と夕顔巻末尾が呼応している点にばかり囚われて帚木三帖をそれだけで独立した「中の品の物語」と考えるのではなく、若紫巻から始まる長編物語への助走として捉える必要があるのではないでしょうか。

【参考文献】
中嶋尚編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識7 帚木』至文堂 1999年
秋山虔編『新・源氏物語必携』(『別冊國文学』No.50)學燈社 1997年
『源氏物語を読むための研究事典』(『国文学 : 解釈と教材の研究』第40巻3号)學燈社 1995年
玉上琢彌著「物語音読論序説ー源氏物語の本性(その1)」(玉上琢彌評釈『源氏物語評釈別巻1 源氏物語研究』〔角川書店 1966年〕所収)
※本文中でご紹介した石田氏の論文は『源氏物語の鑑賞と基礎知識7 帚木』に収録されています

|

2007年5月 9日 (水)

中将光源氏の年齢

光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、…」と始まる帚木巻からの三帖は、ご存知のとおり、光源氏の若き日の秘密の恋を口さがない女房が暴露する、という体裁で語られます。
前の桐壺巻とは内容的に直接つながっておらず、間に5年間の空白があるというのも、よく知られているとおりです。

ところで、現代の私達はごく当然のことのように帚木巻を“光源氏十七歳の夏の物語”として読んでいますが、帚木巻の中で源氏の年齢を記した箇所はどこにもありません。
これもよく知られていることですが、原文だけを追っていくと、桐壺巻で「十二にて御元服したまふ」と記された後、次に源氏の年齢が明らかになるのは第一部の一番最後、藤裏葉巻の「明けむ年、四十になりたまふ」という箇所です。
巻の内容を時系列順に並べた年立では、源氏の年齢が物語内の年数の基準になっていますが、実は帚木巻~藤裏葉巻の間の源氏の年齢というのはすべて藤裏葉巻からの逆算になっている訳です。
となると、年立や注釈などなく物語を読んだ筈の同時代の読者は、帚木巻の源氏を何歳くらいとイメージしたのでしょう?

戦後の一時期学界を賑わせた成立論が下火になり、今ある『源氏物語』五十四帖を完成したひとつの物語として読む立場が主流になっている現在、年立に依拠した読み方に疑問を差し挟む向きは特にないのか、注釈などでこうした点に触れたものは見当たりません。
ただ、戦前の古い論文で、
帚木巻が書かれた時点では、源氏の年齢設定は十七歳よりもっと上だった筈だ
と主張しているものを見つけました。
玉上琢弥氏の「源語成立攷―擱筆と下筆とについての一仮説」です。

玉上氏は、帚木巻の源氏の官職が中将であることから、

官位と年齢の関係を公卿補任によって調べるに、二十歳以下の中将は、永延二年道頼十八歳、永祥二年伊周十七歳の何れも右近権中将、永観元年公任十八歳の左近権中将、これらが二十以下の中将の最も早い所である様である。

と指摘しています。
その上で、物語の仮構であろうとの反論が出ることを先回りして

これに対し物語故幾らも仮作できると言ふのは、あの時代の人々の官位昇進に対する神経を無視するものである。

と述べておられるのですが、そうは言ってもやはり、歴史に準拠しつつ時折歴史上に例のない事柄も混ぜ込んでくる(例えば、桐壺巻で源氏が元服後も桐壺を曹司とし、母更衣に仕えた女房達をそのまま留め置く件)のが『源氏物語』ですから、必ずしも史実に忠実に源氏が二十代に設定されたとは限らない気がします。

それよりも私が興味を引かれたのは、十代の中将が出現する最初期にしかも最年少の十七歳で任官したのが、紫式部と同時代に栄華と凋落を生きた藤原伊周だという点です。
伊周の経歴を改めて確認してみると、元服こそ十六歳ですが十二歳で叙爵し、侍従・左兵衛佐・左近少将・蔵人を歴任、十七歳で右中将に補任されています。
伊周が父・道隆の意向により異常な速さで昇進し、周囲の反感を買ったことは有名な話で、速すぎる昇進はある種の不安定さを伴います。
その不安定さを、父帝の異例の厚遇の下にあって右大臣方に目の敵にされているであろう光源氏の状況と重ねてみたくなるのは、私の単なる空想でしょうか。

帚木巻の源氏の年齢を、藤原伊周を下敷きに十七歳で設定されていたのではないか…と私が想像する根拠(?)は、「中将などにものしたまひし時」と並んで年齢を推測させる描写「忍ぶの乱れやと、疑ひきこゆることもありしかど」にあります。
忍ぶの乱れ」は言うまでもなく『伊勢物語』初段を踏まえた表現ですが、『伊勢物語』初段といえば“初冠した昔男が美しい姉妹を垣間見て心惹かれ、歌を詠みかける”という内容な訳で、大人の仲間入りを果たしたばかりの若者の恋の目覚めを描いたお話と言えます。
平安中期の元服の年齢は大体十三~十七歳。
結婚当初「大殿に二三日など、絶え絶えにまかでたまへど、ただ今は幼き御ほどに、罪なく思しなして」(桐壺巻)という扱いだった十二歳から成長して「忍ぶの乱れ」を疑われるようになる年齢としては、適当なところではないでしょうか。
逆にもし源氏が二十歳を越えたいい大人だったら、その恋を「忍ぶの乱れ」と表現するには些か薹が立ちすぎてしまっていると思います。
忍ぶの乱れやと、疑ひきこゆ」という表現は、幼くして元服した源氏が年齢的にもようやく大人扱いできるところまで追いついてきたことを示しているのではないかと思うのです。

忍ぶの乱れ」を疑われるくらいの、やっと一人前になった程度の若さで、異例の中将という顕職にあるアンバランスさ。
帚木巻の源氏の十七歳という年齢は、単に年立上で逆算した結果の数字として受け取るのではなく、帚木巻の本文そのものからも想定し得るものとして、積極的に位置づけてみてもよいのではないかと思う次第です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
山中裕, 鈴木一雄編集『平安時代の儀礼と歳事』至文堂 1994年
玉上琢弥「源語成立攷―擱筆と下筆とについての一仮説」(「国語国文」10巻4号 1940年 pp.1-85)
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2006年3月26日 (日)

光源氏の元服と贈答歌

さぶらひにまかでたまひて、人びと大御酒など参るほど、親王たちの御座の末に源氏着きたまへり。大臣気色ばみきこえたまふことあれど、もののつつましきほどにて、ともかくもあへしらひきこえたまはず。
御前より、内侍、宣旨うけたまはり伝へて、大臣参りたまふべき召しあれば、参りたまふ。御禄の物、主上の命婦取りて賜ふ。白き大袿に御衣一領、例のことなり。
御盃のついでに、
 「いときなき初元結ひに長き世を
  契る心は結びこめつや」
御心ばへありて、おどろかさせたまふ。
 「結びつる心も深き元結ひに
  濃き紫の色し褪せずは」
と奏して、長橋より下りて舞踏したまふ。

十二歳になった光源氏は、桐壺帝が見守る中、清涼殿東廂で元服の儀式に臨みます。
平安時代の元服は、それまで無帽・角髪(みずら)だった髪を髷に結い替えて冠を被る儀式で、成人男子の象徴である冠を被せる役を果たす人は「加冠」または「引入」(髷を冠に引き入れることから)と呼ばれて最も重要視されました。
光源氏の元服にあたり、引入を務めたのは左大臣。
彼は光源氏を元服と同時に正妻腹の一人娘(葵の上)の婿に迎え、以後は舅として光源氏の後ろ楯となります。

恙なく儀式が済んだ後、侍(=清涼殿南端の下侍)で祝宴が催され、左大臣は桐壺帝から引入の役を労う禄を賜り、贈答歌を詠み交わします。

ところが、当時の儀式書を調べてみて、物語の語る順序が実際の儀式次第と異なっていることに気づきました。
『西宮記』や『新儀式』、『奥入』所引の「延長七年二月十六日当代源氏二人元服」の記事などでは、いずれも
“加冠⇒引入への給禄⇒酒宴”
という順序になっているのです。
桐壺巻の書き方ですと、侍での祝宴の途中で、侍とは別の場所にいる帝に呼ばれて左大臣が中座したように読めますが、実はそうではなく、一旦祝宴の様子を語ってから左大臣への給禄に話を巻き戻しているのでした。
まず出来事の大枠を語ってから時間を遡って枠内のある一時に焦点を当てる手法は、ここ以外にも、桐壺の更衣の退出の場面や桐壺の更衣への三位追贈の場面など、物語の重要なポイントとなる場面で用いられています。

では、この場面で焦点を当てて描きたかったものは何なのか。
それは、桐壺帝と左大臣の贈答歌だったのではないかと思います。

光源氏と葵の上との結婚は、2人の父親同士の意図に拠るものでした。
外戚のいない光源氏の後ろ楯となる有力な人物を望んだ桐壺帝と、光源氏の存在に家運を賭けた左大臣。
また、物語にはっきりとは描かれませんが、東宮の外祖父である右大臣の勢力を抑えたい両者の思惑が一致した側面もあるでしょう。
父親達は、子供同士の結婚によって結ばれた縁戚関係の永続を願う気持ちをかっちりと噛み合った贈答歌で確認し合います。
ですが、この元服に続く結婚の場面は、ほとんど何も語られず、唯一語られているのは「似げなく恥づかし」というあまり幸先のよくない女君の感想だけ。
当時は、婚儀の一環として「後朝使(きぬぎぬのつかひ)」と呼ばれる新郎新婦の文による歌の贈答があり、光源氏と葵の上も絶対に歌を詠み交わしている筈なのに、物語はそれを語りません。
男女が心を通わせ合う基本ツールだった贈答歌の不在は、間接的に2人の心が通い合っていないことを表現しているのでしょうが、その意味を強調するものとして、桐壺帝と左大臣の贈答歌が記されたのではないかと想像します。
この先、社会的には幾多の波乱を乗り越えて想像を絶する栄華を手にする一方、大勢の女性達との関わりの中で思うに任せぬ人の心に悩みもがきながら生きてゆくことになる光源氏の生涯を思うとき、ここに置かれた桐壺帝と左大臣の贈答歌の意味は、意外に重いものがあるのではないかと思うのです。

※この場面のレスのやり取りは、「桐壺」巻の読みのページからご覧いただけます。
(第三章第六段「引入への給禄」とその前後の各発言です)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月 6日 (日)

「宮」と呼ばれる光源氏

帝、かしこき御心に、倭相を仰せて、思しよりにける筋なれば、今までこの君を親王にもなさせたまはざりけるを、「相人はまことにかしこかりけり」と思して、「無品の親王の外戚の寄せなきにては漂はさじ。わが御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をするなむ、行く先も頼もしげなめること」と思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせたまふ。

高麗の相人の予言を聞いた帝は、第二皇子(=光源氏)を臣籍降下させようと決意します。
「光源氏」の誕生です。

この場面で初めて、第二皇子がこれまで親王宣下を受けていなかったことが明らかになります。
『源氏物語』という題名のとおり、主人公は臣籍降下して源氏になるのですから、親王宣下を受けていないのは当然といえば当然ですが、この場面に至るまでに5回にも渡って「」「若宮」と呼ばれてきたことを考えると、少々意外な感じを受けます。
この点について、吉海直人氏は『源氏物語の視界―桐壺巻新解―』の中で

源氏が誕生後「みこ」とか「みや」と呼ばれていること、あるいは皇位継承問題が浮上していることから、なんとなく源氏は既に親王の資格を得ているような錯覚を抱かされていた。そして親王から臣籍に降下されるように誤読していた。ひょっとするとそこが作者の狙いかもしれない。しかし「みこ」や「みや」は必ずしも親王ではなかったのだ。

と述べています。

では、親王・内親王宣下を受けていない皇子女が「宮」と呼ばれるのは、物語が書かれた当時は自然なことだったのでしょうか?
それとも、当時の読者も「宮」と言われれば普通は親王・内親王をイメージするものだったのでしょうか?
『源氏物語』とその周辺の作品について調べてみました。

まず『源氏物語』の中では、親王の子供が5人ほど、一時的に「宮」と呼ばれる例がありますが、その他は皇后・皇太后などの「后の宮」と親王・内親王ばかりです。
『枕草子』『伊勢物語』『落窪物語』『大鏡』などの諸作品でも、「宮」と呼ばれる皇子女は、軒並み親王・内親王でした。
微妙な例としては、『栄花物語』巻第二「花山たづぬる中納言」で、醍醐天皇第十六皇子で臣籍降下した源兼明を
延喜の帝の御十六の宮
と記している箇所があるのですが、源兼明は藤原兼通の策略で皇族に戻されて親王となった人物なので、最終的な身分が呼称に反映されている可能性も考えられます。
(この辺の調査結果は、源氏物語を味わう【掲示板】の発言No306をご参照ください)

他方、親王宣下を受けなかった皇子で「宮」と呼ばれた人物も、歴史上には存在します。
例えば、後白河天皇第二皇子・以仁王。
幼くして寺に入れられたものの出家せず、密かに元服したと伝えられる以仁王は、三条高倉の邸に住み、「高倉宮」と呼ばれました(『源平盛衰記』巻十三)
また、『紫式部日記』では敦成親王のことを誕生直後から「」と記しており、親王宣下を受けて初めて「」と呼ばれるようになる訳ではないことが窺われます。

更に調べていくと、『源氏物語』の時代設定となる醍醐・村上朝から実際に執筆された一条朝辺りで、親王・内親王宣下も臣籍降下もなされなかった皇子女はほとんど存在しない(少なくとも歴史上に名前が残っていない)らしいことがわかってきました。
しかも、親王・内親王宣下あるいは臣籍降下がなされる年齢は一~七歳頃が中心で、特に一条朝の皇子女達は、いずれも生後間もなく親王・内親王宣下を受けています。

これらの事情を考え合わせると、親王宣下を受けていない皇子を「宮」と呼ぶこと自体はおかしなことではないものの、当時そのような例はかなり稀少で、一般に「宮」と呼ばれる人物は親王であるように認識されていたのではないでしょうか。
第二皇子を「」「若宮」と呼び、読者に皇位継承の可能性をもつ親王であるかのような印象を与え、立坊の可能性さえ示唆しつつ、ここで臣籍降下という決断を描いて帝位から遠ざける。
この後、光源氏はただの一度も「」とは呼ばれません。
帝位に迫り、臣下では終わらないとの予言を背負う皇子が、親王でさえなく源氏となって、どのようにあの予言を実現するのかと、読者の興味は掻き立てられたことでしょう。
そうした読者の意外の念を強めるものとして、読者の先入観を利用した「宮」という呼称が機能しているのではないかと思います。

※「宮」という呼称に関するレスのやり取りは、「桐壺」巻の読みのページからご覧いただけます。
 (第三章第三段「「宮」という呼称について」の列の各発言です)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』(角川書店 1994年)
『日本人名大事典』復刻版(平凡社 1979年)
吉海直人著『源氏物語の視覚 : 桐壺巻新解』(翰林書房 1992年)
フリー百科事典ウィキペディア

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月15日 (土)

読書始と桐壺帝

七つになりたまへば、読書始めなどせさせたまひて、世に知らず聡う賢くおはすれば、あまり恐ろしきまで御覧ず。

六歳で祖母君と死別した第二皇子(=光源氏)は父・桐壺帝の許に引き取られ、翌年内裏で読書始の儀に臨み、帝が畏怖するほどの才能を見せます。

読書始とは、天皇・皇太子・親王など皇族男子が初めて漢籍を読む儀式で、この儀式を経た後に漢学の勉強を始めます。
当時の貴族男性の学問の中心は漢学ですから、大人になるための勉学入門の儀式といえます。
現代の感覚でいくと、小学校の入学式のようなものでしょうか。

『西宮記』や『江家次第』などの儀式書の記述、また『小右記』に記録される実例などから儀式の様子を簡単にまとめてみます。

会場は通常、天皇の場合は清涼殿、東宮は東宮御所、親王は母君の殿舎を当てたようです。
会場の室礼は、廂の間に主役の子供の座を設けて文机を立て、孫廂には漢学を教授する博士とその補佐役の尚復、列席者の皇族や公卿達の席を設けます。
母屋と廂の間の御簾を下ろし、母屋は使いません。
儀式自体は極めて簡単。
一同が着座したところで博士が漢籍の冒頭をわずか数文字読み上げ、それを尚復が復唱するだけです(本人が読む場合もありましたが、読まない方が普通でした)。
儀式の後には饗宴があり、博士や列席者に禄が授けられます。
東宮や親王の読書始の際には、天皇は臨席しなかったようです。

儀式次第を調べてみて、意外だったことが2つあります。
1つは、読書始の儀は「世に知らず聡う賢く」も何もないくらいあっさりしたものだということ。
もう1つは、儀式に天皇が臨席しないということ。
冒頭に挙げた原文だけ読むと、儀式の際に皇子の秀才ぶりが明らかになり、またその場に桐壺帝も立ち会ったような印象を受けるのですが、そうではなかったんだ!というのが驚きでした。

ところが、「やっぱり桐壺帝は読書始の儀に立ち会ったのかも」と思い返す事例もありました。
『小右記』寛弘二[1005]年十一月十四日条、敦康親王読書始の記事です。
敦康親王の読書始は、前日の十三日に親王の母代である彰子中宮の御座所・飛香舎で行われたのですが、その儀に際して
密々主上渡御件舎」(密々主上件の舎に渡御す)
講詩間主上密排御屏風、於其御簾前以言講詩云々」(講詩の間主上密かに御屏風を排し、其の御簾の前に於ひて言を以って詩を講ずと云々)
とあるのです。
一条天皇は愛する息子の成長儀礼をこの目で見るために、母屋で御簾と屏風の陰に隠れて非公式に立ち会った訳です。
そういうこともありだったのなら、桐壺帝も皇子の読書始に密かに立ち会ったのではないでしょうか?
しかも会場は、桐壺の更衣との思い出が沢山詰まった淑景舎でしょうから、息子の成長を喜ぶ気持ちと一緒に喜んでくれる更衣の不在を悲しむ気持ちと、悲喜こもごもで母屋の御簾の奥に座っていたのではないか…などと想像を膨らませてしまいます。

あくまで第二皇子の成長と美質を語る記述ではありますけれど、その先に父帝の愛情深い眼差しを読み取ることも許してくれそうな、そんな一文だと思います。

※読書始の儀に関するレスのやり取りは、「桐壺」巻の読みのページからご覧いただけます。
 (第三章第二段「読書始の儀」の列の各発言です)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月30日 (金)

「御前の壺前栽」と京都御所の萩壺

御前の壺前栽のいとおもしろき盛りなるを御覧ずるやうにて、忍びやかに心にくき限りの女房四五人さぶらはせたまひて、御物語せさせたまふなりけり。

桐壺の更衣を失った年の秋、ある野分めいた夕暮れに帝は靫負命婦を弔問に派遣します。
命婦は更衣の里邸を訪れ、帝の文を渡して更衣の母北の方と第二皇子(=光源氏)の参内を促し、嘆きの底にある北の方と語らって夜更けに宮中に帰参しますが、帝はまだ寝所に入らず、「御前の壺前栽」をぼんやりと眺めながら女房達に話をさせていました。

御前の壺前栽」は、清涼殿の西側、清涼殿と後凉殿との間にある壺庭に植えられた前栽を指します。
清涼殿と後凉殿は北・中・南の3本の渡廊でつながっていて、廊と殿舎に囲まれて2つの壺庭ができていました。
それらの壺庭は、北側を朝餉壺(あさがれひのつぼ)、南側を台盤所壺(だいばんどころのつぼ)と呼びました。
台盤所は女房の詰所ですので、この場面で帝がいたのは朝餉間の筈で、その前に位置する朝餉壺の前栽を見ていたと思われます。
命婦を派遣したときも「やがて眺めおはします」と記されていますので、夕方からずっと朝餉壺を眺めていたのではないでしょうか。

ところで、現在の京都御所では、清涼殿と後凉殿との間に相当する清涼殿と御車寄との間の空間がやはり壺庭になっていて、「萩壺」という名がついています。
残念ながら参観コースには入ってないのですが、京都御所のパンフレットなどには写真が載っていて、白砂の庭のそこここに赤紫や白の萩が植わっているのが確認できます。
この「萩壺」、いつからこうした形の庭につくられ「萩壺」と名付けられたのでしょうか。

帝は、北の方へ送った文の中の歌で第二皇子を「小萩」と詠んでおり、あるいは「御前の壺前栽」は萩を中心とした秋の草花だったのではないかとの想像を掻き立てられます。
ですが調べてみた結果は、『大内裏図考証』にも歴史事典の類にも「萩壺」の名は全くありませんでしたし、正にこの壺庭で催された康保三[966]年八月十五日の内裏前栽合でも萩を詠んだ歌は1首もなく、平安時代の朝餉壺に萩が植わっていたかどうかすら疑わしいのが現実でした。

そうなると今度は逆に、『源氏物語』のこの場面に因んで、近現代になってから壺庭に萩を植えて「萩壺」と称するようになったのではないか?との想像が生じてきます。
実際のところ由来や作庭の経緯は見つけることができなかったのですが、もし仮にそうだとしたら、この庭と「萩壺」という名前は、京都御所と王朝文化の残照を守ってきた人々による『源氏物語』享受のひとつの形な訳で、それはそれでとても素敵なことではないかと思います。

萩の花は、紫の上の死を語る御法巻でも印象深い形で登場します。
桐壺の更衣と紫の上の死の場面が叙述の上で極めて似通っていることは、既に沢山の研究者によって指摘されていますけれど、その両方に萩と露を吹き払う風が描かれていることを考えると、この場面で帝が眺めている前栽には萩が植わっていてほしいと願ってしまいます。
そして、同じように考えた人が京都御所のあの場所に萩を植えたのではないだろうか…と、つい空想してみたくなってしまうのです。

この場面の読みとレスのやり取りは、「桐壺」巻の読みのページからご覧いただけます。
(第二章第三段の最初の部分がこの場面にあたります)

【参考文献】
[裏松光世著];故實叢書編集部編『大内裏図考証』(明治図書出版 1993年)
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』(角川書店 1994年)
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』(吉川弘文館 1979-1997年)
「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観第5巻 歌合集』(角川書店 1987年)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年9月17日 (土)

「憎みたまふ人びと」の論理

内裏より御使あり。三位の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階の位をだにと、贈らせたまふなりけり。これにつけても憎みたまふ人びと多かり。もの思ひ知りたまふは、様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。

宮中の人々の敵意を一身に負った桐壺の更衣は、内裏を退出したその日のうちに亡くなりました。
その葬儀に際し、桐壺帝は勅使を派遣して従三位を追贈します。
それにつけても非難の声は大きく、亡き更衣を憎む人々が多かったけれど、「もの思ひ知りたまふ」人は、更衣の美点を今更ながらに思い出した…と原文は語ります。

更衣の加階によって、息子の第二皇子(=光源氏)の立場に変化はあったのだろうか?
掲示板でそんな質問が出されたのをきっかけに、親の死後加階と子供の地位の関係を調べてみました。

参考になるのは、桐壺巻の執筆よりは確実に後のことになりますが、三条天皇皇后・藤原娍子の立后に先立って、娍子の父・済時に右大臣(『公卿補任』『尊卑文脈』に拠る。『大鏡』『栄花物語』では太政大臣)の地位が追贈された史実です。
『大鏡』『栄花物語』における記述の詳細は、藤原済時への贈官(『大鏡』の記述)としてUPしてありますのでご参照ください。

この例を踏まえると、第二皇子はこの後、四位の更衣から生まれた子ではなく三位という高位の母をもつ子として待遇されることになります。
平安時代において、三位以上と四位以下とは明確に区別されました。
(例えば、四位以下の人が亡くなったときは「卒」と称するのに対して三位以上は「薨」と称しますし、四位以下の女官は輦車の宣旨の対象外なのもその一例でしょう)
従四位下程度で女御宣下がなされる例も少なくないことを考えるなら、三位の母から生まれた皇子というのは相当に高い出自になるのではないでしょうか。

となると人々は、亡くなった桐壺の更衣本人より、残された第二皇子の格が高まることにこそ敏感に反応したのではないかと想像できます。
桐壺の更衣への加階は、死後ほどなく実施されたと考えられます。
(通常の追贈は、葬送に先立って故人の邸を勅使が訪れ、棺の前で宣命を読み上げるものだったそうです)
加えて、更衣の従三位加階は歴史上に例がありません。
この即断・異例の措置が、後宮での勢力争いに凌ぎを削る人々に
「桐壺の更衣が第二皇子立坊を懇願したがために、帝はその遺言を叶えるべく第二皇子の地位を高めようと更衣への贈位を行ったのではないか」
との疑惑を抱かせたのではないでしょうか。
この、いわば「自分の産んだ皇子を立坊させようとの野心から、死して尚帝を操る悪女」という想像の桐壺の更衣像が、人々の憎悪の源なのではないかと思うのです。
そう考えると、更衣を憎む人々が多い中で、非情な政治の論理に捕われず濃やかな感情をもつ「もの思ひ知りたまふ」人だけが美しく心優しい桐壺の更衣の実像を思い出している…という後文との対照もはっきりします。

どこまでも公的秩序・政治の論理に絡め捕られた桐壺帝と桐壺の更衣の悲恋の特質が、「憎みたまふ人びと」の点描から浮かび上がってくるように思います。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』(角川書店 1994年)
『日本史大事典』(平凡社 1992-1994年)
高田信敬「桐壺外伝―三位のくらゐ贈りたまふ―」(「むらさき」24号 1987年)
吉海直人著『源氏物語の視覚 : 桐壺巻新解』(翰林書房 1992年)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年9月 3日 (土)

輦車の宣旨~桐壺の更衣の退出~

輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。

危篤に陥った桐壺の更衣が内裏から退出する場面、帝は「宮中を死で穢してはならない」という掟のため、最愛の人の最期を看取ることもできず、泣く泣く更衣を実家へ帰します。
その際に帝は、せめてもの誠意とばかりに、更衣に対して輦車の宣旨を下します。

輦車は「てぐるま」と読み、その名のとおり人が手で引く車です。
『石山寺縁起絵巻』には、車の前後に4人ずつが付いて8人で輦車を引く様子が描かれています。
専ら、原則的に車馬乗り入れ禁止の大内裏の中での乗用に用いられました。

輦車の宣旨は、その輦車での参内・退出を許す勅命で、輦車に乗る人の性別によって宣旨の出し方も通行できる範囲も異なりました。
ここでは女性の場合のみご説明します。

女性は身分に応じて、大内裏内のある程度のところまで牛車で行くことが許されていました。
『延喜雑式』によると、妃・夫人・内親王・命婦・三位・嬪・女御・孫王・大臣の嫡妻は宮門(内裏の外郭を為す門)の外まで、四位以下と内侍は衛門陣(宜秋門・建春門)の手前まで、と規定されていました。
そして妃以下大臣の嫡妻以上は、宮門の内側での輦車の使用が認められました。
これも身分によって乗用できる範囲が決まっていて、妃は自分の賜った殿舎まで、夫人・内親王は温明殿か後涼殿の裏手まで、命婦・三位の女官・嬪・女御・女王・大臣の嫡妻は兵衛陣(陰明門・宣陽門)まで、となっていました。
また、輦車を使うにはその都度宣旨を賜る必要がありました。

で、桐壺の更衣の場合ですが、彼女はその死後に三位追贈の記述が出てきますので、この時点ではまだ四位ということになります。
ですから、本来ならそもそも輦車の宣旨が下る身分ではないのです。
しかも、このとき更衣はほとんど意識もないような危篤状態ですから、おそらく人に担がれて桐壺から輦車に乗ったのでしょう。
そうなると、桐壺の更衣は四位でありながら、律令制度における皇后候補の地位で皇族しかなれない妃と同等の待遇を受けたことになります。
この場面で桐壺の更衣に輦車の宣旨が下されるというのが、いかに超法規的な厚遇であったか。
当時の規定を掘り起こしてみると改めて驚かされます。
輦車の宣旨は、単に帝の寵愛を示すに留まらず、帝の更衣に対する扱いが明らかな掟破りであることを読者に意識させる一節だったのですね。

尚、輦車の宣旨についてもっと詳しくお知りになりたい方は、輦車の宣旨・牛車の宣旨として男性の場合も含めた調査結果を載せておりますので、ご参照ください。
またこの文章に対するレスのやり取りや追加報告など、全体の流れは「桐壺」巻の読みのページからご覧いただけます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月24日 (水)

「あるまじき恥」とは何か

ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせたてまつりたまふ。かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ。

桐壺の更衣は、第二皇子(=光源氏)三歳の夏に病を得、数日のうちに急激に衰弱して危篤状態で内裏を退出します。
その際、更衣の母君は「あるまじき恥」があってはならないと用心して、皇子は宮中に残して密かに更衣を退出させます。

ここで問題になるのが、「あるまじき恥」とは具体的に何を指しているのか、ということです。
現行の主な注釈書の解釈は、

1.神域である宮中で死んでしまい内裏を穢すこと
2.退出に際して迫害・侮辱を受けること

の2説に真っ二つに分かれています。

1.の説は、益田勝実氏が1968年に発表した「日知りの裔の物語―『源氏物語』発端の構造―」(『火山列島の思想』〔筑摩書房〕所収)が基になっていて、この論文の中で益田氏は、平安中期の天皇にとって死穢がいかに重いタブーだったかを力説しています。
益田氏論を読みますと、宮中で死んで内裏を穢してしまうことは当時の感覚からすれば「あるまじき恥」と呼ぶに相応しい事柄だっただろうと思わされますし、「かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして」との表現からは、愛娘の危篤という緊急事態にあっても、その死を「恥」と捉えて世の掟と人の謗りに気を回さざるを得ない母君、ひいてはこの時代の息苦しさが迫ってくるように感じます。
ですが、「あるまじき恥」が死穢であるとすると、2つ疑問が生じます。
1つは、なぜ皇子を宮中に留め置く必要があるのか。
もう1つは、どうして退出が「忍びて」でなければならないのか。
あるまじき恥もこそ」との気遣いと、文脈の上で直結するこれら2つの動作との間にはどのような関連があるのか、残念ながら益田氏論は答えてくれていません。

対する2.の説は、『湖月抄』などにも記されており、益田氏が異論を唱えるまで長らく定説となっていたようです。
こちらの説を採ると、「御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ」の解釈はすっきりしますけれど、「あるまじき恥」というほどの侮辱とは一体何をするというのだろう?とか、言い方は悪いですが放っておいてもじきに世を去り敵ではなくなる更衣に対して、わざわざその死に際にまで途方もない嫌がらせを仕掛けるだろうか?とか、また別の疑問が浮上してきてしまいます。

筆者としては正直なところ、どちらの説を採るにしても一長一短で、すっきりと納得はできていません。
まだまだ解明されていない部分も多い『源氏物語』
素人が生意気なことを言うようですが、今後の研究の進展に期待したいところです。

この場面に関する「源氏物語を味わう」でのレスのやり取りは、「桐壺」巻の読みのページからご覧いただけます。
(第一章第四段の最初の部分です)

【追記】
掲示板での議論が収束した後、吉海直人氏が著書『源氏物語の視角 : 桐壺巻新解』(翰林書房 1992年)の中で「死期の迫った桐壺の更衣には、皇子と一緒に体裁を整えて退出する余裕などなかった」との解釈を発表していることをご教示いただきました。
それなら確かに納得がいくと思うのですが、発表後13年経った現在も解釈が分かれたままということは、吉海氏説にも何か問題があるのでしょうか?
もう少し追究してみたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)