カテゴリー「平安の風俗」の記事

2009年1月24日 (土)

糸毛車

212itoge_1 糸毛車は、絹の染め糸で屋形を覆った牛車で、主に上流貴族の女性が使用しました。
『輿車図考』及び『輿車図考附図』から特徴をまとめると、屋形の屋根から腰にかけて糸で覆って下部は房を垂らし、その上に金銀の窠文を飾りました(窠文には糸を押さえる役割もあったようです)。
物見はなく、格式の高い車の場合は屋形の前後に廂が付いていて、廂にも房を垂らしました。
簾や下簾の色は、糸の色と同色に揃えたようです。

213itoge_2廂付きの糸毛車に乗ることのできる身分はかなり限られていて、『延喜弾正台式』には
凡内親王。三位已上内命婦。及更衣已上。並聴乗糸葺有庇之車。并著緋牛鞦。
と規定されています。
これと対応するように、『源氏物語』宿木巻で薫に降嫁した女二の宮が三条宮に渡御する場面には
庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふ
と記されており、上臈女房が乗ったと思われる3台の糸毛車は廂のないものと描写されています。
対して女二の宮本人が乗った「庇の御車」は、おそらく廂のある糸毛車でしょう。

糸毛車は、廂の有無に関わらず全般に檳榔毛車などよりも格が上だったようです。
『小右記』や車の種類の描写が細かい『うつほ物語』などで糸毛車の使用例を拾うと、女御や内親王などの主人格が糸毛車に乗り、随行する女房達が檳榔毛車や金造車に乗っている例がいくつも見られます。
『紫式部日記』でも、中宮彰子が内裏に還御する際の車の記述に
糸毛の御車に殿の上、少輔の乳母若宮抱きたてまつりて乗る。大納言、宰相の君、黄金造りに、次の車に小少将、宮の内侍、
とあり、車の種類による序列が窺えます。

214itoge_3 『源氏物語図典』などの解説を読むと、屋形を覆う糸の色によって用途が分けられていたとして
「青糸毛は皇后・東宮・斎院など、紫糸毛は女御・更衣・尚侍・典侍など、赤糸毛は賀茂祭の女使」
と書かれていますが、この記述の根拠は、いずれも室町時代に成立した有職故実書『物具装束抄』(花山院忠定著)及び『蛙抄』(洞院実煕著)のようです。
実際の平安時代の文献に照らすと、これに一致するものと一致しないものの両方が『うつほ物語』の中に見られます。
まず一致するのは楼の上上巻で、仲忠一家の殿移りの準備を語る場面の中に
尚侍の御車、新しく調ぜさせたまへり。尚侍の殿のは、濃紫の糸毛に唐鳥くさらせ縫はせたまへり。
との描写があり、尚侍である俊蔭女の車として新調されたのが濃紫の糸毛車とされています。
一致しないのは国譲下巻で、
宮の御車は赤糸毛にて、輦車の大きなるやうなり。
と、東宮が赤糸毛車に乗っている描写があります。
(尤も、引用した新編日本古典文学全集には、「赤糸毛」の部分は底本では「あかすけ」となっているのを校訂した本文である旨の注が付いているので、確実な赤糸毛車の用例とは言い切れないのですが)
また、『輿車図考』に引かれている文献の中に度々「貞信公青糸毛」という文言が登場します。
私の漢文読解能力ではどこまで正確に読み取れているか心許ないのですが、どうやら藤原忠平が使用していた青糸毛車が後世まで伝えられ、修理を加えつつ平安後期まで使われていたようなのです。
『餝抄』(中院通方著の有職故実書。推定成立年代嘉禎年間[1235-1238])には、高倉天皇・近衛天皇の大嘗会御禊行幸の際に女御代がこの車を使用したこと、中宮となった待賢門院璋子のために白河院がこの車のコピーを造らせたことなどが記されています。
こうした例を考えると、必ずしも平安時代の色による用途の区別は上記のとおりではなかったのかもしれません。

糸毛車の視覚資料としては専ら『輿車図考附図』が用いられますが、その他にも『駒競行幸絵巻』の東宮渡御の情景に描かれている緑色の牛車が青糸毛車です。
風俗博物館で展示された糸毛車は、レジュメによると『輿車図考』を基に考証したとのことですが、『駒競行幸絵巻』の図とも非常によく似ています。
尚、風俗博物館Webサイト内の「牛車の種類」のページに、『輿車図考附図』の糸毛車の図が掲載されています。
記事中の写真はすべて、風俗博物館2008年下半期展示「六條院移徙」にて撮影した青糸毛車です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
『輿車圖 ; 輿車圖考. 舞楽圖説. 三條家奥向恒例年中行事』(故實叢書第36巻)改訂増補版 明治図書出版 1993年
神宮司廳[編]『古事類苑 器用部二』普及版 古事類苑刊行会 1934年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2008年11月24日 (月)

牛車にまつわる決まりのあれこれ(2)習慣・しきたり

210gissha_1前回、車に関わる法律を『延喜式』からご紹介しましたが、法律以外にも守るべき決まり事はいろいろとありました。

まずは、古典の便覧などにもよく載っている牛車の乗り方。
榻(しじ)を踏み台にして、後ろから乗って前から降ります。
木曽義仲がこれを無視して後ろから降りて牛飼に呆れられたエピソードが『平家物語』「猫間」に出てきますが、牛車が常の乗り物だった都の貴族にとっては作法以前の当たり前の所作だったのでしょう。
女性の場合は屋内から直接乗り降りするのが普通で(詳しくは牛車の乗降~女性の場合~をご覧ください)、『源氏物語』夕顔巻の
高欄に御車ひきかけて立ちたまへり
という描写は、高欄に轅(ながえ)を引きかけて牛車の前方から簀子へ降りるようにしたものです。

もう1つ基本的な知識としてよく出てくるのが、車内で座る位置の序列です。
序列が上の方から、前方右,前方左,後方左,後方右,の順になります。
大雑把に言えば、地位の高い人の方から先に乗る、ということになるでしょうか。
若紫巻に、左大臣が内裏から退出する光源氏を自邸に連れ帰る場面で
我が御車に乗せたてまつりたまうて、自らは引き入りてたてまつれり
という一文が出てきますが、これは源氏を上座に座らせて自分は手前に遠慮したということで、左大臣の正に下にも置かぬもてなし振りが表れています。
他方、空蝉巻の河内守邸再訪の翌朝の場面では
小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ
とあって、源氏が上座に座り、下座に空蝉の弟・小君を同乗させて二条院に帰っています。
また松風巻で、大堰の山荘にいた源氏が、ご機嫌伺いに参上した殿上人達を連れて桂の院に向かう場面でも
いとよそほしくさし歩みたまふほど、かしかましう追ひ払ひて、御車の尻に、頭中将、兵衛督乗せたまふ
と記されていて、源氏が上座、訪ねてきた殿上人達が下座になっています。
普通はこれが当然な訳で、それだけに最初に引いた若紫巻の左大臣の行為は痛々しくも滑稽にも見える過剰な振舞と言えます。

211gissha_2牛車の習慣でよく物語に描かれるのが、「出車(いだしぐるま)」です。
車の簾の下から女性の衣裳の袖口や裾などの端を出して見せた車のことで、乗っている本人の衣裳そのものではなく飾りとして車内に配置しました。
『満佐須計装束抄』巻一「車の衣を出だすこと」には、竹を削って車内に差し、そこに衣裳を掛けると書かれています。
この衣裳の色合いなどが、乗っている女性の趣味や教養を推し量る要素のひとつとなりました。
『源氏物語』きっての教養人として描かれる六条御息所とその下の女房の車は、それだけによく褒められていて、葵巻の車争いの場面では
ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫など、ものの色、いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車、二つあり
娘の斎宮と共に伊勢に旅立つ賢木巻の場面では
八省に立て続けたる出車どもの袖口、色あひも、目馴れぬさまに、心にくきけしきなれば
と描かれています。
また、関屋巻で常陸から戻ってきた空蝉一行が石山詣に向かう源氏と逢坂の関ですれ違う場面で
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる
との描写があり、国宝『源氏物語絵巻』関屋にも出車が描かれていることが復元模写で明らかになりました。

それから、『源氏物語』には出てきませんが、牛車に関する当時のちょっと面白い習慣を見つけました。
車で訪れた場所に既に高貴な身分の人がいる場合には、通常よりも手前で降りたり、牛を外して輦車のように人手で引いたりしたものだったようです。
例えば、高陽院での駒競行幸の際、
到御関白第、[所謂高陽院、]留鳳輦、(中略)進乗輿于中門、先是鋪長筵、居御輿、敷筵道到西対・渡殿・寝殿、(中略)次東宮参給、留御車西門、及諸卿迎候、鋪長筵、其上敷筵道、」(『小右記』万寿元[1024]年九月十九日条)
と、後一条天皇は中門、東宮敦良親王は更に手前の西門で輿・車を降り、そこからは筵道の上を歩いて寝殿に入ったことが記録されています。
これは数日前から高陽院に滞在している母后(と、東宮は先着している兄帝)を憚っての行為と思われます。
また、『栄花物語』巻第十七「おむがく」には、法成寺金堂落成供養のために皇太后宮妍子と禎子内親王が法成寺へ渡御した際の記述として
大宮おはしませば、御車は中門の外より手引にて入らせたまふ
同じく『栄花物語』巻第十九「御裳ぎ」にも、禎子内親王裳着のために枇杷殿から土御門殿へ渡御する皇太后宮妍子と禎子内親王の車の描写で
土御門殿には大宮おはしませば、御車をば陣よりかきおろして、手引にて入らせたまふ
とあり、いずれも「大宮」即ち太皇太后宮彰子に遠慮して中門の手前で牛を外し、人手で車を引いて中に入ったことが記されています。
(ただし「おむがく」については、史実では妍子の方が先に法成寺に入っており、この記述は『栄花物語』の創作)
女性の場合は、降車するのではなく人が引く形を取ったようです。

話は若干ずれますが、先月、奈良時代の大宰府条坊跡で車の轍跡や人・牛などの足跡が見つかったとの報道がありました。
発掘された遺構からは、道路の中央を車幅1.0~1.2mの車が行き交い、路肩の脇の側溝を歩行者が通行していたのではないか…と推測できるそうで、もしかしたら平安京にもそんな交通ルールが存在していたかも?と想像したりもしています。

日常的に用いられた乗り物だけに、その乗り方などが事細かに記されることは却ってありませんが、当時の決まりや習慣を知っておくと、ちらっと触れる程度の描写もより具体的にイメージできるのではないかと思います。

記事中の写真は、上が風俗博物館2006年上半期展示「女三の宮六條院降嫁」より、榻を置いて車から降りようとする女童、下が風俗博物館2006年出張展示「六條院へ出かけよう」より、唐車です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
NHK名古屋放送局・NHK名古屋ブレーンズ編集『よみがえる源氏物語絵巻』NHK名古屋放送局・NHK名古屋ブレーンズ 2005年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
「古代大宰府に“交通ルール”!?牛車と人 分かれて通行 奈良時代 道路にわだち跡」西日本新聞2008年10月9日朝刊27面

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2008年10月19日 (日)

牛車にまつわる決まりのあれこれ(1)『延喜式』から

212gissha_3

何事によらず身分秩序や先例が重んじられた平安時代、牛車に関してもさまざまな決まり事がありました。
今回は、全部を網羅した訳では勿論ありませんが、これまでの調べ物などで見つけた、牛車にまつわる法律やしきたりをご紹介します。
1回目は、『延喜式』に記された規定についてです。

『延喜弾正台式』には、さまざまな身分に基づく規定が列記されています。
弾正台は不法行為を取り締まる役所ですので、どの身分がどのようなことをするのは許されてどの身分では許されないのかといったことが示されている訳です。
色聴されたる」という表現で仮名作品によく出てくる「禁色」も、『延喜弾正台式』に記述されています。

牛車に関する規定で『源氏物語』との関連がありそうな項目としては、
凡内親王。三位已上内命婦。及更衣已上。並聴乗糸葺有庇之車。并著緋牛鞦。
という一条があります。
この規定と、薫に降嫁した女二の宮が三条宮に渡御する場面の
庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふ」(宿木巻)
との描写を考え合わせると、宮が乗った「庇の御車」は廂のある糸毛車ではないかと想像できます。

高貴な身分の人が乗る車には、「車副(くるまぞひ)」と呼ばれる、車の両脇に供奉して威儀を整える人々が付き添いますが、この人数も身分によって決まっていました。
概ね乗車する人が女性のときの方が人数が多く、最も多い妃には22人、女御には16人、更衣には10人、また親王及び左右大臣には14人、内親王には20人と定められています。
この規定を踏まえると、宮中で重病に陥った桐壺の更衣が退出する場面で
かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ」(桐壺巻)
と記される「忍びてぞ」の中身は、あるいは宮中を娘の死で穢すことを恐れた母北の方が、規定の従者の人数を省いて素早く娘を連れ出そうとした「心づかひ」だったのではないでしょうか。

また、『源氏物語』ではなく『紫式部日記』の記述になりますが、敦成親王出産後の中宮が内裏に還御するに当たって、上臈女房の大納言の君と宰相の君が「黄金造り」の車に乗ったことが記されています。
この車も、『延喜弾正台式』の規定に従えば内親王・孫王・女御・内命婦・参議以上及び非参議三位以上の嫡妻と娘・大臣の孫にのみ許されたものでした。
(尤も、実際は下の身分の者が定めを超えた車に乗る違反も多く、度々禁令が出されたようです)

日常的に使用された牛車ですが、大内裏の中は原則車馬乗入禁止で特定の物資運搬用の他は大内裏の内側に入れず、そうした車馬も行き先に応じて使用する門が特定されているほど、厳しい制限が設けられていました。
公卿や親王といえども、大内裏を囲む宮城門で車を降り、その先は歩いて勤務地に向かった訳です。
但し、特別に勅許を得た高官は例外的に内側の宮門(慣例では内裏外郭南東隅にある春華門。朔平門や建春門の場合もあり)まで牛車で進むことが許されました。
この勅許を「牛車の宣旨」と言います。
出生の秘密を知った冷泉帝が源氏への譲位をほのめかして辞退され、更に太政大臣昇進も先延ばしになって
ただ御位添ひて、牛車聴されて参りまかでしたまふ」(薄雲巻)
に留まったことを残念に思う場面がありますが、この「牛車聴されて」が牛車の宣旨を賜ったことを意味します。
ところが、『平安時代史事典』「牛車宣旨」の項目には、
「この宣旨は、本来老いた功臣をいたわる目的のものであるから、宣旨が下っても四十歳以上にならないと実際に牛車で宮門を出入しないのが例である。」
とあります。
上に引用した薄雲巻の書き方ですと、この場面ではまだ三十二歳の源氏が牛車で参内・退出したように読めますが、牛車の宣旨まで遠慮したら冷泉帝が再び譲位を言い出しかねないと懸念した源氏が、敢えて慣例を破った…と解釈すべきなのでしょうか。
尚、時代の下った史料ではありますが『世俗浅深秘抄』(後鳥羽上皇著述の有職故実書。13世紀初頭成立)によると
執政家之牛車之人用上東門。自余之輩用待賢門歟。(中略)入待賢門時泰春花門。」(上「聴牛車輦車人作法事」)
ということで、このとき内大臣の源氏は待賢門から春花門までの間を牛車で通行したと考えられます。

写真は、風俗博物館2008年下半期展示「六條院移徙」より、廂付きの青糸毛車です。

次回は、法律とは角度の異なる習慣・しきたりなどをご紹介します。

【2008年11月24日追記】
10月19日にUPした記事を加筆の上、内容の一部を牛車にまつわる決まりのあれこれ(2)習慣・しきたりに移しました。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2008年10月11日 (土)

唐車

207karaguruma_1 平安貴族の一般的な乗り物は牛車でしたが、一口に「牛車」「」と言ってもさまざまな種類がありました。
その中で唐車は、牛車の中では最も格式が高く、輩輿(れんよ。駕輿丁が轅を肩に担ぐ種類の輿)に次ぐ位置づけにありました。
輩輿のうち、鳳輦は天皇専用、葱花輦は帝・后・斎王のみ乗ることができましたが、対する唐車はそうした身分の人々に加えて、上皇・女院・東宮・親王・摂関も乗用が可能でした。
『栄花物語』で、禎子内親王の裳着のために内親王とその母・皇太后宮妍子が枇杷殿から土御門殿へ渡御する際、「大宮は御輿にておはしますべけれど、一品宮の異に奉らんが便なかるべければ、唐の御車にておはします」(巻第十九「御裳ぎ」)と記されているのは、内親王に許される乗り物の格式を明確に示しています。
また『枕草子』には、積善寺供養に向かう東三条女院詮子一行の車列について「一の御車は唐車なり」(第二六三段「関白殿、二月二十一日に」)と記されており、詮子が唐車を使ったことがわかります。

208karaguruma_2唐車は、格式が高いと同時に最も大きな車でもあり、時代は平安時代から大幅に下りますが『輿車図考附図』(松平定信編 文化元[1804]年成立)を参照すると、牛車の傍らに付き添う従者の烏帽子の高さよりも大きく車輪が描かれており、他の牛車に比べて明らかに大型であることがわかります。
『栄花物語』巻第十七「おむがく」の中には、法成寺金堂落成供養の後に太皇太后彰子をはじめとする后妃・内親王総勢5人(『権記』逸文に従えば倫子も加わって6人)が唐車に同乗して諸堂を見て回った記述があり、「通常4人乗りの牛車に、女性ばかりとはいえあの裾が長く嵩張る衣裳を着込んで5・6人も乗ることができたのか?!」と驚いたのですが、これも大型の唐車なればこそ可能なことだったのかもしれません。

209karaguruma_3「唐車」という名称は屋根が唐破風の形をしていることに由来し、「唐廂車」とも呼びました。
『輿車図考』から唐車の形状をまとめると、まず屋根には檳榔の葉で葺き、廂と屋形の腰にも檳榔の房を垂らします。
檳榔はヤシ科の植物で、九州や沖縄などの南国でしか採れない稀少なものだったため、檳榔の葉を葺くことはその車の権威を誇示する意味もあったのではないかと思われます。
立板(屋形の側面の板)と袖(立板の端)には彩色を施し、簾は蘇芳で染め錦の縁を付けたもの、下簾は唐草や唐花・唐鳥を刺繍した蘇芳の浮線綾を掛けます。
鞦(しりがい。牛の胸から尻にかけて取り付けて車の轅を固定させる緒)は房がある場合とない場合の両方があったようです。
綱には唐綾または白妙を用います。
尚、『源氏物語図典』には
「ほかの車の乗降には榻(しじ)を用いるが、この車は桟(はしたて)という梯子(はしご)を用いた」
と書いてありますが、私が調べた限りでは桟に関する記述は見つからず、『輿車図考附図』の唐車の図には榻を持つ牛飼が描かれており、また『桃華蘂葉』にも「御榻[鷺足入角、有總黄金物]」(一車事)との記述があって、その根拠がよくわかりませんでした。
車の大きさを考えると、踏み台ではなく梯子を使った方が確かに合理的な気はしますが。

『源氏物語』の中で、はっきりと唐車だと断定できる車の例はありません。
車の種類がわかるのは、男主人公達が人目を忍ぶ微行で身をやつしたときの「網代車」(須磨巻・若菜上巻・橋姫巻)と、女二の宮が三条宮に渡御する場面で宮が乗った「庇の御車」(宿木巻)くらいです。
風俗博物館展示では、朱雀院鍾愛の内親王の権威を示す乗り物として、女三の宮降嫁の場面の具現で登場しました。
写真はすべて、2006年上半期展示「女三の宮六條院降嫁」で撮影したものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
小町谷照彦編『必携源氏物語を読むための基礎百科』(別冊國文學No.56)學燈社 2003年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
『輿車圖 ; 輿車圖考. 舞楽圖説. 三條家奥向恒例年中行事』(故實叢書第36巻)改訂増補版 明治図書出版 1993年
神宮司廳[編]『古事類苑 器用部二』普及版 古事類苑刊行会 1934年

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2008年3月31日 (月)

裁縫

188saiho_1 衣裳を仕立てる裁縫は、女房のみならず、当時の女性全般にとって重要な仕事のひとつでした。
家刀自として、夫や子供など家族の衣裳を調える必要があったからです。

例えば『蜻蛉日記』には兼家から作者の許に仕立物の依頼が度々あったことが記されていますし、それが最後になると最早兼家の装束の用意をすることはなく、年末に道綱の新年の装束だけを用意するという、兼家との離別を印象付ける記述で終わっています。
つくり物語の例では、『落窪物語』で落窪の君が優れた裁縫の腕を持つために継母の北の方に常に縫い物を言いつけられており、落窪の君がいなくなってからは蔵人の少将(北の方の実子・三の君の婿)の衣裳を満足に用意できなくなってしまい、少将が腹を立てる場面があります。
女君の手による衣裳の調製や裁縫の技量が語られるのは『源氏物語』でも同じで、

旅の御宿直物など、調じてたてまつりたまふ。(須磨巻)

と、配所にある源氏の衣類を紫の上が仕立てて届ける場面がありますし、花散里も、家庭的な女性らしく裁縫や染色に優れた人で、

今朝の朝寒なるうちとけわざにや、もの裁ちなどするねび御達、御前にあまたして、細櫃めくものに、綿引きかけてまさぐる若人どもあり。(野分巻)

と、女房達に差配して夕霧の冬物の装束などを用意する様子が描かれています。
また雨夜の品定めの中でも、左馬頭が

龍田姫と言はむにもつきなからず、織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし(帚木巻)

と死別した指喰いの女の裁縫・染色の腕を賞賛しており、『落窪物語』の例と同様、男性貴族にとっても妻の裁縫の能力の高さが重要だったことが伺えます。
(写真上は、2003年下半期風俗博物館展示より、渡殿の局で縫い物をする女房。
写真下は、いずれも風俗博物館展示より、冬支度の綿入れをする女房。左が2006年下半期、右が2004年上半期)

190saiho_3189saiho_2 季節毎の衣替えや新年の仕度だけでなく、行事儀式や祭見物などのために自分自身の装束を縫って用意することもありました。
特に主家の行事などにも侍り人目に触れる機会の多い女房達にとって、こうした特別な衣裳の用意は華やかで心浮き立つ行為の一方で、非常に頭を悩ます事柄でもあったようです。
そうした女房達の姿は、女房自身の手による作品の随所に描かれています。

高坏どもに火をともして、二人三人、三、四人、さべきどち、屏風ひき隔てたるもあり、几帳など隔てなどもしたり。また、さもあらで、集り居て、衣どもとぢ重ね、裳の腰さし、化粧するさまはさらにも言はず、髪などいふもの、明日より後は、ありがたげに見ゆ(『枕草子』二六三段「関白殿、二月二十一日に」)

積善寺供養前夜の女房達の様子です。
当日に同僚達をあっと言わせようというのか隔て隠して仕度をしている者、何人も集まって針を動かす者、化粧に念を入れ髪の手入れに熱中する者、と各々の熱気が伝わってきます。

その日になりぬれば、日ごろいつしかと待ち思ひたりつる若き人々は、また人の衣の色、匂ひにや劣らん勝らんの挑み、胸騒がしかるべし。(中略)局にはまた物縫ひ騒ぎて、「あないみじや。頭をだにこそつくろはね」など言ふもあり。また、し果てたるは、歯黒めつけなど、心のどかにわが身の化粧をし磨くもあり。(『栄花物語』巻第二十四「わかばえ」)

こちらは皇太后妍子の大饗を前にした枇杷殿の女房達の昂揚ぶり。
当日になっても縫い物が終わらず慌てている者もいれば、準備万端で悠然と化粧をしている者もあり、なんともリアルな描写です。
先に挙げた積善寺供養に勝るとも劣らぬ熱の入れようが感じられます。

人の局々には、大きやかなる袋、包ども持てちがひ、唐衣の縫物、裳、ひき結び、螺鈿、縫物、けしからぬまでして、ひき隠し、「扇を持て来ぬかな」など、言ひ交しつつ化粧じつくろふ。(『紫式部日記』寛弘五[1008]年九月十一日条)

続いてこちらは、敦成親王が無事に誕生し、御湯殿の儀を前にした女房達の様子です。
この先打ち続く祝いの儀式のために、里から新しい装束を運び込んだり、過剰なまでに刺繍や螺鈿などの凝った飾りを施したりしています。

いずれの例からも、行事を前にした女房達が化粧と並んで衣裳の新調にどれほど心を砕いていたかがよくわかります。

そして、こうした女房の熱気や慌ただしさを物語を展開させる原動力として巧みに取り込んでいるのが『源氏物語』です。

御禊明日とて、斎院にたてまつりたまふ女房十二人、ことに上臈にはあらぬ若き人、童女など、おのがじしもの縫ひ、化粧などしつつ、物見むと思ひまうくるも、とりどりに暇なげにて、御前の方しめやかにて、人しげからぬ折なりけり。(若菜下巻)

女三の宮方の女房や女童が、斎院の御禊を見物すべく裁縫やら化粧やらに余念のない様子です。
こうしてそれぞれが浮き足立って自分のことに気を取られている隙に、柏木は女三の宮の許に忍び込むのですが、その侵入を許す舞台設定として、祭見物のための縫い物が効果的に用いられています。

思ほしのたまへるさまを語りて、弁は、いとど慰めがたくくれ惑ひたり。皆人は心ゆきたるけしきにて、もの縫ひいとなみつつ、老いゆがめる容貌も知らず、つくろひさまよふにいよいよやつして、
「人はみないそぎたつめる袖の浦に
  一人藻塩を垂るる海人かな」
 と愁へきこゆれば、
 「塩垂るる海人の衣に異なれや
  浮きたる波に濡るるわが袖
(早蕨巻)

こちらは、匂宮によって二条院へ引き取られることになった中の君に従うべく、出立の仕度をする老女房達です。
新しい衣裳を仕立てたり化粧を施したりと忙しがっている立居振舞に、晴れがましい都入りに胸を膨らませる女房達の高揚感が表現されており、別離の悲しみと心細さに暮れる中の君や弁の尼との対照が際立ちます。
この場面は「国宝源氏物語絵巻」にも描かれているので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

火明う灯して、もの縫ふ人、三、四人居たり。童のをかしげなる、糸をぞ縒る。(中略)右近、
「いとねぶたし。昨夜もすずろに起き明かしてき。明朝のほどにも、これは縫ひてむ。急がせたまふとも、御車は日たけてぞあらむ」
と言ひて、しさしたるものどもとり具して、几帳にうち掛けなどしつつ、うたた寝のさまに寄り臥しぬ。
(浮舟巻)

宇治に隠し据えられた浮舟を匂宮が探し当てて覗き見る場面ですが、ここで人々は翌日の石山詣に備えた裁縫に精を出しています。
その浮き立つ気分と単調な手先仕事が女房達の口を軽くさせ、匂宮の興味を掻き立てる会話が次々と展開される流れになっています。

こうして例を並べてみると、女房の重要な仕事のひとつとして日常生活の中で頻繁に行われた縫い物を、そのときの昂揚した気分まで含めて物語の場面展開に利用していることがわかります。
さすがに女性が書いた作品と言うべきでしょうか。

191saiho_4 また、『紫式部日記』には

内匠の蔵人は長押の下にゐて、あてきが縫ふ物の、重ねひねり教へなど、つくづくとしゐたるに、(寛弘五[1008]年十二月三十日条)

と、年末の行事も終わってくつろいだ中で内匠の蔵人が女童に裁縫を教えている記事がありますが、これも女の子にとって裁縫が必要不可欠な技術だったからこその光景でしょう。
(写真は、2003年下半期風俗博物館展示より、渡殿の局で女童に裁縫を教える女房)

最後に、誰しも覚えのある失敗を再び『枕草子』から。

とみの物縫ふに、かしこう縫ひつと思ふに、針を引き抜きつれば、はやく後を結ばざりけり。また、かへさまに縫ひたるも、ねたし。(第九一段「ねたきもの」)

短くてありぬべきもの とみのもの縫ふ糸。(第二二〇段「短くてありぬべきもの」)

急ぎの仕立物に追われた当時の女性達の仕事の一端が窺われる記述です。

裁縫についての仮名作品の記事は、活き活きと働く当時の女性達の姿を髣髴とさせてくれます。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
古典総合研究所作成「語彙検索
佐藤和雄氏作成「源氏物語の語彙検索(KWIC)

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「裁縫~女性の仕事の一片~」を加筆修正したものです。

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2008年3月 9日 (日)

御帳台

184michodai_1_3 185michodai_2_2 御帳台は貴人の休寝に用いられた調度で、現代風に言えば天蓋付きのベッドです。
寝具をどかして茵を敷き、昼の御座としても使われました。
『類聚雑要抄』『満佐須計装束抄』には、いずれも母屋に据える調度のひとつとして挙げられています。

御帳台の構造や室礼は、上に挙げた二書に非常に詳しく書かれています。
それらの記述に沿ってご紹介しますと、まず、板敷の上に浜床(はまゆか)と呼ばれる黒塗りの台を据え、その上に土敷(つちしき)と呼ばれる繧繝縁の畳二帖を北南に敷きます。
(二書とも、浜床を置くのは后などの御帳台のみとしていますが、『うつほ物語』楼の上上巻の「浜床をのみぞ、いぬ宮の御料は、ささやかにせさせたまへる」との描写からは俊蔭女といぬ宮の御帳台に浜床があったと読める他、『源氏物語』でも后ではない女君の寝所で「(ゆか)」という表現が出てきますし(空蝉巻・蛍巻)、国宝『源氏物語絵巻』柏木(一)には女三の宮の御帳台に浜床がはっきりと描かれています。
『源氏物語図典』「浜床」の項によると
「本来、帳台には、浜床があったが、後に省かれるようになったものかとされる」
とのことで、『類聚雑要抄』『満佐須計装束抄』の成立時期は『源氏物語』の書かれた時代より150年以上後であることも、一方では考慮する必要があるようです)
次に、土敷の四隅にL字型の土居(つちい)を据え、土居の角毎に1本ずつ、合計12本の柱を立てます。
その上に鴨居を置き、漆塗りの枠に白い絹を張った天井を乗せます。
それから、四隅には四幅の帷子を、四幅の帷子の間の四方には五幅の帷子を掛け、上部に帽額(もこう)を引きます。
186michodai_3内部には四尺几帳を三本、南・東・西に立て(したがって北側が出入り口になります)、三方の五幅の帷子を几帳の横木の高さに合わせて巻き上げます。
土敷の上には表筵(うわむしろ)や地鋪を敷き、南を枕にして衾を置きます。
『満佐須計装束抄』には、枕の左右に枕几帳と呼ぶ小さな几帳を立てることが記されていますが、『類聚雑要抄』では、枕几帳は普通は用いず聟娶のときに立てるとしています。
更に魔除けとして、枕のある南側の柱には犀の角を、反対の北側の柱には鏡を、それぞれ掛けます。
帝・后の御帳台の場合は、前に鎮子の獅子・狛犬が置かれます。
『枕草子』第二六三段で里邸・二条の宮の定子中宮の御座について「御しつらひ、獅子、狛犬など」と記しているのは、この御帳台の獅子・狛犬のことです。

以上で、御帳台の室礼は完成となります。

187michodai_4 帷子は夏冬の衣更えで掛け替えました。
『類聚雑要抄』では、冬は練平絹、夏は生平絹で、いずれも白泥で「野条秋草等」を描くとしています。
『源氏物語』の中でも、明石巻や総角巻に御帳台の帷子の衣更えのことが記されています。
また、出産時には調度や衣類を白一色にすることが知られていますが、御帳台も白木でつくり白い帷子を掛けたものに替えました。
『紫式部日記』にはご存知のとおり彰子中宮の出産が詳述されており、「白き御帳に移らせたまふ」との記述をはじめ、御帳台の周りに集まった人々の心配や動揺、泣き笑いが活写されています。

『源氏物語』では、御帳台はほとんど「御帳」と記されます。
用例を眺めると、若紫巻や葵巻など、結婚を象徴するように御帳台が点描されている例が散見されます。
中でも特に意味深長に思われるのが、荒木孝子氏「調度」(『平安時代の信仰と生活』所収)も指摘する女三の宮にまつわる御帳台の描写です。
裳着に際して朱雀院がせめてもの箔付けにと「御帳、御几帳よりはじめて、ここの綾錦混ぜさせたまはず、唐土の后の飾りを思しやりて」(若菜上巻)美々しく調えられ、降嫁にあたっては「この院にも、御心まうけ世の常ならず。若菜参りし西の放出に御帳立てて」(同巻)と源氏が心を砕いて準備した上に「かの院よりも御調度など運ばる」(同巻)と畳み掛けられます。
更に、小侍従が柏木を「御帳の東面の御座の端」(若菜下巻)に導いたことが悲劇を招き、父の手で出家を遂げることになる朱雀院との対面も「御帳の前」(柏木巻)でした。
そして最後に女三の宮の御帳台が登場するのは、出家した宮の持仏開眼供養の場面で「夜の御帳の帷を、四面ながら上げて」(鈴虫巻)仏像が安置された状態なのです。
父院が幸せな結婚を願って用意した御帳台が、若くして世を捨てた宮の持仏の御座になるという結末は、なんとも憐れでなりません。

尚、風俗博物館の実物大展示室には『類聚雑要抄』の記述に基づいて内部まで細密に再現した御帳台があり、外からは勿論、中に入って見学することもできるようになっていますので、ご来館の際は1/4模型の展示だけでなくこちらもお見逃しなく。

記事中の写真は、左上から順に以下のとおりです。

  • 2005年11~12月に催された時代装束体験イベント「京の家づと」で設置された実物大の御帳台(浜床なし)
  • 2005年上半期風俗博物館展示「三日夜の餅の儀(夕霧と雲居の雁の結婚)」より、御帳台(浜床あり)
  • 京都御所清涼殿の御帳台(2005年11月撮影)
  • 2006年3~4月に開催された風俗博物館出張展示「六条院へ出かけよう」より、白い御帳台の中で出産に備える女三の宮と介添えの女房

【参考文献】
小町谷照彦編『[必携]源氏物語を読むための基礎百科』(別冊国文学No.56)學燈社 2003年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
源氏物語の語彙検索(KWIC)
古典総合研究所作成「語彙検索

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2007年10月13日 (土)

髪削(かみそぎ)

170kamisogi_1 平安時代の子供には、生まれてから成人するまでの間に何度か髪にまつわる通過儀礼がありました。
まず、生まれて7日前後で胎髪を剃る「産剃」があり、それから約2年間は男女を問わず坊主頭で過ごします。
数え三歳を迎えた頃から髪を伸ばし始め(これを「髪置(かみおき)」と呼びます)、その後四・五歳で伸ばした髪の裾を切り揃える「髪削(「髪剃」とも)」という儀式を行いました。
特に初めて髪を切る儀式を指す場合もありますが、最初の儀式を行ってから成人式である元服・裳着を迎えるまで年に数回同じような儀式を繰り返し、こちらも同様に「髪削」と呼びました。
初めて髪を削いだ後は、毛先を整えながら次第に髪を伸ばし、六・七歳頃からは頭の天辺から左右に分けた振分髪(ふりわけがみ)にします。
男の子の場合は、更に髪が伸びると角髪(みずら)に結いました。
そして最後に元服・裳着で男の子は髷を結って冠を被り、女の子は髪上をして大人の仲間入りを果たします。

古来、髪や爪は身体から切り離されても元の身体とのつながりを保つと考えられたこともあり、髪削は吉日吉事を選んで執り行われました。
時代は下りますが『拾芥抄』(14世紀初頭成立と推定される百科全書。洞院公賢撰)「諸事吉凶日部」には「髪曾木日事」として「凡酉丑日為吉」(凡そ酉丑の日を吉と為す)と記されており、また『源氏物語』葵巻でも、祭見物の前に紫の君の髪削を思い立った源氏が「今日は、吉き日ならむかし」と言って暦博士に吉時を調べさせる描写があります。
(賀茂祭は四月の中の酉の日ですから、源氏の言葉は『拾芥抄』の示す髪削の吉日と一致しています)

儀式次第は、平安中期にはまだ完全に定型化していなかったようですが、12世紀に入るとその様子が『殿暦』や『長秋記』などに記録されるようになります。
それらの史料から儀式の概略をまとめますと、以下のようになります。

171kamisogi_2 まず、髪を削ぐ役目の人が手を洗うための角盥と、削いだ髪を入れる受け箱、髪を削がれる子供が乗る碁盤を用意します。
角盥の中には、吉方から汲んできた水と、同じく吉方の石、山菅(ユリ科ヤブラン属の常緑多年草・ヤブランのこと。耐陰性が強く生育旺盛)、山橘(ヤブコウジ科ヤブコウジ属の常緑低木・ヤブコウジのこと。地下茎で増え群生する性質をもつ)などを入れます。
これらにはそれぞれ意味があって、石には長い年月を経ても変わらない強硬な性質に、山菅にはその繁殖力に、山橘には寒さや霜に負けぬ緑に、それぞれあやかって長寿と健康、そして髪が豊かに育つようにとの願いを込めました。
受け箱は手箱の蓋を用い、内側に檀紙を敷き、櫛1枚を入れます。
子供が碁盤に乗るのは、毛先の位置を高くして切りやすくするためでしょうが、碁盤を用いることに何か特別な意味があるのかはわかりません。
吉時を待って儀式を開始し、髪を削ぐ役目の人の前に碁盤を据えて子供が吉方を向いてその上に立ち、髪削ぎ役は介添役から鋏を受け取って髪を切り揃えます。
(「削」「剃」の漢字から、なんとなく剃刀のような刃物で毛先を切り落とすイメージを持ちますが、室町時代まで剃刀は専ら僧侶の剃髪用具で、髪を整えるのにはU字型の鋏を用いました。
また『長秋記』天永二[1111]年十二月四日条の鳥羽天皇髪削の記事の中には「御夾」の語が見え、「」は「鋏」の意かと推測されています。
また、写真を掲載した風俗博物館の展示では紫の君は碁盤の上に座っていますが、これはスタッフの方によると、人形を立たせた状態だと収まりが悪かったために展示栄えを優先して敢えて史実とは異なる形にしたとのお話でした)

髪を削ぐ役は、一族の尊者が務めたようです。
『栄花物語』巻第三十四「暮まつほし」に記された長暦元[1037]年の章子・馨子両内親王(後一条天皇皇女)の髪削ぎの場合は、父母双方の縁戚であり氏長者である藤原頼通が、『長秋記』長承三[1134]年十二月五日に記録された統子内親王及び雅仁・本仁両親王(鳥羽上皇皇子女)の場合は、鳥羽准母の太皇太后令子内親王が、それぞれ髪を削いでいます。
また『殿暦』が記す天仁二[1109]年~天永二[1111]年の鳥羽天皇の髪削の例のように、摂政がその任に当たることもありました。
こうした例を踏まえると、『源氏物語』葵巻で源氏が「君の御髪は、我削がむ」と手ずから紫の君の髪を削ぎ、「千尋」と祝いの言葉をかける様子に少納言の乳母が「あはれにかたじけなし」と感動するのも頷けます。

『源氏物語』の中で髪削が描かれるのは、葵巻の紫の君の例だけで、他の作品にもあまり例はありません。
五十日・百日や袴着、元服・裳着などの1回限りの通過儀礼に比べると、まだこの時期には殊に重要な儀式として特別視はされていなかったのかもしれません。
裏を返せば、葵巻で祭見物に先立って敢えて紫の君の髪削の場面が挿入されたのには、成人女性である葵の上と六条御息所との間に挟まれた閉塞状態から一時解放された源氏とまだ無垢な成長途上の紫の君との明るく末永い将来を予祝する意味が込められていた…と読み取ることもできるでしょう。

尚、これは中世以降のことになりますが、初めて髪を削ぐことを特に「深曾木(ふかそぎ)」と称し、年齢も五歳に固定されるようになりました。
更に、武家社会に取り込まれる過程で同じく五歳の通過儀礼となった袴着と混交し、袴着の際に子供が碁盤の上に乗って鴨川の石を踏みしめ、碁盤から飛び降りるという形が出来上がります。
これが皇室で現代まで続いている「着袴の儀」のルーツです。
それと同時に、現代の数少ない通過儀礼とも言える七五三の「五」の部分の源泉でもあります。
現代とは無関係な1000年前の習慣かと思いきや、変遷を経ながら現代までつながっている通過儀礼です。
(写真はいずれも風俗博物館2005年上半期「紫の君の髪削ぎ」より、碁盤の上に乗った紫の君と、その髪を削ぐ光源氏、介添役の女房)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
宮崎荘平編集『源氏物語の観賞と基礎知識9 葵』至文堂 2000年
小学館「大辞泉」編集部編集『大辞泉』増補・新装版 小学館 1998年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
中野幸一編『常用源氏物語要覧』武蔵野書院 1995年
加藤理著『「ちご」と「わらは」の生活史 : 日本の中古の子どもたち』慶応通信 1994年
『日本大百科全書』小学館 1984-1994年
神宮司廳編『古事類苑 禮式部一』普及版 古事類苑刊行會 1932年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2007年9月30日 (日)

遣水

166yarimizu_1 平安時代の貴族邸宅においては庭に趣向が凝らされ、新居造営の際には家屋以上に力を入れたことが知られていますが、そうした寝殿造の庭園に欠かせなかったものに、池と並んで遣水が挙げられます。
遣水は、邸宅の敷地内の泉や外から水路を設けて引き込んだ川の水を、南庭の池に注ぎ込むように流しました。
平安時代の造園指南書とも言うべき『作庭記』(橘俊綱著?平安後期成立)には、

経云、東より南へむかへて西へながすを順流とす。西より東へながすを逆流とす。しかれバ東より西へながす、常事也。又東方よりいだして、舎屋のしたをとおして、未申方へ出す、最吉也。(中略)南庭へ出すやり水、おほくハ透渡殿のしたより出テ西へむかへてながす、常事也。又北対よりいれて二棟の屋のしたをへて透渡殿のしたより出ス水、中門のまへより池へいるゝ常事也。

と記されており、敷地の東側から殿舎の下をくぐって南西方向へ流し出すのが最もよく、透渡殿の下を通って中門の前から池に至るのが常道とされました。
平安時代の実例では、東三条殿に千貫泉という泉があり、また藤原道長の土御門殿や藤原実資の小野宮は平安京の東縁を流れる京極川(=中川)から水を引き入れていたと言います。
『源氏物語』の中では帚木巻に、紀伊守邸が中川の水を堰き入れ、渡殿付近に泉も湧いていた描写があります。

とはいえ、そう都合よく敷地の東部に泉が湧くなり北東側から水が引けるとは限らない訳で、例外はまま生じました。
例えば『源氏物語図典』掲載の東三条殿平面図では千貫泉は寝殿西側にあり、遣水はそこから北の対の前を通って東側に迂回してから南庭に向かう流れになっていますし、六条院夏の町は西の対に面して遣水が流れている(篝火巻)他、二条院でも西の対の西側に更に壺庭があって遣水が流れている描写があります(東屋巻)。
同じ『作庭記』の中には、
太子伝云、青竜常にまもるれい水、東へながる。この説のごとくならば、逆流の水也といふとも、東方にあらば吉なるべし
経云、家より東に流水あるを青竜とす。もしその流水なけれバ、柳九本をうゑて青竜の代とす
といった記述もあるので、土地の事情などで定石どおりに遣水を流せない場合は逆流させたり遣水を設けない場合もあったことがわかります。

167yarimizu_2 168yarimizu_3 遣水は、流路の所々に石を立てて左右に蛇行させたり水を石にぶつけて白く泡立てたりして、谷川や野の川の流れを模り、変化をつけて流しました。
また流れの一部を堰き止めて、滝をつくる場合もありました。
当時は遣水の流れそのものが重要な観賞の対象となっていたようで、『作庭記』には、沢山石を立てすぎると遠くから見渡したときに無闇に石だらけに見えてよくないとか、周りに見通しを妨げるような大きく茂る前栽は植えず、桔梗や女郎花、吾亦紅、擬宝珠などの草花を植えるのが良いとか、景観を整えるための細かな注意点が書かれています。
こうした『作庭記』流の遣水の姿を現代に伝えているのが平泉にある毛越寺で、庭園の北東から大泉が池に流れ込む遣水は、発掘調査によってほぼ完全な形で検出された平安時代の遺構を復元したものです。
その他、絵画資料として『年中行事絵巻』や『源氏物語絵巻』などが挙げられ、『源氏物語絵巻』鈴虫(一)の復元模写では、原画では剥落してわからなくなってしまった前栽として薄・萩・女郎花などの秋草も描き込まれています。

『源氏物語』の中にも、遣水はいろいろな形で度々登場します。
六条院秋の町に「泉の水遠く澄ましやり、水の音まさるべき巌立て加へ、滝落として」(乙女巻)秋の野の風情をなした遣水が設けられたのをはじめ、六条院春の町・夏の町、二条院、祖母大宮から夕霧夫妻が受け継いだ三条第、常陸宮邸、一条宮、紀伊守邸、明石の入道邸、北山の僧都の庵、八の宮の宇治山荘、小野の尼君の山荘に遣水の描写が見られます。
居住者の階級や邸の規模、本宅か別荘かなどの差異を問わず描かれているところから、遣水は寝殿造の庭園に不可欠な要素だったことが感じられます。

169yarimizu_4 一方で、遣水は常に手入れをしていないとすぐに落ち葉などで埋もれて詰まってしまったようです。
『源氏物語』の遣水は、ときとして家を守る主を失って荒れた邸の象徴としても登場し、埋もれた遣水を掻き払い心地よい流れを甦えらせる描写を通して荒れた邸に活気が戻る様子が描かれます。
こうした遣水の描かれ方が最も顕著なのが、再び源氏の庇護を受けるようになった常陸宮邸を描く蓬生巻末で、他にも大宮の死後住む人のいなかった三条第に夕霧夫妻が移り住む藤裏葉巻や、源氏が転地療養中の紫の上と共に二条院の庭を眺める若菜下巻の場面が挙げられます。
それらと表裏をなすように、『紫式部日記』には道長が指図して遣水の掃除をさせる姿が彰子中宮の出産前後2度にわたって書き留められ、土御門殿行幸の記述では「いとよく払らはれたる遣水の心地ゆきたる気色して」と賞賛しています。
紫式部は、手入れの行き届いた遣水にその邸の繁栄と主の心配りの細やかさを見ていたのかもしれません。

記事中の写真は上から順に以下のとおりです。

1枚目
:2004年風俗博物館出張展示より、寝殿と東の対をつなぐ渡殿の下をくぐる遣水
2・3枚目
:毛越寺庭園の遣水(2007年9月撮影)
4枚目
:えさし藤原の郷「伽羅御所」東の対から見た透渡殿と遣水(2007年9月撮影)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
NHK名古屋放送局「よみがえる源氏物語絵巻」取材班著『よみがえる源氏物語絵巻:全巻復元に挑む』日本放送出版協会 2006年
池浩三, 倉田実編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識17 空蝉』至文堂 2001年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
森蘊著『「作庭記」の世界 : 平安朝の庭園美』(NHKブックス<カラー版>C27)日本放送出版協会 1986年

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2007年9月 8日 (土)

下襲(3)着る側と見る側の意識

161shitagasane_6 長い裾と比較的自由の利く華やかな色目が特徴の下襲は人々の注目の的であり、儀式行事の折には殿上人らは思い思いに下襲に意を凝らしました。
『源氏物語』や『枕草子』『栄花物語』など当時の仮名文学には、端麗に装った公卿・殿上人らの下襲の長さと美しさを綴った例が多数見られます。

下襲の注目度の高さを窺わせる記述の例を、最初に『栄花物語』から2つ挙げてみます。

いづれの殿ばらも皆御装束めでたきなかに、関白殿の御下襲の菊の引倍木耀きて、目留まりたり。(巻第二十三「こまくらべの行幸」)

みな御茵にゐたまひて、北向きにゐさせたまへれば、御下襲の裾どもは高欄にうちかけつつ、ゐさせたまへり。掻練襲、柳、桜、葡萄染、若うおはする殿ばはら紅梅などにても着たまへり。色々に見え耀き照りわたりたるほど、いみじうをかし。(巻第二十四「わかばえ」)

上は、『駒競行幸絵巻』で知られる万寿元[1024]年の壮麗な高陽院行幸の様子を記した中の一文です。
下は高陽院行幸の翌年・万寿二[1025]年正月に催された皇太后宮妍子の大饗に列席した関白以下の色とりどりの下襲を記したもので、晴れの席での美々しい装いをよく伝えています。
色々に見え耀き照りわたりたる」下襲の具体例としては、200年ほど後の文献ですが『餝抄』上「下襲色之事」に、火色・紅梅・蘇芳・松重・紅葉・菊・花橘・女郎花・柳・萌黄・桜・白重・二藍・青朽葉などなど季節毎の多様な色目が挙げられ、晴れの席を華やかに彩っただろうことを想像させてくれます。

また行幸や行啓、祭などの際には、供奉の人々の下襲が行列を飾る要素となり、公事以外の例でも前駆や車副の人々に美しい下襲を着せて権勢を誇示したりした様子が、『うつほ物語』や『源氏物語』の描写から窺えます。
まずは『うつほ物語』の例を挙げましょう。

御車の御前駆、四位十八人、五位三十人、六位五十人。馬の毛、下襲の色整へたり。(春日詣巻)

宮の副車は、褐の衣、冠したり。あるは白襲、白袴、あるは薄色の下襲、裾濃の袴、心々にせられたり。女御の御方の副車は、狩装束、車ごとに心々なり。
かくて、東宮は、東の大路の前、大宮の大路に引き立てたり。宮の御車は赤糸毛にて、輦車の大きなるやうなり。黄なる御車牛懸けたり。御車副は、嵯峨の院の厨の人の子なるを、丈等しく、かたちあるを選びて十二人、掻練襲の下襲、深い沓履きて、後には、宮の蔵人所の衆ぞ仕うまつる。女御、御車は、南の御門、三条の大路に引き立てたり。御車牛黒うて懸けたり。御車副、御方の侍の人十二人、葡萄染めの下襲着たり。後に二十人仕うまつる。
(国譲下巻)

大将、「尚侍の殿の御前どもは、若やかなる女郎花色の下襲を着よ」とのたまふ。「宮の御方のは、薄き二藍を着よ」とのたまふ。(楼の上上巻)

1番目は、春日詣に出立する源正頼一行の描写です。
美々しい行列を仕立てるために前駆の馬の毛並みから意を用いており、並んで下襲の色が挙げられています。
2番目は、里下がりしていたあて宮が、新東宮に決まった息子と共に参内する場面で、何事も省略なしに列記する『うつほ物語』らしく車の種類から牛の毛の色まで事細かに描写した中に、副車・車副それぞれの下襲が記されています。
この場面では、長くなるので引用は省きましたが、新東宮母子参内の威勢を一目見ようと物見車が立ったという描写もあり、こうした行列が見物の対象として世間の注目を集めたことがわかります。
3番目は、いぬ宮への琴伝授のために京極邸へ移るに当たり、俊蔭女と女一の宮の車それぞれに付き添う従者に着せる下襲の色を指示した仲忠の言葉です。
国譲下巻の描写と表裏をなすように、行列を用意する側も見られることを充分意識しており、特に自由に色が選べる下襲には注意を払っている様子が感じられます。

『源氏物語』でも、有名な車争いが起こる新斎院御禊の場面で、

御禊の日、上達部など、数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに、容貌ある限り、下襲の色、表の袴の紋、馬鞍までみな調へたり。とりわきたる宣旨にて、大将の君も仕うまつりたまふ。かねてより、物見車心づかひしけり。(葵巻)

と、新帝の同母姉妹であり桐壺院鍾愛の内親王である新斎院の御禊を華やかに飾ろうと、供奉の人々の装束に趣向を凝らしたこと、それに伴って見物する側まで身嗜みに気を遣うほど注目の集まる儀式になったことが語られています。
ここで特に調えたものとして挙がっている下襲と表袴は、どちらもぱっと見にも目に付く衣裳ながら袍とは違って色や紋に厳格な規制はなく、やはり目立って尚且つ工夫の余地のあるこうした部分が、自然と他人や前例との差の付け所として力を入れることになったのだろうと想像されます。

162shitagasane_7 163shitagasane_8 こうした自他の意識の下で、当時の男性貴族がいかに下襲に気を配ったかがよくわかるエピソードが、『枕草子』に記されています。

正暦五[994]年の積善寺供養には、定子中宮と東三条女院詮子が行啓・御幸しました。
その際、まず関白以下が女院の御幸に供奉し、中宮はその人々が戻ってきてから出発との手筈になっており、早朝から清少納言ら中宮付きの女房達が二条大路に車を並べて待ちわびていたのですが、実際には女院一行の車が行き過ぎた後、久しく待たされてからようやく出発しました。
そして積善寺に到着した後、定子中宮は清少納言に長時間待たされた理由をこのように語るのです。

「久しうやありつる。それは、大夫の、院の御供に着て人に見えぬる同じ下襲ながらあらば、人、わろしと思ひなむとて、異下襲縫はせたまひけるほどに、遅きなりけり。いと好きたまへりな」とて、笑はせたまふ。(第二六三段「関白殿、二月二十一日に」)

大夫」は中宮大夫・藤原道長のこと。
彼が「女院のお供に着て人々に見られた、その同じ下襲でまた中宮のお供をしたのではみっともない!」と別の下襲を仕立てさせたので出発が遅くなった、というのです。
新しく下襲を1着縫うのにどのくらいの時間がかかるのかわかりませんが、なんとも大変な凝り様で驚かされます。
一体道長はこの日、女院と中宮それぞれの供奉にどんな下襲を着たのでしょうか。
清少納言が何も書き残してくれていないのが、とても残念に思われます。

フォーマルな席での男性貴族のお洒落の要だった下襲。
風俗博物館の展示や葵祭・時代祭の行列など、束帯装束を目にする機会には、下襲に注目してみるのも楽しいかもしれません。
(記事中の写真はいずれも2005年風俗博物館出張展示「六條院へ出かけよう」より、
上:下襲の裾を高欄に掛けた公卿・殿上人達
下左:紫苑〔推定〕の下襲を着た光源氏
下右:小栗色〔推定〕の下襲を着た左近少将)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
長崎盛輝著『日本の傳統色 : その色名と色調』京都書院 1996年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
あかね会編『平安朝服飾百科辞典』講談社 1975年
古典総合研究所作成「語彙検索

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「下襲」を加筆修正したものです。

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2007年8月30日 (木)

下襲(2)材質と色目

158shitagasane_3 下襲は、裾の長さだけでなく材質についても身分によって制限がありました。
下襲(1)裾の長さで引用した『李部王記』天暦元[947]年十一月十七日条の記述「公卿節会日得用綾」からは、公卿のみ節会の日に限って綾織物の下襲が許されたことがわかります。
ですがこの半世紀後の『小右記』には、一条天皇初めての官奏御覧に伺候した左大臣・源雅信の下襲について

左府着平絹青朽葉下襲、今日猶可被着綾歟、就中着白阿古め、無威儀也(正暦四[993]年四月二十八日条)

と記されています。
この頃には、節会に限らず威儀を正すべきときは綾の下襲が相応しいと考えられていたようです。
また、同じく『小右記』の長和元[1012]年四月二十六日条には、翌日に婿取りをする藤原公任のために綾の袍と下襲を貸したとの記事もあり、綾織物の使用制限はかなり緩んでいたらしいことが窺われます。
更に『小右記』の記事から200年弱時代の下った『満佐須計装束抄』には

冬躑躅の下襲。上達部綾。殿上人平絹なり。(中略)躑躅といふはつねの下襲をいふなり。(巻二)

とあって、時代と共に綾織物の使用が日常化していったと推測されます。
その一方で、公卿以上しか綾織物の下襲の着用が許されないという線引きは、天暦元[947]年の倹約令から『満佐須計装束抄』の書かれた平安末期まで守られたことも見て取れます。
やはり身分の低い者が華美な装いをすることには厳しかったようで、例えば『小右記』には、寛弘二[1005]年三月八日、蔵人兵部丞・藤原定佐が「織物下襲」を着用して彰子中宮の大原野神社行啓に供奉し、検非違使別当の藤原斉信に咎められたとの記述があります。
(写真は、2005年夏に京都文化博物館で開催された風俗博物館出張展示「六條院へ出かけよう」より、“一日晴”の織物の下襲を着た四位の殿上人)

159shitagasane_4 160shitagasane_5 色目については禁色を除いて特に制約はなく、さまざまな色を折に合わせて着用しました。
『満佐須計装束抄』には、

夏は上達部あか色の下襲。殿上人二藍。おとなしき人青朽葉つねのことなり。冬躑躅の下襲。上達部綾。殿上人平絹なり。又さもあるをり柳桜。裏山吹又おりによりて着るなり。殿上人も色を聴りたるこれらをみな着る。わかき人裏濃蘇芳萌黄又つねのことなり。表袴もかくのごとし。おとなしき人は柳の下襲とて着る。裏は青黒色に染むるなり。豆染と申す。(巻二)

と記されており、日常に着る色目はある程度決まっているものの、それ以外の色も時節や年齢などの要素を踏まえながら多彩に取り入れていたらしいことがわかります。
尚、上の引用文で冬の基本の色目とされている「躑躅」は、絵巻の彩色や『装束抄』(室町中期成立の装束に関する有職故実書。三條西実隆著)の

冬ハ表浮線綾。色白。裏ハ遠菱ノ綾。色蘇芳ノ濃打也。是ヲ蘇芳打ノ下襲ト云。(中略)又禁色ヲ聴サレザル殿上人以下ハ。躑躅ノ下襲トテ平絹也。色ハ蘇芳ノ下襲ニ同ジ。

という記述を見合わせるに、よく解説される表蘇芳・裏萌黄ではなく表白・裏蘇芳の重ねを指すと推測されます。
(写真左は、風俗博物館2004年上半期展示「斎宮女御と弘徽殿女御の絵合」より、躑躅の下襲を着た束帯装束の光源氏。右は風俗博物館2002年下半期展示「女三の宮持仏開眼供養」より、紅の下襲を着た夏の束帯装束の上達部)

具体例をいくつか見てみましょう。
上で引用した『小右記』正暦四[993]年四月二十八日条で源雅信が着用しているのは、青朽葉の下襲です。
雅信はこの年数え七十四歳ですから、『満佐須計装束抄』に言うところの“年配者の夏の普段使いの色目”と言えます。
藤原定佐が過差を咎められた彰子中宮の大原野神社行啓では、左大臣・藤原道長は赤白橡の袍に砧で打って光沢を出した桜の下襲を、権中納言・藤原隆家は織物の桜色の下襲に山吹の表袴を装って供奉しました(『小右記』同日条)。
2人が着た桜の下襲は、ちょうど桜の時節の行啓に合わせての選択だったと思われます。
また、天暦七[953]年十月二十八日に催された殿上菊合では、左右に分けられた殿上人が左方は葡萄染、右方は紅色の下襲をそれぞれお揃いで装う企画がなされたことが、『九暦』同日条からわかります。
(ただし、当初十月二十七日開催の予定で人々はそのように装ったものの、穏子中宮病悩によりその日は中止、1日順延で行われた二十八日は各人が意に任せて下襲を着用したので左右の色分けは実現しなかった、と記されています)
『枕草子』にも、

冬は、躑躅。桜。掻練襲。蘇芳襲。夏は、二藍。白襲。(第二六九段「下襲は」)

とさまざまな色目の下襲が挙がっています。

勿論、『源氏物語』にも多彩な下襲が登場します。

まず束帯装束の下襲としては、葵の上の喪に服した源氏が桐壺院の許に参った際の「無紋の表の御衣に、鈍色の御下襲、纓巻きたまへるやつれ姿」(葵巻)、冷泉帝の朱雀院行幸に供奉した人々の「青色に、桜襲」(乙女巻)、同じく冷泉帝の大原野行幸に供奉した人々の「青色の袍、葡萄染の下襲」(行幸巻)、六条院の住吉詣でに付き従った若い上達部達の「匂ひもなく黒き袍に、蘇芳襲の、葡萄染の袖」(若菜下巻)などが挙げられます。
また着用している例ではありませんが、「いときよらなる朽葉の羅、今様色の二なく擣ちたるなど」(野分巻)を広げて冬の装束の用意をしている最中の花散里を訪れた源氏が、「中将の下襲か。御前の壺前栽の宴も止まりぬらむかし」(同巻)と話しかける場面があります。
喪服の例はさておき、その他は華やかな色が並んでおり、宮廷の行事を美しく彩った様子が想像できます。

布袴装束(束帯装束の表袴に換えて指貫を穿く略礼装)の例も1ヶ所あります。
式部卿宮が北の方を自邸に引き取ってしまったと聞いた髭黒大将が面会に出かける場面で、「よき上の御衣、柳の下襲、青鈍の綺の指貫」(真木柱巻)に着替えます。
いとものものし」(同巻)という語り手の評価のとおりの重々しい色の取り合わせですが、柳の下襲は『満佐須計装束抄』の上記引用文によれば年配者の着用で、青鈍の指貫も『枕草子』などを読むと年配者の着用例が多く、「年三十二三のほど」(藤袴巻)という年齢よりは老けた装いとも言えます。

もうひとつの下襲の着用法に、直衣布袴があります。
(ただし、『源氏物語』の時代はまだ「直衣布袴」とは呼ばず、「直衣下襲」「直衣に下襲を加ふ」などの言い方をしたようです)
直衣は基本的にプライベートな服装ですが、下襲を加えると冠直衣より更に1段階フォーマルな装いになり、例えば冷泉院からの招請の手紙を受けた源氏が六条院に集まっていた蛍宮や夕霧などと共に参院するにあたって「直衣にて、軽らかなる御よそひどもなれば、下襲ばかりたてまつり加へて」(鈴虫巻)とする場面などに、直衣布袴という衣裳の格が端的に表れています。
(因みに、この場面の原文では下襲の色目は書かれていませんが、国宝『源氏物語絵巻』鈴虫(二)では黒っぽい菱紋の薄物に描かれています)
色目が語られている場面としては、若き日の光源氏の麗姿としてひときわ読者に印象深い右大臣家の藤花の宴での「桜の唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲」(花宴巻)、三条宮に母を訪ねる内大臣の「葡萄染の御指貫、桜の下襲」(行幸巻)の2ヶ所があります。

このように女房装束にも負けない華やかな色目で、下襲はフォーマルな場での貴族男性のお洒落の要として重要な役割を担っていました。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
五島邦治監修;風俗博物館編集『源氏物語と京都:六條院へ出かけよう』光村推古書院 2005年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
長崎盛輝著『かさねの色目:平安の配彩美』京都書院 1996年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
あかね会編『平安朝服飾百科辞典』講談社 1975年
塙保己一編『群書類従 第8輯』訂正3版 続群書類従完成會 1960年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「下襲」を加筆修正したものです。

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2007年8月21日 (火)

下襲(1)裾の長さ

156shitagasane_1 下襲は、束帯装束において袍または半臂の下に着る垂領(たりくび)の内衣です。
両脇は縫わない闕腋で、丈は前身頃が腰の辺りまで、後身頃は長く伸ばして引きずります。
後身頃の長く伸びた部分を「(きょ)」または「」と呼びました。
材質や裾の長さには身分に応じた定めがありましたが、位袍のような厳しい制約はなく色目などは自由が利き、また特に文官束帯装束では袍の下から裾がはみ出す形になるため、束帯装束における重要な装飾的役割を担いました。
(写真は、風俗博物館2005年下半期展示「六条院行幸」より高欄に掛けられた下襲の裾。手前は龍頭鷁首の舟に乗った迦陵頻の舞童達)

裾の長さは、制約の緩さと目立ちやすさのゆえに、淳和朝頃までは身丈程度だったのが華美を競って次第に長くなっていき、目に余ると過差禁止令により制限される、ということを繰り返しました。
『政治要略』巻六十七所引の『李部王記』逸文には

近日有被定行倹約事、(中略)就中下襲長、親王出袍襴一尺五寸、大臣一尺、納言八寸、参議六寸、公卿節会日得用綾(天暦元[947]年十一月十七日条)

とあり、特に下襲の過差が目立つとして倹約令でその長さと材質が定められたことが知られます。
このときの長さは、一番長い親王でも少々床に引きずる程度です。
しかしこの後も下襲の長大化は止まらず、『玉英記抄』(一条経通の日記『玉英』を一条兼良が抄出した有職故実書)「衣服」の項に、

為限裾長守延久二年符宣為大臣七尺大中納言六尺参議散三位五尺四位五位四尺(建武元年九月七日 宣旨)

と記されているように、延久二[1070]年に再び身分毎の長さが規定されました。
120年ほどの間に軒並み長さが7~8倍に伸びているのには驚かされます。
更に時代が下って鎌倉時代に入ると、一層丈が伸びた上に寸法の規定自体よくわからなくなり、

仮令。大臣一丈四五尺。大納言一丈二三尺。中納言一丈一二尺。参議八尺。四位七尺歟。但近年無存寸法之人。(『餝抄』上)

という状態に至ります。
『餝抄』の成立は嘉禎年間[1235-1238]と推定されていますので、延久二[1070]年の符宣からおよそ170年弱後の記述ということになりますが、この頃には延久二[1070]年の規定の約2倍、天暦元[947]年の規定の実に15倍前後にも及んでいた訳です。

『源氏物語』の書かれた頃の下襲の裾の長さはよくわかりませんが、

桜の唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲、裾いと長く引きて。皆人は表の衣なるに、あざれたる大君姿のなまめきたるにて(花宴巻:右大臣家の藤花の宴に招かれた光源氏の装い)

葡萄染の御指貫、桜の下襲、いと長うは尻引きて、ゆるゆるとことさらびたる御もてなし(行幸巻:大宮を訪ねる内大臣の装い)

といった描写から、やはり長々と裾を引きずっていることがわかり、その様がいかにも悠然たる高貴の人の姿に見えたのだろうと想像できます。
『枕草子』にも「弁などは、いとをかしき官に思ひたれど、下襲の裾短くて、随身のなきぞ、いとわろきや」(第四五段「をのこは」)という一文があり、やはり長く引く裾が憧れの眼差しで見られていた様子が窺われます。

157shitagasane_2 これだけ裾が長くなると立居振舞に支障を来たすため、座るときは折り畳むか高欄に掛ける、屋外を歩くときは人に持たせたり石帯の上手や剣に引き掛けたりする、などの作法が生じました。
下襲を高欄に掛けた様子は『駒競行幸絵巻』や『源氏物語絵巻』鈴虫(二)などに描かれている他、『枕草子』の

五位、六位などの、下襲の裾はさみて、笏のいと白きに扇うち置きなど、行き違い、(第五七段「よき家の中門あけて」)

狭き縁に、所狭き御装束の下襲ひき散らされたり。(第一〇〇段「淑景舎、春宮にまゐりたまふほどのことなど」)

といった記述からも、立居の動作における下襲の扱いが見て取れます。
(写真は、風俗博物館2004年上半期展示「玉鬘による光源氏四十の賀」より、賀宴に列席した布袴姿の柏木〔左〕と直衣下襲姿の式部卿宮〔右〕)

このように長大化した下襲ですが、一方で検非違使など実働部隊の武官は機動性を確保するために「纔著(さいじゃく)」と呼ばれる足首くらいまでの丈の袍と下襲を着用しました。
例えば『年中行事絵巻』巻一「朝覲行幸」を見ると、鳳輿を取り囲む闕腋袍を着た武官とその左右に控える縫腋袍を着た文官では、明らかに下襲の長さが違っているのがわかります。
(但し、三位以上は武官であっても縫腋袍を着用するので、図の中には胡簶を背負い下襲を長く引いた人物の姿も見られます)

尚、現代の束帯装束では「別裾」と言って下襲本体と裾を切り離し、裾を女房装束の裳のように腰に結び付けますが、このような形式になったのは長大化が進み着装が難しくなった鎌倉時代以降のことです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
五島邦治監修;風俗博物館編集『源氏物語と京都:六條院へ出かけよう』光村推古書院 2005年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
小松茂美編集・解説『年中行事絵巻』(日本の絵巻 8)中央公論社 1987年
あかね会編『平安朝服飾百科辞典』講談社 1975年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2007年8月16日 (木)

索餅(さくべい)

154sakubei_1 索餅(さくべい)は、和名を「むぎなは」と言い、素麺(そうめん)の原型と目される中国伝来の食べ物です。
「索」は両手で縄を綯う意味、「餅」は小麦粉製品を意味し、小麦粉を練って細くしたものを縄のように縒り合わせた食品だったと推定されています。
『和名類聚抄』の「索餅」の項には「和名無木奈波(中略)皆隨形而名」との記述があり、縄のような形状だったことが確認できます。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より、索餅の膳)

『延喜式』巻三十三「大膳下」には、「索餅料」として材料と必要な道具類が列記されています。
この記述から永山久夫氏が索餅の作り方を推考しており(『日本古代食事典』)、それを箇条書きにまとめると

  • 小麦粉に米粉と塩を混ぜてよく練る
    (明注:『延喜式』の記述に従うと、小麦粉・米粉・塩の割合は100:30:9または100:40:3)
  • できた生地を布に包んでしばらく寝かせ、塩を馴染ませる
  • 生地を薄平たく伸ばし、刀子で細長く切る
  • 切った麺を更に細く伸ばして縄のように縒り合わせる
  • 竹竿にかけて干す

となっています。
ただし岡田哲編『たべもの起源事典』によると、米粉を3割近くも含むと生地が切れやすくなるそうで、細く伸ばして縒り合わせることが可能だったのか疑問視する意見もあります。
食べるときには、蒸したり茹でたりして醤や味醤、酢などを付けたようです。
唐菓子の一種とする説もありますが、「唐菓子」と言ったときによくイメージされる「油で揚げる」という工程は、『延喜式』や『和名類聚抄』の記述からは窺うことができません。

155sakubei_2 索餅は平安京の東西の市で売られており、また『今昔物語集』巻十九には寺の別当が仕舞い込んだ麦縄が蛇に変わる話が収められていて、民間にも普及した食品だったようですが、宮中では節会や旬儀で群臣に供され、また七月七日に内膳司が献上した索餅を天皇が食べる歳事がありました。
七月七日に索餅を食べる風習の起源には、古くから2種類の伝承があり、1つは『年中行事抄』(建保二[1214]年以降成立の儀式書。著者未詳)などにある
昔、高辛氏(明注:古代中国の伝説上の帝)の子が七月七日に死に、その霊が鬼神となって人々に瘧病を患わせた。その子は生前に日頃麦餅を食べていたので、命日に麦餅を供えて祭った。この日に麦餅を食べると一年中瘧病にかからない
という中国の故事、もう1つは『師光年中行事』(鎌倉時代の儀式書。中原師光[1204-1265]著)所引の『宇多天皇御記』寛平二[890]年二月三十日条が記す
民間で行われている正月十五日の七草粥、三月三日の桃花餅、五月五日の五色粽、七月七日の索餅、十月初餅などのことを、これより宮廷に採り入れて歳事とする
という日本古来の民間行事です。
乞巧奠(きこうでん)の記事でご紹介したように、七月七日の行事は中国から伝来した風習と古くから日本で行われていた収穫祭や祖霊信仰の神事などとが混ざり合って成立しています。
索餅を食べるのも、同様に中国伝来の瘧病除けのまじないと、穀物の収穫に感謝し祖先の霊を祭る日本古来の習俗とが合わさって成立したと考えられます。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より、索餅を用意する女房)

索餅は、鎌倉時代に油を用いて小麦粉生地を細長く伸ばす製法の「索麺(索麪)」が伝えられ、これが室町時代に「素麺」の字に変わって現代に至ります。
現代も行われている七夕に素麺を食べる習慣は、この索餅に遡ることができる訳です。
今となっては実態のよくわからなくなってしまっている索餅ですが、実は形を変えて現代までつながっている食べ物です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
阿部猛, 義江明子, 相曽貴志編『平安時代儀式年中行事事典』東京堂出版 2003年
岡田哲編『たべもの起源事典』東京堂出版 2003年
永山久夫著『日本古代食事典』東洋書林 1998年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年
『続群書類従 第10輯上』續群書類從完成會 1926年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2007年7月29日 (日)

万歳楽

143manzairaku_1 144manzairaku_2 「万歳楽」は左方唐楽平調の舞曲で、平舞の代表的名作とされています。
作曲の由来は諸説ありますが、賢帝の治世に現れるとされる鳳凰が「賢王万歳」と囀り舞い飛ぶ姿を舞曲にしたとする『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書。狛近真著)巻第一の伝承をはじめ、いずれも君主の治世を寿ぐ曲としており、その由来に相応しく、平安時代には堂塔供養などの大法会や行幸・算賀などのおめでたい場での奏舞の例が多く見られます。
現代でも、天皇即位式で舞われたり在位記念の切手の図柄になったりと、皇室の慶事と縁の深い演目です。
隋の煬帝が作らせたとする伝承から「煬帝万歳楽」、また「鳥歌万歳楽」との別名もあります(ただし「鳥歌万歳楽」は「万歳楽」とは別の曲とする説もあり)。
(写真は、左が風俗博物館2007年下半期展示「朱雀院五十賀の試楽」より万歳楽の舞、右が高島千春筆『舞楽図』より「万歳楽」)

現行の舞は四人舞ですが、平安時代には四人舞の他に六人舞の例も散見され、天暦四[950]年の残菊の宴では六人の童女が舞った記録が残り(『九暦』同年十月八日条)、『教訓抄』巻第七には内教坊で八人の女舞として教習することが記されています。
童舞の例も多く、舞人の人数にも種類にもさまざまなバリエーションがあったようです。
奏楽の方も「此楽、参音声、並ニ船楽、立楽ニ奏ス」(『教訓抄』巻第一)と、いろいろな形で演奏されました。

楽曲構成は、まず〈平調調子〉で舞人が登台し、〈出手〉を舞います。
続いて〈当曲〉に入りますが、この曲は元来七帖だったものが時代と共に省略と脱落を繰り返したようで、現在では最初の半帖と少しの譜と舞しか伝わっていません。
『仁智要録』(藤原師長[1138-1192]著の雅楽書)には早くも
長秋卿横笛譜云、本是舞七帖也、而今世舞五帖、近代弾三反[舞一二五帖也]
と記され、『教訓抄』になると
昔ハ舞五返アリケレドモ、三・四帖ハタヘテ、今ハ一・二・五帖バカリゾツタハリテ侍ル」(巻第一)
と、元が七帖だったことは既に忘れられ平安末期に省略された三・四帖は廃絶、更に一帖半(一帖すべてと五帖の前半)、一帖(一帖と五帖の各前半のみ)、半帖(一帖の前半)で舞う省略法も記載されています。
ほぼ同時期の『雑秘別録』(嘉禄三[1227]年成立の雅楽書。藤原孝道著)にも
りやくするには一反廿拍子。すゑにこのごろはいたく略して。半帖よりかみ十拍子をするに
との記述があり、一帖の前半しか現代に伝わらなかった事情を窺わせます。
現行の奏舞では、半帖で〈志止禰拍子〉(しとねびょうし)という最後の旋律で打つ太鼓を付け加えて〈当曲〉を終えます。
最後に〈入調〉で舞人が〈入手〉を舞って降台します。

145manzairaku_3 146manzairaku_4 装束は左方平舞装束で、赤大口(紅の下袴)・差貫袴(さしぬきのはかま。裾に付けた紐で足首を括る形の袴で、赤大口の上に着用する)・糸鞋(しかい。白絹糸で編んで牛皮の底を張った履物)・踏掛(ふがけ。脚絆に似た装飾具)・下襲・半臂・忘緒(わすれお。半臂を締める)・紅の袍・金帯・鳥甲(とりかぶと)から構成されます。
風俗博物館の展示では袍の色が麹塵になっていますが、これは具現した朱雀院五十の賀の試楽の場面の原文に
かの御賀の日は、赤き白橡に、葡萄染の下襲を着るべし、今日は、青色に蘇芳襲」(若菜下巻)
と記されているのに従ったもので、本来は左の装束として赤白橡(迦陵頻の袍と同じ色)の袍を用います。
片肩袒で、写真のように袍の右肩を脱いで着装します。
展示では童舞のため、鳥甲の代わりに天冠を着けています。
(写真はいずれも風俗博物館2007年下半期展示「朱雀院五十賀の試楽」より、万歳楽を舞う童)

番舞は、現行では延喜楽にほぼ固定されていますが、平安時代には地久と番えられる例が多く、他にも新鳥蘇・長保楽・綾切・皇仁などさまざまな曲が答舞になっています。

『源氏物語』では、いずれも算賀の宴を彩る舞として登場しており、若菜上巻の紫の上による光源氏四十の賀の薬師仏供養の精進落としと冷泉帝の勅命による夕霧主催の光源氏四十の賀では名前だけですが、若菜下巻の朱雀院五十の賀の試楽では、髭黒大将の四男・夕霧の三男・式部卿宮の孫2人による四人の童舞として描写されています。
また『紫式部日記』にも、一条天皇の土御門殿行幸の際に舞われたことが記されています。
この頃は、七帖で緩やかに奏舞されていたのでしょうか。今は想像するより他ありません。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編;須貝稔作図『源氏物語図典』小学館 1997年
音楽之友社[編]『邦楽百科辞典 : 雅楽から民謡まで』音楽之友社 1984年
安倍季尚撰 ; 正宗敦夫編纂校訂『楽家録』(覆刻日本古典全集)現代思潮社 1977年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年
塙保己一編『群書類従 第19輯』訂正3版 続群書類従完成会 1960年
神宮司廳編『古事類苑43 楽舞部一』普及版 古事類苑刊行會 1931年
高島千春筆『舞楽図 左』(故實叢書第3輯第18回)吉川弘文館 1905年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2007年7月22日 (日)

皇麞(おうじょう)

140ojo_1 「皇麞(おうじょう)」は、左方唐楽平調の舞楽曲で、別名「海老葛(えびかずら)」とも言います。
「黄麞」と書くこともあり、『楽家録』(元禄三[1690]年成立の雅楽書。安倍季尚著)巻之三十一は、唐の景竜年間[707~710]に黄麞谷で戦死した王孝傑の忠義を悼んで中宗が作ったとする作曲の由来を伝えています。
(『楽家録』同巻にはもう1つ、音生公が明帝即位のときに作った曲とする説も併記されています)

楽曲形態は〈遊声〉〈序〉〈破〉〈急〉から成っていましたが、〈遊声〉と〈序〉は平安末期には早くも失われ、後には舞も廃絶してしまいました。
現存するのは〈破〉と〈急〉の奏楽のみで、〈急〉以外はほとんど演奏の機会もないそうです。
舞の様子は、遺された文献から想像する他ありません。
(写真は、風俗博物館2007年下半期展示「朱雀院五十賀の試楽」より、皇麞の舞装束を着けた童。以下、本記事中の写真はすべて同展示より)

舞は童舞で、角髪の上に甲を被り、白楚(ずわえ・ずばえ)と呼ばれる杖の先端を曲げて白毛の束を付けた、ちょっとハタキに似た舞具を持ちました。
装束は襲装束だったようですが詳細はよくわからず、『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書。狛近真著)巻第七や『楽家録』巻之三十六には「片肩袒」と記されていますが、『信西古楽図』(平安後期成立と推定される現存最古の舞楽図)の皇麞と目される図は諸肩袒のように描かれています。
(襲装束の構成については、賀王恩の中で紹介しておりますのでご参照ください)
また『信西古楽図』では、白楚も真っ直ぐな細い棒のような形に描かれていて、現行の舞楽で「白楚」と呼ぶものとはだいぶ形が異なります。

141ojo_2 142ojo_3 風俗博物館では『信西古楽図』と『舞楽図巻』(谷地八幡宮伝来。応永十五[1408]年作?)を参考に衣裳を作成されたそうで、袍は諸肩袒にしてあります。
白楚は『信西古楽図』には拠らず、『楽家録』巻之三十八に記されているような近世以降の形になっていますが、あるいは『舞楽図巻』の方にこうした形の白楚が描かれているのかもしれません。
(私自身は『舞楽図巻』の皇麞図を確認できてはおりません)

尚、展示ではご覧のとおり「青白橡」と称するやや茶色がかった緑色の袍を着ていますが、これは展示された朱雀院五十の賀の試楽の場面の原文に
かの御賀の日は、赤き白橡に、葡萄染の下襲を着るべし、今日は、青色に蘇芳襲」(若菜下巻)
と記されているのを再現した結果で、本来は赤白橡(迦陵頻の袍と同じ色)の袍を着用したと考えられます。

舞人の数は、雅楽書の類にははっきりした記述がなく、よくわかりません。
『源氏物語』若菜下巻では夕霧の次男と式部卿宮の孫が舞っているので、これに従えば二人舞ということになります。
また『教訓抄』巻第七によると、答舞のない舞だったようです。

『源氏物語』の中では、先に挙げた若菜下巻の朱雀院五十の賀の試楽と若菜上巻の紫の上主催の光源氏四十の賀の薬師仏供養精進落としで舞う場面があり、また胡蝶巻の六条院春の町での舟遊びでも(舞を伴ったかはわかりませんが)演奏されています。
作曲の由来の割には祝賀の際に奏舞されることが多く、また「おうじょう」の音が「往生」に通じることから仏事でも用いられたようです。
『平家物語』や『吾妻鏡』には、捕虜となって鎌倉に護送された平重衡が「往生の急」と洒落て横笛で皇麞急を奏でた逸話が収められています。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編;須貝稔作図『源氏物語図典』小学館 1997年
平野健次[ほか]監修『日本音楽大事典』平凡社 1989年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
正宗敦夫編纂校訂『信西古楽図』(覆刻日本古典全集)現代思潮社 1977年
安倍季尚撰 ; 正宗敦夫編纂校訂『楽家録』(覆刻日本古典全集)現代思潮社 1977年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年
神宮司廳編『古事類苑43 楽舞部一』普及版 古事類苑刊行會 1931年

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2007年7月 8日 (日)

乞巧奠(きこうでん)

136tanabata_1 七夕(たなばた)は、平安時代には「乞巧奠(きこうでん)」とも呼び、宮中や貴族の家庭で広く行われた年中行事です。
牽牛・織女の伝説を基にふたつの星の逢瀬を眺め、女性達は織女にあやかって裁縫の上達を祈願しました。
グレゴリウス暦(新暦)の現代ですと7月7日は沖縄と北海道を除いて梅雨真っ只中ですが、平安時代の七夕は太陰太陽暦(旧暦)の七月七日、立秋も過ぎた後の初秋の行事でした。
(今年の旧暦七月七日は、新暦の8月19日です)

乞巧奠自体は、牽牛・織女の伝説と共に中国から伝わった行事ですが、日本古来の棚機津女(たなばたつめ)信仰や祖霊を迎えるお盆の準備なども絡み合っており、成立の背景は非常に複雑です。
また“平安時代”と一口に言っても、400年の間で行事の内容はかなり変遷しています。
ここでは、『源氏物語』が書かれた平安中期~後期の行事を中心にご紹介します。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より、梶の葉に和歌を書く光源氏・紫の上と乞巧奠の祭壇)

乞巧奠は中国で古くから行われていた行事で、『荊楚歳時記』(宗懍著。南朝・梁代〔6世紀〕荊楚地方〔現在の湖北省・湖南省一帯〕の年中行事記)には、七月七日を牽牛・織女聚会の夜とし、女性達が針に五色の糸を通し庭に酒肴や瓜の実などを供えて裁縫の上達を願ったことが記されています。
日本への伝来も古く、『万葉集』には牽牛・織女の二星会合を詠んだ歌が数多く収められていますし、正倉院にはこの行事に用いたと推測される針と色糸が現存するそうです。
(「七夕」の漢字表記は「七月七日の夕べ」を意味し、二星会合の伝説に由来します)

一方の棚機津女信仰は、乙女が水辺の棚に設けた機屋に一夜籠って神の降臨を迎え、翌朝帰り去る神に穢れを持ち去ってもらうという信仰で、ごく最近まで「七夕送り」と称して笹飾りを川や海に流す風習が各地で見られたのは、この穢れを祓う儀式としての七夕の名残とされています。
(「たなばた」という読みは、こちらの棚機津女に由来しています)

また、八世紀前半から七月七日に宮廷行事として相撲が行われていたことが確認でき、天長三[826]年に平城天皇国忌を避けて十六日に移されるまで、この日は相撲節会の日でした。
現代でもあちこちの神社で奉納相撲があるとおり、相撲は元々神事であり、特に水の神との関係が深いことから、この日の相撲には日本固有の収穫祭や祓の意味があったと推測されています。
更に、この日からお盆に入るとされ(ここでの詳述は避けますが、お盆の行事は仏教と日本固有の祖霊信仰とが結び付いて成立しました)、乞巧奠と盂蘭盆会とで供え物が共通しているとか、長竿に提灯のようなものを付けて立てる祖霊迎えの風習が七夕の笹飾りのルーツであるとか、さまざまな関連性が指摘されています。
『西宮記』や『江家次第』にはこの日に宮中の調度の虫干しをすることが記されていますが、あるいはこれも、中国から輸入された行事であると同時に祖霊を迎えるために家中を清める意味もあったのかもしれません。

このように多様な起源を持つ七月七日の行事ですが、平安中期以降の行事の中心は二星会合と乞巧奠でした。
宮中の乞巧奠の儀式次第や室礼は、『江家次第』『雲図抄』に記されています。
以下、二書の内容を簡単にまとめます。
(下の写真は、風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より乞巧奠の祭壇)

137tanabata_2 予め行事蔵人が用意を整え、当日に掃部寮が清涼殿東庭の南第三間(階の間)の位置に葉薦と長筵を重ねて敷き、その上に朱漆の高机四脚を立てます(雨天の際は仁寿殿西砌の内側)。
机に載せる供え物は内蔵寮が調えて雑色が伝え取り、東南と西南の机に梨・棗・桃・大角豆(ささげ)・大豆・熟瓜・茄子・薄鮑(一説には干鯛も。『雲図抄』は棗の代わりに干鯛を挙げています)と酒を各机に一坏ずつ、西北の机に香炉、神泉苑の蓮の花十房または五房を盛った朱彩の華盤、縒り合わせた五色の糸を金銀の針各七本に通して楸(ひさぎ)の葉一枚に挿したもの、東北の机にも針を除く西北と同じものを供えます。
また北側東西の机には、秋の調子に調弦した筝(和琴の場合もあり)一張を置きます。
机の周りには黒漆の灯台九本を立て、内侍所の白粉を机や筵の上に撒きます。
次に、天皇が二星会合を見るために殿上間の御倚子を庭に立てます。
蔵人は天皇の挿鞋(そうかい。殿上での履物)を取って控え、竹河台の東に座を敷いて雑色以下が伺候します。
その後、御遊と作文、給禄がなされ、暁に再度白粉を撒いて机などを撤去し、清涼殿の格子を下ろします。

貴族の家庭での乞巧奠の様子は、『御堂関白記』や『枕草子』、種々の和歌などが伝えてくれます。
『御堂関白記』長和四[1015]年七月七日条には「庭中祭如常」とあって恒例行事として行われていたことが確認され、翌八日条にも藤原教通が「夜部二星会合見侍りし」と語ったことが記されています。
また『枕草子』にも

七月七日は、曇り暮して、夕方は晴れたる空に、月いと明く、星の数も見えたる。(第七段「正月一日、三月三日は」)

とあり、やはり二星の逢瀬を見ることが行事の中心だったことが窺えます。
曇り空にやきもきし、夜の晴天を待ち望む気持ちが伝わってくる一文です。

138tanabata_3 139tanabata_4 「星を見る」というと、現代人は夜空を仰ぎ見るものと思いますが、この時代は盥に水を張ってそこに映る星影を見ていました。
例えば『伊勢集』には「七月七日、盥に水いれて、影みるところ」という詞書の屏風歌が収められていますし、『新古今和歌集』にも

  花山院御時、七夕の歌つかうまつりけるに   藤原長能
袖ひちてわが手にむすぶ水の面にあまつ星あひの空をみるかな
(巻第四「秋歌上」)

という歌が採られています。

また『荊楚歳時記』に、供え物の瓜に蜘蛛が巣を張れば裁縫が上達するとの俗信があったことが記されていますが、この言い伝えも日本に齎されていたらしく、『兼盛集』には「七月七日女とも庭に出て尾花にいとかけたり」という詞書の屏風歌があります。
この他、梶の葉に和歌を書く風習もあり、

  七月七日、梶の葉に書き付け侍りける   上総乳母
天の川とわたる舟のかぢの葉に思ふことをも書き付くるかな
(『後拾遺和歌集』巻第四「秋上」)

秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつつ、天のとわたる梶の葉に、思ふ事書く比なれや。(『平家物語』巻第一「祇王」)

といった例が見られます。
(写真はいずれも風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より。左は梶の葉を用意する女房と星影を映す盥、右は梶の葉に和歌を書く光源氏)

珍しい記述としては、七月七日に女性達が賀茂川で洗髪をする『うつほ物語』藤原の君巻の場面が挙げられます。
このような風習は平安時代の他の文献からは見つからないようですが、祓としての七夕の性質を伝えるものとして注目されます。

『源氏物語』で乞巧奠に関係した記述は2ケ所あります。
1ヶ所目は帚木巻の雨夜の品定めで、左馬頭が指喰いの女の染色裁縫の技量を評して
龍田姫と言はむにもつきなからず、織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし
と語り、頭中将が
その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし
と応じています。
織女に裁縫の上達を願う乞巧奠の趣旨と、逢瀬は年に一度とはいえ永遠に結ばれた二星の伝説とを踏まえた会話です。
もう1ヶ所は幻巻で、例年のように管絃の遊びもなく星合を見る人もない六条院で、独り夜明け前に起き出した源氏が
七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て別れの庭に露ぞおきそふ
と二星の逢瀬と別れに寄せて紫の上との永訣を嘆く場面があります。
川の両岸に引き裂かれ、年に一度しか逢うことを許されない恋人達の切ない悲恋の伝説を、より悲観的な文脈で利用するところが『源氏物語』らしいと言えるかもしれません。

七月七日に関してはあともうひとつ、索餅(さくべい)というものを食べる風習がありましたが、この点については改めて別記事でご紹介したいと思います。

【2007.8.16追記】
索餅(さくべい)の記事を掲載しました。こちらもご参照ください。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
阿部猛, 義江明子, 相曽貴志編『平安時代儀式年中行事事典』東京堂出版 2003年
秋山虔, 小町谷照彦編;須貝稔作図『源氏物語図典』小学館 1997年
故實叢書編集部編『江家次第』(故實叢書第2巻)改訂増補版 明治図書出版 1993年
故實叢書編集部編『西宮記 第一』(故實叢書第6巻)改訂増補版 明治図書出版 1993年
『日本大百科全書』小学館 1984-1994年
宗懍[撰] ; 守屋美都雄訳注 ; 布目潮渢, 中村裕一補訂『荊楚歳時記』(東洋文庫324)平凡社 1978年
鈴木棠三著『日本年中行事辞典』(角川小辞典16)角川書店 1977年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年
『雲図抄』(塙保己一編『群書類従 第6輯』訂正3版所収)続群書類従完成會 1960年

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2007年6月20日 (水)

賀王恩

132gaoon_1 133gaoon_2 「賀王恩」は、左方唐楽の大食調の曲で、四人舞の平舞です。
「王」の代わりに「皇」の文字を用いる場合もあり、別名「感皇恩」とも言います。
嵯峨天皇の時代に大石峯良がつくったと伝えられますが、大石峯良は10世紀中葉の人物で嵯峨朝では時代が合わず、また中国にも唐の太宗の作とされる同名の曲が存在することもあり、大陸から輸入された後に日本で改作されたものかとも推測されています。
曲名のとおり皇恩を賀(よろこ)ぶ意を表す曲で、特に上皇算賀の際に参音声(まいりおんじょう。楽人・舞人が入場して所定の位置へ着くまでの間に奏する音楽)として演奏されました(*注)。
(写真左は、2005年風俗博物館出張展示「六条院へ出かけよう」より、「賀王恩」を舞う童。右は、高島千春筆『舞楽図』より「賀王恩」)

この曲は、舞が早くに失われてしまったため、現在では具体的な内容を知る術がほとんど残されていません。
上に写真を載せたとおり、『舞楽図』(高島千春筆。文政六[1823]年作)には賀王恩の舞姿が載っているのですが、舞自体はずっと以前に廃絶しており、また情報源に類する記述が残されていないため、何を元に描かれたのかわかりません。
最初に「四人舞」と書きましたが、これも本によって一人舞または六人舞と書かれているものもあり、はっきりと断言はできないのが実際のところです。
番舞も、『楽家録』(元禄三[1690]年成立の雅楽書。安倍季尚著)巻之三十六では「石川」と「綾切」が挙げられていますが、『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書。狛近真著)には「無答舞」(巻第七)と記されていて、やはりよくわかりません。
また奏楽についても、『教訓抄』に「昔ハ五切アリケレドモ、二切ハ絶テ、今三切ゾ侍ル」(巻第三)と記されていて、鎌倉時代には既に一部が失われていました。

こんな訳で今となってはわからないことだらけの舞曲ですが、『教訓抄』巻第三に

光近ノ口伝云、「第三帖ハ四方ヲ拝シテ居。東南西北也」。皇恩を賀心ト謂之。

とあり、舞の終わりの方で東から時計回りに四方を拝する所作があったことはわかります。
同巻には詠があったことも記されていますが、その詞は現代には伝わっていません。

134gaoon_3 135gaoon_4 「賀王恩」の装束は、「襲装束」または「常装束」と呼ばれる、平舞で汎用的に用いられる舞装束です。
赤大口(紅の下袴)・差貫袴(さしぬきのはかま。裾に付けた紐で足首を括る形の袴で、赤大口の上に着用する)・糸鞋(しかい。白絹糸で編んで牛皮の底を張った履物)・踏懸(ふがけ。脚絆に似た装飾具)・下襲・半臂・忘緒(わすれお。半臂を締める)・袍・金帯・鳥甲(とりかぶと)で構成されます。
風俗博物館では、天之社(高野山金剛峰寺の鎮守社)に伝わる装束や『舞楽図巻』(応永十五[1408]年作?)を参考に再現なさったそうで、童舞なので鳥甲の代わりに天冠を着けています。
(写真はいずれも、2005年風俗博物館出張展示「六条院へ出かけよう」より、「賀王恩」を舞う童)
この装束についての詳細は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に「六条院行幸『藤裏葉』巻より 賀皇恩」として掲載していただいておりますので、よろしければ併せてご参照ください。

『源氏物語』の中では、藤裏葉巻の最後を飾る冷泉帝・朱雀院の六条院行幸と、若菜上巻の冷泉帝の勅命による夕霧主催の源氏四十の賀の場面で登場します。

わざとの大楽にはあらず、なまめかしきほどに、殿上の童べ、舞仕うまつる。朱雀院の紅葉の賀、例の古事思し出でらる。「賀王恩」といふものを奏するほどに、太政大臣の御弟子の十ばかりなる、切におもしろう舞ふ。内裏の帝、御衣ぬぎて賜ふ。(藤裏葉巻)

例の、「万歳楽」、「賀王恩」などいふ舞、けしきばかり舞ひて、大臣の渡りたまへるに、めづらしくもてはやしたまへる御遊びに、皆人、心を入れたまへり。(若菜上巻)

歴史上の事例では、永祚元[989]年三月二十三日の春日大社行幸で胡蝶と番えられて童舞で、治安元[1021]年十月十五日の同じく春日大社行幸でこちらも胡蝶と共に、舞われたことが『小右記』に記述されています。

*注
『源氏物語図典』に「祝賀、特に太上天皇の御賀に用いられる」、また源氏物語音楽用語事典(上原作和氏編集)に「太上天皇の御賀などで舞われた」とあるところから、私も上記リンク先のレポートではそのまま踏襲して「特に太上天皇の御賀で舞われました」と記述しましたが、現在は若干疑問を抱いています。
『教訓抄』巻第三に「太上天皇御賀参音声、奏此曲」とあり、実例としても
参入音声、[賀王恩、]」(『中右記』康和四[1102]年三月十八日条:白河法皇五十の賀)
此間奏参入音声、[賀王恩、]」(『深心院関白記』文永五[1268]年一月二十四日条:後嵯峨上皇五十の賀の試楽)
といった記録が残っているのですが、上皇算賀で舞として奏された例が見つからないのです。
何分にも素人のしていることですので私の調査不足ということも充分に考えられますが、もしかしたら『教訓抄』の記述の「参音声」の部分が見落とされたか、『源氏物語』の用例に解説が逆に引っ張られてしまった可能性もあるのではないか…という気が少々しています。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編;須貝稔作図『源氏物語図典』小学館 1997年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
安倍季尚撰 ; 正宗敦夫編纂校訂『楽家録』(覆刻日本古典全集)現代思潮社 1977年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年
神宮司廳編『古事類苑43 楽舞部一』普及版 古事類苑刊行會 1931年
高島千春筆『舞楽図 左』(故實叢書第3輯第18回)吉川弘文館 1905年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
上原作和編「源氏物語音楽用語事典

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2007年6月11日 (月)

陵王

117hakkou_32128ryooh_1 「陵王」は、左方唐楽の代表的な一人舞で、走舞の傑作とされています。
雅楽会の公演や法会などでの奏舞の機会が非常に多く、最近では2005年のNHK大河ドラマ「義経」のオープニング映像にも登場しましたので、全般に現代人には馴染みの薄い舞楽の中にあってはよく知られた舞だろうと思います。
調子は沙陀調(壱越調の枝調子)。
番舞は、こちらも名作と名高い「納曽利(落蹲)」です。
「陵王」の他に「蘭陵王」「羅陵王」「竜王」などとも称され、舞を「陵王」、曲を「蘭陵王」と呼び分けるとも、「陵王」は単に「蘭陵王」を略したものとも言われます。
更に「没日還午楽」の別称もあります。
(写真左は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、陵王の舞。右は高島千春筆『舞楽図』より「蘭陵王」)

作舞の由来は、『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書。狛近真著)巻第一に次のように記されています。

北斉の王・長恭(=蘭陵王)は大変な美貌の持ち主で、兵士達が戦よりも王の姿を見ようとばかりするので、軍の士気を高めるために戦場ではその容貌を隠して獰猛な仮面を被って指揮を執り、見事勝利を収めました。
この舞はその武勇を象ったもので、「蘭陵王入陣曲」と言います。

一方で『教訓抄』は異なる由来も伝えており、そちらは以下のような内容です。

隣国との戦の最中に死去した王の後を継いだ脂那国の太子が、争いを鎮められず父王の墓前で苦戦を嘆いたところ、父王の魂が沈みかけていた日を中天に呼び戻し、敗れかけていた合戦に勝利することができました。
人々はこぞってこれを祝して舞い歌い、「没日還午楽」と名づけました。

どちらの説も、戦勝にまつわる中国の伝承に基づくという点は同じです。
日本へは林邑(現在のベトナム一帯)僧仏哲が伝え、尾張連浜主(8世紀の楽師。生没年不詳)が孝謙天皇の命を受けて一部改作したとされます。

129ryooh_2 130ryooh_3 装束は別様装束(特定の舞にのみ用いる専用の装束のこと)で、赤大口・差貫袴(さしぬきのはかま)・袍・毛縁裲襠(けべりりょうとう)・当帯・糸鞋(しかい)に、面と牟子、右手に持つ金色の桴(ばち)から構成されます。
袍は闕腋袍で、平舞で着用する襲装束の袍とは違って袖先に露紐が通っており、着装時には露紐を絞って手首で括ります。
毛縁裲襠は、名前のとおり毛で縁取りされた袖なしの貫頭衣で、袍の上に着ます。
首の部分がV字になっているのは、風俗博物館の展示レジュメによると『春日権現験記』(延慶二[1309]年作)『舞楽図巻』(応永十五[1408]年作?)に基づいての古様の再現だそうです。
当帯も、現行の舞楽ですと銅製で金メッキを施したものを用いますが、展示では裲襠と別布の摂腰(せびえ)になっています。
糸鞋は白絹糸で編んで牛皮の底を張った履物で、舞人・管方共通です。
この曲の装束を特徴付けるのは何と言っても面で、上部に竜頭もしくは金翅鳥が付いた金色の猛々しい吊顎面を着用します。
桴は、『教訓抄』に従えば「鞭(べん)」と呼ばれる中国の武器を模ったもので、伝来当初はもっと長かったのが、改作によって一尺二寸(約36cm)に縮められたと言います。
全体に赤と金を基調とする、非常に豪華な舞装束です。
(写真はいずれも風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より)

131ryooh_4 曲の構成は、まず〈小乱声〉が奏され、次に〈陵王乱序〉の演奏と共に舞人が登台して〈出手〉を舞います。
この〈陵王乱序〉の所作にはそれぞれ名前があり、中に「日掻返手(ひをかきかへすて)」という桴を翻す動きがあります。
『源氏物語』橋姫巻の薫が宇治の姉妹を垣間見る場面で大君が「入る日を返す撥こそありけれ」と言う台詞は、この所作を典拠としたものです。
続いて〈囀〉で、一度音楽が途切れ舞人の動きだけになります。
〈囀〉という名前からも窺われるとおり、本来はここで舞人が謡うのですが(『教訓抄』には3説の詞が記されています)、発声法が失われているため現代の奏舞では言葉は発しません。
その後、〈沙陀調音取〉を挟んで、当曲〈破〉。
〈破〉の振りは非常に活発で、桴を振り上げたり高く脚を上げたりする所作があります。
最後に〈安摩乱声〉が奏される中〈入手〉を舞って降台、退場します。
『教訓抄』巻第一には、〈囀〉と〈沙陀調音取〉の間に「嗔序(しむじょ)」、〈沙陀調音取〉と当曲の間に「荒序(くわうじょ)」が記されていますが、後に廃絶してしまい現代には伝わっていません。
また、『源氏物語』御法巻の紫の上による法華経千部供養の場面に「陵王の舞ひ手急になるほどの末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに」という描写がありますが、以上のとおりこの曲には〈急〉が存在せず廃絶した形跡も見られないため、古くから諸注が疑問を呈しています。
(最後の写真は、平安雅楽会による「陵王」。2007年5月20日撮影)

平安時代には競馬・相撲・賭弓などの勝負事で左方が勝利した際に舞われた他、算賀や法会での奏舞の例も多く、算賀では特に童舞で幼い子供が舞う例が目立ちます。
『源氏物語』の中では、若菜下巻の朱雀院五十の賀の試楽で髭黒大将の三男(玉鬘腹の第一子)が童舞で舞う件と、上に挙げた御法巻に描かれています。
平安時代から、さまざまな折に盛んに舞われる人気の曲目だったようです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編;須貝稔作図『源氏物語図典』小学館 1997年
多忠麿編 ; 林嘉吉撮影『雅楽のデザイン : 王朝装束の美意識』小学館 1990年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
音楽之友社編『邦楽百科辞典:雅楽から民謡まで』音楽之友社 1984年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年

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2007年4月30日 (月)

法華八講(15)その他雑感

平安時代に営まれた法華八講という仏事について、またこの儀式の『源氏物語』での描き方について、14回に亘って書き連ねてまいりましたが、最後にこの連載の発端となった風俗博物館の展示や調べ物の中で引っかかった点を、メモとして挙げておきます。

<1>参会者の装束

087hakkou_02風俗博物館の展示を拝見してひとつ違和感を覚えたのが、行道する参会者の装束でした。
公事ならば束帯で参列するのが当然でしょうけれど、いかに准太上天皇の妻とはいえ、紫の上の私的な仏事に赴くのに束帯を着用するとは思えません。
また、紫の上や花散里・明石の君といった女君達が揃って裳唐衣を着ているのも気になりました。
展示レジュメを読むに、法華八講の展示全体が『栄花物語』巻第三十七「けぶりの後」の記述を参考に具現されているようなのですが、この巻で描かれているのは高陽院内裏で後冷泉天皇が営んだ亡父後朱雀院追善八講の様子で、こちらは歴とした公事です。
では私的に営まれた八講では、人々はどんな服装で列席したのでしょうか。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、薪の行道で捧物を手に本尊の周りを巡る上達部・殿上人達。
浅緋・深緋・浅紫・深紫の束帯姿で、老懸(おいかけ)を着けた武官装束の人もいます。
この写真は博物館の許可を得て、模型上方より撮影させていただきました)

男性の装束については、『枕草子』にはっきりした記述があります。
寛和二[986]年六月の藤原済時主催結縁八講に参会した人々の装束は、

二藍の指貫、直衣、あさぎのかたびらどもぞ透かしたまへる。すこし大人びたまへるは、青鈍の指貫、白き袴もいと涼しげなり。(中略)殿上人、若君達、狩装束、直衣などもいとをかしうて、(第三十二段「小白河といふ所は」)

と記され、身分の高い人々は直衣、下の身分の人々は狩衣で列席したことが確認できます。
また、兼家追善の法興院八講で「左府著直衣被参」(『小右記』長和[1013]二年七月二日条)、藤原道長が営んだ法華三十講五巻の日に「左府加着其座、[布袴装束、]」(『小右記』長和元[1012]年六月十八日条)だったと記録されています。
(引用文中の「左府」はいずれも道長のこと)
『小右記』で装束のことが記されるのは、通例と異なるとか、一部の人だけ周りと違う衣裳だったというような場合が多いので、これが標準的な服装だったと考えるのは少々危険な気もしますが、束帯を着る場面でないことは確かだと思います。

119hakkou_34 一方、女性の装束となるとこちらは皆目わかりません。
女房の衣裳は『栄花物語』に執拗なまでに詳しく記されていますが、対照的に女主人の衣裳については全くと言っていいほど記述がなく(例外的に記されているのが、上記高陽院内裏八講での皇后寛子と中宮章子内親王の装束)、彼女達は男性の目に触れることがないので公家日記にも当然そんな記録は残りません。
(写真は風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、法会に参会した明石の君。裳唐衣の正装です)
上と同じ『枕草子』第三十二段には、八講の見物に来た女車の様子が

下簾など、ただ今日はじめたりと見えて、濃きひとへがさねに二藍の織物、蘇枋の薄物の表着など、後にも摺りたる裳、やがてひろげながらうち下げなどして

と描写されており、中の女性は裳を着けていたかと思いたくなりますが、出車は『満佐須計装束抄』に記されているとおり装飾用に女房装束を掛け下げて車の外に引き出すものなので、乗っている人の衣裳との関連性はありません。
八講を主催した藤壺や紫の上は、法会の間どんな服装で簾中に座していたのでしょうか。
残念ながら、手がかりとなる事例は見つかりませんでした。

<2>紫の上の法華経千部供養は法華八講か否か

御法巻の記述は、これまでの記事の中でもあちこちで触れたように、八講であると考えても八講ではないと考えても矛盾が生じる不可解な内容になっています。

  • 八講であると考えた場合の疑問点
    • 法会にかけた期間が僅か一昼夜
      (「三月の十日」を五巻の日とする解釈もありますが、素直に読めば十日の日中に始まり十一日朝に終了)
    • 請僧が精義・講師・聴衆ではなく「七僧
  • 八講でないと考えた場合の疑問点
    • 捧物の用意される仏事は法華講会以外ほぼ皆無
      (例外的に、道長の比叡山舎利会を記した『御堂関白記』寛弘六[1009]年五月十七日条に「有捧物」)
    • 法華讃嘆を唱える仏事も法華講会以外に見当たらない
      (現代の仏教でも、法華讃嘆を唱える法会は法華八講と法華大会のみ)

本当のところ、法華経千部供養はどのような式次第で進められたのでしょうか。
あれだけの描写で、当時の人々は法会の様子を具体的に想像できたのでしょうか。
調べれば調べるほど不思議に思えてなりません。

【参考文献】
小町谷照彦編『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』至文堂 2001年
天納傳中[ほか]編著『仏教音楽辞典』法蔵館 1995年
甲斐稔「『源氏物語』と法華八講」(「風俗」21巻3号 1982年 pp.43-58)
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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2007年4月28日 (土)

法華八講(14)政治的な意味

法華八講(2)目的でご紹介したような宗教上の意味とは別に、法華八講には極めて現世的な側面もありました。
それは、盛大な法会の挙行を通して一族の結束を確認する(この意味合いは特に一族の祖の追善供養において顕著に示されます)と共に、世間に主催者の権勢を誇示するというものです。

藤原道長が仏事を権勢の誇示に利用したことは、多くの研究者によって指摘されています。
道長女の中宮彰子によって年中行事化された、中宮主催の季の御読経もそのひとつです。
※リンク先は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている考察です。
道長が頻繁に営んだ法華八講・三十講についても、同様の指摘がなされています。
法華八講は、主催者の親族など関係者が参会し、また五巻の日にはそうした関係者が寄せた捧物を持って人々が行道するため、誰が参会し誰からどんな捧物が贈られたかは、主催者の権勢のバロメーターにもなりました。
親族であるか否かを問わず多くの公卿・殿上人らが集い、皇族からの捧物が廻る法会の場は、それだけの人々を結集させる道長の絶大な権力を示すものだった訳です。

そうした政治力学的側面を端的に表しているのが、高木豊氏が指摘する、源頼光による法華八講についての『小右記』の記述です。
道長の家司でこのとき内蔵頭であった頼光の法華八講は、公卿・殿上人を招待して長和四[1015]年閏六月十二日に発願、大納言藤原道綱、中納言藤原行成、参議藤原兼隆らが来訪しました。
藤原実資はこれを聞き、頼光の婿である道綱はともかくとして、行成・兼隆の2人は何の謂れがあって参会したのか、「棄恥到問乎、定有傍難欤、可謂不足言欤」(十三日条)と激しく非難しています。
更に、五巻の日には左大臣道長から捧物が贈られた他、道綱が三条天皇から賜った数珠を頼光が「内御捧物」(十五日条)と称して捧げ巡り、また同じく道綱が申し賜った蘇芳・薪料も実は頼光に賜った捧物であったと聞き及んだ実資は、「上下弾指、往古不聞、王威滅尽欤、可悲々々」(十五日条)と悲憤慷慨しています。
挙句、結願の十六日には、内裏での懺法御読経の初日にもかかわらず、請僧が頼光の八講に出座していて遅参するという事態が起きました。
血縁でもない公卿らが参会し僧侶も公事に優先して執り行い、時の左大臣や天皇までもが心遣いをした頼光の法華八講は、身分的には一受領に過ぎない彼の威勢を世間に見せ付けるに充分なものだったと思われます。
そうであればこそ、秩序や筋道を重んじる実資には許し難いことに感じられたのでしょう。

もうひとつ権勢の誇示と考えられるのは、非時調進の分担です。
請僧や参会者に提供する食膳は、主催者の一族・縁者・家人などが奉仕するのが通例だったと言いますが、東三条女院詮子は正暦元[990]年十二月八日発願の亡母時姫追善八講で公卿に過大な非時調進を分担させ、道長も毎年のように営んだ三十講で家司を中心とした受領層にその奉仕をさせています。
こうした分担を通して、詮子は公卿らを私的な営為に組み込んで支配し、道長もまた受領達との間に主従関係を形成していった、とは山本信吉氏の指摘です。

『源氏物語』の法華八講にも、やはり政治的・社会的側面が描き込まれています。
最も明確なのは、政界に復帰した光源氏が営んだ桐壺院追善八講です。

神無月に御八講したまふ。世の人なびき仕うまつること、昔のやうなり。
大后、御悩み重くおはしますうちにも、「つひにこの人をえ消たずなりなむこと」と、心病み思しけれど、帝は院の御遺言を思ひきこえたまふ。
(澪標巻)

一度は離れていった世間の人々がこぞって奉仕し、かつての華やぎをすっかり取り戻した源氏の様子に、彼の失脚を図った弘徽殿の大后も遂に自家の敗北を認めざるを得ない…という文脈が描くのは、間違いなくこの仏事を通して明らかにされる政権交代の構図です。
同じ法華八講を語った蓬生巻にも、「世の中ゆすりてしたまふ」と貴族社会全体を大動員して華々しく営んだことが記され、源氏の権勢の復活を印象付けています。
また甲斐稔氏は、この八講が桐壺院の追善供養として営まれたことにも、源氏及び源氏が後見する東宮(=冷泉帝)が桐壺院の正統な後継者であることを宣揚する政治的意図があったと解釈しています。

紫の上の法華経千部供養においても、光源氏の八講のようにはっきりとした形ではありませんが、「内裏、春宮、后の宮たち」(御法巻)が布施や捧物を用意し、「親王たち、上達部」(同巻)が参会したことが語られ、准太上天皇の妻であり中宮の養母である紫の上の社会的地位の重さがさりげなく示されています。
こうした点描は、その先の紫の上死去の場面で、光源氏や直接に関わった人達だけに留まらず世人が皆その死を惜しみ追慕したとする、紫の上称讃・哀悼の記述を支えるものと言えるでしょう。

また、これも甲斐稔氏の指摘と重なるところですが、賢木巻で藤壺が親王も参会しての華麗な法華八講を営み中宮の権威を示した、その結願の日に落飾し、源氏方の政治的衰退が決定的になる展開も、注目すべき点だと思います。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
小町谷照彦編『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』至文堂 2001年
甲斐稔「胡蝶巻の季の御読経」(室伏信助編『源氏物語の観賞と基礎知識18 初音・胡蝶・蛍』〔至文堂 2001年〕所収)
甲斐稔「『源氏物語』と法華八講」(「風俗」21巻3号 1982年 pp.43-58)
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
山本信吉「法華八講と道長の三十講」(上:「仏教芸術」77号 1970年 pp.71-84 下:「仏教芸術」78号 1970年 pp.81-95)

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2007年4月27日 (金)

法華八講(13)舞・音楽

117hakkou_32 法華八講(7)儀式次第でもご紹介しましたように、法華八講や法華三十講の五巻の日には、舞や音楽が供されることがありました。
ただし、舞にしても音楽にしてもそう頻繁に取り入れられる類のものではなく、主に単発・臨時の法会で主催者が特に盛大に催そうと意図した場合に付け加えられる要素だったようです。
『源氏物語』が書かれた時代の例を見ると、いずれも藤原道長が主催した以下6例の八講・三十講で、舞・音楽を伴って営まれたことが確認できます。
(因みに、私が調べた限りでは道長以前に法華八講で舞や音楽を供した事例は見つかりませんでした。
この仏事に歌舞音曲の趣向を持ち込んだのは、あるいは道長が最初なのかもしれません)

  • 寛弘元[1004]年五月二十一日(東三条女院詮子追善臨時八講)
    薪の行道の際に舟楽と舞(迦陵頻青海波)…『御堂関白記』
  • 寛弘七[1010]年五月十六日(法華三十講)
    講説終了後の酒席で音楽を供する…『御堂関白記』
  • 寛弘八[1011]年五月十六日(法華三十講)
    行道の前に奏楽、行道の後に舞楽…『御堂関白記』
  • 長和二[1013]年五月十五日(法華三十講)
    行道の後に舞楽…『御堂関白記』
  • 寛仁二[1018]年十二月十六日(亡父母追善臨時八講)
    舟楽の用意(敦康親王重病のため急遽中止)…『小右記』
  • 治安二[1022]年九月十七日(亡母?追善臨時八講)
    行道の際に舟楽…『小右記』

これらの音楽に関して、『御堂関白記』に興味深い記述があります。
舞と音楽があった寛弘八[1011]年五月十六日、「有俸物事如常、但行道前有音楽、如大会」と記しているのです。
大会」は大規模な法会という程度の意味でしょう。
浄妙寺三昧堂供養を記した『御堂関白記』寛弘二[1005]年十月十九日条に「大会儀如常、無楽」との記述もあり、堂供養のような法会を指して「大会」と称したこと、そうした法会にしばしば音楽が伴ったことが窺われます。

118hakkou_33 翻ってみれば、上に挙げた八講・三十講はいずれも道長が殊に力を入れて営んだことが伝わっています。
法華三十講の盛大さも勿論ですが、寛弘元[1004]年の東三条女院詮子追善八講は、道長が自ら写経し外題は具平親王に依頼、また30年以上朝廷の仏事への参仕を断り続けてきた高僧を講師に招請していて、この法会に対する意気込みが感じられますし、寛仁二[1018]年の亡父母追善八講も、道長は自ら『法華経』を2部書写すると共に、「よろづこのたびはわが宝ふるひてむ」(『栄花物語』巻第十四「あさみどり」)と語ったといい、その盛儀の様は『小右記』や『左経記』にも綴られています。
治安二[1022]年の八講についてはあまり詳しい記録が残っていませんが、故人の遺言によって営まれた法会であること、また会場が法成寺阿弥陀堂(無量寿院)で、この2ヶ月前に善美を尽くした金堂落慶供養が営まれたことなどを考え合わせると、やはり特別な配慮が加えられたのではないかと想像されます。

『源氏物語』に描かれた法華八講を見ると、まずはっきりと音楽と舞の両方が描かれているものとして、紫の上が営んだ法華経千部供養が挙げられます。

楽人、舞人などのことは、大将の君、取り分きて仕うまつりたまふ。(中略)
夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色いろ、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、もののあはれもおもしろさも残らぬほどに、陵王の舞ひ手急になるほどの末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに、(中略)
親王たち、上達部の中にも、ものの上手ども、手残さず遊びたまふ。(御法巻)

特に意を用いて楽人・舞人が準備され、一晩中読経が続いた後、明け方に舞楽、更には参会者達による管絃の遊びも催されています。
殊に舞楽の描写は春爛漫の自然描写と相俟って実に華やかで美しく、効果的に場面を盛り上げていますが、実際の法会の中での舞・音楽の位置付けを踏まえるとそれだけに留まらず、紫の上が「自分が催す行事はこれが最後」との覚悟の下に、万事に心を砕いてこの法会を執り行ったことがわかります。
おそらく紫の上には、出家して仏に仕えることができない代わりに、せめて丁重に盛大に経典を供養することで少しでも善行を積みたいという、切実な願いがあったのだろうと思います。
それと同時に、これまで二条院・六条院での多くの雅な行事に集い、今回の経供養にも列席してくれる人々への惜別の思いも。
そして準備を受け持った夕霧の方も、この経供養に舞人・楽人を必要とすること自体から、紫の上の気持ちを感じ取っていたのではないかと思います。
取り分きて」人員を調えた夕霧の心中には、単なる紫の上に対する思慕の念だけでなく、そうした思いを汲み取る心遣いもあったのではないでしょうか。
そんな想像をしてみたくなります。
(写真上は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より陵王の舞。
下は参考資料として、風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より竜頭鷁首の舟に乗った楽人達)

もうひとつ、明示はされませんが舞や音楽を伴ったのではないかと読めるのが、光源氏主催の桐壺院追善八講です。

権大納言殿の御八講に参りてはべるなり。いとかしこう、生ける浄土の飾りに劣らず、いかめしうおもしろきことどもの限りをなむしたまひつる。(蓬生巻)

八講に参仕した律師のこの台詞からは、世俗の楽しみを捨て仏に仕える身であってさえ目を奪われ人に語らずにはいられないほど、荘厳かつ興趣に富んだ法会だったことが伝わってきます。
政界復帰を果たし間もなく政権の中枢を担うことが確定している源氏が、亡き父院のために贅を尽くし趣向を凝らした営みの中には、大法会を模して取り入れられた舞楽や舟楽などもあったのではないかと思います。

さて次回は、上に引いた蓬生巻でも言われているように、しばしば「極楽もかくや」と語られる絢爛豪華な法華八講という仏事を営むことの社会的影響や政治的意図といった、極めて現世的な側面をご紹介します。

【参考文献】
甲斐稔「胡蝶巻の季の御読経」(室伏信助編『源氏物語の観賞と基礎知識18 初音・胡蝶・蛍』〔至文堂 2001年〕所収)
天納傳中[ほか]編著『仏教音楽辞典』法蔵館 1995年
栗林史子「法華八講に関する二、三の問題―『御堂関白記』を中心に―」(『駿台史学』85号 1992年 pp.1-28)
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
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2007年4月20日 (金)

法華八講(12)写経・経供養

114hakkou_29 115hakkou_30法華八講に際しては、新たに仏像を造立したり経典を書写したりして供養することがよくありました。
特に写経は、『法華経』第十「法師品」、第十七「分別功徳品」、第十九「法師功徳品」などの中でその功徳が説かれていることもあり、盛んに行われました。
中でも第十「法師品」には

若復有人。受持。読誦。解説。書写。妙法華経。乃至一偈。於此経巻。敬視如仏。種種供養。華香。瓔珞。抹香。塗香。焼香。繒蓋。幢幡。衣服。伎楽。乃至合掌恭敬。薬王。当知是諸人等。已曽供養。十万億仏。於諸仏所。成就大願。愍衆生故。生此人間。
(若しまた人ありて、法華経の、乃至一偈を受持し、読・誦し、解説し、書写して、この経巻を敬い視ること仏の如くにして、種種に華・香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・繒蓋・幢幡・衣服・伎楽を供養し、乃至、合掌し恭敬せば、薬王よ、当に知るべし、この諸人等は、已に曽、十万億の仏を供養し、諸の仏の所において、大願を成就せるも、衆生を愍むが故に、この人間に生れたるなり。)

とあり、経典を書写し仏と同等に供養礼拝する功徳が説かれたことから、平安中期から後期にかけて、美しい装飾・装丁を施した装飾経が数多く制作されました。
その頂点に位置するのが、厳島神社に現存する平家納経です。
平家納経は『源氏物語』の書かれた時代より150年も後につくられたものですが、軸に高価な玉や水晶を嵌め、金具に精巧な細工を施し、表裏とも金銀の切箔や砂子・野毛をふんだんに散らした色紙に多彩な顔料で表紙・見返しの絵を描いた経典の姿は、善美を尽くした平安時代の装飾経の粋を現代に伝えてくれます。
またこれほど豪華ではなくとも、奈良時代以来の伝統的な紺や紫の地の紙に金泥または銀泥で書写した経典にも、10世紀頃から見返しに金銀で経意絵(経典の主旨を表現した仏画)を描く装飾が加えられるようになりました。
見返し絵を描いた写経の早い例と目されるのは、醍醐天皇が母后胤子のために書写し延長三[925]年八月二十三日に供養した宸筆法華経で、紺紙金字で紺の綾を裏に打ち、経意絵が描かれ水晶の軸と縹の組帯で仕立てられたと伝わっています(『大日本史料』1編5冊所引『勧修寺文書』)。
『栄花物語』には、法華八講の捧物として「銀の法華経一部」(巻第二十七「ころものたま」)が現れる他、治安元[1021]年秋に皇太后宮妍子の女房達30人が結縁して『法華経』二十八品及び開結二経を書写し経供養を営んだ記事では、極めて華麗な装飾経が描き出されています。

経の御有様えもいはずめでたし。あるは紺青を地にて、黄金の泥して書きたれば、紺泥のやうなり。あるは綾の文に下絵をし、経の上下に絵を書き、また経のうちのことどもを書き現し、涌出品の恒沙の菩薩の涌出し、寿量品の常在霊鷲山の有様、すべていふべきにもあらず。提婆品はかの竜王の家のかたを書き現し、あるは銀、黄金の枝につけ、いひつづけまねびやるべき方もなし。経とは見えたまはで、さるべきものの集などを書きたるやうに見えて好ましくめでたくしたり。玉の軸をし、おほかた七宝をもて飾り、またかくめでたきこと見えず。経函は紫檀の函に、色々の玉を綾の文に入れて、黄金の筋を置口にせさせたまへり。唐の紺地の錦の小紋なるを折立にせさせたまへり。あなめでた、同じくはかうやうにしてこそ、持経にしたてまつらめと見えたり。(巻第十六「もとのしづく」)

『源氏物語』でも、藤壺主催の法華八講で

日々に供養ぜさせたまふ御経よりはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀の飾りも、世になきさまにととのへさせたまへり。(賢木巻)

と、美麗な装飾経を用意したことが、藤壺賛美の口調で語られます。
現代人から見ると、こうした記述はいかにも貴族趣味的・唯美主義的に思えるところですが、当時の人々にとっては単なる美的趣味に留まらず、写経の功徳を頼む信仰心の表出でもあったのだと想像されます。
(上の写真はいずれも風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より。
左は、北廂に立てられた経机の上の経巻。右は、本尊前の経机に乗った経巻。
どちらも金泥で本文と見返し絵が描かれています)

ところで、『法華経』を書写するにはどのくらいの労力がかかったのでしょう。
鳩摩羅什訳『妙法法華経』は八巻から成り、文字数は70,000文字を超えると言います。
高木豊氏は『平安時代法華仏教史研究』(平楽寺書店 1973年)の中で、

時代は降るが、『二中暦』では、法華経一部八巻二十八品を一日で書写するには、書手三十人、催二人、調巻師三人を要し、費用は書手に浄衣三十両、書手布三十段、催二人に各疋絹、調巻師には布三段と浄衣が与えられ、さらに墨三十廷・筆三十管・饗三十五前(料米三解五斗)・酒肴一度(料米三斗)・外題書料一段を必要とした。

116hakkou_31と述べており、これに従えば、紫の上のように1,000部を書写させるには人員延べ35,000人、1日1部のペースで3年近くかかる計算になります。
紫の上の法華経千部供養が「げに、石上の世々経たる御願にや」(御法巻)と評されるのも納得です。
法華八講では、主催者が自ら書写した『法華経』を供える例が少なからずありますが(例えば、天暦九[955]年一月四日発願の村上天皇宸筆八講、寛弘元[1004]年五月十九日発願の藤原道長による東三条女院追善八講、寛仁二[1018]年十二月十四日発願の藤原道長主催亡父母追善八講など)、1人で書写すると終日かかりきりでも1部完成させるのに30日かかる訳で、故人への強い思いがなければ難しいことだったのではないかと思われます。
それ故に、自筆の写経は

永昭いみじくめでたく仕うまつれり。御経は手づからかかせたまへればにや、いみじくめづらかなることども言ひつづけたり。殿ばらなどいみじう聞しめしはやしたまふ。「瑠璃の経巻は霊鷲山の暁の空よりも緑なり。黄金の文字は上茅白の春の林よりも黄なり」など、いみじくしもてゆけば、(『栄花物語』巻第十四「あさみどり」)

というように、講師も大いに褒め称え功徳を讃美したのでしょう。
(写真は風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、唐櫃に収められた1,000部の経巻。
美しい絹布の表紙が付けられています)

尚、書写した経典を地中に埋める埋経が盛んに行われたのも平安中期以降の法華信仰の特色のひとつで、埋経に当たっての経典供養として、法華八講とは形式が異なりますが法華講会(法華経を講説・礼讃する法会)が営まれることがありました。
今年は、藤原道長が金峯山に法華経をはじめとする多数の経巻を埋納してからちょうど1000年に当たります。

※掲載した写真は、いずれも博物館の許可を得て模型上方から撮影させていただいたものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
奈良国立博物館編集『厳島神社国宝展 : 台風被災復興支援』読売新聞大阪本社 2005年 ※展覧会図録
小町谷照彦編『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』至文堂 2001年
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
今泉淑夫編『日本仏教史辞典』吉川弘文館 1999年
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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2007年4月15日 (日)

法華八講(11)捧物その2~風流と工夫~

108hakkou_23 109hakkou_24 平安時代の人々が残した法華八講の記録を読むと、薪の行道、中でもそこで巡った捧物が大変な見ものとして注目を集めたことがわかりますが、では具体的にどのようなものが捧物とされたかというと、例えば『栄花物語』の以下の記述が非常に詳しい内容になっています。

女院の御捧物、優曇華を造りたり。三条院の中将持ちて廻る。皇太后宮の、華籠に菊さまざまの花入れて、玉を貫きて緒にしたり。重ねたるをやがてその宮の亮公基取りてつづきたり。次には中宮の、菊の花を籬を結ひたり。黄金、銀、黄菊、白菊にて二つなり。新大納言の御子の四位少将基長取りたり。皇后宮のは、如意宝珠、金の糸して結び、玉を貫きたりなど三つありければ、源中将隆綱、宮の亮師基の弁、民部卿の中将とぞ持たまへる。東宮のは、金の水瓶、盥、やがて資仲の弁。女御殿のは鏡台の鏡、敦家の少将持たり。殿の一の宮のは、香壺の筥に壺四つ据ゑて、金の菊を挿したり。忠俊の前少将。前斎院のは、盥に水瓶、みな金なり。少納言実宗持ちて廻る。(中略)左の大殿、右の大殿、内の大殿など、さまざまに団扇、蝶の大きなるなどぞ持たせたまへりし。ただの上達部は香炉を五葉の枝につけたまへり。殿上人はわけさらなり。源大納言殿は、今は内の大殿と聞えさす、その御子の中納言こそ、桜の枝に鞠つけて持たせたまへりしか。(巻第三十七「けぶりの後」)

110hakkou_25 111hakkou_26治暦元[1065]年九月二十五日発願の高陽院内裏八講の記述です。
風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」の捧物は、正にこの記述を基に作成されたものだそうですので、百聞は一見に如かずで写真をご覧いただくのが一番かと思います。
まず写真上左の捧物が優曇華、右が金銀の造花を盛った華籠。
真ん中左は、手前の1人は籬を結って金銀の造花を植えた細工物を、奥の2人が金の亀の背に乗せた水晶の如意宝珠を持っています。
真ん中右の捧物は、手前から順に金の水瓶、鏡、香壺の筥に4つの壺を載せて金の造花を挿したもの。
下左の捧物は右側が団扇、左側が蝶を模った金細工で、下右のは右手前が五葉の枝に付けた球形の釣り香炉、左手奥が桜の枝に付けた鞠です。
上の『栄花物語』引用文とぴったり一致する展示になっています。

この他にも『栄花物語』の中では、巻第二十七「ころものたま」に万寿三[1026]年五月十九日発願の皇太后妍子主催三条天皇追善八講の捧物が詳しく列挙されています。
それらに『小右記』や『御堂関白記』『左経記』などの記述も加えてまとめると、帝や后の捧物として砂金を納めた瑠璃の壺というのがよく登場する他、香木・香炉・数珠・経典などの仏具、袈裟・横被(おうひ。七条袈裟の附属具で、右肩を覆う細長い縁付きの布のこと)・袿・袴などの衣類、皿や匕・染料・紙・墨・衣筥・火鉢・琴などの多様な日用品、綾・生絹などの布類が捧物とされた例が見られます。

112hakkou_27 113hakkou_28 『小右記』長和三[1014]年五月八日条には、道長主催の法華三十講に公卿の多くが袈裟を献じる中、実資は「此檀念珠」(「」は「紫」の誤り?)を捧物として道長に褒められた、という記述があります。
どうも他の人と重なってしまうのはあまり喜ばれなかったようで、繊細な美意識が求められた平安時代らしく、捧物にも他の人とは一味違う工夫が必要だったと見えます。
また、上の引用文にも似た例がありますが、小物を捧物にする場合は作り物の枝につけて風流を為したりもしたようです。

これだけ手の込んだものを用意する訳ですから、捧物を出す関係者は以前から入念に準備をしたようです。
『小右記』寛仁二[1018]年十二月七日条には、この10日後から始まる八講の捧物とするための香炉が届いた、という記述が出てきます。
これ以前に、予め注文を出してつくらせていたのでしょう。
『源氏物語』でも、紫の上による法華経千部供養で

内裏、春宮、后の宮たちをはじめたてまつりて、御方々、ここかしこに御誦経、俸物などばかりのことをうちしたまふだに所狭きに、まして、そのころ、この御いそぎを仕うまつらぬ所なければ、いとこちたきことどもあり。(御法巻)

とある「いとこちたきことども」の中には、このように趣向を凝らした捧物の用意も含まれていると思われます。

薪の行道の後、これらの捧物は堂内や庭に設けられた台の上に並べられました。
寛和元[985]年三月二十八日に五巻の日を迎えた宗子内親王主催の藤原伊尹追善八講のように、公卿の捧物は堂の上、それ以下の人々の捧物は庭に長筵を敷いてそこに置く、と身分によってはっきりと区別されることもありました(『小右記』同日条)。
また長和元[1012]年五月十七日が五巻の日であった皇太后宮彰子による一条天皇追善八講では、

左右近官人並相府随身等舁如舞台物、正当御殿南階立構高欄、曳帽額、不異舞台、[其構其二推合立、南有階、]予問左相府、被答云、可置捧物之料也、往古所不見聞、(『小右記』同日条)

と、寝殿前庭に舞台のような巨大な台が用意されたことが、驚きを込めて記録されています。
このときの八講は、法華八講(9)薪の行道で引用文を挙げたように、道長や実資も感嘆するほどの絢爛豪華な捧物が揃いましたが、量的にも「金銀瑠璃物置満捧物台」(『小右記』同日条)という状態になったということで、規模の大きさが窺われます。
因みに、この6年後の寛仁二[1018]年十二月に道長が営んだ亡父母追善の法華八講でも、同様に舞台が構えられたことが、同じく『小右記』同月十六日条に記されています。

捧物について、『源氏物語』では全くと言っていいほど具体的な描写がありませんが、史料が伝える捧物の有様は、当時の人々の注目の的であり平安貴族文化の栄華の極みを示したものだったと言えると思います。

※掲載した写真は、いずれも博物館の許可を得て模型上方から撮影させていただいたものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
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2007年4月14日 (土)

法華八講(10)捧物その1~参会者と非参会者~

087hakkou_02平安時代の法華八講において衆目を集めた薪の行道を煌びやかに彩ったのは、参会者が持ち寄るさまざまな捧物(ほうもち)でした。
捧物は、読んで字のとおり仏前に供える捧げ物で、「以其捧物分施請僧」(『扶桑略記』天暦九[955]年正月四日条)との記述が伝えるように、実質的には法会に奉仕した僧達への布施になりました。

今日の御捧物はをかしうおぼえたれば、事好ましき人々はおのづからゆゑゆゑしうしたり。それは制あるべきことならねばにこそあらめ。(『栄花物語』巻第八「はつはな」)

との記述が物語るように、仏様への捧げ物という性格から、贅を尽くし数寄を凝らしても過差を咎められることはなかったらしく、人々は競って華麗で風雅な捧物を用意しました。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、思い思いに趣向を凝らした捧物を手に行道する上達部・殿上人達。
この写真は、博物館の許可を得て模型上方から撮影させていただいたものです)

法会に列席する人は勿論のこと、主催者よりも身分が高く自ら会場に足を運ぶことのない人も、主催者との関係に応じて五巻の日に使者を立て、捧物を届けました。
一例として藤原道長の場合を取り上げてみると、寛弘元[1004]年五月十九日発願で自ら営んだ東三条女院詮子追善八講には一条天皇・花山院・中宮彰子から捧物を賜っており(『御堂関白記』同月二十一日条)、彼の家司であった源頼光が長和四[1015]年閏六月十二日から営んだ法華八講には捧物を出している(『小右記』同月十五日条)、といった具合です。
自分が主催した八講・三十講に関する『御堂関白記』の記述は概ね簡略なのですが、その中で后の宮なり院なりから捧物として何々を賜った、ということは比較的よく記録されている印象があります。
高位の人物から贈られる捧物には、参会者の顔ぶれと並んで主催者の権勢のバロメーターのような意味合いがありましたので、道長の記録の仕方もあるいはそれと関連するのかもしれません。
(この点については後の回で改めてご説明いたします)

『源氏物語』の場合ですと、紫の上主催の法華経千部供養で

内裏、春宮、后の宮たちをはじめたてまつりて、御方々、ここかしこに御誦経、俸物などばかりのことをうちしたまふだに所狭きに、
(御法巻)

とあるうち、帝と東宮、后達(秋好中宮・明石中宮)は参会せずに捧物を届けるパターンで、御方々(花散里・明石の君)は捧物を持参して列席したということになります。
また、藤壺主催の法華八講では

親王たちも、さまざまの捧物ささげてめぐりたまふに(賢木巻)

とあり、親王達が自ら捧物を手に行道したと読めますが、これは主催者が中宮であり内親王である藤壺であればこそのことではないかと思います。

では、具体的にどのような捧物が用意されたか、次回ご紹介いたします。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
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2007年4月11日 (水)

法華八講(9)薪の行道

華やかに営まれた法華八講の中でも、最も贅を尽くし絢爛たる趣向を極めたのが「五巻の日」に行われた薪の行道です。
行道とは、本尊または堂塔の周囲を右回りに巡る仏教の作法で、貴人の周囲を回る古代インドの礼法が源泉になっています。
法華八講の行道に特に“薪の”と冠される理由は、『法華経』第五巻に収められた第十二品「提婆達多品」に説かれる以下のような釈尊の過去世に基づきます。

かつて国王だった釈尊は、完全な悟りを得ることを念願し、「私に優れた教えを授けてくれる人がいれば、私はその人の奴隷となろう」と国の四方に告げ知らせました。
すると、1人の仙人がやってきて「あなたが私の奴隷になってくださるのでしたら、最も優れた教えを示す経典『法華経』をお教えしましょう」と言ったので、釈尊は喜んで仙人に随い、木の実を採り水を汲み、薪を拾い食事の仕度をし、時には自分の身を仙人の腰掛けとまでして奉仕しました。
釈尊は1000年もの間仙人に仕え、遂に『法華経』の教えを得て六波羅蜜の完成を成し遂げました。

106hakkou_21一般的な行道では僧達が華籠を手に散華しながら巡りますが、法華八講の行道では釈尊のこの苦行を偲んで、薪や水桶、菜籠などを背負った人々が加わり、
法華経を我が得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し
という、行基作とも光明皇后作とも伝わる法華讃嘆を唱えながら回りました。
「薪の行道」の呼び名は、ここに由来します。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、水桶〔手前〕と薪〔奥〕を背負って行道する六位の官人)

行道で薪や水桶を背負う作法がいつ頃始まったのかははっきりせず、法華八講の最初から行われていた訳でもないようですが、『大日本史料』第1編之1(東京大学史料編纂所提供tiff版)所引『願文集』二には、寛平元[889]年の光孝天皇一周忌に嘉祥寺で修された法華八講について「乙卯、彼八講、今日已当五巻之講、令先帝近侍者□荷薪搬水之役」との記述があり、9世紀末には既に行われていたことが確認できます。
他にも、

五巻日、殿上人持御捧物立王卿前、蔵人荷薪若菜籠、(『西宮記』巻第十三「御八講」)
衛府三人荷薪水菜等如恒(『小右記』長和元[1012]年五月十七日条)
きたなげなき六位の衛府など、薪こり、水など持たるをかし。(『栄花物語』巻第八「はつはな」)
蔵人、薪こり水とりなどして、(『栄花物語』巻第三十七「けぶりの後」)
僧侶下立東庭、舞人・楽人左右相交一行列立行道、次衆僧、[證義者以下次第列立、]次荷薪・菜籠・水桶、蔵人三人[左衛門尉盛季・進士実親・大舎人助泰隆、各着青色荷之、]持之相従、(『中右記』長治元[1104]年八月六日条)

などの記述が見え、概ね六位程度の下級の参会者がこの役目を担ったことがわかります。

107hakkou_22 薪の行道では、精義以下の僧侶達と荷薪搬水の役の後、各々の用意した捧物を捧げ持つ参会者が続きました。
会場に臨席しない高位の人や女性の捧物は、使者など代理の人物が持ちました。
やはりこれが最大の注目の的だったようで、『栄花物語』や『小右記』『中右記』などには、誰の捧物は何で誰が持って巡ったか、といった事柄が詳細に書き留められています。
捧物には各参会者が競って趣向を凝らしたようで、長和元[1012]年五月十七日に五巻の日を迎えた皇太后彰子主催一条天皇追善八講の捧物のように、「皆無不金銀、尽善尽美」「捧物甚優美、以金銀為風流」(『小右記』同日条)「数度見八講此度不如、自金銀無外物、衆人所感有之」(『御堂関白記』同日条)と、参会者の目を奪う絢爛豪華な品々が揃えられることもありました。
(捧物にどのようなものが用いられたかの具体例は、次回ご紹介いたします)

ですが、『源氏物語』で薪の行道の様子が多少なりとも具体的に描写されているのは、藤壺主催の法華八講だけです。

親王たちも、さまざまの捧物ささげてめぐりたまふに、大将殿の御用意など、なほ似るものなし。(賢木巻)

この場面でも、モノよりも人に焦点を当てる『源氏物語』の特徴が表れていて、捧物が何だったかには触れず、捧物を捧げて行道する源氏の立居振舞の素晴らしさを賞賛しています。
その他は、紫の上主催の法華経千部供養での「薪こる讃嘆の声」(御法巻)が、行道の際に唄う法華讃嘆を指していると推定される程度です。
あとは間接的な描写として、明石中宮主催の法華八講の場面で

五巻の日などは、いみじき見物なりければ、こなたかなた、女房につきて参りて、物見る人多かりけり。(蜻蛉巻)

との一文があります。
この「いみじき見物」の中心は、煌びやかな捧物を手に人々が巡る薪の行道だったと思われます。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、薪の行道で本尊の周りを巡る人々。
手前左端の僧を先頭にして、荷薪搬水役の官人、捧物を捧げ持つ殿上人・上達部の順に右回りで並んでいます)

ところで、これも上に引用した『中右記』の記述からわかる点ですが、薪の行道は基本的に屋外で行いました。
会場が寺院のときは堂の外縁を、貴族邸宅のときは寝殿の前庭を巡りました。
屋外での行道であればこそ、治暦元[1065]年九月二十五日から高陽院内裏で営まれた法華八講に際して
皇后宮下におはしませど、何ごとも向ひたるやうにて、行道などもやがて同じごと御覧じつべし」(『栄花物語』巻第三十七「けぶりの後」)
と、寛子皇后が自分の局にいながらにして見物することも可能だったと理解できます。
屋外で行うとなれば、必然的に天候に影響されることになり、雨天順延ということも起きてきます。
有捧物事、依雨不廻庭中、只廻殿上」(『小右記』長徳四[998]年三月二日条)の例のように、やむを得ず屋内で行道を行うこともありました。
尚、現在も比叡山延暦寺の法華大会では、正装した僧侶達が平安時代の薪の行道さながらに大講堂の周囲を巡り歩くそうです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
天納傳中[ほか]編著『仏教音楽辞典』法蔵館 1995年
今成元昭「法華八講の<日>と<時>―古典解読のために―」(「立正大学人文科学研究所年報」31号 1994年 pp.1-9)
坂本幸男, 岩本裕訳注『法華経』(岩波文庫 青(33)-304-1~3)改版 岩波書店 1976年
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
儀礼文化学会HP内「比叡山延暦寺/法華大会・広学竪義

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2007年4月 6日 (金)

法華八講(8)僧の役割

104hakkou_19 法会の中心になるのは、勿論儀式を司る僧侶です。
法華八講は大規模な法会だけあって、多数の僧が招請されました。
請僧には、それぞれ精義(「證義」「證匠」とも)・講師・問者・聴衆などの役割が割り振られます。
精義・講師・問者については、既に法華八講(1)概要で述べたとおりで、問者と講師とが教義上の問答を行い、精義がその判定を行います。
聴衆は、法会に参列して説法を聴聞する伴僧です。
(写真上は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、行道する僧侶達)

それぞれの役割は別々の僧が勤めるのが基本と思われますが、中には
證義者、大僧都定澄・前大僧都院源、[兼講師、]」(『小右記』長和元[1012]年五月十五日条)
の例のように、1人の僧が精義と講師を兼ねる場合もありました。
また、
撰難問傑出之者廿人。為其聴衆。」(『扶桑略記』天暦九[955]年一月四日条)
朝講々師前大僧都院源、[則是證者、]問融碩、(中略)夕講々師少僧都澄心、問明尊、(中略)
聴衆、融碩・明尊・(後略)」(『小右記』長和元[1012]年五月十五日条)
などの記述から推測するに、聴衆の中から各座の問者が出る仕組みになっていたようです。
その他、記述のない例も多いので常にいたのかどうかははっきりしませんが、法会の中で唱える声明を担当する錫杖衆や梵音衆、法会の進行や雑務を担う堂達などが配されました。
(写真下は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、堂の端に控える堂達)

105hakkou_20 僧の人数は、天暦九[955]年一月四日から営まれた村上天皇宸筆八講では総勢65人(『扶桑略記』)、嘉承二[1107]年閏十月十二日初日の篤子内親王主催堀川天皇追善八講では10人(『殿暦』『中右記』)と、かなりの幅があります。
当時の記録を見ると、精義が2・3人、講師が10人前後、聴衆が10~20人程度といった構成が多く目に付きます。
錫杖・梵音について記録されている例を見ると、村上天皇宸筆八講では各16人(『扶桑略記』)、長保四[1002]年十月二十二日から一条天皇が営んだ母后藤原詮子追善八講では各14人(『権記』の記述。『本朝世紀』では梵音13人)、永延元[987]年四月二十九日からの円融法皇による母后藤原安子追善八講と万寿四[1027]年八月二十三日からの法成寺釈迦堂供養では各10人(いずれも『小右記』)と記されており、両方で20~30人が選ばれたようです。
堂達は、上述の藤原詮子追善八講で1人だったことが確認できる(『本朝世紀』)他、村上天皇宸筆八講で役割の確認できない1人(『扶桑略記』)がやはり堂達ではないかと推測されます。
精義・講師・聴衆と足し合わせると概ね40人以上、大規模になると60人を超える僧が招請されたことになります。

法華八講(1)概要でも触れたように、法華八講は経典の解釈を論じる法会です。
ですから、この出席する僧達(特に論議に関わる精義・講師・問者)には、当然のことながら深い学識が求められました。
光源氏主催の法華八講で

ことに僧などは、なべてのは召さず、才すぐれ行なひにしみ、尊き限りを選らせたまひければ、(蓬生巻)

と記されるのは、単に理想的な仏事の有様を表現したというだけでなく、法会の性格から必然的に要請された条件でもあったと言えます。

講座の主役は、説経をし問者の問いに答える講師です。
公家日記にも「朝座講師」「夕講々師」などの形で個々の座の講師の名を書き残した例が数多く見られ、それだけ当時の人々の講師に対する関心が高かったことを窺わせます。
清少納言に至っては

説教の講師は、顔よき。講師の顔を、つとまもらへたるこそ、その説くことの尊とさもおぼゆれ。ひが目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは罪を得らむとおぼゆ。(『枕草子』第三〇段「説教の講師は」)

などと書いており、あまりに俗な意見とも言えますが、講師への注目の一端がわかる内容です。
また講師には、宗教的な学識だけでなく主催者や世俗の参会者を感動させる話術も必要で、優れた講師の説経が人々を引き込む様は、しばしば同時代の記録に書き留められています。

朝座の講師清範、高座の上も光りみちたるここちして、いみじうぞあるや。(『枕草子』第三十二段「小白河といふ所は」)

永昭講経之間、殊尽弁才、大殿不堪感懐、忽解着剣、自進座下授之、(『左経記』寛仁二[1018]年十二月十八日条)

五日が説経いと尊し。かくめでたき事ども世にはありけりと見ゆ。(『栄花物語』巻第三十七「けぶりの後」)

『源氏物語』でも、先に挙げた蓬生巻の記述の他、藤壺主催の法華八講3日目の場面で

今日の講師は、心ことに選らせたまへれば、「薪こる」ほどよりうちはじめ、同じう言ふ言の葉も、いみじう尊し。(賢木巻)

との描写があります。
八講のクライマックスというべき五巻の日の講師は、中でも特に注目された筈ですので、「心ことに」と意を用いるのも自然なことです。

平安貴族の煌びやかな法華八講は、このように大勢の学才に秀でた僧達の手で執り行われていたのです。

【参考文献】
中村元[ほか]編『岩波仏教辞典』第2版 岩波書店 2002年
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
山本信吉「法華八講と道長の三十講」(上:「仏教芸術」77号 1970年 pp.71-84 下:「仏教芸術」78号 1970年 pp.81-95)
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
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2007年3月31日 (土)

法華八講(7)儀式次第

100hakkou_15 法華八講は、通常4~5日間かけて営まれる大掛かりな法会です。
4日間の場合は、1日二座で合計八座になりますが、5日間の場合は1日二座で事実上は法華十講である例と、何らかの都合で1日一座のみの日があって5日かかる例とがあったようです。

『源氏物語』の例を見ると、藤壺主催の八講では、1日ずつ先帝・母后・桐壺院の追善供養に当て最終日に自らの宿願として出家、と合計4日間となっていて、標準的な八講と言えます。
明石中宮主催の八講は、「五日といふ朝座に果てて」(蜻蛉巻)との記述があり、何日目かと最終日の5日目が一座のみだったことになります。
紫の上主催の法華経千部供養は「三月の十日なれば」(御法巻)と記され、夜を徹しての読経と音楽があって翌朝には終了したと読めます。
一昼夜という期間の短さは法華八講としては異例ですが、『日本仏教史辞典』(吉川弘文館 1999年)には

四日間朝夕二座で行われ、朝を朝座、夕方を夕座という。二日または一日にする場合もある。(法華八講)

とあり、必ずしも一昼夜で営まれたから八講でないとは言い切れないようです。
(ただし、私が調べた範囲では平安時代に1日ないし2日で営まれた実例は見つからず、この点については尚調査が必要と思われます)

次に、各日の儀式次第を見ていきましょう。

最初に書いたように1日二座で先に行う方を「朝座」と言いますが、実際に朝から行われたとは限りません。
当時の八講の様子を記した文献を読むと、まずは参会の公卿らに饗膳が設けられたことがわかります。

まだ講師ものぼらぬほど、懸盤して、なににかあらむ、ものまゐるなるべし。(中略)講師のぼりぬれば、皆、居静まりて、そなたをのみ見るほどに、(『枕草子』第三十二段「小白河といふ所は」)

諸卿並雲上人先着饗座、右大臣遅参、不着饗、抑酒三巡畢比、左相府令打鐘、左大臣已下起座、着御前座、次諸僧参入、(『小右記』長和元[1012]年五月十五日条)

相共参円教寺御八講、先着饗座、左大臣仰事由、令打鐘、了卿相着堂前座、(『小右記』長和四[1015]年六月廿二日条)

101hakkou_16102hakkou_17 酒食が振舞われた後、講座の開始を告げる鐘が打ち鳴らされます。
この「」は「磬(けい)」のことのようです。
磬は中国の古い楽器が仏事に取り入れられたもので、磬架という調度に紐で掛けて打ち鳴らします。
『枕草子』の書き振りだと講座を行う堂内で人々が食事をしていたように読めますが、『小右記』の記述から、饗膳が設けられたのは別の場所で、磬が鳴らされると共に堂内の席に移って法会を執り行う僧の参入を迎えたことがわかります。
(記事冒頭の写真は参考資料として、風俗博物館2002年第2期展示「女三の宮持仏開眼供養」より寝殿へ参入する僧達とそれを迎える殿上人。
記事中央の写真は、左が風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、本尊の前に設えた礼盤の右手に置かれた磬。〔博物館の許可を得て、模型上方より撮影〕
右は参考資料として、風俗博物館2004年上半期展示「秋好中宮主催による季の御読経」より、磬を正面から撮影したもの)

103hakkou_18 一同が入堂し、講師が高座に登ると、声明が唱えられ散華が行われます。
初日の最初の座では願文が読み上げられました。
願文は、法華八講に限らず仏事全般に言えることですが、主催者が優れた漢学者に依頼するのが一般的だったようで、『菅家文草』や『江都督納言願文集』にも、菅原道真・大江匡房がそれぞれ作文した種々の八講の願文が収められています。
その後、講説・論議・誦経・行香と展開し、講師が高座を降りて終了します。
一座にかかる時間は通常2~3時間程度とされますが、論議が白熱して長時間に及ぶこともあったようです。
(写真下は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、華籠を手に散華する僧)

朝座が終わると僧・参会者とも一旦退出するのが一般的だったと思われますが、退出せずにそのまま引き続き夕座が行われる場合もありました。
また、朝座と夕座の間に経典供養などが営まれることもあったようです。
朝座了後、就西対座、進数盃」(『御堂関白記』寛弘元[1004]年五月二十一日条)の例のように、朝座と夕座の間に酒席が設けられることもありました。
夕座が終わるのは夜になることが多く、公家日記では酉刻・戌刻といった時刻がよく見られます。

五巻を講ずる座では、講説などの後に薪の行道を行いました。
五巻の日は特に華やかな趣向を凝らすことが多く、座が果てた後に酒宴を催したり舟楽や舞楽を行う例も見られます。
結願の日には、最後の座が終了した後に、法会に奉仕した僧達へ布施が配られました。
また、どういう形でかはよくわかりませんが、初日には請僧に法服が授けられました。
紫の上主催の法華経千部供養で「七僧の法服など、品々賜はす」(御法巻)と記されるのは、これらの法服や布施を指しています。
(ただし、法華八講の請僧は證義・講師・問者などで、七僧〔講師・読師・呪願師・三礼師・唄師・散花師・堂達〕とは異なります。これも、紫の上の法華経千部供養を法華八講と見做してよいのか問題となる記述です)

概ね以上のような流れで、法華八講は進められました。
次回は、法会を司る僧達の役割をご紹介します。

【参考文献】
阿部猛, 義江明子, 相曽貴志編『平安時代儀式年中行事事典』東京堂出版 2003年
中村元[ほか]編『岩波仏教辞典』第2版 岩波書店 2002年
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
今泉淑夫編『日本仏教史辞典』吉川弘文館 1999年
天納傳中[ほか]編著『仏教音楽辞典』法蔵館 1995年
今成元昭「法華八講の<日>と<時>―古典解読のために―」(「立正大学人文科学研究所年報」31号 1994年 pp.1-9)
栗林史子「法華八講に関する二、三の問題―『御堂関白記』を中心に―」(『駿台史学』85号 1992年 pp.1-28)

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2007年3月15日 (木)

法華八講(6)堂の飾り・その2~供養具・机類~

096hakkou_11 法華八講での仏前の装飾や供養具について、『源氏物語』はあまり詳しく記していません。
“個別の仏具の名前が挙がっている”というレベルで

日々に供養ぜさせたまふ御経よりはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀の飾りも、世になきさまにととのへさせたまへり。(中略)仏の御飾り、花机のおほひなどまで、まことの極楽思ひやらる。(賢木巻)

と描かれる装飾経と巻物状の経を包む経帙、花机の覆いが見つかるくらいで、その他はほとんど何も具体的な記述がありません。

なので、実際の様子を知るには他の資料から補う必要があります。
一例として、皇太后彰子主催の法華八講の様子を記した『小右記』の記述を挙げてみます。

以金・銀・瑠璃荘厳御堂、其内安置白檀阿弥陀仏・観音得大仏、供以銀作飯・餅等、前机・経机・礼盤・燈台其飾異例、多用金・銀、(万寿二[1025]年三月廿日条)

引用文の前に「今日於上東門宮被修如八講之御読経、於寝殿有此事」(「」は「始」の誤り?)とあることから会場が土御門殿寝殿とわかるこの事例、金銀と瑠璃で装飾した堂内の煌びやかさと並んで、銀製の供物、金銀を多用した机と礼盤(らいばん)、燈台が特記されています。
(上の写真は風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、本尊の前の設え。手前から順に前机・経机・礼盤が並んでいます)

前机とは、本尊の前に置いて花や供物を載せる机のことです。
展示の前机には、閼伽器(閼伽・塗香・華鬘を入れる六器一組の茶碗型の器)と火舎(かしゃ。机の上に載せて香を焚く三脚式の据香炉)、樒(しきみ。仏教では、邪悪なものを退け清める力をもつ植物として仏前に供えます)を活けた花瓶、それから五鈷鈴(ごこれい)などの法具を載せた金剛盤などが載っていました。
経机は、名前のとおり経を載せたり読経のときに用いる机です。
写真からも、紺地の料紙に見返し絵が描かれた経の巻物が広げられているのがご覧いただけるかと思います。
礼盤は、修法のときに導師(=法会に際して中心になって儀式を執り行う僧)が座る四角い腰掛で、上には展示のように半畳を敷きます。

これらの仏具は木製の漆塗りが一般的で、「多用金・銀」とあるのは金銀の蒔絵をふんだんに施したものだったのではないかと想像されます。

097hakkou_12099hakkou_14 また、法華八講(4)会場と設営で引用した『小右記』長和元[1012]年五月十五日条に挙げられていた行香机は、法会の中で僧に配る焼香のための香を置く机で、香合(こうごう。薫香を入れておく容器)と火舎が用意されます。

因みに賢木巻に記されている「花机」は、特定の用途の机を指す言葉ではなく、脚に蓮華などの花を彫刻した机のことです。
(写真はいずれも参考資料。左は風俗博物館2002年下半期展示「女三の宮持仏開眼供養」より、花机にかけられた目染の覆い。右は風俗博物館2004年上半期展示「秋好中宮主催による季の御読経」より、行香の卓と散華の卓)

展示でも前机の上に載せられていた供養具については、法華八講ではありませんが、法成寺金堂供養を描いた『栄花物語』の記述が詳しいです。

仏の御前に螺鈿の花机、同じ螺鈿の高坏ども、黄金の仏器どもを据ゑつつたてまつらせたまへり。七宝をもて花を作り、仏供同じく七宝をもて飾りたてまつらせたまへり。火舎どもに色々の宝の香どもをたかせたまへれば、香薫じたり。(巻第十七「おむがく」)

高坏」「仏器」は、花束(けそく。餅や菓子を盛って仏前に供える台のこと)や閼伽器を指していると思われます。
火舎」は、上でご説明したとおりです。
閼伽は、「閼伽の具」という言葉が供養具の総称として使われるほど代表的な供養物で、仏前には必ず備えられます。
また、香は花・灯明と並ぶ基本的な供養物で、香を焚くことで場を清める意味があります。

一番上に載せた写真で言うと、机中央の経机寄りに置かれているのが火舎、その左右に3つずつ並んでいる器が閼伽器になります。
(閼伽器の横には杯のような形の器が左右に1つずつ置いてありますが、これはどういう仏具かわかりませんでした)
花束は木製の漆塗り、閼伽器や香炉は金銅製が多いようで、螺鈿や金、七宝で飾られた仏具の豪華さは如何ばかりかと思わされます。
098hakkou_13 (左の写真は参考資料として、2004年上半期展示「秋好中宮主催による季の御読経」より、仏前に供えられた閼伽器・花瓶・燈台)

このように、貴重な素材を惜しみなく注ぎ込んだ仏具類が本尊を取り囲み、堂を荘厳した様が、法華八講を含む平安時代の華麗な法会の装束だった訳です。
贅を尽くし、善美を尽くした法会の様相をご想像ください。

※掲載した写真のうち最初と最後の2枚は、いずれも博物館の許可を得て模型上方から撮影させていただいたものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
中野幸一編『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』至文堂 2000年
清水乞編『仏具辞典』新装版 東京堂出版 1999年
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)

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2007年3月12日 (月)

法華八講(5)堂の飾り・その1~華鬘・幡~

095hakkou_10 平安貴族が営んだ法華八講は、視覚的な華麗さに満ちていました。
『源氏物語』の描写にも
まことの極楽思ひやらる」(賢木巻)
生ける浄土の飾りに劣らず」(蓬生巻)
五巻の日などは、いみじき見物なりければ」(蜻蛉巻)
といった表現が見られ、その絢爛たる美しさが想像されます。
具体的にはどんな装飾がされたのでしょうか。

まず目に付くものとしては、法華八講(4)会場と設営で引用した『小右記』長和元[1012]年五月十五日条にも挙がっていた「花蘰代・幡」があります。
どちらも、堂の周囲を飾る荘厳具です。
(写真は風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、上長押と柱を飾る華鬘と幡)

華鬘(けまん)は、仏教の生まれ故郷・インドの風習から生まれた荘厳具です。
インドでは古来、糸で生花を綴るか結ぶかして輪にしたものを首にかけて装身具としたり、高貴な人に贈る習俗がありました。
それが仏教に取り入れられて仏への供養物となり、更には荘厳具となったのです。
やがて、生花はすぐに萎れてしまうことから、永続性のある牛皮や銅・木・ガラス玉などに花の文様を施したものが代わりに用いられるようになりました。
現在は、生花以外でつくられたものも含めて「華鬘」と呼びますが、細かく分類すれば生花以外を材料とするものは『小右記』が記すように「華鬘代」という呼び名になります。
はじめのうちは素材が替わっても輪の形をしていましたが、次第に花を結んだ紐の末端である総角結びと花輪の輪郭を残して内側に唐草文や迦陵頻伽、菩薩、梵字などをあしらった団扇形のものに鈴や垂れ飾りを下げた形へと変化します。
平安時代の遺物としては、東寺旧蔵の国宝・牛皮華鬘や中尊寺蔵の金銅製華鬘などがあります。
(東寺旧蔵の牛皮華鬘は現在奈良国立博物館で保管されており、国立博物館Webサイト・e国宝の「牛皮華鬘」のページで詳しい解説と共に画像を見ることができます。ご参照ください)
展示のように、堂内の上長押に掛けて飾ります。

幡(ばん・はた)は、もともと武人が戦場において己の武勲を敵や味方に誇示するために立てたもので、これが仏教に取り入れられて仏・菩薩の降魔の威徳を示す荘厳具となりました。
展示のように柱に掛ける他、天蓋に下げたり法要を行う庭や行道する両側に立てたりもしました。
三角形の幡頭、長方形の幡身、幡頭の下と幡身の左右から垂れる幡手、幡身の下から垂れる幡足の各部から構成されます。
材質も色も大きさも図柄も用途も使う場所もさまざまで、いろいろな分類方法があるようですが、展示のような布製が最も多く、絹や綾、金襴など豪華な生地を用いました。
長和元[1012]年五月十五日からの一条天皇追善八講でも、前日の十四日に
近習卿相・侍従給幡料錦等令縫」(『小右記』同日条)
と、錦などを材料として幡を縫ったことがわかります。

次回は、仏前に供える供養具を中心にご紹介します。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
清水乞編『仏具辞典』新装版 東京堂出版 1999年

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2007年3月 9日 (金)

法華八講(4)会場と設営

法華八講は、寺院で営まれる場合と貴族の私邸で営まれる場合とがありました。
ごく大雑把な分類ですが、毎年の恒例行事として営まれた追善八講は概ね故人の菩提寺を会場とし、逆に臨時の八講は主催者の私邸で営まれることが多かったようです。

例えば、一条天皇追善の八講は、六月二十二日の忌日に合わせて営まれる恒例のものは円教寺を会場としていますが、長和元[1012]年五月十五日を初日として皇太后彰子が臨時に修したものは枇杷殿で営まれています(『小右記』同日条)し、皇太后妍子が万寿三[1026]年五月十九日から営んだ臨時の三条天皇追善八講も、会場は寺院ではなく「皇太后宮」即ち枇杷殿です(『左経記』同日条)。
藤原道長が姉・詮子のために営んだ追善八講でも、恒例の忌日八講は慈徳寺を会場としている一方、寛弘元[1004]年五月十九日始修の臨時の八講については『御堂関白記』に「参××」といった記述が見えず、道長の自邸で営まれたのではないかと想像されます。
また、『枕草子』三十二段「小白河といふ所は」が記す藤原済時主催の結縁八講も、済時私邸の白河第で開かれています。

『源氏物語』では、具体的な描写がある4例のうち会場が特定できる3例はいずれも主催者の私邸に設定されています。
藤壺主催の例では
宮の内ゆすりて、ゆゆしう泣きみちたり」(賢木巻)
との描写から場所が藤壺の里邸の三条宮とわかりますし、紫の上の法華経千部供養は
わが御殿と思す二条院にてぞしたまひける」(御法巻)
とあるとおり、明石中宮主催も
五日といふ朝座に果てて、御堂の飾り取りさけ、御しつらひ改むるに」「釣殿の方におはしたるに」(蜻蛉巻)
などの描写から寺院や内裏ではなく貴族邸宅、つまり明石中宮の里邸である六条院と判明します。
源氏主催の例だけは会場が特定できませんが、
かの殿には、故院の御料の御八講、世の中ゆすりてしたまふ」(蓬生巻)
の「かの殿」を、源氏を指す婉曲表現ではなく直接的に場所を指すものと捉えれば、二条院が会場ということになります。

093hakkou_08会場の装束(設備の配置や飾り付け)に関しては、『栄花物語』や『小右記』『中右記』などに詳しい記述が残されています。
ここでは『源氏物語』に即して、貴族の私邸で催された例を中心に史料の記述を挙げてみます。

今日中宮奉為先帝、被修八講、仍未剋許参堀川院、於東対代廊母屋安置御仏、[等身金色阿弥陀三尊、造立西面、依便宜也、]母屋敷僧座、[北面二行、高麗端、]南面庇為公卿座、[高麗端、]南放出又庇為殿上人座、[紫端、](『中右記』嘉承二[1107]年閏十月十二日条)

この例は『源氏物語』の執筆時期より少々後の時代になりますが、堀川院で営まれた篤子内親王主催の堀川天皇追善八講の様子です。
東対代廊」というのが堀川院のいかなる建物のどういう部分なのか、私にはよくわかりませんが、ともかく母屋に本尊を安置し、その傍らに北向きに僧の座を設け、南廂に公卿、南又廂(おそらく南廂と簀子の間にもう一間廂があったのでしょう)に殿上人の座を配したことは確かです。
法華八講に限らず、母屋に本尊と僧の座、その外側の廂・簀子や周囲の廊などに参会者の座が配置されるのは、概ねどの仏事でも共通しています。
094hakkou_09 『源氏物語』ではあまり具体的な人・物の配置などを描きませんが、紫の上の法華経千部供養に参会した花散里と明石の君の座は「北の廂」(御法巻)に用意されていて、描かれた部分は実際の儀式と一致しています。
(写真上は参考資料として、風俗博物館2004年上半期展示「秋好中宮主催による季の御読経」より寝殿の装束。母屋に本尊の絵図が掲げられて周囲に僧が座り、南廂には列席の公卿が控えています。
写真下は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、北廂に設けられた花散里と明石の君の座。手前に座っているのは、それぞれの女君に付き従う女房達です)

皇太后宮従今日五箇日於枇杷殿奉為故院令講説給、(中略)御座所[寝殿母屋、]安置新仏、[釈迦如来・普賢・文殊、安置仏殿、]有金泥法華経、[納螺鈿筥、]並行香等机・雑具・花蘰代・幡皆是新作仏具也、不遑記耳、(『小右記』長和元[1012]年五月十五日条)

こちらは、上述の皇太后彰子による一条天皇追善八講の内容です。
寝殿母屋に新たに造立した釈迦三尊像を安置し、螺鈿の経箱に納めた金泥の装飾経を供え、机や供養具、華鬘や幡などもすべて新しく誂えたというのですから、その豪華さが覗えます。
仏の御飾り、花机のおほひなどまで、まことの極楽思ひやらる」(賢木巻)と描写された堂の飾りの具体像と言えるでしょうか。

この『小右記』引用文にもいろいろ挙がっているように、法会に用いられる仏具には、経を納める経帙や経箱、閼伽器・香炉・花瓶・燭台などの仏前に供える供養具、散華の花を盛る華籠、これらを乗せる机類、華鬘や幡などの堂内を飾る荘厳具…と、さまざまな種類があります。
次回は、そうした供養具や荘厳具をご紹介します。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
清水乞編『仏具辞典』新装版 東京堂出版 1999年
甲斐稔「『源氏物語』と法華八講」(「風俗」21巻3号 1982年 pp.43-58)
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
山本信吉「法華八講と道長の三十講」(上:「仏教芸術」77号 1970年 pp.71-84 下:「仏教芸術」78号 1970年 pp.81-95)
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2007年3月 6日 (火)

法華八講(3)本尊

090hakkou_05_2 法会では、仏像を安置したり仏画を掲げたりして本尊とします。
顕教である法華経の性格から、法華八講の本尊には通常は釈迦如来像を用いたと考えられますが、平安時代の事例を見ると、主催者や、追善供養の場合はその対象となる故人の宿願により、他尊を用いることも少なからずあったようです。
山本信吉氏がまとめた表に従うと、釈迦如来や釈迦三尊(釈迦如来を中尊として両脇侍に文殊菩薩・普賢菩薩が配されるのが一般的)の他、薬師如来や観音菩薩、阿弥陀如来などの名前が並び、更には大日如来や両界曼荼羅、大日曼荼羅など密教系の仏像・仏画が本尊となっている例もあります。

風俗博物館の展示では、普賢菩薩像が本尊とされていました。
(上の写真は2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、寝殿に安置された普賢菩薩像)
普賢菩薩は、法華経二十八品の最後である普賢菩薩勧発品に登場する菩薩で、釈迦入滅後の世界において法華経を受持し修行する者を守護することを誓願します。
その際、普賢菩薩は

是人若行若立。讀誦此經。我爾時乘。六牙白象王。與大菩薩衆。倶詣其所。而自現身。供養守護。安慰其心。
(この人、若しくは行み若しくは立ちて、この経を読誦せば、われはその時、六牙の白象王に乗り、大菩薩衆と倶にその所に詣りて、自ら身を現し、供養し守護して、その心を安んじ慰めん。)

と語ることから、絵画や彫刻に模られるときには、写真のように六牙の白象に乗り、法華経受持者を供養礼拝して合掌する姿とされるのが一般的です。
展示の普賢菩薩像は、大倉文化財団所蔵の国宝・普賢菩薩木像を参考に作成されたとのことでした。
『源氏物語』読者にとって普賢菩薩といえば、末摘花の鼻を譬えた「普賢菩薩の乗物とおぼゆ」(末摘花巻)という描写が真っ先に思い浮かぶところでしょうが、この譬えも、普賢菩薩が法華経受持者の守護者として信仰され、人々によく知られていればこそ可能だったと思われます。

法会に際して新たに仏像を造立する、あるいは新仏供養として八講を営むこともよく行われたようで、史料にいくつもの例を見ることができます。
(同様に新たに写経をして経供養を営む例もあり、仏像と経典の両方を誂えて供養する方がむしろ多いようですが、写経については後述します)
例えば、長和元[1012]年五月十五日から皇太后彰子が故一条院のために営んだ法華八講では釈迦三尊を新造していますし(『小右記』)、寛仁二[1018]年十二月十四日から営まれた藤原道長による両親追善の法華八講では
金色等身釈迦・阿弥陀仏、普賢・文殊・観音・徳大等菩薩」(『小右記』同日条)
と多様な仏像が造られています。
『栄花物語』にも、万寿三[1026]年五月十九日から営まれた皇太后妍子主催の故三条院追善八講(巻第二十七「ころものたま」)や治暦三[1067]年に中宮章子内親王が営んだ法華八講(巻第三十七「けぶりの後」)で仏像が造立され、供養が行われたことが記されています。
また、少々時代は下りますが、元永二[1119]年九月三十日に鴨院で源師子(時の関白・藤原忠実の妻)が仏経供養を営み、翌十月一日から講説が始まった法華八講の儀式次第は、『中右記』に詳細に記録されています。

『源氏物語』の中に本尊についての描写はありませんが、

六条の院の御ため、紫の上など、皆思し分けつつ、御経仏など供養ぜさせたまひて、いかめしく、尊くなむありける。(蜻蛉巻)

との記述があり、明石中宮主催の法華八講において、同時に仏経供養を営んだことがわかります。
皆思し分けつつ」とあるので、対象となる故人それぞれの生前の信仰に即して複数の仏像が造立されたのではないでしょうか。

091hakkou_06_1 092hakkou_07_1 最後に、イメージの参考として過去に風俗博物館で展示された仏像・仏画の写真を2枚掲載します。
左は2003年下半期展示「月見の宴~国宝源氏物語絵巻「鈴虫(一)」再現~」より、女三の宮の持仏として御帳台に安置された阿弥陀三尊像。
右は2004年上半期展示「秋好中宮主催による季の御読経」より、本尊として掲げられた大日如来・観音菩薩・虚空蔵菩薩図像。
(右側の写真は、博物館の許可を得て模型上方から撮影させていただいたものです)
こうした美しい仏像や仏画が法会の中心に位置していた筈で、平安時代の華麗な仏教信仰の形が想像される次第です。

【参考文献】
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
今成元昭「法華八講の<日>と<時>―古典解読のために―」(「立正大学人文科学研究所年報」31号 1994年 pp.1-9)
安東大隆「『栄華物語』にみえる法華八講」(「別府大学紀要」31号 1990年 pp.1-6)
山本信吉「法華八講と道長の三十講」(上:「仏教芸術」77号 1970年 pp.71-84 下:「仏教芸術」78号 1970年 pp.81-95)
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2007年3月 4日 (日)

法華八講(2)目的

高木豊氏によると、法華八講の始修については、延暦十五[796]年に岩淵寺で営まれたとする『三宝絵詞』などの伝承と、延暦元[782]年に摂津弥勒寺で営まれたとする『諸寺縁起集』所収の伝承の2種類が残されているそうですが、どちらも死者の追善のために忌日に営まれた点は共通しているといいます。
そうした起源を持つがゆえに、平安貴族が法華八講を催す目的の多くは追善供養でした。

皇室における追善八講は、元慶五[881]年十一月二十六日から5日間催された太皇大后・藤原明子による清和上皇一周忌の八講(『三代実録』)や延喜元[901]年八月二十三日~二十六日の宇多法皇による光孝天皇国忌の八講(『日本紀略』)、村上天皇が天暦九[955]年一月四日に母后・藤原穏子の追善のために自ら法華経を書写して修した宸筆八講(『扶桑略記』)などが古い事例で、以後、院政期まで天皇・母后のための国忌における法華八講が年中行事的に営まれました。
貴族による私的な八講も同様で、貞観十一[869]年には安倍貞行が亡父の追善と自らの逆修のために、また元慶五[881]年には菅原道真が父母のために、それぞれ法華八講を営んだのが早い例として確認できます(『菅家文草』巻第十一)。
『源氏物語』が書かれた一条朝の頃を見ても、藤原道長がほぼ毎年父・兼家と姉・詮子の忌日に合わせて法華八講を営んでいる(それぞれ「法興院八講」「慈徳寺八講」と呼ばれます)他、恒例かどうかは不明ですが、以下のような故人のための八講の事例が見つかります。

年月日 主催者 供養の対象(続柄)
寛和元[985]年三月二十六日 宗子内親王 藤原伊尹(祖父)
正暦元[990]年四月二十八日 資子内親王 藤原安子(母)
正暦元[990]年十二月八日 藤原詮子 藤原時姫(母)
寛弘元[1004]年五月十九日 藤原道長 藤原詮子(姉)
寛仁二[1018]年十二月十四日 藤原道長 藤原兼家(父)・藤原時姫(母)

『源氏物語』でも、賢木巻・澪標巻・蜻蛉巻の法華八講が故人の追善供養として描かれています。

中宮は、院の御はてのことにうち続き、御八講のいそぎをさまざまに心づかひせさせたまひけり。(中略)
初めの日は、先帝の御料。次の日は、母后の御ため。またの日は、院の御料。(賢木巻)

賢木巻では、藤壺が父・先帝と母后、夫・桐壺院のために法華八講を営んだことが描かれます。
当時、父母への孝養を説いた儒教の思想からの延長で盛んになった両親の追善供養を中心に、「果て」と称した一周忌を終えても大小さまざまな規模で仏事が行われました。
ここで藤壺が、桐壺院の一周忌の後に両親と夫の菩提を弔うために八講を主催したのも、当時の歴史に沿ったものといえます。

さやかに見えたまひし夢の後は、院の帝の御ことを心にかけきこえたまひて、「いかで、かの沈みたまふらむ罪、救ひたてまつることをせむ」と、思し嘆きけるを、かく帰りたまひては、その御急ぎしたまふ。神無月に御八講したまふ。(澪標巻)

こちらの例は、光源氏が須磨で見た夢に桐壺院が現れた際、院が「おのづから犯しありければ」(明石巻)と語ったことを心にかけ、その贖罪を願って法華八講を営んだものです。
帰郷した源氏は「院の御ために、八講行はるべきこと、まづ急がせたまふ」(明石巻)と、真っ先にこの法要の準備に取り掛かっており、追善供養としての法華八講の重みが覗われます。
(尤もこの桐壺院追善八講については、孝心だけでなく政治的な意図も指摘されています。その点については法華八講(14)政治的な意味をご覧ください)

蓮の花の盛りに、御八講せらる。六条の院の御ため、紫の上など、皆思し分けつつ、御経仏など供養ぜさせたまひて、いかめしく、尊くなむありける。(蜻蛉巻)

源氏死後の蜻蛉巻では、明石中宮の主催で六条院において父・光源氏と養母・紫の上の追善供養が行われています。

088hakkou_03 法華八講を営むもうひとつの目的に、生前に自ら仏事を営んで現世安穏・後生善処を祈願する逆修がありました。
上に挙げた安倍貞行の例でも、亡父の追善と並んで自らの逆修が意図されていましたが、逆修は末法の世への人々の不安が高まるほど盛んになり、特に11世紀半ば以降には八講に限らず数多くの逆修が記録に残されています。
『源氏物語』の中では、紫の上の法華経千部供養が逆修であると指摘されており、そこから己の死後の追善を頼む実子を持たない紫の上の孤独を読もうとする解釈もあります(松木典子氏「法華八講について」『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』所収)。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、塗籠に座を設えて法会を見守る紫の上)
物語を読み進めば、明石中宮が娘として最期を看取り、上述のとおり追善供養も営んでいるので、実子のない紫の上の立場をそう深刻に読む必要はないようにも思いますが、紫の上が御法巻冒頭で自身を「うしろめたきほだしだにまじらぬ御身」と捉えている点を考慮すると、中宮に追善供養を期待する気持ちは確かになかったと言えるかもしれません。

法華八講の目的の3つ目には、法華経結縁が挙げられます。
八講に参会した人々が共に法華経に帰依し互いに仏法に縁を結ぼうという趣旨で、こうした目的の八講は「結縁八講」と呼ばれました。
『枕草子』には、清少納言が結縁八講に赴いたことが記されています。

菩提といふ寺に、結縁の八講せしに詣でたるに、(第三十一段「菩提といふ寺に」)

小白河といふ所は、小一条の大将殿の御家ぞかし、そこにて上達部、結縁の八講をしたまふ。世の中の人、いみじうめでたきことにて、「遅からむ車などは立つべきやうもなし」と言へば、露とともに起きて、げにぞ、ひまなかりける轅の上にまたさし重ねて、三つばかりまではすこしものも聞ゆべし。(第三十二段「小白河といふ所は」)

ちょうどこの頃から、法会などに出向いて説経を聞くことが流行し始めたようで、第三十段「説教の講師は」からもそうした風潮が読み取れます。
(尚、これとほぼ同時期からいくつかの寺で身分の貴賎を問わず結縁を促す法華八講が営まれ始めますが、基本的に貴族が主催した結縁八講はあくまで貴族社会の中だけで閉じたものだったようです)
089hakkou_04 『源氏物語』では、紫の上が法華経千部供養の際に花散里と交わした

絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを  

結びおく契りは絶えじおほかたの残りすくなき御法なりとも

の贈答歌が、結縁八講を意識したやり取りと見做されています(倉田実氏「法華経千部供養―法華八講」『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』所収)。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、法会に参会した花散里)

この他、歴史上には延命長寿を祈念して算賀の仏事として法華八講を営んだ例も散見されますが、『源氏物語』に描かれた算賀で特に法華八講と見做すべき仏事はありません。
(『源氏物語』での算賀の仏事については、算賀(6)仏事と賀宴をご参照ください)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
小町谷照彦編『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』至文堂 2001年
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
中野幸一編『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』至文堂 2000年
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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2007年3月 1日 (木)

法華八講(1)概要

086hakkou_01 法華八講とは、法華経(=鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』)八巻を一巻ずつ八座で読誦・講讃する法会です。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、薪の行道をする僧と参会者)
具体的には、読師が経題を唱えて講師が経文を講釈し、更に問者が教義上の質問をして講師がそれに答え、精義が問答を判定、堂達が進行を司ります。
実際にはその時々で短縮や延引があるものの、朝夕二座の四日間で行うのが標準的な儀式次第でした。
その始まりには複数の伝承がありますが、いずれも平安時代初頭に死者の追善供養を目的として営まれたとされています。

天台宗の根本経典である法華経は、「護国の経典、成仏の直道」として平安貴族に篤く信仰され、絢爛華麗な法会が盛んに営まれました。
中でも、第五巻に収められた提婆達多品は、仏敵と竜女の成仏を説くところから悪人・女人往生の根拠として特に尊重されました。
087hakkou_02 法華八講にもその点が反映されており、この巻を講じる日は特筆して「五巻の日」と呼ばれ、関係者がさまざまな仏への捧げ物(これを「捧物(ほうもち)」と言いました。「俸物」とも書きます)を携えて参会し薪の行道を行いました。
薪の行道は、釈尊が前世で薪を拾い水を汲んで仙人に仕え妙法を授かったという提婆達多品中の逸話を踏まえ、僧と参会者が薪と水桶を背負ったり捧物を捧げ持ったりして法華讃嘆を唄いながら本尊の周りを右回りに巡るもので、視覚的・聴覚的な華やかさも相俟って、法会のクライマックスともいうべき盛り上がりを見せました。
(写真は、風俗博物館2007年上半期展示「紫の上による法華経千部供養」より、薪の行道で捧物を手に本尊の周りを巡る上達部・殿上人達。
博物館の許可を得て、模型上方より撮影させていただきました)
『栄花物語』『紫式部集』『御堂関白記』『小右記』など、仮名・漢文を問わず多くの史料に五巻の日への言及が見られるのも、当時の人々の関心の高さを示すものといえます。

『源氏物語』の中では、藤壺主催(賢木巻)、光源氏主催(澪標巻)、紫の上主催(御法巻)、明石中宮主催(蜻蛉巻)の法華八講が描かれています。
(紫の上主催の法華経千部供養は八講と明記されておらず、甲斐稔氏のように八講とのずれを指摘して通常の経典供養と見做す研究者もいますが、帝・后や他の女君達が「俸物」を用意したり「薪こる讃嘆の声」と薪の行道を指すと思われる記述があるので、私は八講の形式で営まれたのではないかと考えます)
この他、出家した女三の宮が年に二回法華八講を営んでいることが匂宮巻に語られていますが、具体的な法会の描写はありません。

尚、法華会の種類としては、法華八講以外に法華十講や法華三十講などもありました。
十講は、法華経八巻に無量義経(=開経。釈尊が法華経に先立って説いた経典)と観普賢菩薩行法経(=結経。法華経を受け結びとして説いた経典)の各一巻を加えた全十巻を十座で、三十講は、『法華経』八巻二十八品と開結二経を三十座で講じるものです。
栄華を極めた藤原道長が法華三十講を度々営んだことは、よく知られています。
ただし、今成元昭氏の調査によると、史料の中には十講や三十講も「八講」と称している例が少なからずあるとのことで、「法華八講」の語には法華経の講説を行う法会の象徴としての意味合いもあったようです。

以下、『源氏物語』の記述と歴史上の事例を照らし合わせつつ、より詳しい儀式の内容をご紹介します。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
小町谷照彦編『源氏物語の鑑賞と基礎知識19 御法・幻』至文堂 2001年
須田哲夫編『源氏物語の鑑賞と基礎知識13 末摘花』至文堂 2000年
中野幸一編『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』至文堂 2000年
中村元[ほか]編『岩波仏教辞典』第2版 岩波書店 2002年
天納傳中[ほか]編著『仏教音楽辞典』法蔵館 1995年
高木豊著『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 1973年
今成元昭「法華八講の<日>と<時>―古典解読のために―」(「立正大学人文科学研究所年報」31号 1994年 pp.1-9)
甲斐稔「『源氏物語』と法華八講」(「風俗」21巻3号 1982年 pp.43-58)
山本信吉「法華八講と道長の三十講」(上:「仏教芸術」77号 1970年 pp.71-84 下:「仏教芸術」78号 1970年 pp.81-95)

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2007年2月25日 (日)

算賀(6)仏事と賀宴

算賀(3)事前準備にて、天皇・上皇・太后の算賀では賀宴の前に諸寺で諷誦を修することをご紹介しましたが、その例に限らず、法要を催して無病息災や将来の福徳を祈願することが広く行われました。
歴史上の天皇・上皇算賀では、僧が賀の主催者となって造仏や写経を行ったり、御賀の巻数を奉じたりした事例がありますし、『栄花物語』巻二十「御賀」には被算者の年齢に合わせて60人の僧侶を招いたことが記されています。

『源氏物語』においては、紫の上主催の式部卿宮五十の賀と、同じく紫の上主催の光源氏四十の賀で、まず仏事を催し、後日に精進落としの祝宴を行ったことが語られます。
(式部卿宮五十の賀は、準備の描写のみ)

年返りて、ましてこの御いそぎのこと、御としみのこと、楽人、舞人の定めなどを、御心に入れていとなみたまふ。経、仏、法事の日の装束、禄などをなむ、上はいそがせたまひける。(乙女巻)

神無月に、対の上、院の御賀に、嵯峨野の御堂にて、薬師仏供養じたてまつりたまふ。(中略)二十三日を御としみの日にて、この院は、かく隙間なく集ひたまへるうちに、わが御私の殿と思す二条の院にて、その御まうけせさせたまふ。(若菜上巻)

また女三の宮主催の朱雀院五十の賀では、

五十寺の御誦経、また、かのおはします御寺にも、摩訶毘盧遮那の(若菜下巻)

と当日最初に読経が催され、ついで舞楽や女三の宮の琴演奏などが行われたと推測されます。

賀宴当日の儀式の概略は、『新儀式』の他、『小右記』や『栄花物語』などからわかります。

『新儀式』第四「奉賀天皇御算事」では、天皇が出御した後に内侍が人々を召し、それに応じて親王以下が参入・着座するとなっており、上皇・皇后算賀でも同様の儀式次第になっています。

仏事を当日に行う場合は、まず最初に法要が営まれたようです。

次いで献物がされ、被算者と列席者に食膳が供されます。
献物と食膳については、算賀(4)室礼・献上品でご紹介したとおりです。

084sanga_8 その後、楽人が参入して奏楽し、舞楽を行います。
舞楽は賀宴の華だったようで、仮名作品ではほとんど例外なく舞楽についての記述がありますし、漢文日記でもよく言及されています。
それらの記述で特に頻繁に登場するのが「陵王」と「納曽利(落蹲)」で、その他「万歳楽」「賀王恩」「賀殿」「秋風楽」「皇麞」「太平楽」「喜春楽」「青海波」などが見られます。
ただし「青海波」については、青海波(1)伝来と平安時代の事例で書きましたように、『源氏物語』の影響で算賀に取り入れられるようになったとも考えられます。
当然のことですが、行事の性格上、華やかでおめでたい演目が好まれたのでしょう。
(写真は、風俗博物館2004年下半期展示「紫の上主催源氏四十の賀」より、納曽利の入綾を舞う夕霧と柏木。左側に並んでいるのは、右方の楽人が控える平張)

舞楽が終わると儀式は終了で、列席者に禄が授けられ、被算者は退出します。
『新儀式』第四「奉賀天皇御算事」によると、帝が清涼殿へ還御した後、管弦に堪能な公卿や侍臣を御前に召して酒宴を賜い歌や管弦の遊びを催すこととなっており、内輪の宴で〆となったようです。
『栄花物語』巻二十「御賀」にも、舞楽の後に上達部によって管弦の遊びがなされたことが記されていますし、これはつくり物語の例になりますが『うつほ物語』菊の宴巻でも舞楽の後であて宮が琴を演奏する場面があります。

『源氏物語』の算賀の場面も、こうした史実の儀式次第に則った内容になっています。

朱雀院の御薬のこと、なほたひらぎ果てたまはぬにより、楽人などは召さず。(若菜上巻)

と断り書きの付いた玉鬘主催の光源氏四十の賀のみを例外として、当日の様子が描かれない式部卿宮五十の賀・朱雀院五十の賀も含めたすべての例で楽人と舞人の用意に特に気を配ったことが読み取れますし、当日の様子を描いた場面では、列席者に見事な禄が授けられた記述で儀式の様子が締め括られています。
085sanga_9 また、玉鬘主催・夕霧主催の源氏四十の賀での管弦の演奏や、朱雀院五十の賀で予定された女三の宮の琴演奏は、宴の終わりに催される内輪の遊びに当たると考えられます。
(写真は、風俗博物館2004年上半期展示「玉鬘主催源氏四十の賀」より、列席の公卿・親王達と、管弦の遊びのための楽器の用意をする人々)
舞楽の曲目については、「青海波」「秋風楽」(紅葉賀巻)「万歳楽」「皇麞」「落蹲」(若菜上・下巻)「賀王恩」(若菜上巻)「陵王」「太平楽」「喜春楽」(若菜下巻)の名前が挙がっています。

以上、歴史の記録や他の作品に記された算賀の記述から、『源氏物語』の算賀の場面を見てまいりました。
『源氏物語』の描写は、当時の慣習をよく踏まえており、歴史的にも価値が高いとされています。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
浅尾広良[著]『源氏物語の準拠と系譜』第Ⅱ篇第3章「光源氏の算賀―四十賀の典礼―」翰林書房 2004年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識14 若菜上(後半)』至文堂 2000年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識3 若菜上(前半)』至文堂 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2007年2月21日 (水)

算賀(5)屏風と屏風歌

083sanga_7 前回の記事で算賀の室礼に用いる調度をご紹介しましたが、屏風は、ある意味でこの儀式にとって最も重要な調度だったと言うことができます。
屏風を新調してそこに祝いの歌を書き記して贈り、賀宴の際に被算者の後ろに立てるのが通例だったからです。
(写真は、風俗博物館2004年下半期展示「紫の上主催源氏四十の賀」より、倚子に腰掛ける光源氏の後ろに立てられた屏風)

『古今集』巻第七「賀歌」所収の22首のうち、詞書に明記されているものだけで17首までが算賀の歌です。
特に、第三五一番歌~第三五四番歌、第三五七番歌~第三六二番歌は、その詞書から屏風に書くために詠まれたものであることがはっきりしています。
『拾遺集』でも、算賀の歌15首のうち9首が屏風歌になっています。
また『落窪物語』や『うつほ物語』『栄花物語』などの仮名作品が描く賀の場面には、屏風歌が列記されますし、源倫子六十の賀を描く『栄花物語』巻二十「御賀」には、敢えて新しく歌を詠出することはせずに賀の古歌を藤原行成が認めたことが詳しく書かれています。

算賀の歌に共通するのは、「千歳」「八千代」「万代」といった長寿を表す語や、「」「」「」といった長寿を象徴する景物が詠み込まれている点です。
詞書に「四季の絵かけるうしろの屏風にかきたりけるうた」とある『古今集』第三五七番歌~第三六二番歌の屏風歌でも、単なる四季歌に留まらず、「わかな」「よろづ代をいはふ」(第三五七番歌)、「ここらの年」(第三五九番歌)、「住の江の松」(第三六〇番歌)、「色もかはらぬときは山」(第三六二番歌)といった具合に、祝意を表す語句が織り込まれています。

『源氏物語』でも、算賀のために新調された屏風に言及がなされています。

屏風、壁代よりはじめ、新しく払ひしつらはれたり。(若菜上巻)

うしろの御屏風四帖は、式部卿宮なむせさせたまひける。いみじく尽くして、例の四季の絵なれど、めづらしき泉水、潭など、目馴れずおもしろし。(若菜上巻)

御屏風四帖に、内裏の御手書かせたまへる、唐の綾の薄毯に、下絵のさまなどおろかならむやは。おもしろき春秋の作り絵などよりも、この御屏風の墨つきのかかやくさまは、目も及ばず、思ひなしさへめでたくなむありける。(若菜上巻)

上から順に、玉鬘主催、紫の上主催、夕霧主催の光源氏四十の賀で用意された屏風についての記述です。
玉鬘が用意した屏風がいかなるものだったかはわかりませんが、紫の上主催の場合は『古今集』の例と同様に四季の絵、夕霧主催の場合は冷泉帝が筆を染めたことが語られます。

いずれも非常に素晴らしい屏風であることが語られますが、末沢明子氏「『源氏物語』の中の屏風をめぐって」(『源氏研究』第7号所収)が指摘するように、屏風歌については全く言及がないことに気が付きます。
そのことの文学的意味をここで云々する用意は私にはありませんが、算賀における屏風の位置付けや、三代集や他の物語の傾向を考えると、『源氏物語』の算賀の場面での屏風歌の不在というのが注目すべき事柄であることは確かだろうと思います。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
浅尾広良[著]『源氏物語の準拠と系譜』第Ⅱ篇第3章「光源氏の算賀―四十賀の典礼―」翰林書房 2004年
末沢明子著「『源氏物語』の中の屏風をめぐって」(『源氏研究』第7号 2002年 pp.21-32)
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識14 若菜上(後半)』至文堂 2000年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識3 若菜上(前半)』至文堂 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2007年2月17日 (土)

算賀(4)室礼・献上品

080sanga_4 儀式の室礼は、儀式書をはじめさまざまな文献に細かく記録されています。
全部を書き出すと非常に煩雑になりますので、概略のみをまとめます。
(写真は、風俗博物館2004年下半期展示「紫の上主催源氏四十の賀」より、細工物の鳥が花を銜えた姿に装飾された贈り物の挿頭)

『新儀式』によると、天皇・上皇・太后などの公の算賀では、会場となる殿舎の室礼を算賀の当日早朝に行いました。
ただし太后算賀の場合だけは、常寧殿を会場とするためか前日に室礼をすると定めています。

殿舎の中心には、被算者の座が設けられます。
天皇の算賀では節会と同様に倚子を立て、上皇・太后の算賀では大床子(背凭れや肘掛のない机に似た腰掛。上に円座を敷き脇息を置きます)が用いられました。
倚子や床子はほとんど宮中でのみ用いられた座具ですので、臣下の算賀は平敷の座だったようです。
ただし上皇算賀であっても、陽成天皇七十の賀のように倚子が立てられたり、逆に宇多上皇四十の賀のように平敷の御座だったりする例もあります。
『源氏物語』若菜上巻での光源氏四十の賀で、玉鬘主催のときは「うるはしく倚子などは立てず」、紫の上主催のときは「螺鈿の倚子立てたり」と倚子の有無が真っ先に言及されるのは、それが儀式の格式に直接的に関わってくるからでしょう。

被算者の座の後ろには屏風を立てます。
(屏風については次回詳述いたします)

その周囲には、被算者に贈呈される装束・日用品・杖・挿頭・酒食の膳などが、唐櫃や厨子や棚、机などの調度品に納められて並びます。

装束類は、『新儀式』第四「天皇奉賀上皇御算事」に

立御厨子各五基。[五基納夏冬御衣。五基積雑帛各五十疋。(後略)]

とあるように、1年間の衣類を満遍なく揃えるのが通例で、夏冬の衣裳の他、仕立てていない絹織物も含まれました。
日用品も非常に多岐にわたり、史実ではなく物語の記述ではありますが、『うつほ物語』菊の宴巻や『源氏物語』若菜上巻に列挙された品々からその具体的な中身を知ることができます。

かくて、后の宮の御賀、正月二十七日に出で来る乙子になむ仕りたまひける。設けられたる物、御厨子六具、沈、麝香、白檀、蘇枋。香の唐櫃など、覆ひ、織物、錦、御箱、薫物、薬、硯の具よりはじめて、御衣は女、御衾、御装ひ、夏、冬、春、秋、夜の御衣、唐の御衣、御裳。御箱の折立、ちらしろかね置きて、千鳥の蒔絵して、内の物、色に従へてありがたく清らにて、なずらへ据ゑたり。御手水の調度、白銀の手つきの御盥、沈を丸に削りたる貫簀、白銀の半挿、沈の脇息、白銀の透箱、唐綾の御屏風、御几帳の骨、蘇枋、紫檀、夏、冬、ありがたし。御几帳の帷子、冬、香ぐはしき御褥、御座、いふばかりなし。御台六具、金の御器に黄金の毛打てり。これらよりはじめてせぬことなし。(『うつほ物語』菊の宴)

嵯峨院后の宮六十の賀に用意された品々です。
およそ衣食住に関する身の回りの品々はすべて挙がっているといってよいかと思います。

南の御殿の西の放出に御座よそふ。屏風、壁代よりはじめ、新しく払ひしつらはれたり。うるはしく倚子などは立てず、御地敷四十枚、御茵、脇息など、すべてその御具ども、いときよらにせさせたまへり。
螺鈿の御厨子二具に、御衣筥四つ据ゑて、夏冬の御装束。香壷、薬の筥、御硯、ゆする坏、掻上の筥などやうのもの、うちうちきよらを尽くしたまへり。御插頭の台には、沈、紫檀を作り、めづらしきあやめを尽くし、同じき金をも、色使ひなしたる、心ばへあり、今めかし
く。(『源氏物語』若菜上巻)

寝殿の放出を、例のしつらひにて、螺鈿の倚子立てたり。
御殿の西の間に、御衣の机十二立てて、夏冬の御よそひ、御衾など、例のごとく、紫の綾の覆どもうるはしく見えわたりて、うちの心はあらはならず。
御前に置物の机二つ、唐の地の裾濃の覆したり。插頭の台は、沈の花足、黄金の鳥、銀
の枝にゐたる心ばへなど、淑景舎の御あづかりにて、明石の御方のせさせたまへる、ゆゑ深く心ことなり。
うしろの御屏風四帖は、式部卿宮なむせさせたまひける。いみじく尽くして、例の四季の絵なれど、めづらしき泉水、潭など、目馴れずおもしろし。北の壁に添へて、置物の御厨子、二具立てて、御調度ども例のことなり。
(『源氏物語』若菜上巻)

081sanga_5こちらは、上が玉鬘主催、下が紫の上主催の源氏四十の賀の描写です。
(写真は、風俗博物館2003年上半期展示「玉鬘主催源氏四十の賀」より、算賀のために用意された贈り物の薬や衣類、調度など)

算賀に特徴的な贈り物に、杖と挿頭があります。
いずれも老いを表すもので、長寿への祈りを込めて贈りました。

杖は、特に握りの部分を鳩の形に彫った「鳩の杖」が用いられました。
(記録で確認できるのは、もうちょっと後の時代の鎌倉時代初期ですが)
なぜ鳩か?というのは諸説ありますが、鳩は餌を食べるときに噎せないのでそれにあやかって、とするのが定説です。
また、長寿を象徴する竹でつくった杖が贈られた例も『拾遺集』に見られます。

一節に千世をこめたる杖なればつくともつきじ君が齢は(巻第五「賀」二七六番歌)
君がため今日切る竹の杖なればまたもつきせぬ世ゝぞこもれる(巻第五「賀」二八〇番歌)

挿頭は、元来は被算者の頭髪の老いを隠すための意味だったといわれますが、賀宴においては献上された挿頭が被算者から舞人に下賜される記述が多く見られます。
挿頭には季節の花が使われたと推測されますが、『後撰集』には

万世の霜にも枯れぬ白菊をうしろやすくもかざしつる哉(巻第二十「慶賀 哀傷」一三六八番歌)

と、菊の花を挿頭に用いた例が見られます。
菊は、重陽の節句に如実に表れているとおり、長寿の効用が信じられていた花です。

082sanga_6 酒食の膳は、被算者の正式な食膳(天皇や上皇の場合、「威儀御膳(いぎのおもの)」と呼びます)の他、列席の公卿・殿上人や楽人・舞人らに振舞う酒や料理も用意されました。
玉鬘主催の光源氏四十の賀では

御土器くだり、若菜の御羹参る。(若菜上巻)

とあって、被算者の源氏と列席の公卿らが若菜の羹と酒を共にしたことが描かれますし、紫の上主催の光源氏四十の賀で

西東に屯食八十具、禄の唐櫃四十づつ続けて立てたり。(若菜上巻)

とあるのは、『新儀式』第四「奉賀天皇御算事」に倣って諸大夫・楽人のために用意された食膳です。
(写真は風俗博物館2004年下半期展示「紫の上主催源氏四十の賀」より、庭に設えられた屯食と唐櫃)

これらの調度品は、上に引用した厨子や机、屯食、唐櫃などの個数にも見えるように、被算者の年齢に合わせて四十歳なら40個やその倍数の80個、五十歳なら50個や100個といった数に揃えるのが通例でした。
数字を合わせるのは、調度品だけでなく賀宴の楽人や仏事の僧侶の人数なども同様です。

次回は、この記事で省略した屏風と、そこに記される屏風歌についてご紹介します。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
浅尾広良[著]『源氏物語の準拠と系譜』第Ⅱ篇第3章「光源氏の算賀―四十賀の典礼―」翰林書房 2004年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識14 若菜上(後半)』至文堂 2000年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識3 若菜上(前半)』至文堂 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2007年2月 9日 (金)

算賀(3)事前準備

前の2回で算賀という儀式を「誰がいつどこで」行うかをご紹介しましたが、これから4回かけて「どのように」をご紹介いたします。
まずは、大掛かりな儀式らしく当日前の準備から。

算賀の日取りは前もって定め、その日に向けてさまざまな準備が行われます。
『新儀式』の定めるところでは、天皇主催の上皇・太后算賀に際して1・2年前から行事官を定めて準備に当たるとあります。
『源氏物語』でも光源氏の四十の賀について

明けむ年、四十になりたまふ、御賀のことを、朝廷よりはじめたてまつりて、大きなる世のいそぎなり。(藤裏葉巻)

と語られますが、史料に照らせばこれが決して物語的誇張などではないことがわかります。

天皇・上皇・太后の算賀では、当日に先立って諸寺において諷誦(ふうじゅ。経文を声に出して読み上げること)が修され、また京中に賑給(しんごう。本来は天災時に難民へ米・塩などを給付することを指しましたが、慶事にも民に米・塩・布などが給与されました)が行われます。
秋好中宮主催の光源氏四十の賀で、六条院秋の町での饗宴に先立って

奈良の京の七大寺に、御誦経、布四千反、この近き都の四十寺に、絹四百疋を分かちてせさせたまふ。(若菜上巻)

と誦経を行わせた記述があるのは、この諷誦に準ずるのではないかと思います。

天皇主催の上皇・太后算賀の場合は、数日前に試楽が行われます。
『新儀式』には、仁寿殿東庭に舞台を設け、天皇・東宮が出御して舞を検分し、列席の親王や公卿に酒肴を賜い舞童に禄を授けるとの次第が記されており、『西宮記』にも

承平四年三月廿四日、中宮御賀試楽、天皇御仁寿殿覧其儀、(巻十二「皇后御賀事」)

と記録されています。

こうした原則を踏まえると、『源氏物語』における朱雀院行幸の試楽を

主上も、藤壷の見たまはざらむを、飽かず思さるれば、試楽を御前にて、せさせたまふ。(紅葉賀巻)

と桐壺帝が御前(=清涼殿東庭)で執り行ったのは、藤壺のための特例措置だったと考えられます。
また、光源氏が六条院において朱雀院五十の賀の調楽を行うのを「試楽」(若菜下巻)と称していることに注意するなら、天皇主催の上皇算賀に準ずる儀式次第を踏んでいることになります。
浅尾広良氏「光源氏の算賀-四十賀の典礼-」(『源氏物語の準拠と系譜』所収)は、

「四十の賀といふことは、さきざきを聞きはべるにも、残りの齢久しき例なむ少なかりけるを、このたびは、なほ、世の響きとどめさせたまひて、まことに後に足らむことを数へさせたまへ」(若菜上巻)

という源氏の言葉を取り上げて、四十の賀を受けて程なく亡くなった仁明・村上両天皇を念頭に自らを天皇に重ねていると指摘していますが、ここでも源氏は天皇と重ね合わせられている訳です。

『新儀式』第四「天皇奉賀上皇御算事」には、算賀前日に内裏において行事所に命じて調度類の検分を行い、その後それらを会場となる朱雀院へ運び出すことも書かれています。

次回は、当日の室礼についてです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
浅尾広良[著]『源氏物語の準拠と系譜』第Ⅱ篇第3章「光源氏の算賀―四十賀の典礼―」翰林書房 2004年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識14 若菜上(後半)』至文堂 2000年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識3 若菜上(前半)』至文堂 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2007年2月 1日 (木)

算賀(2)時期と場所

078sanga_2 算賀の5W1H(誰がいつどこで何をなぜどのように)の2回目は、「いつ」と「どこで」について。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より、紅葉の下で青海波を舞う光源氏・頭中将と御簾の内で舞を見る桐壺帝・一院・東宮)

算賀の時期については、特段の決まりはないようです。
ただ、史実の例を見ると、10~12月に多い傾向が見られます。
何か理由があるのか、それともたまたまなのか、解説書などにも時期に関する説明は全く載っていないのでどうにもわかりません。

『源氏物語』では、この傾向に呼応するような設定がされています。
光源氏四十の賀は、正月に1回(玉鬘主催)あった他は十月(紫の上主催)と十二月(秋好中宮主催・夕霧主催)に合計3回催されており、朱雀院五十の賀も、正月(今上帝主催)と十月(女二の宮主催)と十二月(女三の宮主催)に1回ずつとなっています。
紅葉賀巻の朱雀院行幸も、十月のことですので傾向と合致します。
ただし、女三の宮主催の朱雀院五十の賀は、もともと二月の予定だったのが延引に延引を重ねた末に歳末にまで押し詰まってしまった結果ですので、傾向に即したものという訳ではありません。

079sanga_3 正月に催す場合は、年中行事の供若菜と絡めて若菜調進の祝賀を行ったようです。
※リンク先は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている考察です。
延長二[924]年正月二十五日の醍醐天皇四十の御賀に際して、父・宇多上皇が若菜の羹を献上した史実は有名で、

正月二十三日、子の日なるに、左大将殿の北の方、若菜参りたまふ。(若菜上巻)

と語り出される玉鬘主催の光源氏四十の賀の準拠ともされています。
『うつほ物語』に描かれる大宮主催の嵯峨院后の宮六十の賀も、正月乙子の日に設定され、若菜調進がされています。
(写真は風俗博物館2004年上半期展示「玉鬘主催源氏四十の賀」より、祝宴に用意された若菜の羹を載せた懸盤)

場所については、公事の算賀には一定の決まりが示されています。

基本的に天皇算賀では紫宸殿が会場とされたようです。
『新儀式』「奉賀天皇御算事」には、南殿(=紫宸殿)に帝の御座と公卿の座、宜陽殿西廂に侍従の座を設けると記されており、『西宮記』巻十二「天皇御賀」に挙がっている諸例でも紫宸殿で催されています。
ただし、東宮道康親王(後の文徳天皇)や右大臣藤原良房がそれぞれ主催した仁明天皇四十の賀のように、清涼殿が会場となった例も散見されます。

上皇算賀は、後院で催すのが通例でした。
『新儀式』「天皇奉賀上皇御算事」では会場を「朱雀院」と明記しています。
史実でも、淳和天皇主催の嵯峨上皇四十の賀が内裏で行われた他は、冷泉院(陽成上皇七十の賀)、朱雀院(宇多法皇四十の賀・五十の賀)、亭子院(宇多法皇五十の賀・六十の賀)が会場になったことがわかっています。

太后算賀は、主催者によって会場が異なってくるようです。
天皇主催の場合は常寧殿を基本としながらも、異なる例も少なからず見受けられます。
『新儀式』「天皇賀太后御算事」には、会場を常寧殿としつつも割注に

元應二年。設給宴於清涼殿云々。

とあって清涼殿開催の前例もあったことが記録されており、『西宮記』巻十二「皇后御賀事」にも、常寧殿と清涼殿で催されたそれぞれの事例が記されています。
また、陽成天皇主催の藤原明子五十の賀(清和院)のように、太后の御座所を会場とした場合もありました。
主催者が上皇になると、その仙洞御所が会場とされることがあり、二条院(=陽成院)で行われた陽成上皇主催の藤原高子五十の賀がその例として挙げられます。

また、いずれの場合も儀式や宴と並行して、寺院で長寿祈願の仏事が行われました。

臣下の算賀になると、一定の法則性や基本路線というのはよくわからず、大まかな傾向がまとめられる程度です。
パターンとしては以下の3つがあります。

  • 被算者の邸に主催者が赴いて儀式を行う
  • 主催者の邸に被算者を招いて儀式を行う
  • 被算者または主催者に縁の寺院などで仏事を修す

『源氏物語』の例をこれに照らし合わせると、やはり同様の分類になります。

  • 被算者邸会場
    • 桐壺帝主催一院四十の賀(朱雀院)
    • 玉鬘主催源氏四十の賀(六条院)
    • 夕霧主催源氏四十の賀(六条院)
    • 落葉の宮主催朱雀院五十の賀(西山御寺)
    • 〔女三の宮主催朱雀院五十の賀?〕
  • 主催者邸会場
    • 紫の上主催式部卿宮五十の賀(六条院)
    • 紫の上主催源氏四十の賀(二条院)
    • 秋好中宮主催源氏四十の賀(六条院秋の町)
  • 仏事
    • 紫の上主催源氏四十の賀(嵯峨御堂)
    • 秋好中宮主催源氏四十の賀(奈良七大寺・京四十寺)
    • 女三の宮主催朱雀院五十の賀(五十寺・西山御寺)
  • 会場不明
    • 今上帝主催朱雀院五十の賀

次回からは、「どのように」、具体的な儀式の進め方をご紹介します。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
浅尾広良[著]『源氏物語の準拠と系譜』第Ⅱ篇第3章「光源氏の算賀―四十賀の典礼―」翰林書房 2004年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識14 若菜上(後半)』至文堂 2000年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識3 若菜上(前半)』至文堂 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2007年1月26日 (金)

算賀(1)主催者と被算者

077sanga_1 算賀とは、長寿を祝い、更なる長寿を祈る通過儀礼です。
平安時代は数え四十歳から老年期と見做されて長寿を祝い、その後は10年おきに祝宴を催しました。
年齢に応じて「四十の賀」「五十の賀」などと言いますが、四十の賀だけは“shi”の音を忌んで「五八の賀」と称する場合もありました。
(写真は風俗博物館2004年上半期展示「玉鬘主催源氏四十の賀」より対面する光源氏と玉鬘)

算賀は奈良時代から行われており、『懐風藻』に収録されている「五言。賀五八年」(刀利宣令)や「五言。賀五八年宴」(伊與連古麻呂)などの漢詩が史料として確認できる古い例です。
(これら2つは、いずれも長屋王四十の賀に際して賦されたものと推測されています)
正史に見られる最も早い算賀の記録は、天長二[825]年に淳和天皇が主催した嵯峨上皇四十の賀(『類聚国史』巻二十八「太上天皇算賀」所収『日本後紀』佚文)とされます。
平安中期になると、算賀は皇族・臣下を問わず盛んに行われるようになり、史料に多く残されている他、長編物語にも描かれています。
『源氏物語』も勿論、ストーリーの中にこの儀式を取り込んでいます。

最初に、誰が誰のためにこの儀式を行うのかをまとめておきます。

主催者は、通常は祝われる人(以下「被算者」とします)の親族です。
『新儀式』第四「奉賀天皇御算事」には、

可奉賀天皇御算之年。中宮被奉賀之禮。[或太上天皇。若東宮諸親王。有修此禮。延喜十六年。太上法皇行之。承和□年。皇大弟献賀。]

と記されており、基本的に天皇の算賀は中宮が主催者を務め、場合によっては上皇・東宮・諸親王が主催することもあったことがわかります。
上皇や皇太后の算賀については、『新儀式』第四に「天皇奉賀上皇御算事」及び「天皇賀太后御算事」として挙がっているように天皇が主催するのが基本です。
そして、こうした基本路線の公事の他にも被算者の親族がそれぞれ算賀を主催し、1年の内に何回か催されるのが通例でした。
複数の親族が各々に算賀を主催するのは、被算者が天皇や上皇などの皇族である場合のみに限らず、一般の貴族についても同様でした。

浅尾広良氏「光源氏の算賀-四十賀の典礼-」(『源氏物語の準拠と系譜』所収)及び小町谷照彦氏「貴族の通過儀礼 四.算賀」(『平安時代の儀礼と歳事』所収)に挙げられている歴史上の算賀の事例を見ると、皇族・一般貴族を問わず子女や妻・親・兄弟姉妹などの親族が主催した例が多数見られます。
(具体的な事例は、上記文献でご確認ください)

こうした史実を踏まえて『源氏物語』の算賀をまとめると、以下のようになります。

被算者 年齢 主催者 続柄
一院 紅葉賀巻 桐壺帝 息子?
式部卿宮 五十 乙女巻 紫の上
光源氏 四十 若菜上巻 玉鬘 養女
紫の上
秋好中宮 養女
夕霧 息子
朱雀院 五十 若菜下巻 今上帝 息子
落葉の宮
女三の宮

『源氏物語』でも、史実に則り親族がそれぞれに主催しての算賀が描かれていることがわかります。

次回は、算賀を行う時期と場所についてご紹介いたします。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
浅尾広良[著]『源氏物語の準拠と系譜』第Ⅱ篇第3章「光源氏の算賀―四十賀の典礼―」翰林書房 2004年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識14 若菜上(後半)』至文堂 2000年
中田武司編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識3 若菜上(前半)』至文堂 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2006年12月31日 (日)

追儺(ついな)

075inuki 追儺とは、大晦日の夜に疫神・悪鬼を駆逐する年中行事で、「鬼やらひ」「儺やらひ」とも言います。
(「やらひ」は、「遣る」の未然形+上代の反復・継続の助動詞「ふ」が結合した動詞「遣らふ」が名詞化したもので、“追い払う、追放する”の意)
中国の民間行事「大儺」が伝来して宮廷行事に取り入れられたもので、1年の最後の夜に邪気をすべて追い払い、清浄な状態で新年を迎えようという趣旨の行事です。
(写真は、風俗博物館2006年下半期展示「追儺~紫の君の雛あそび~」より、方相氏の真似をした犬君)

日本での文献上の初見は『続日本紀』慶雲三[706]年条の
是年。天下諸国疫疾。百姓多死。始作土牛大儺
という記述で、疫病の流行を鎮める目的で行われたことがわかります。
恒例の行事として定着した時期ははっきりしませんが、『内裏式』(弘仁十二[821]年成立の宮廷儀式書)に「十二月大儺式」と挙がっているところから見て、嵯峨天皇の時代には年中行事のひとつとなっていたと推測されます。
上記引用文にもあるとおり、当初は中国での名称そのままに「大儺」と称していましたが、『日本三代実録』貞観十二[870]年には「追儺」と表記され、以来「追儺」がこの儀式の名称となっていきました。

『内裏式』から『江家次第』まで平安時代各時期の儀式書から宮中での儀式次第をまとめると、概ね以下のようになります。

天皇が紫宸殿に出御し、定刻になると王卿が参入、続いて舎人など武官らが参入し、各自桃の弓と葦の矢を携えます。
次いで、黄金四目の仮面を着け楯と矛を持った方相氏(ほうそうし。疫鬼を駆逐する役。大舎人の中で身体の大きな者が選ばれました)が侲子(しんし。『内裏式』には官奴20人が務めると書かれていますが基本的には子供で、振り鼓を鳴らしながら方相氏に随います)8人を引き連れて南庭に参入、陰陽寮の下部により饗が供されます。
(この饗は、当初は疫鬼に対する供え物だった筈が、方相氏が疫鬼と同一視されるようになっていくに従って『西宮記』の頃には方相氏のための饗になり、更に『江家次第』の書かれた平安後期には行われなくなりました)
続いて陰陽師が、穢れ悪しき疫鬼の住処を日本国の外と定めて追放する旨の祭文を読み上げます。
方相氏は声を上げて楯を3度打ち、群臣はそれに唱和、四門に分かれて疫鬼を追います。
方相氏は、紫宸殿と清涼殿の間に位置する明義門・仙華門を経て滝口の戸を通り、北方の門へ向かいます。
(この点も方相氏と疫鬼を同一視する傾向に伴う変遷があり、はじめは方相氏が目に見えない疫鬼を追っていたのが、『江家次第』の時代になると殿上人らが方相氏を弓矢で射るように変化しました)
王卿らが大内裏の外まで疫鬼を追うと、京職が後を引き継いで方相氏・侲子と共に疫鬼を追って都の外まで練り歩きました。

この儀式で特徴的に登場するのが桃の弓と振り鼓ですが、いずれも邪気を払うものとしての意味があります。
中国での大儺は、声を上げ鉦鼓を打ち鳴らしてその音で鬼を追う他、弓矢で鬼を射ることも行われました。
その両方が追儺にも伝わっている訳です。
弓を桃の枝でつくるのは、黄泉国神話で伊弉諾尊が桃の実を投げて悪鬼を撃退する場面によく表れているように、桃が邪気を払う陽性の植物と信じられていたことに拠ると思われます。

追儺は、(おそらくは方相氏らが邸の前を通るのに合わせてでしょう)それぞれの家庭でも行われ、『源氏物語』の中にも2回登場します。

1回目は紅葉賀巻で、元旦に参内しようとした源氏が紫の君の部屋を覗くと、紫の君は新年早々雛遊びの道具類を広げ、源氏に向かって真剣な顔で
儺やらふとて、犬君がこれをこぼちはべりにければ、つくろひはべるぞ
と説明します。
犬君という童女は、若紫巻から登場している紫の君のよい遊び仲間ですが、初登場の場面でもそうだったように少々粗忽者らしく、ここでも「鬼やらいだ」と言って疫鬼を追い払う真似事をして、紫の君の大事な雛遊びの道具を蹴散らしてしまったようです。

2回目に描かれるのは幻巻の最後です。

年暮れぬと思すも、心細きに、若宮の、
「儺やらはむに、音高かるべきこと、何わざをせさせむ」
と、走りありきたまふも、「をかしき御ありさまを見ざらむこと」と、よろづに忍びがたし。

幼い匂宮は「大きな音を立てて鬼を追い払うには何をさせればいいだろう」と言って無邪気にはしゃいで走り回っており、紫の上を喪い年明けには出家することを決意している老年の源氏の寂寥感と鮮やかな対比を見せています。

その他の作品でも、

「鬼やらひ来ぬる」とあれば、あさましあさましと思ひ果つるもいみじきに、人は、童・大人ともいはず、「儺やらふ儺やらふ」と騒ぎのゝしるを、(『蜻蛉日記』中)
今の上、童におはしませば、つごもりの追儺に殿上人振鼓などしてまゐらせたれば、上振り興じさせたまふもをかし。(『栄花物語』月の宴)
つごもりになりぬれば、追儺とののしる。上いと若うおはしませば、振鼓などして参らするに、君達もをかしう思ふ。(『栄花物語』さまざまのよろこび)

などの記述があり、いずれの例でも、特に幼い子供にとって追儺が賑やかで面白い行事だったことが伝わってきます。
追儺が終わると、宮中では1年の最初の行事である四方拝が執り行われ、新しい年が始まります。

尚、現在も行われている節分の豆まきの源泉はこの追儺です。
悪鬼を追い払って新年を迎える行事を行う日が、本来の大晦日から二十四節気の上での一年の変わり目である立春前日に置き換わった結果で、豆まきの風習は室町時代から見られるようになります。
名前はほとんど知られていませんが、実は形を変えて現代にも伝わっている年中行事です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
山中裕, 鈴木一雄編集『平安時代の儀礼と歳事』至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編集『平安時代の環境』至文堂 1994年
石村貞吉[著] ; 嵐義人校訂『有職故実』(講談社学術文庫)講談社 1987年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年

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2006年11月18日 (土)

小袿と細長(3)重ね着・被け物

※この記事は前の記事から続いています。
 「小袿と細長(1)小袿
 「小袿と細長(2)細長
 を未読の方は、そちらを先にお読みください。

068kasanegi 共に上流貴族女性の装いでありながら、少々異なる意味合いを帯びていたと思われる小袿と細長ですが、中には小袿と細長を重ね着するという着方も散見されます。
(写真左は、風俗博物館2006年上半期展示「女楽(若菜下巻)」より、葡萄染の小袿と薄蘇芳の細長を重ね着した紫の上)

撫子の細長に、このころの花の色なる御小袿、あはひ気近う今めきて、(『源氏物語』胡蝶巻)
 着用者:玉鬘
葡萄染にやあらむ、色濃き小袿、薄蘇芳の細長に、(『源氏物語』若菜下巻)
 着用者:紫の上
柳の織物の細長、萌黄にやあらむ、小袿着て、羅の裳のはかなげなる引きかけて、(『源氏物語』若菜下巻)
 着用者:明石の君
濃き袿に、撫子とおぼしき細長、若苗色の小袿着たり。(『源氏物語』宿木巻)
 着用者:浮舟
白い薄物の細長に、二藍の小袿を着たまひて、丈は三尺の几帳に足らぬほどなり。(『うつほ物語』楼上上巻)
 着用者:いぬ宮
御前には桜の織物の重ねたる、紅うち、桜・萌葱の細長、浮線綾の山吹の小袿などの、ところせくものはかばかしげなるを、(『狭衣物語』巻二)
 着用者:源氏の宮
※校訂者は桜重ねと萌黄重ねの2着の細長と解釈しているようですが、細長の重ね着は考えにくく類例も見当たらないので、私は「桜萌黄」(表萌黄・裏赤花)の細長だと思います。

小袿または細長だけを着るのと、両方を重ねるのとではどう意味合いが違うのか、詳細はわかりません。
『うつほ物語』の例は涼が幼いいぬ宮の姿を垣間見る場面で、何か特別な儀式や行事という訳ではない日常のひとコマなので、準正装である必要性は見出せません。
ですが『源氏物語』の用例については、胡蝶巻は行事などの折ではありませんが、親許ならぬ六条院で光源氏の訪問を受けた場面ですし、若菜下巻の2例はいずれも女楽の際のもの、また宿木巻も初瀬詣の帰りで、特別に格式が高いという訳ではありませんが、私生活の中では比較的改まった場での装いとして登場しているように思われます。
『狭衣物語』の例も、斎院に選ばれた源氏の宮が、潔斎所となる大弐の邸に渡る場面でのものです。
また、小袿と細長のどちらを上に着るのかも、これらの用例からははっきりしませんでした。

069kazuke 以上、『源氏物語』などの着用例を中心に考察してきましたが、この2つの衣裳は実際に女性が着ている場面だけでなく、引き出物としても頻繁に登場します。
(写真左は、風俗博物館2004年上半期展示「季の御読経(胡蝶巻)」より、禄の細長を肩に被けた夕霧)
使者への禄や宴の出席者へのご祝儀などには、身分や儀式の格式に応じて絹布や袿、女房装束一式などが授けられましたが、そうした贈り物に小袿や細長が用いられたり、「女の装束」に小袿や細長が添えられる例がよく見られるのです。
細長は、女性が着用する場面よりもむしろ引き出物として登場することの方が多いほどです。
『源氏物語』や『枕草子』『うつほ物語』『狭衣物語』『夜の寝覚』などの用例を見ていくと、特に盛大な儀式・宴の列席者や、内裏からの文遣いや後朝使のような重く扱うべき使者などに対して女房装束に小袿や細長が添えられており、華やかな色の織物で仕立てられたこれらの衣裳を加えることで、もてなしの盛大さを印象付ける狙いがあったのではないかと想像されます。
また単品で用いる場合は、「女の装束」ほど重々しくはなく普通の袿よりは格上、といった位置付けだったようです。

実際の着用においても、贈り物としても、格式の高さや華やぎを演出する衣裳として、小袿と細長の2つを捉えることができると思います。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
長崎盛輝著『かさねの色目 : 平安の配彩美』京都書院 1996年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「小袿と細長」に若干の加筆修正を加えたものです。

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2006年11月12日 (日)

小袿と細長(2)細長

※この記事は前の記事から続いています。
 「小袿と細長(1)小袿」を未読の方は、併せてご覧いただければ幸いです。

066hosonaga_1 細長は、諸説があってその形状は明確には判明していません。
また、同じ「細長」という名称でも、幼年男子が着用するものと女性が着用するものとがあり、形も当然異なっていました。
女性の装束として用いられた細長は、袿または表着の上に重ねるもので、『枕草子』に

衣の中に細長は、さも言ひつべし。(一二九段「などて、官得はじめたる」)

とあることから、身幅が狭く裾の長い衣裳だったと推測されています。
童女の正装である汗衫に似た形とも言われますが、 円領ではなく垂領で、衽がなく、腋の開いた身丈の長い衣とする説が有力です。
後身頃がふたつに分かれているとの説もあり、風俗博物館で展示しておられる細長は、この説を採用して、後身頃が上半身の部分からふたつに大きく分かれ、長く裾を引く形になっています。
(上の写真は、2003年下半期展示「歳暮の衣配り(玉鬘巻)」より、明石の姫君の新年の衣裳に選ばれた「桜の細長」と「つややかなる掻練」)
袿だけを重ねた状態とは違って、腰の部分で当帯を結ぶのも細長の特徴です。
材質は、綾織物や浮織物の他、羅などの薄物も用いられ、花などを表した華やかな重ね色目が好まれたようです。
『源氏物語』の用例を挙げると、「」(末摘花・玉鬘・胡蝶・若菜上・若菜下・竹河)「山吹」(玉鬘・胡蝶)「」(胡蝶)「撫子」(胡蝶・宿木)「紅梅襲」(梅枝)「薄蘇芳」(若菜下)「」(若菜下)「紫苑色」(総角)と、多彩で美しい色目が沢山見つかります。
(一方で、行幸巻で末摘花が玉鬘の裳着のお祝いに贈ったのは「青鈍の細長」で、贈り主を考慮する必要がありますが、珍しく地味な色です)

一般には、細長は幼年~若年女子の私的な晴れ着と言われますが、『源氏物語』若菜下巻では「今年は三十七にぞなりたまふ」と記される紫の上と、彼女とほぼ同年輩の明石の君が、また『うつほ物語』蔵開下では30代半ば以上と推測される女三の宮と、「年四十に一つ二つ足らねど」と明記される式部卿宮の中の君が、それぞれ着用しており、実際は若い女性に限定されていた訳ではないようです。

067hosonaga_2 『源氏物語』での「細長」の用例を見ると、全部で26例あり、紫の上、明石の姫君、玉鬘、女三の宮、明石の君、玉鬘の大君、浮舟が着用しています。
(写真左は、風俗博物館2006年春の出張展示「柏木の垣間見(若菜上巻)」より、「桜の織物の細長」を着て御簾際に立つ女三の宮)
年齢は七歳(玉鬘巻の明石の姫君)から三十七歳(若菜下巻の紫の上)と幅広いですが、全員が一家の女主人か姫君、つまり傅かれる側の女君であるという共通点が見て取れます。
ただし、薫が後見役として中の君に衣裳を贈る場面では

女の装束どもあまた領に、細長どもも、ただあるにしたがひて、ただなる絹綾などとり具したまふ。みづからの御料と思しきには、わが御料にありける紅の擣目なべてならぬに、白き綾どもなど、あまた重ねたまへるに、(宿木巻)

とあり、この細長が中の君本人のための衣裳なのか、仕える女房達のためのものなのかは、判断がつきかねます。
着用の場面としては、玉鬘巻で装束が用意される新年の他、若菜下巻の女楽、宿木巻の初瀬詣でからの帰途などが挙げられますが、一方で源氏と絵を描く若紫(末摘花巻)や蹴鞠を見物する女三の宮(若菜上巻)、妹と碁を打つ玉鬘の大君(竹河巻)など、日常的な場面もあります。

その他の作品に目を転じると、意外に細長を着た女性の姿を描いたものは少なく、同時代の作品では『うつほ物語』のみ、後期物語では『狭衣物語』に僅かに2例が見られる程度です。
着用している人物も、『うつほ物語』では女一の宮、女三の宮、式部卿宮の中の君、宰相の君、いぬ宮の5人、『狭衣物語』でも源氏の宮と飛鳥井女君の姫君の2人だけで、やはり主人の立場にある女性に限られます。
年齢も、四歳(『狭衣物語』巻三の飛鳥井女君の姫君)から三十八・九歳(『うつほ物語』蔵開下の式部卿宮の中の君)までとなっています。
着用の場面は、公卿との対面や転居などやや改まった折が主ですが、洗った髪を乾かす際に着ている『うつほ物語』蔵開中の女一の宮の例や、他の子供達と遊んでいる『狭衣物語』の飛鳥井女君の姫君の例のように、日常的な場面も見られます。
また逆に、『うつほ物語』楼上下で琴の伝授を終えて俊蔭女と共に楼から下りるいぬ宮は、嵯峨院・朱雀院両上皇の御幸があるにもかかわらず裳唐衣ではなく細長を着ています。
俊蔭女は唐衣を着用しているのですが、これはいぬ宮がまだ裳着を済ませていない未成年だからでしょうか?

以上のように、女房の着用例が(微妙な例はありますが)見当たらないこと、また儀式などでの着用例がなく、特段の格式を要する場面でない折に着ている例も多いことなどを考えると、細長は正式な場で着るものではない、あくまでプライベートな衣裳だったのではないかと思います。
略礼装として認められた小袿とは違い、日常生活の延長上にありつつ、重袿姿よりはきちんとした、着飾った装いという位置付けだったのだろうかと推測しています。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
長崎盛輝著『かさねの色目 : 平安の配彩美』京都書院 1996年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「小袿と細長」に若干の加筆修正を加えたものです。

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2006年11月 3日 (金)

小袿と細長(1)小袿

064kouchiki_1 平安貴族女性の装束というと、真っ先に思い浮かぶのはいわゆる十二単(裳唐衣装束・女房装束)ですが、正装とは異なる私的な装いとして物語などによく描かれる衣裳に、小袿と細長があります。
以下、3回に分けてこれらの衣裳をご紹介いたします。
1回目は小袿について。

小袿とは、小形の袿の意で、形は袿や表着と同じ垂頸・広袖ですが、特に丈が短く仕立ててられています。
近世の小袿は、表地と裏地の間に中陪(なかべ)と呼ばれる色違いの裂を装飾として入れて三重に仕立てるのが特徴で、これをもって中陪のない袿と区別していますが、平安時代の段階では必ずしもこの区別は明確ではなかったようです。

材質は、唐衣と同様に一番上に着る衣ですので、表地には華やかな織物を用い、中陪と裏地には平絹を使うのが普通でした。
『源氏物語』にも、「紅、紫、山吹の地の限り織れる御小袿など」(紅葉賀巻)「紅梅のいと紋浮きたる葡萄染の御小袿」(玉鬘巻)「梅の折枝、蝶、鳥、飛びちがひ、唐めいたる白き小袿」(玉鬘巻)「このころの花の色なる御小袿」(胡蝶巻)「萌黄にやあらむ、小袿着て」(若菜下巻)「若苗色の小袿」(宿木巻)のように、明るく華やかな色と織の施された小袿がさまざまな場面で描かれています。
夏物の場合ですと、

かの薄衣は、小袿のいとなつかしき人香に染めるを、身近くならして見ゐたまへり。(『源氏物語』空蝉巻)
黄朽葉の織物、薄物などの小袿着て、(『枕草子』一九一段「野分のまたの日こそ」)

の例のように、薄物で仕立てたものもありました。

色目や文様に禁色はなく自由だったようで、袷の袿と同じく表・(中陪)・裏によって重ね色目を表現しました。
中陪が入る場合は、一般に表と裏が同色の場合はその淡色を、表裏が同色相の濃淡の場合はその中間の濃さの色を、表と裏で異なる色の場合はその中間の淡色を用いて変化をつけたようです。

高貴な身分の女性達の間では、正装である女房装束の略装として、唐衣の代わりに小袿を重ねることがありました。
これを「小袿姿」または「小袿装束」といい、男性装束の衣冠(束帯に次ぐ準正装)に相当する装いとされました。

『枕草子』では、定子中宮の妹である東宮妃・原子と中宮の母・貴子が小袿を着用している例が見られます。

紅梅いとあまた、濃く薄くて、上に濃き綾の御衣、すこし赤き小袿、蘇枋の織物、萌黄の若やかなる固紋の御衣たてまつりて、(一〇〇段「淑景舎、春宮にまゐりたまふほどのことなど」)
皆、御裳、御唐衣、御匣殿までに着たまへり。殿の上は、裳の上に小袿をぞ着たまへる。(二六三段「関白殿、二月二十一日に」)

一〇〇段の原子の例は中宮との対面の際、二六三段の貴子の例は積善寺供養の際のもので、褻の装束とは言ってもやはり全くの日常着ではなく、礼儀を正した衣裳という位置付けだったのだろうと思われます。
特に貴子の例は、小袿が唐衣の代用とされたことがよくわかります。
同様に『栄花物語』でも、太皇太后彰子と皇太后妍子が禎子内親王の裳着に列席した際、

このたびはもろともに二宮うちつづきて渡らせたまふほど、あなめでたと見えさせたまふ。皆御裳、小袿など奉りたり。(巻十九 御裳ぎ)

と、2人が揃って小袿と裳を着けていたことが記されています。

上臈女房になると、小袿姿で主人の前に出ることも許されたようで、『源氏物語』では落葉宮の母方の従姉妹にあたる上臈女房の小少将の君が

衣の色いと濃くて、橡の衣一襲、小袿着たり。(夕霧巻)

と、喪服の上に小袿を着ている例も見られます。

『源氏物語』中「小袿」の用例は24例あり、軒端の荻、空蝉、紫の上、大宮(桐壺帝の妹宮)、明石の君、玉鬘、宇治の中の君、浮舟と、一家の女主人や姫君が多く着用しています。
女房では、上に挙げた小少将の君の着用例がある他、明石の君が

柳の織物の細長、萌黄にやあらむ、小袿着て、羅の裳のはかなげなる引きかけて、ことさら卑下したれど(若菜下巻)

と、自ら遜って女房の格を示すために着けた裳と共に小袿を着用しています。
そしてこれも明石の君の着用例ですが、

端近うゐたまへるに、御前駆追ふ声のしければ、うちとけ萎えばめる姿に、小袿ひき落として、けぢめ見せたる、いといたし。(野分巻)

とあり、源氏の来訪に糊気の落ちた袿の上から小袿を羽織って居住まいを正す様子が描かれています。
これなども、改まった装いとしての小袿の位置付けを傍証する用例といえるでしょう。

小袿姿の女性が描かれている『蜻蛉日記』『うつほ物語』『落窪物語』『枕草子』『源氏物語』『紫式部日記』『栄花物語』の記述を総合すると、次のような傾向が見て取れます。

  • 着用者は皇族(太皇太后・皇太后・中宮・内親王など)から受領階級まで幅広いが、ほぼ主人の立場にある女性である。
  • 女房が着用する場合は、主人に非常に近しい上臈女房に限られる。
  • 着用する場は、正月や特別な行事・儀式、高位の人物や目上の親族との対面、旅先への出立時など、日常生活よりも一段格式の高い場面が多い。
  • 唐衣の代わりに裳と共に着用する場合もあり、準正装と見なされる。

065kouchiki_2 また風俗博物館Webサイト「日本服飾史 資料」内にある「公家姫君婚儀の装い」には、12世紀に行われた公家の婚儀において、花嫁である姫君は小袿姿だったことが紹介されています。

尚、『紫式部日記』には、

葡萄染めの織物の小袿、無紋の青色に、桜の唐衣着たり。

と、小袿と唐衣を重ね着しているように読める記述がありますが、小袿と唐衣の重ね着は考えにくく、また『紫式部日記絵巻』の本文には「こうちき」ではなく「うちき」と記されていることから、これは写本の誤写と見做されているようです。
(本文によっては、校訂者の判断で「」に改められているものもあります)

写真は、上が風俗博物館2003年下半期展示「歳暮の衣配り(玉鬘巻)」より、見立てられた衣裳を羽織る紫の上(一番上が「葡萄染の御小袿」)、下が2005年上半期展示「三日夜の餅の儀(藤裏葉巻)」より、夕霧との婚礼に臨む小袿姿の雲居雁です。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
長崎盛輝著『かさねの色目 : 平安の配彩美』京都書院 1996年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「小袿と細長」に若干の加筆修正を加えたものです。

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2006年9月20日 (水)

青海波(7)垣代

059seigaiha_8 「青海波」の最大の特徴は、2人の舞人の他に「垣代(かいしろ)」と呼ばれる人達が付随することでしょう。
光源氏と頭中将が舞ったときも、「四十人の垣代」(紅葉賀巻)が付いたことが記されています。
(写真は風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より、垣代の人々。前列手前から順に、篳篥、反鼻、笙、竜笛、琵琶と並んでいます。右手前で横向きに立っているのは、楽の進行役を務める左衛門督)

060seigaiha_9_1 垣代は、「青海波(2)」でご紹介したように、舞の間舞台の後ろに立って列や輪をつくり、4人は笙・篳篥・竜笛・琵琶を、それ以外の人々は「反鼻(へんび。「扁皮」とも書きます)」という楽器を鳴らします。
反鼻は、蕨のような形をした木製の棒で、長さは30cmほど。
写真のように左手に構え、右手で持った撥で打って音を出します。
笙・篳篥・竜笛・反鼻を担う人々は、各々楽器を懐中して入場し、位置についたところで取り出しますが、琵琶は、立ったまま演奏しやすいように紐を付けて首から提げました。
061seigaiha_10jp(写真上は垣代が手に持った反鼻、下は琵琶を提げた垣代楽人。いずれも上記展示より)

垣代の役を担ったのは主に左右近衛府の将監以下の武官でしたが、算賀などの盛儀では蔵人や殿上人も務めました。
盛大な儀式になるほど通常よりも身分の高い人物が役に当たるのが当時の常で、紅葉賀巻でも
垣代など、殿上人、地下も、心殊なりと世人に思はれたる有職の限りととのへさせたまへり
と、その力の入れ様が記されています。

人数は、『仁智要録』(藤原師長[1138-1192]著の雅楽書)や『教訓抄』(天福元[1233]年成立の雅楽書。狛近真著)には序破の舞人を含めて40人と記されていますが、史料を遡ると『源氏物語』以前で40人と確認できる例は見当たらず、20人強の例(『村上天皇御記』康保三[966]年十月七日条、『中右記』康和四[1102]年二月五日条)が見られます。
その一方で、院政期の算賀行幸では40人の垣代が立てられており、三田村雅子先生はこれを、『源氏物語』の場面を再現しようとの試みであると論じておられます(下記参考論文)。
『仁智要録』以降、現在に至るまで垣代が40人と規定されるのは、『源氏物語』を範と仰いだ院政期の事例に拠るのかもしれません。

垣代の装束は、正装である束帯や褐衣で、衛府の官人は胡簶(やなぐい)を背負い帯剣します。
「青海波」の装束を記述する史料に「徹平胡簶」(『中右記』康和四[1102]年三月廿日条)「不帯胡簶」(『玉葉』安元[1176]二年三月六日条)とあるのは、胡簶を負う垣代の武官装束との比較のためと思われます。
尚、風俗博物館の展示では管方装束を纏った垣代の姿もありますが、楽人が垣代に加わった例は私が調べた限りでは見つからず、この点の根拠は不明です。

紫や緋の袍を着た殿上人も加わっての40人もの垣代は、彩りも豪華に光源氏と頭中将の舞を取り囲んだことでしょう。
桐壺帝の聖代の象徴ともなり、光源氏の最も輝かしい記憶ともなって、物語の中で繰り返し回想される朱雀院行幸の「青海波」は、この垣代を取っても充分に特別なものとして描き出されたのだと思われます。

【参考文献】
藤原師長著 ; 神宮司廳編『仁智要録』(『古事類苑』普及版「楽舞部」所収)古事類苑刊行會 1931年
狛近真著 ; 植木行宣校訂『教訓抄』(日本思想大系第23巻『古代中世芸術論』所収)岩波書店 1973年
大神基政著『龍鳴抄』(3訂版『群書類従』第19輯所収)続群書類従完成会 1959年
東儀信太郎[ほか]執筆『雅楽事典』音楽之友社 1989年
三田村雅子「青海波再演―「記憶」の中の源氏物語」(「源氏研究」5号 2000年 pp.30-54)

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2006年9月15日 (金)

青海波(6)装束その4~平緒・太刀・表袴~

057seigaiha_6055seigaiha_4舞楽「青海波」の衣裳をご紹介する最終回は、下半身に着ける装束類についてです。
(写真左は、風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より「青海波」を舞う光源氏の平緒と太刀のアップ。右は、『舞楽図』より「青海波」)

今回も、古文献の記述から確認いたしましょう。

用螺鈿野劒、是依舞太平樂也、青海波時用同野劒、(『中右記』康和四[1102]年三月九日)

螺鈿細劒、紺緒、[縫水等、](『中右記』康和四[1102]年三月廿日)

蒔絵螺鈿剣紺地平緒(『江家次第』巻第八「相撲召仰」)

表袴[文小葵](『河海抄』巻第四)

青海波(5)」で半臂と下襲に波を文様として施したことをご紹介しましたが、波の文様をもつはこの2つだけに留まりません。
『中右記』康和四[1102]年三月廿日条には、太刀を留める平緒にも「縫水等」つまり半臂と同様の海を表す模様を刺繍したことが記されています。
現行の装束ですと、立浪に加えて『舞楽図』に描かれているように千鳥の刺繍をしますが、袍と同じく平緒についても古文献に千鳥の刺繍のことは出てきません。
地色は紺(展示では夕陽を模した赤い照明がされていたため紫色に写っていますが、本来の色は多分淡い縹だと思います)で、この点も現行の白と紫の段だら模様とは異なります。

左の腰には、蒔絵と螺鈿で飾った細剣を帯びます。
現行の装束では太刀の鞘にも千鳥と波文様の飾りが施してありますが、古文献にはこうした飾りの記述は見当たりませんし、『中右記』康和四[1102]年三月九日条からは「太平楽」と「青海波」で同じ太刀を使い回していることがわかるので、平安時代の太刀には「青海波」専用の特殊な装飾はなかったと思われます。

通常、平舞で着用する襲装束では指貫を穿きますが、「青海波」の袴は、引用文のとおり古文献には「表袴」と記されており、現行の装束でも「差貫」とは呼ぶものの括り緒はなく、束帯装束の表袴に近い形をしています。
(したがって、この記事では「表袴」と表記することにします)

表袴の文様は、文献によって記述が異なります。
『河海抄』では上記のとおり小葵となっているのですが、『紫明抄』『原中最秘抄』にはいずれも「青海波(4)」で引用したように窠文と記されています。
成立年代は『紫明抄』『原中最秘抄』が13世紀後半(鎌倉中期)、『河海抄』が14世紀半ば(南北朝)ですので、その間の100年ほどで変遷が生じたのかもしれませんが、現行の装束の文様はやはり窠文ですので、『河海抄』の記述には疑問も残ります。
ついでながら、現行の装束では膝から下に金襴の別布を当てるということで、この点も古文献の記述とは大きく変わった仕立てになっています。
展示の表袴の文様がどうなっているかはよくわかりませんでしたが、時代の近さからいくと平安時代は窠文だったと考えるのが妥当でしょうか。

雅楽は伝統芸能として現存しているがゆえに、ついつい平安時代も同じだったと思いがちですが、調べてみると意外に激しく変遷していることがわかります。
ご紹介した風俗博物館の展示と古文献の記述から、「青海波」を舞う光源氏の姿をより具体的に想像していただけるようになったなら何よりです。

次回は、2人の舞人を囲む垣代についてご紹介します。

【参考文献】
多忠麿編 ; 林嘉吉撮影『雅楽のデザイン : 王朝装束の美意識』小学館 1990年
高島千春筆『舞楽図 左』(故實叢書第3輯第18回)吉川弘文館 1905年

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2006年9月 9日 (土)

青海波(5)装束その3~半臂・下襲~

058seigaiha_7 055seigaiha_4舞楽「青海波」の衣裳、に引き続き今回は、袍の中に着る半臂と下襲のご紹介です。
(写真左は、風俗博物館2006年下半期展示「桐壺帝の朱雀院行幸」より「青海波」を舞う光源氏の右肩から袖のアップ。右は、『舞楽図』より「青海波」)

まずは、史料に残された衣裳の記述を挙げておきます。

着青打半臂、[以銀押浜形・海浦・波文等、](中略)青海波舞人二人、次々舞間、猶着水文半臂(『中右記』康和四[1102]年三月廿日)

海浮半臂(『江家次第』巻第八「相撲召仰」)

大海浦半臂えひそめの下襲[面大海浦裏えひそめ](『紫明抄』巻第二)

蒲陶染下襲[面大海賦裏蒲陶]大海賦半臂(『河海抄』巻第四)

半臂は青色で、海をイメージした波や州浜の文様が描かれました。
『中右記』の記述に従えば、文様は銀箔押しで施されたようです。
展示写真で白く光を反射しているのが、箔押しの銀です。
(フラッシュのせいで文様が飛んでしまっています。ご容赦を)
因みに、現行の「青海波」の半臂は、古文献からの復元とは全く異なり、萌黄地の綾錦に牡丹・唐草・五窠・花菱を白や紫、橙などの色糸で織り出し、袖先と襟には紅地金襴に金箔まで施した、極めて絢爛豪華な仕立てです。
復元された半臂が青色と銀を基調としているのに対し、現代のものは萌黄色の地よりも色糸や金襴が目立つ影響で全体に朱色系統の印象を受けます。
時代的に両者の間に位置する『舞楽図』の半臂は、展示の半臂に近い緑の絵の具で描かれていますけれど、いつから現代のような仕立てになったのでしょうか?

下襲は、『紫明抄』『河海抄』の記述のとおり、裏が葡萄