カテゴリー「平安の風俗」の記事

2019年6月14日 (金)

帝の装束(4)赤色御袍

047karyobin_1赤色御袍は青色御袍と同じく、位袍ではない束帯の袍です。
こちらも青色御袍と同じく、儀式によっては上皇や臣下も着用する場合がありました。
「青色」と同じく「赤色」も本来は暖色系全般を表す言葉ではありますが、この場合は禁色の「赤白橡」を指すとされます。
『延喜縫殿寮式』記載の染色法に従うと、黄櫨の下染めに茜を重ねた、やや黄味のあるくすんだ灰赤色になるそうです。
(過去の風俗博物館の展示で迦陵頻の舞装束に使われている色が、赤色御袍に用いるのと同じ赤白橡です。写真は2006年下半期展示「舞楽装束のいろいろ」より)

『源氏物語』にほぼ唯一登場する帝の装束が、この赤色御袍です。
赤色の御衣」を着た冷泉帝の姿が、朱雀院行幸と大原野行幸の二度にわたって描かれています。

帝は、赤色の御衣たてまつれり。(少女巻)
帝の、赤色の御衣たてまつりて、うるはしう動きなき御かたはらめに、なずらひきこゆべき人なし。(行幸巻)

史実としては、『新儀式』「野行幸事」に天皇還御の前の賜禄として
以著御袍[赤白橡]給右大将
と記されており、やはり帝は赤色御袍を着用したことがわかります。

『西宮記』には、この袍は内宴のときに着用するものとして記録されています。

袍 赤色、主上及次一上卿、内宴時服之(巻十七)
内宴 天皇御服赤白橡、[縫腋、近代闕腋](巻十九)

この記述によると、『西宮記』が書かれた円融朝頃には、赤色御袍は縫腋袍から闕腋袍に変わっていたようです。

また、「(3)青色御袍」でご紹介したように、端午の節句の翌六日に武徳殿へ行幸する際は青色御袍が通例とされますが、天暦九[955]年には穏座(正式の宴が終わった後のくつろいだ管弦舞楽の席)に移る際に村上帝が赤色御袍に着替えたことが『西宮記』巻十七に記されています。

こうした例を考え合わせると、赤色御袍は青色御袍よりも更に一段軽い束帯装束ということになるのでしょうか。
主として着用する場が、行幸という内裏を離れる際や内宴という帝の私的な宴の席だということに加え、内宴の際に帝と並んで「一上卿」も着用したり、縫腋袍から動きやすい闕腋袍に形が変化していたり、『小右記』の用例を見ると帝よりむしろ藤原道長が中宮行啓の供奉(寛弘二[1005]年三月八日条)や行幸啓を迎える際(寛仁二[1018]年十月二十二日条)に着用しているといった例の方が多かったりするのも、この衣裳の位置付けを示しているように思われます。
『平安時代史事典』にも「十世紀末以降、摂政・関白の衣服であるとの慣習が生じた」(赤色袍)との記載があり、時代が下ると共にどうやら帝の装束からは外れていったようです。
ということは、『源氏物語』では敢えて執筆当時よりも一時代古い設定で冷泉帝の装束を描いたことになります。
『源氏物語』第一部が延喜・天暦の時代を準拠としていることは古くから指摘されていますが、そうした時代設定はこんなところからも窺われます。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
長崎盛輝著『日本の傳統色 : その色名と色調』京都書院 1996年

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2019年6月10日 (月)

帝の装束(3)青色御袍

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青色御袍も帝が着用する束帯の袍の一種ですが、位袍ではないので、儀式によっては上皇や臣下も着用することがありました。
殊に有名なのは蔵人の着用で、清少納言は『枕草子』の中で青色の袍を着た蔵人の姿を繰り返し讃美しています。

「青色」は古来青・緑から灰色までの中間色全般を指す非常に広い言葉ですが、袍の色として使う場合は、「青白橡」または「麹塵」と呼ばれる禁色のこととされます。
緑系統の色の中では例外的に、刈安と紫草との掛け合わせて染める珍しい色です。
染色家の吉岡幸雄氏によると、この色は「緑青にくすんだ抹茶をまぜたような色」(『日本人の創った色』)で、室内ではやや薄茶色に感じられるのが、太陽光の下に出すと非常に深い色合いの緑色に輝くのだそうです。
地質・文様は、天皇着用の場合は黄櫨染御袍と同じく桐竹鳳凰文様の織物を用います。
(これまでの風俗博物館の展示で胡蝶の舞装束に用いられている色が、吉岡氏の再現した青白橡の色見本を基に作成されたものだそうです。写真は2006年下半期展示「舞楽装束のいろいろ」より)

帝が青色御袍で臨む儀式には、『西宮記』によると以下のものがあります。

  • 供菖蒲:六日、幸武徳殿[天皇服青色、天暦九移隠座之間、改赤色](巻三)
  • 賭弓:天皇位服青色通用(巻十七)
  • 臨時祭:天皇位服御笏[御禊間、舞時青色](巻十七)

麹塵御袍は、黄櫨染御袍に比べると軽い、褻の装束に近い位置付けだったようです。
禁色ではあるものの許可があったり場合によっては臣下も着用できたという点も、絶対禁色とされた黄櫨染と異なるところです。

賭弓での着用は、黄櫨染と麹塵のどちらの例もあったようです。
『小右記』寛弘二[1005]年一月十八日の条には、賭弓に帝が着用するのは「御位御衣」と「青色御衣」のいずれであるべきかを実資と公卿らが討論しており、その中で実資は
初着御位御衣、今改着御青色御衣者
と述べています。
また、同じく賭弓の儀式を記した『小右記』寛和元[985]年一月十八日条には
先置剱璽等於南置物御机、即御座定[着御青色、是例也]
とあり、『源氏物語』が書かれた一条朝前後は青色御袍の方が普通だったようです。

尚、上述の吉岡氏によると、この麹塵と黄櫨染とは格別に染めるのが難しいということで、そうした希少性も帝の御料とされた理由のひとつではないかと思われます。

【参考文献】
吉岡幸雄著, 日本放送協会編『日本人の創った色』日本放送出版協会 2001年
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
長崎盛輝著『日本の傳統色 : その色名と色調』京都書院 1996年

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2019年5月24日 (金)

帝の装束(2)黄櫨染御袍

先月末に執り行われた天皇陛下退位の儀式の1つ「退位礼当日賢所大前の儀」 に際して黄櫨染御袍の着用が報じられましたが(例:天皇陛下、束帯姿で儀式に臨む 退位に伴う儀式始まる ※リンク先は朝日新聞DIGITAL)、黄櫨染御袍は帝の位袍で、神事を除く公の重要な儀式の際に束帯の袍として着用しました。
黄櫨染は、黄櫨で染めた上に蘇芳を重ねた特殊な染色で、帝以外は決して着用できない「絶対禁色」でした。
色相は『延喜縫殿寮式』の記録に従って染めると黄赤色になるそうで、帝位を象徴する昼間の太陽を表した色として重要視されたと考えられています。
地質は、冬は表地に綾、裏地に紫または二藍の平絹を用い、夏は裏地を付けない*で、文様は桐竹鳳凰でした。
この文様も、それぞれの要素が帝位を象徴する動植物として天皇の袍にだけ用いられました。
※「*」は穀の“禾”を“系”に換えた漢字。

以上のように帝専用の特殊な色と文様を具えたこの袍は、帝位の象徴と見做され、譲位の際には前帝が内侍をして新帝に黄櫨染御袍と御笏を奉らせるという儀式もありました。

新帝下拝舞、(割注省略)以内侍被奉御衣笏[入筥居机、有覆、女官等舁之](『西宮記』巻十一)
旧主還御本殿、令内侍奉御笏御袍於今上(『北山抄』巻第五)

ただし、袍の形状や衣裳の構成自体は、公卿が着用する縫腋袍の束帯装束と同じだったようです。

黄櫨染御袍を着用する儀式を『西宮記』から抜き出すと、巻一の四方拝の記事に「天皇服黄櫨」とあるのがまず挙げられますが、その他に「位服」「天子服」との記述も見られ、これも黄櫨染御袍を指していると思われます。

  • 御即位:今上服天子服[有大后、可参賀](巻十一)
  • 御禊:天皇位服(巻十七)
  • 天皇譲位:正月三節、天皇位袍(巻十七)
  • 正月七日:天皇服位御服(巻十九)
  • 射禮:天皇位服(巻十七)
  • 四月廿九日駒牽:天皇位服(巻十七)
  • 五月五日:天皇位服(巻十七)
  • 七月相撲:御服臣下如常(巻十七)
  • 九月九日:節会同他節会(巻十七)
  • 豊明:御服王卿如例節会(巻十七)
  • 臨時祭:天皇位服御笏[御禊間、舞時青色](巻十七)

「御即位」の引用文は、先に挙げた黄櫨染御袍の受け渡しの後、受禅した新帝が初めてそれを着用する箇所、「御禊」は大嘗祭に先立つ御禊行幸の儀式次第を記した箇所です。
即位式そのもの以外の即位に関わる儀式の他、五節句、豊明節会などの大規模で重要な儀式が並んでいるのが見て取れます。
臨時祭での服装については『西宮記』だけ読むとわかりにくいので補足しますと、御禊の間は黄櫨染御袍を着、その後、次にご紹介します青色御袍に着替えたということのようです。
些か時代は下りますが、『後二条師通記』寛治七[1093]年十一月二十三日条(賀茂臨時祭)に
申時御禊如常、事了着御青色、[御禊黄櫨染云々]
とある例が最もわかりやすいでしょう。
『小右記』にも岩清水・賀茂双方の臨時祭において同様の記述がされており、例えば寛和元[985]年三月二十六日条(岩清水臨時祭)には
御禊了掃部寮敷公卿・舞人・陪従等座於幄内、次改御衣、[青色、]出御
と、円融天皇が御禊の後に青色御袍に装いを改めて出御したことが記録されています。

この度は約200年ぶりの生前退位という稀有な事態でしたが、平安時代から現代まで脈々と続く伝統の装束を垣間見られたという点においても貴重な機会だったと思います。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
長崎盛輝著『日本の傳統色 : その色名と色調』京都書院 1996年
『源氏物語の色』(別冊太陽 : 日本のこころ60)平凡社 1988年

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2019年3月 1日 (金)

陰陽師

先日、フィギュアスケートと日本文化の融合をコンセプトとするアイスショー「氷艶」が『源氏物語』を題材にしたショーを開催するとのニュースがありましたが、その中でプロスケーター・織田信成さんの配役が「陰陽師」となっているのが目に留まりました。
情報源はフィギュアスケート専門誌「KISS & CRY」の編集部Twitter)
陰陽師と言えば、昨年の平昌五輪で羽生結弦選手が安倍晴明を主人公とした映画「陰陽師」のサウンドトラックを使用したプログラムで五輪連覇の偉業を成し遂げたのも記憶に新しいところです。
そんな、思わぬ方面から脚光を浴びている(?)陰陽師とはどのような人々だったのか、平安時代の史料から探ってみたいと思います。

まず、狭義の陰陽師は、中務省の下にある陰陽寮に所属する専門技官でした。
『平安時代史事典』資料編の「官位相当表I」によると、従七位上相当とされています。
元々「陰陽師」とは、陰陽寮の下にある分科の陰陽道の中で陰陽博士に次ぐ地位の技官を指す役職名だったのですが、時代が下るにつれて、学問的機関としての陰陽道の出身者、更には陰陽道を兼学するのが大勢となった天文道・暦道(いずれも陰陽道と同じく陰陽寮の下にあった分科)の出身者をも「陰陽師」と呼ぶようになりました。
例えば上に名前を挙げた安倍晴明は、陰陽道に秀で藤原道長からの信頼も厚かったことが知られていますが、『中右記』嘉保元年(1094)十一月二日条の記述から彼が所属して学問を修めていたのは天文道であることがわかり、また経歴としても天文博士に任じられていて、専門は陰陽道よりも天文道であったことが窺われます。

そんな複雑さを内包する陰陽師ですが、元々が官職である以上、軒廊御卜(天変地異や怪異などの際に紫宸殿の軒廊において公式に行われる卜占)をはじめとする公事に従事するのは勿論のこと、それ以上に平安貴族の日常生活に密着した活動を行っていました。
それは、貴族の私的な要請を受けて怪異や病を占い、物忌や方違などを上申することです。
物忌については以前「平安貴族のサボタージュ事情」と題してご紹介したことがありますが、でっち上げではない本当の臨時の物忌は、陰陽師の進言に基づいて設けられました。
『源氏物語』の中では、明石の女御の出産が近づき「陰陽師どもも、所を変へてつつしみたまふべく申しければ」(若菜上巻)、また太政大臣が柏木の病を治そうと奔走する中で「陰陽師なども、多くは女の霊とのみ占ひ申しければ」(柏木巻)といった形で、僧侶と同様に病気平癒や安産を願う貴族達に召し集められた様子が点描されています。
方違も陰陽道に基づく行為で、『源氏物語』では上記の若菜上巻の他、帚木巻では方違が光源氏と空蝉との出逢いのきっかけになっていたり、『枕草子』や『蜻蛉日記』にも「方ふたがる」という表現が頻繁に見られ、生活に深く根付いていたことがわかります。
また、『源氏物語』須磨巻に

  「今日なむ、かく思すことある人は、御禊したまふべき」 と、なまさかしき人の聞こゆれ
  ば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障ばかりを引きめぐらして、こ
  の国に通ひける陰陽師召して、祓へせさせたまふ。

と描かれているように、貴族個人での上巳祓なども執り行いました。

直接的に文学作品の中に姿を見せることは少ない陰陽師ですが、科学が未発達で何かと不安に覆われていた貴族社会にあって、仏教とはまた異なる角度から平安貴族の精神生活を支える存在だったと言って良いと思います。

さて、「氷艶」ではどんな『源氏物語』の世界が表現されるのでしょうか?
公演は7月末だそうです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD- ROM版』角川学芸出版 2006年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
秋山虔編『源氏物語事典』(別冊國文学No.36)學燈社 1989年

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2010年5月20日 (木)

帝の装束(1)御引直衣

220ohikinoshi_1 221ohikinoshi_2 貴族男性は、束帯や直衣、狩衣などの装束をTPOに合わせて着ましたが、帝の装束にもいろいろな種類があり、場面毎に使い分けられていました。
物語文学には現れることの少ない帝の装束ですが、風俗博物館ではそうした原文には描かれない部分も細かく展示されていますので、その写真を利用していくつかご紹介してみます。

最初に取り上げる御引直衣は、帝がプライベートな場面で着用する普段着です。
貴族男性も自邸など私的な場では、公卿などの上流貴族なら直衣、それ以下の身分なら狩衣を着て過ごしましたので、その意味では帝も同じということになりますが、通常の直衣とは形状も着方も違います。
御引直衣は親王や公卿らが着る普通の直衣よりも裾が長く、普通の直衣が裾をたくし上げて懐をつくる着方なのに対し、懐をつくらず裾をそのまま後ろに引きずる着方をします。
この後ろに裾を引く着方が「御引直衣」という名称の所以です。
直衣の生地は、冬は表地が白小葵綾、裏地が紫または二藍の平絹、夏は三重襷文の二藍または縹の*(こめ。皺模様のある薄手の縮み絹。縮緬)、とされています。
※「*」は穀の“禾”を“系”に換えた漢字
被り物は烏帽子ではなく冠を被り、下半身に着けるものも普通の直衣姿のように指貫ではなく紅の打袴か生袴でした。
直衣の下は衵と単を着ますが、これも普通の直衣の下に着るものよりは長く仕立てるのが通例だったようです。

222ohikinoshi_3 ただし、「御引直衣」という言葉そのものは『源氏物語』をはじめとする平安中期までの文献には見当たりません。
堀河天皇(1079-1107)の生前を回想した『讃岐典侍日記』下の記述や、同じく12世紀初頭編纂の『江家次第』巻第六「石清水臨時祭試楽」、承安四[1174]年の出来事と明記された『建礼門院右京大夫集』二番歌詞書などに登場するのが初期の例になります。
また、紅の袴を着用することは『江家次第』巻第十「賀茂臨時祭試楽」の記述や後述の国宝『源氏物語絵巻』宿木(一)から確認できるのですが、生地や色に関する決まり事は『禁秘御抄』(順徳天皇著・建暦三[1213]年成立)をはじめとする鎌倉期以降の有職故実書でしか確認できないので、もしかしたら貴族男性の直衣の場合と同様に、『源氏物語』の時代にはまだ定型化した様式にはなっていなかったのかもしれません。

絵画資料としては、『枕草子絵詞』と国宝『源氏物語絵巻』宿木(一)が挙げられます。
『枕草子絵詞』は鎌倉期の作品ですが、御引直衣姿の一条天皇が描かれていて、白描画のため色はわからないものの裾が広がった直衣の様子がよく見て取れます。
『源氏物語絵巻』宿木(一)の方では、今上帝が直衣を省略して衵を重ねただけのくだけた服装で描かれており、御引直衣そのものは描かれていませんが、衵と単を後ろに引いて紅の袴を履いているのがわかります。

最後に、上皇の日常着について。
以前この衣裳について調べた際、国宝『源氏物語絵巻』鈴虫(二)の冷泉院が袴の裾を後ろに引きずっているような姿で描かれていることと『亭子院歌合』の宇多法皇の衣裳が「檜皮色の御衣に承和色の御袴」と記されていることから、天皇だけでなく上皇も御引直衣に袴というのが日常着だったのではないかと推測しました。
ですが、冷泉院の直衣の着方はいまひとつ判然とせず(例えば『枕草子絵詞』の一条天皇の姿と比べると、通常の直衣に近い着方をしているように見えます)、宇多法皇の方は亭子院歌合が催された延喜十三[913]年には“法皇”の称号のとおり仏門に入っていて出家者の装束である点を考慮しなければなりませんので、この2例から上皇の日常着が御引直衣であると結論付けるのは些か早計であろうと現在では考えています。
この点については、もう少し確実な資料が揃うまで保留としておきたいと思います。

写真は、上の2つが2004年西陣出張展示「一条帝による土御門第行幸」より、倚子に腰掛ける御引直衣姿の一条天皇、下が2004年上半期展示「斎宮女御と弘徽殿女御の絵合」より、御引直衣を着て倚子に掛けようとしている冷泉帝です。
(上の写真について、実際には行幸時の天皇の装束が御引直衣ということは考えられないのですが、博物館スタッフの方から「当時は天皇独特の衣裳を紹介するために敢えて御引直衣姿で展示した」と伺った記憶があります。ですので、ここではあくまで装束の参考画像としてご覧ください)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD- ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
神宮司廳編『古事類苑50 服飾部』普及版 古事類苑刊行會 1936年
『日本国語大辞典』第2版 小学館 2001年

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「帝の装束(1)御引直衣」を加筆修正したものです。

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2009年10月 3日 (土)

月の宴

218tsukinoen_1 今日(2009年10月3日)は旧暦八月十五日、仲秋の名月です。
現在では薄とお団子をお供えしてお月見をする家庭は少ないかもしれませんが、お月見の習慣は平安時代まで遡ります。
八月十五日の夜に仲秋の名月を愛で、供物を供えて詩歌管弦の遊びをする宴を催す「月の宴」です。
内裏をはじめ貴族の邸宅で広く行われ、時代が下ると庶民の間でも広く行われました。
月を観賞して宴を設ける大陸の風習が伝わったものです。

月の宴の文献上の初見は、島田忠臣の『田氏家集』に収められた「八月十五夜宴月」「八月十五夜惜月」などと題された漢詩であるとされます(『平安朝の年中行事』)。
文人達が大陸の観月の風習に倣って仲秋の名月を愛で漢詩を詠む宴を催す例は、文徳天皇の時代辺りから始まったようです。
『竹取物語』の「在る人の「月の顔見るは、忌むこと」と制しけれども」との記述から窺われるように、平安時代以前の日本にはお月見の習慣はなかったと見られます。

宮廷行事としては、『日本紀略』延喜九[909]年の
閏八月十五日。夜太上法皇召文人於亭子院。令賦月影浮秋池之詩。
との記事が早い例とされています。
(『平安時代史事典』は仁和元[885]年八月十五日に光孝天皇が神泉苑で催した詩宴を初期の例として挙げていますが、『日本三代実録』同日条には「日暮鸞輿還宮」と記されていて行幸は日中のこととわかるので、月の宴の例と言えるかどうかは若干疑問です)
その後、宮中の行事として定着していったようで、平安中期までに30例近くが数えられるそうです(『源氏物語の鑑賞と基礎知識26 横笛・鈴虫』)。
中でも村上天皇が康保三[966]年八月十五日の晩に清涼殿で催した「前栽合わせ」を伴っての月の宴は特に有名で、その様子は『西宮記』にも記録され、『栄花物語』巻一の巻名「月の宴」もこの宴の記事が由来となっています。

尚、宮中で月の宴が盛んになった宇多・醍醐朝でも、恒例の晴儀ではなく、詩歌管弦の遊宴の性格が強かったようです。
そうした月の宴の位置付けは、『西宮記』において8月の年中行事を載せる巻五にその記述がなく、臨時の儀式を集める巻八に「宴遊」として康保三年の前栽合わせの記録が載っている点からも見て取ることができます。

月を愛で漢詩や和歌・音楽を楽しむ習慣は、宮廷行事としてだけでなく貴族の私的な楽しみとしても取り入れられました。

人の家の、前近き泉に、八月十五夜、月の影映りたるを、女ども見る程に、垣の外より、大路に笛吹きてゆく人あり。
  雲居よりこちくの声を聞くなへにさし汲むばかり見ゆる月影
(『蜻蛉日記』中巻・安和二年八月)

上の例は現実の景色ではなく、作者が頼まれて藤原師尹の五十の賀のために詠んだ屏風歌の記述です。
この頃には月次屏風に描かれるほど仲秋の名月を愛でる習慣が定着していたことがわかると同時に、その絵の構図から肩肘を張らずにのどかに月を楽しむ当時の様子も推測できます。
また、この屏風歌を詠んだ時期も八月のことで、「宵の程、月見るあひだなどに、一つ二つなど、思ひて物しけり」との描写からは、あるいは作者自身も名月を眺めながら歌を考えたのだろうか?などとも想像されます。

また『枕草子』第九十六段には、「八月十よ日の月明き夜」のこととして、定子中宮が端近に出て琵琶の演奏を聴きながら女房達と共に月を見たエピソードが記されています。
この出来事は長徳三[997]年か翌四[998]年のことと推定されており、中宮を取り巻く状況は厳しくなっていたときですが、逆境にあっても折々の行事や季節感を楽しむことを忘れなかった中宮の姿を描く『枕草子』全体のトーンを考えると、このエピソードも仲秋の名月をひっそりと、しかし鬱屈した様子を見せることなく愛でた一夜のことだったのではないかと思います。

219tsukinoen_2 では、『源氏物語』において仲秋の名月はどのように描かれているかを見てみると、八月十五日と特定できる月の場面は全部で7例あります。

最初に仲秋の名月が描かれるのは夕顔巻、五条の宿での逢瀬の場面です。
八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、残りなく漏りて来て」という描写が、続く隣家の住人同士の会話と並んで夕顔の住まいの陋屋ぶりを印象付けます。
十五夜が明けた翌十六日の暁に、2人はここから某院に赴いて1日を過ごす訳ですが、某院で夜を迎えた源氏が「内裏に、いかに求めさせたまふらむを、いづこに尋ぬらむ」と考えるのも、前夜内裏で催された筈の月の宴にも出席せず、翌日も1日参内しなかったことを思えば当然と言えるでしょう。

2番目の例は、須磨の地で遥かに内裏の月の宴を思いやる場面です。

月のいとはなやかにさし出でたるに、「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて、殿上の御遊び恋しく、「所々眺めたまふらむかし」と思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。(須磨巻)

都でも須磨でも同じ月を眺めているとの思いが、却って源氏の侘しい境遇を浮き上がらせる効果を果たしており、中でも「殿上の御遊び」の華やぎが謹慎の地での十五夜との対照を形づくっています。

続く明石巻では、都に召還された源氏と朱雀帝の対面の場面が「十五夜の月おもしろう静かなる」八月十五日の宵に設定されています。
長く眼病を患い程なく帝位を退くことを決めている帝の御前では、月の宴が催されることもなく、退場を間近に控えた朱雀帝の寂寥がさりげなく示されます。
桐壺帝が行った朱雀院行幸や花の宴、冷泉帝が催した絵合わせなどの盛儀の狭間で、朱雀帝が主催した儀式行事は物語には描かれることがなく、ここでも当然あってしかるべき年中行事の空白が示されることで、源氏と比較され敗者の役割を担わなくてはならない朱雀帝の位置付けが間接的に明らかにされていると言えます。

そして鈴虫巻では、仲秋の名月を背景に、女三の宮と源氏の微妙な語らい、蛍兵部卿宮や夕霧らと虫の音を語り合う鈴虫の宴、漢詩や和歌を詠み合う冷泉院での月の宴、の3つの場面が描かれます。
今宵は、例の御遊びにやあらむと推し量りて、兵部卿宮渡りたまへり」「内裏の御前に、今宵は月の宴あるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに」といった語りからは、六条院でも内裏でも月の宴は当然催されるべきもの、というような期待感が窺われます。
しかし登場する人物達は、世を捨てた女三の宮、老いを噛み締める光源氏、帝位を去った冷泉院、といずれも翳りを色濃く漂わせ、更にその背景には、内裏の月の宴が中止になったことがあります。
かなり変則的な月の宴の描かれ方です。

そして、物語の中で最後に仲秋の名月が描かれるのは、紫の上の葬送の場面です。

昔、大将の君の御母君亡せたまへりし時の暁を思ひ出づるにも、かれは、なほもののおぼえけるにや、月の顔の明らかにおぼえしを、今宵はただくれ惑ひたまへり。
十四日に亡せたまひて、これは十五日の暁なりけり。
(御法巻)

紫の上との死別によって目の前が真っ暗になってしまった源氏の悲嘆の激しさが、1年の内でも最も明るい仲秋の名月の光との対照から浮き彫りにされています。

意外なことに、宴の様子そのものを描いているのは鈴虫巻の2例(六条院での鈴虫の宴と冷泉院での月の宴)のみで、宮廷行事としての月の宴は全く描かれていません。
更に、描かれた2例の宴を含めていずれの例も寂寥感・悲哀感の漂う描写を見せており、作者が仲秋の名月をどのように捉えていたのか、非常に興味深い点だと思います。

尚、楢原茂子氏は松風巻の桂の院での宴と鈴虫巻の鈴虫の宴との対応を指摘していますが(『源氏物語の鑑賞と基礎知識26 横笛・鈴虫』)、松風巻の場面が月の宴なのかどうかは、可能性は充分考えられるものの確定できないため、この記事では取り上げませんでした。

写真はいずれも、風俗博物館2009年下半期展示「月の宴」(国宝源氏物語絵巻「鈴虫(二)」再現)にて撮影したものです。

【参考文献】

古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
永井和子編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識26 横笛・鈴虫』至文堂 2002年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編集『平安時代の儀礼と歳事』至文堂 1994年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年
佐藤和雄作成「源氏物語の語彙検索(KWIC)

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「月の宴(仲秋の名月)」をリライトしたものです。

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2009年8月30日 (日)

夏の氷

216tsuridono 盛夏の折、冷たいものが食べたくなるのは、現代も1000年前も変わりません。
冷蔵庫など当然ない平安時代、貴重な「冷たい食べ物」が氷でした。
『源氏物語』をはじめとする物語などには、しばしば暑さを凌ぐための氷を使った食事が登場します。

古代の夏、そもそもどうやって氷を手に入れたかと言うと、冬の間にできた氷を氷室に貯蔵しておき、それを少しずつ取り出して使用していました。
氷室の歴史は古く、『日本書紀』仁徳紀六十二年是歳条には氷室の起源伝説とも言える記述があります。
そしてそれを裏付けるように1988年に長屋王邸跡から「都祁氷室」と記された木簡が発見されて8世紀初めの氷室の実態が明らかになり、更にその3年後の1991年には奈良県都祁村(当時。現在は奈良市の一部)で8世紀末~9世紀初頭に造られたと見られる氷室の遺構が出土しました。
これらの資料から、当時の氷室は深さ3mほどに掘られた穴で、断熱材として氷の周りに草やもみ殻などを入れ、穴の上には覆屋を建てて日光や雨を防いだと推測されます。
いずれも『源氏物語』が書かれた時代より200~300年前の資料ではありますが、氷室の構造は平安中期も基本的に変わらなかったのではないかと思います。

平安時代の氷室は朝廷が管理しており、『延喜主水司式』に規定されています。
(長屋王邸跡の木簡の記述から長屋王家専用の氷室が存在した可能性が指摘されており、必ずしも朝廷の管理下にはなく私有に近い形態の氷室もあったのではないかとの推測もありますが、平安時代に関しては氷室の私有を窺わせる史料は見つかっていないようですので、ここでは朝廷管轄の氷室を前提としてご紹介します)
これによると、山城・大和・河内・近江・丹波の各国に合計21ヶ所の氷室が設けられ、氷を生産するための氷池(氷室の設置場所と同じ5ヶ国に合計540ヶ所もの池がありました)から採取された氷が貯蔵されていました。
現在、京都市内には「北区衣笠氷室町」「北区西賀茂氷室町」「左京区上高野氷室山」などの地名が見られますが、これらはいずれも『延喜主水司式』に記されている氷室に由来する地名と推測されています。
氷室から氷が供給されるのは四月一日から九月三十日までと限定されており、天皇・中宮・東宮などの避暑の料として用いられ、一部は臣下にも下賜されました。

話は若干脱線しますが、元日節会の儀式次第には、主水司が氷室から運んできて豊楽殿の庭に安置した氷の厚さを測って帝に奏上する「氷様奏(ひのためしのそう)」と呼ばれる儀式がありました。
氷が厚いと豊年の徴とされ、1年の吉凶を占う意味があったようですが、山中裕氏はこの氷様奏と、同じく元日節会の中で献上の鱒を奏する「腹赤奏(はらかのそう)」とを指して
「これらの奏は初春の慶賀の意を表する主旨から、山海の珍品を献上することとなり、いつしかそれが恒例となるにいたったのであろう」
と述べています(『平安朝の年中行事』)。
当時の氷の稀少性が窺われる儀式です。

そんな貴重品の夏の氷が『源氏物語』の中で描かれるのは常夏巻と蜻蛉巻の2ヶ所、そのうち常夏巻に食事に用いられた氷が登場します。

いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、西川よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。(中略)大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。

巻冒頭、暑さを凌ぐために釣殿に出た源氏が、伺候する夕霧や殿上人らに食事を振舞う場面です。
水飯」は炊いたご飯またはそれを干したものを水に浸した食べ物で、お湯に浸した「湯漬」が冬場のものだったに対して夏に食べるものでした。
この場面では水飯に氷水を用いており、格別に冷たく贅沢な食べ方と言えます。
こんなところにも太政大臣・光源氏の権勢の一端が表れているようです。

217kezurihi 一方、『枕草子』には「平安時代のかき氷」とも言える食べ物が登場します。

削り氷にあまづら入れて、新しき金まりに入れたる。(第三十九段「あてなるもの」)

薄く削った氷を新しい金属製のお椀に入れ、甘葛(諸説あるようですが、『日本古代食事典』によればブドウ科のツタ)から採取した液を煮詰めて作った甘いシロップをかけたもの、というのが清少納言にとっては「薄色に白襲の汗衫」や「水晶の数珠」などと並んで上品に感じられるものだったようです。
確かに、文章から想像しただけでも涼しげで品良く思われます。
また『御堂関白記』寛仁二[1018]年四月廿日条には、「参大内、御風発給、是日来依召氷也」、即ち後一条天皇が風邪を引き、その原因は数日来氷を食べていたことだとする記述がありますが、もしかしたらこのとき十一歳の天皇が食べた氷も清少納言が書き留めたような削り氷だったのかも?と想像したくなります。
尚、削り氷は食の進まない病人などがわずかばかり口にするものとして挙がることもあり、『うつほ物語』国譲中では懐妊中の女一宮が食事をせずに削り氷ばかりを食べたがる場面が、また『栄花物語』巻第二十五「みねの月」では、娘の寛子を亡くしたショックで放心状態になった源明子が食事も喉を通らないため、周囲の者達が削り氷を用意して口に入れるよう絶えず勧めた、との記述があります。

勿論シンプルに喉を潤す氷水も文献上に登場します。
例えば『小右記』には、「参上殿上、不耐苦熱飲氷水」(寛仁二[1018]年五月廿一日条)、「以宰相召氷水飲、不堪苦熱耳」(治安三[1023]年七月二十七日条)、「禅閣曰、所労不快、枯槁尤甚者、被飲氷水」(『小右記』治安三[1023]年六月十日条)などの記述があります。
引用文は順番に、寛仁二[1023]年が道長の法華三十講に参上した折に暑さに耐えかね氷水を飲んだこと、治安三[1023]年七月が相撲節会に先立つ擬近奏の際に氷水を飲んでも暑さが耐え難かったとの感想、最後の治安三[1023]年六月は道長が「ひどく喉が渇く」と言って氷水を飲む姿を記録したものです。
うだるような京都の酷暑を、なんとか氷水で和らげようとする様子がリアルに伝わってきます。
また、最初にご紹介した『日本書紀』仁徳紀六十二年是歳条には、氷の用途について「水酒に漬して用ふ」とあり、氷水だけでなくお酒に氷を浮かべる謂わばオンザロックも古代からあったことがわかります。
上に挙げた『源氏物語』常夏巻の「大御酒」にも、あるいは氷が入っていたのかもしれません。

当然のことながらこんな風に氷で涼を取ることができたのはごく限られた上流階級の人々だけだった訳ですが、意外と平安貴族にとっては身近な存在だった夏の氷についてご紹介しました。

写真は、上が風俗博物館2003年下半期展示「釣殿の涼み」、下が同2006年上半期展示「あてなるもの」にてそれぞれ撮影したものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
河地修編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識21 常夏・篝火・野分』至文堂 2002年
永山久夫著『日本古代食事典』東洋書林 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
「『氷室』の木簡、初めて発見 奈良・長屋王邸跡で出土 国立文化財研が公開」読売新聞1988年10月26日朝刊1面
「古代の氷室跡初出土 奈良・都祁村」朝日新聞1991年7月2日朝刊29面

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2009年1月24日 (土)

糸毛車

212itoge_1 糸毛車は、絹の染め糸で屋形を覆った牛車で、主に上流貴族の女性が使用しました。
『輿車図考』及び『輿車図考附図』から特徴をまとめると、屋形の屋根から腰にかけて糸で覆って下部は房を垂らし、その上に金銀の窠文を飾りました(窠文には糸を押さえる役割もあったようです)。
物見はなく、格式の高い車の場合は屋形の前後に廂が付いていて、廂にも房を垂らしました。
簾や下簾の色は、糸の色と同色に揃えたようです。

213itoge_2廂付きの糸毛車に乗ることのできる身分はかなり限られていて、『延喜弾正台式』には
凡内親王。三位已上内命婦。及更衣已上。並聴乗糸葺有庇之車。并著緋牛鞦。
と規定されています。
これと対応するように、『源氏物語』宿木巻で薫に降嫁した女二の宮が三条宮に渡御する場面には
庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふ
と記されており、上臈女房が乗ったと思われる3台の糸毛車は廂のないものと描写されています。
対して女二の宮本人が乗った「庇の御車」は、おそらく廂のある糸毛車でしょう。

糸毛車は、廂の有無に関わらず全般に檳榔毛車などよりも格が上だったようです。
『小右記』や車の種類の描写が細かい『うつほ物語』などで糸毛車の使用例を拾うと、女御や内親王などの主人格が糸毛車に乗り、随行する女房達が檳榔毛車や金造車に乗っている例がいくつも見られます。
『紫式部日記』でも、中宮彰子が内裏に還御する際の車の記述に
糸毛の御車に殿の上、少輔の乳母若宮抱きたてまつりて乗る。大納言、宰相の君、黄金造りに、次の車に小少将、宮の内侍、
とあり、車の種類による序列が窺えます。

214itoge_3 『源氏物語図典』などの解説を読むと、屋形を覆う糸の色によって用途が分けられていたとして
「青糸毛は皇后・東宮・斎院など、紫糸毛は女御・更衣・尚侍・典侍など、赤糸毛は賀茂祭の女使」
と書かれていますが、この記述の根拠は、いずれも室町時代に成立した有職故実書『物具装束抄』(花山院忠定著)及び『蛙抄』(洞院実煕著)のようです。
実際の平安時代の文献に照らすと、これに一致するものと一致しないものの両方が『うつほ物語』の中に見られます。
まず一致するのは楼の上上巻で、仲忠一家の殿移りの準備を語る場面の中に
尚侍の御車、新しく調ぜさせたまへり。尚侍の殿のは、濃紫の糸毛に唐鳥くさらせ縫はせたまへり。
との描写があり、尚侍である俊蔭女の車として新調されたのが濃紫の糸毛車とされています。
一致しないのは国譲下巻で、
宮の御車は赤糸毛にて、輦車の大きなるやうなり。
と、東宮が赤糸毛車に乗っている描写があります。
(尤も、引用した新編日本古典文学全集には、「赤糸毛」の部分は底本では「あかすけ」となっているのを校訂した本文である旨の注が付いているので、確実な赤糸毛車の用例とは言い切れないのですが)
また、『輿車図考』に引かれている文献の中に度々「貞信公青糸毛」という文言が登場します。
私の漢文読解能力ではどこまで正確に読み取れているか心許ないのですが、どうやら藤原忠平が使用していた青糸毛車が後世まで伝えられ、修理を加えつつ平安後期まで使われていたようなのです。
『餝抄』(中院通方著の有職故実書。推定成立年代嘉禎年間[1235-1238])には、高倉天皇・近衛天皇の大嘗会御禊行幸の際に女御代がこの車を使用したこと、中宮となった待賢門院璋子のために白河院がこの車のコピーを造らせたことなどが記されています。
こうした例を考えると、必ずしも平安時代の色による用途の区別は上記のとおりではなかったのかもしれません。

糸毛車の視覚資料としては専ら『輿車図考附図』が用いられますが、その他にも『駒競行幸絵巻』の東宮渡御の情景に描かれている緑色の牛車が青糸毛車です。
風俗博物館で展示された糸毛車は、レジュメによると『輿車図考』を基に考証したとのことですが、『駒競行幸絵巻』の図とも非常によく似ています。
尚、風俗博物館Webサイト内の「牛車の種類」のページに、『輿車図考附図』の糸毛車の図が掲載されています。
記事中の写真はすべて、風俗博物館2008年下半期展示「六條院移徙」にて撮影した青糸毛車です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
『輿車圖 ; 輿車圖考. 舞楽圖説. 三條家奥向恒例年中行事』(故實叢書第36巻)改訂増補版 明治図書出版 1993年
神宮司廳[編]『古事類苑 器用部二』普及版 古事類苑刊行会 1934年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

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2008年11月24日 (月)

牛車にまつわる決まりのあれこれ(2)習慣・しきたり

210gissha_1前回、車に関わる法律を『延喜式』からご紹介しましたが、法律以外にも守るべき決まり事はいろいろとありました。

まずは、古典の便覧などにもよく載っている牛車の乗り方。
榻(しじ)を踏み台にして、後ろから乗って前から降ります。
木曽義仲がこれを無視して後ろから降りて牛飼に呆れられたエピソードが『平家物語』「猫間」に出てきますが、牛車が常の乗り物だった都の貴族にとっては作法以前の当たり前の所作だったのでしょう。
女性の場合は屋内から直接乗り降りするのが普通で(詳しくは牛車の乗降~女性の場合~をご覧ください)、『源氏物語』夕顔巻の
高欄に御車ひきかけて立ちたまへり
という描写は、高欄に轅(ながえ)を引きかけて牛車の前方から簀子へ降りるようにしたものです。

もう1つ基本的な知識としてよく出てくるのが、車内で座る位置の序列です。
序列が上の方から、前方右,前方左,後方左,後方右,の順になります。
大雑把に言えば、地位の高い人の方から先に乗る、ということになるでしょうか。
若紫巻に、左大臣が内裏から退出する光源氏を自邸に連れ帰る場面で
我が御車に乗せたてまつりたまうて、自らは引き入りてたてまつれり
という一文が出てきますが、これは源氏を上座に座らせて自分は手前に遠慮したということで、左大臣の正に下にも置かぬもてなし振りが表れています。
他方、空蝉巻の河内守邸再訪の翌朝の場面では
小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ
とあって、源氏が上座に座り、下座に空蝉の弟・小君を同乗させて二条院に帰っています。
また松風巻で、大堰の山荘にいた源氏が、ご機嫌伺いに参上した殿上人達を連れて桂の院に向かう場面でも
いとよそほしくさし歩みたまふほど、かしかましう追ひ払ひて、御車の尻に、頭中将、兵衛督乗せたまふ
と記されていて、源氏が上座、訪ねてきた殿上人達が下座になっています。
普通はこれが当然な訳で、それだけに最初に引いた若紫巻の左大臣の行為は痛々しくも滑稽にも見える過剰な振舞と言えます。

211gissha_2牛車の習慣でよく物語に描かれるのが、「出車(いだしぐるま)」です。
車の簾の下から女性の衣裳の袖口や裾などの端を出して見せた車のことで、乗っている本人の衣裳そのものではなく飾りとして車内に配置しました。
『満佐須計装束抄』巻一「車の衣を出だすこと」には、竹を削って車内に差し、そこに衣裳を掛けると書かれています。
この衣裳の色合いなどが、乗っている女性の趣味や教養を推し量る要素のひとつとなりました。
『源氏物語』きっての教養人として描かれる六条御息所とその下の女房の車は、それだけによく褒められていて、葵巻の車争いの場面では
ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫など、ものの色、いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車、二つあり
娘の斎宮と共に伊勢に旅立つ賢木巻の場面では
八省に立て続けたる出車どもの袖口、色あひも、目馴れぬさまに、心にくきけしきなれば
と描かれています。
また、関屋巻で常陸から戻ってきた空蝉一行が石山詣に向かう源氏と逢坂の関ですれ違う場面で
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる
との描写があり、国宝『源氏物語絵巻』関屋にも出車が描かれていることが復元模写で明らかになりました。

それから、『源氏物語』には出てきませんが、牛車に関する当時のちょっと面白い習慣を見つけました。
車で訪れた場所に既に高貴な身分の人がいる場合には、通常よりも手前で降りたり、牛を外して輦車のように人手で引いたりしたものだったようです。
例えば、高陽院での駒競行幸の際、
到御関白第、[所謂高陽院、]留鳳輦、(中略)進乗輿于中門、先是鋪長筵、居御輿、敷筵道到西対・渡殿・寝殿、(中略)次東宮参給、留御車西門、及諸卿迎候、鋪長筵、其上敷筵道、」(『小右記』万寿元[1024]年九月十九日条)
と、後一条天皇は中門、東宮敦良親王は更に手前の西門で輿・車を降り、そこからは筵道の上を歩いて寝殿に入ったことが記録されています。
これは数日前から高陽院に滞在している母后(と、東宮は先着している兄帝)を憚っての行為と思われます。
また、『栄花物語』巻第十七「おむがく」には、法成寺金堂落成供養のために皇太后宮妍子と禎子内親王が法成寺へ渡御した際の記述として
大宮おはしませば、御車は中門の外より手引にて入らせたまふ
同じく『栄花物語』巻第十九「御裳ぎ」にも、禎子内親王裳着のために枇杷殿から土御門殿へ渡御する皇太后宮妍子と禎子内親王の車の描写で
土御門殿には大宮おはしませば、御車をば陣よりかきおろして、手引にて入らせたまふ
とあり、いずれも「大宮」即ち太皇太后宮彰子に遠慮して中門の手前で牛を外し、人手で車を引いて中に入ったことが記されています。
(ただし「おむがく」については、史実では妍子の方が先に法成寺に入っており、この記述は『栄花物語』の創作)
女性の場合は、降車するのではなく人が引く形を取ったようです。

話は若干ずれますが、先月、奈良時代の大宰府条坊跡で車の轍跡や人・牛などの足跡が見つかったとの報道がありました。
発掘された遺構からは、道路の中央を車幅1.0~1.2mの車が行き交い、路肩の脇の側溝を歩行者が通行していたのではないか…と推測できるそうで、もしかしたら平安京にもそんな交通ルールが存在していたかも?と想像したりもしています。

日常的に用いられた乗り物だけに、その乗り方などが事細かに記されることは却ってありませんが、当時の決まりや習慣を知っておくと、ちらっと触れる程度の描写もより具体的にイメージできるのではないかと思います。

記事中の写真は、上が風俗博物館2006年上半期展示「女三の宮六條院降嫁」より、榻を置いて車から降りようとする女童、下が風俗博物館2006年出張展示「六條院へ出かけよう」より、唐車です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
NHK名古屋放送局・NHK名古屋ブレーンズ編集『よみがえる源氏物語絵巻』NHK名古屋放送局・NHK名古屋ブレーンズ 2005年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
「古代大宰府に“交通ルール”!?牛車と人 分かれて通行 奈良時代 道路にわだち跡」西日本新聞2008年10月9日朝刊27面

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2008年10月19日 (日)

牛車にまつわる決まりのあれこれ(1)『延喜式』から

212gissha_3

何事によらず身分秩序や先例が重んじられた平安時代、牛車に関してもさまざまな決まり事がありました。
今回は、全部を網羅した訳では勿論ありませんが、これまでの調べ物などで見つけた、牛車にまつわる法律やしきたりをご紹介します。
1回目は、『延喜式』に記された規定についてです。

『延喜弾正台式』には、さまざまな身分に基づく規定が列記されています。
弾正台は不法行為を取り締まる役所ですので、どの身分がどのようなことをするのは許されてどの身分では許されないのかといったことが示されている訳です。
色聴されたる」という表現で仮名作品によく出てくる「禁色」も、『延喜弾正台式』に記述されています。

牛車に関する規定で『源氏物語』との関連がありそうな項目としては、
凡内親王。三位已上内命婦。及更衣已上。並聴乗糸葺有庇之車。并著緋牛鞦。
という一条があります。
この規定と、薫に降嫁した女二の宮が三条宮に渡御する場面の
庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふ」(宿木巻)
との描写を考え合わせると、宮が乗った「庇の御車」は廂のある糸毛車ではないかと想像できます。

高貴な身分の人が乗る車には、「車副(くるまぞひ)」と呼ばれる、車の両脇に供奉して威儀を整える人々が付き添いますが、この人数も身分によって決まっていました。
概ね乗車する人が女性のときの方が人数が多く、最も多い妃には22人、女御には16人、更衣には10人、また親王及び左右大臣には14人、内親王には20人と定められています。
この規定を踏まえると、宮中で重病に陥った桐壺の更衣が退出する場面で
かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ」(桐壺巻)
と記される「忍びてぞ」の中身は、あるいは宮中を娘の死で穢すことを恐れた母北の方が、規定の従者の人数を省いて素早く娘を連れ出そうとした「心づかひ」だったのではないでしょうか。

また、『源氏物語』ではなく『紫式部日記』の記述になりますが、敦成親王出産後の中宮が内裏に還御するに当たって、上臈女房の大納言の君と宰相の君が「黄金造り」の車に乗ったことが記されています。
この車も、『延喜弾正台式』の規定に従えば内親王・孫王・女御・内命婦・参議以上及び非参議三位以上の嫡妻と娘・大臣の孫にのみ許されたものでした。
(尤も、実際は下の身分の者が定めを超えた車に乗る違反も多く、度々禁令が出されたようです)

日常的に使用された牛車ですが、大内裏の中は原則車馬乗入禁止で特定の物資運搬用の他は大内裏の内側に入れず、そうした車馬も行き先に応じて使用する門が特定されているほど、厳しい制限が設けられていました。
公卿や親王といえども、大内裏を囲む宮城門で車を降り、その先は歩いて勤務地に向かった訳です。
但し、特別に勅許を得た高官は例外的に内側の宮門(慣例では内裏外郭南東隅にある春華門。朔平門や建春門の場合もあり)まで牛車で進むことが許されました。
この勅許を「牛車の宣旨」と言います。
出生の秘密を知った冷泉帝が源氏への譲位をほのめかして辞退され、更に太政大臣昇進も先延ばしになって
ただ御位添ひて、牛車聴されて参りまかでしたまふ」(薄雲巻)
に留まったことを残念に思う場面がありますが、この「牛車聴されて」が牛車の宣旨を賜ったことを意味します。
ところが、『平安時代史事典』「牛車宣旨」の項目には、
「この宣旨は、本来老いた功臣をいたわる目的のものであるから、宣旨が下っても四十歳以上にならないと実際に牛車で宮門を出入しないのが例である。」
とあります。
上に引用した薄雲巻の書き方ですと、この場面ではまだ三十二歳の源氏が牛車で参内・退出したように読めますが、牛車の宣旨まで遠慮したら冷泉帝が再び譲位を言い出しかねないと懸念した源氏が、敢えて慣例を破った…と解釈すべきなのでしょうか。
尚、時代の下った史料ではありますが『世俗浅深秘抄』(後鳥羽上皇著述の有職故実書。13世紀初頭成立)によると
執政家之牛車之人用上東門。自余之輩用待賢門歟。(中略)入待賢門時泰春花門。」(上「聴牛車輦車人作法事」)
ということで、このとき内大臣の源氏は待賢門から春花門までの間を牛車で通行したと考えられます。

写真は、風俗博物館2008年下半期展示「六條院移徙」より、廂付きの青糸毛車です。

次回は、法律とは角度の異なる習慣・しきたりなどをご紹介します。

【2008年11月24日追記】
10月19日にUPした記事を加筆の上、内容の一部を牛車にまつわる決まりのあれこれ(2)習慣・しきたりに移しました。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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