カテゴリー「平安の風俗」の記事

2010年5月20日 (木)

帝の装束(1)御引直衣

220ohikinoshi_1 221ohikinoshi_2 貴族男性は、束帯や直衣、狩衣などの装束をTPOに合わせて着ましたが、帝の装束にもいろいろな種類があり、場面毎に使い分けられていました。
物語文学には現れることの少ない帝の装束ですが、風俗博物館ではそうした原文には描かれない部分も細かく展示されていますので、その写真を利用していくつかご紹介してみます。

最初に取り上げる御引直衣は、帝がプライベートな場面で着用する普段着です。
貴族男性も自邸など私的な場では、公卿などの上流貴族なら直衣、それ以下の身分なら狩衣を着て過ごしましたので、その意味では帝も同じということになりますが、通常の直衣とは形状も着方も違います。
御引直衣は親王や公卿らが着る普通の直衣よりも裾が長く、普通の直衣が裾をたくし上げて懐をつくる着方なのに対し、懐をつくらず裾をそのまま後ろに引きずる着方をします。
この後ろに裾を引く着方が「御引直衣」という名称の所以です。
直衣の生地は、冬は表地が白小葵綾、裏地が紫または二藍の平絹、夏は三重襷文の二藍または縹の*(こめ。皺模様のある薄手の縮み絹。縮緬)、とされています。
※「*」は穀の“禾”を“系”に換えた漢字
被り物は烏帽子ではなく冠を被り、下半身に着けるものも普通の直衣姿のように指貫ではなく紅の打袴か生袴でした。
直衣の下は衵と単を着ますが、これも普通の直衣の下に着るものよりは長く仕立てるのが通例だったようです。

222ohikinoshi_3 ただし、「御引直衣」という言葉そのものは『源氏物語』をはじめとする平安中期までの文献には見当たりません。
堀河天皇(1079-1107)の生前を回想した『讃岐典侍日記』下の記述や、同じく12世紀初頭編纂の『江家次第』巻第六「石清水臨時祭試楽」、承安四[1174]年の出来事と明記された『建礼門院右京大夫集』二番歌詞書などに登場するのが初期の例になります。
また、紅の袴を着用することは『江家次第』巻第十「賀茂臨時祭試楽」の記述や後述の国宝『源氏物語絵巻』宿木(一)から確認できるのですが、生地や色に関する決まり事は『禁秘御抄』(順徳天皇著・建暦三[1213]年成立)をはじめとする鎌倉期以降の有職故実書でしか確認できないので、もしかしたら貴族男性の直衣の場合と同様に、『源氏物語』の時代にはまだ定型化した様式にはなっていなかったのかもしれません。

絵画資料としては、『枕草子絵詞』と国宝『源氏物語絵巻』宿木(一)が挙げられます。
『枕草子絵詞』は鎌倉期の作品ですが、御引直衣姿の一条天皇が描かれていて、白描画のため色はわからないものの裾が広がった直衣の様子がよく見て取れます。
『源氏物語絵巻』宿木(一)の方では、今上帝が直衣を省略して衵を重ねただけのくだけた服装で描かれており、御引直衣そのものは描かれていませんが、衵と単を後ろに引いて紅の袴を履いているのがわかります。

最後に、上皇の日常着について。
以前この衣裳について調べた際、国宝『源氏物語絵巻』鈴虫(二)の冷泉院が袴の裾を後ろに引きずっているような姿で描かれていることと『亭子院歌合』の宇多法皇の衣裳が「檜皮色の御衣に承和色の御袴」と記されていることから、天皇だけでなく上皇も御引直衣に袴というのが日常着だったのではないかと推測しました。
ですが、冷泉院の直衣の着方はいまひとつ判然とせず(例えば『枕草子絵詞』の一条天皇の姿と比べると、通常の直衣に近い着方をしているように見えます)、宇多法皇の方は亭子院歌合が催された延喜十三[913]年には“法皇”の称号のとおり仏門に入っていて出家者の装束である点を考慮しなければなりませんので、この2例から上皇の日常着が御引直衣であると結論付けるのは些か早計であろうと現在では考えています。
この点については、もう少し確実な資料が揃うまで保留としておきたいと思います。

写真は、上の2つが2004年西陣出張展示「一条帝による土御門第行幸」より、倚子に腰掛ける御引直衣姿の一条天皇、下が2004年上半期展示「斎宮女御と弘徽殿女御の絵合」より、御引直衣を着て倚子に掛けようとしている冷泉帝です。
(上の写真について、実際には行幸時の天皇の装束が御引直衣ということは考えられないのですが、博物館スタッフの方から「当時は天皇独特の衣裳を紹介するために敢えて御引直衣姿で展示した」と伺った記憶があります。ですので、ここではあくまで装束の参考画像としてご覧ください)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD- ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
神宮司廳編『古事類苑50 服飾部』普及版 古事類苑刊行會 1936年
『日本国語大辞典』第2版 小学館 2001年

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「帝の装束(1)御引直衣」を加筆修正したものです。

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたしま す。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2009年10月 3日 (土)

月の宴

218tsukinoen_1 今日(2009年10月3日)は旧暦八月十五日、仲秋の名月です。
現在では薄とお団子をお供えしてお月見をする家庭は少ないかもしれませんが、お月見の習慣は平安時代まで遡ります。
八月十五日の夜に仲秋の名月を愛で、供物を供えて詩歌管弦の遊びをする宴を催す「月の宴」です。
内裏をはじめ貴族の邸宅で広く行われ、時代が下ると庶民の間でも広く行われました。
月を観賞して宴を設ける大陸の風習が伝わったものです。

月の宴の文献上の初見は、島田忠臣の『田氏家集』に収められた「八月十五夜宴月」「八月十五夜惜月」などと題された漢詩であるとされます(『平安朝の年中行事』)。
文人達が大陸の観月の風習に倣って仲秋の名月を愛で漢詩を詠む宴を催す例は、文徳天皇の時代辺りから始まったようです。
『竹取物語』の「在る人の「月の顔見るは、忌むこと」と制しけれども」との記述から窺われるように、平安時代以前の日本にはお月見の習慣はなかったと見られます。

宮廷行事としては、『日本紀略』延喜九[909]年の
閏八月十五日。夜太上法皇召文人於亭子院。令賦月影浮秋池之詩。
との記事が早い例とされています。
(『平安時代史事典』は仁和元[885]年八月十五日に光孝天皇が神泉苑で催した詩宴を初期の例として挙げていますが、『日本三代実録』同日条には「日暮鸞輿還宮」と記されていて行幸は日中のこととわかるので、月の宴の例と言えるかどうかは若干疑問です)
その後、宮中の行事として定着していったようで、平安中期までに30例近くが数えられるそうです(『源氏物語の鑑賞と基礎知識26 横笛・鈴虫』)。
中でも村上天皇が康保三[966]年八月十五日の晩に清涼殿で催した「前栽合わせ」を伴っての月の宴は特に有名で、その様子は『西宮記』にも記録され、『栄花物語』巻一の巻名「月の宴」もこの宴の記事が由来となっています。

尚、宮中で月の宴が盛んになった宇多・醍醐朝でも、恒例の晴儀ではなく、詩歌管弦の遊宴の性格が強かったようです。
そうした月の宴の位置付けは、『西宮記』において8月の年中行事を載せる巻五にその記述がなく、臨時の儀式を集める巻八に「宴遊」として康保三年の前栽合わせの記録が載っている点からも見て取ることができます。

月を愛で漢詩や和歌・音楽を楽しむ習慣は、宮廷行事としてだけでなく貴族の私的な楽しみとしても取り入れられました。

人の家の、前近き泉に、八月十五夜、月の影映りたるを、女ども見る程に、垣の外より、大路に笛吹きてゆく人あり。
  雲居よりこちくの声を聞くなへにさし汲むばかり見ゆる月影
(『蜻蛉日記』中巻・安和二年八月)

上の例は現実の景色ではなく、作者が頼まれて藤原師尹の五十の賀のために詠んだ屏風歌の記述です。
この頃には月次屏風に描かれるほど仲秋の名月を愛でる習慣が定着していたことがわかると同時に、その絵の構図から肩肘を張らずにのどかに月を楽しむ当時の様子も推測できます。
また、この屏風歌を詠んだ時期も八月のことで、「宵の程、月見るあひだなどに、一つ二つなど、思ひて物しけり」との描写からは、あるいは作者自身も名月を眺めながら歌を考えたのだろうか?などとも想像されます。

また『枕草子』第九十六段には、「八月十よ日の月明き夜」のこととして、定子中宮が端近に出て琵琶の演奏を聴きながら女房達と共に月を見たエピソードが記されています。
この出来事は長徳三[997]年か翌四[998]年のことと推定されており、中宮を取り巻く状況は厳しくなっていたときですが、逆境にあっても折々の行事や季節感を楽しむことを忘れなかった中宮の姿を描く『枕草子』全体のトーンを考えると、このエピソードも仲秋の名月をひっそりと、しかし鬱屈した様子を見せることなく愛でた一夜のことだったのではないかと思います。

219tsukinoen_2 では、『源氏物語』において仲秋の名月はどのように描かれているかを見てみると、八月十五日と特定できる月の場面は全部で7例あります。

最初に仲秋の名月が描かれるのは夕顔巻、五条の宿での逢瀬の場面です。
八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、残りなく漏りて来て」という描写が、続く隣家の住人同士の会話と並んで夕顔の住まいの陋屋ぶりを印象付けます。
十五夜が明けた翌十六日の暁に、2人はここから某院に赴いて1日を過ごす訳ですが、某院で夜を迎えた源氏が「内裏に、いかに求めさせたまふらむを、いづこに尋ぬらむ」と考えるのも、前夜内裏で催された筈の月の宴にも出席せず、翌日も1日参内しなかったことを思えば当然と言えるでしょう。

2番目の例は、須磨の地で遥かに内裏の月の宴を思いやる場面です。

月のいとはなやかにさし出でたるに、「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて、殿上の御遊び恋しく、「所々眺めたまふらむかし」と思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。(須磨巻)

都でも須磨でも同じ月を眺めているとの思いが、却って源氏の侘しい境遇を浮き上がらせる効果を果たしており、中でも「殿上の御遊び」の華やぎが謹慎の地での十五夜との対照を形づくっています。

続く明石巻では、都に召還された源氏と朱雀帝の対面の場面が「十五夜の月おもしろう静かなる」八月十五日の宵に設定されています。
長く眼病を患い程なく帝位を退くことを決めている帝の御前では、月の宴が催されることもなく、退場を間近に控えた朱雀帝の寂寥がさりげなく示されます。
桐壺帝が行った朱雀院行幸や花の宴、冷泉帝が催した絵合わせなどの盛儀の狭間で、朱雀帝が主催した儀式行事は物語には描かれることがなく、ここでも当然あってしかるべき年中行事の空白が示されることで、源氏と比較され敗者の役割を担わなくてはならない朱雀帝の位置付けが間接的に明らかにされていると言えます。

そして鈴虫巻では、仲秋の名月を背景に、女三の宮と源氏の微妙な語らい、蛍兵部卿宮や夕霧らと虫の音を語り合う鈴虫の宴、漢詩や和歌を詠み合う冷泉院での月の宴、の3つの場面が描かれます。
今宵は、例の御遊びにやあらむと推し量りて、兵部卿宮渡りたまへり」「内裏の御前に、今宵は月の宴あるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに」といった語りからは、六条院でも内裏でも月の宴は当然催されるべきもの、というような期待感が窺われます。
しかし登場する人物達は、世を捨てた女三の宮、老いを噛み締める光源氏、帝位を去った冷泉院、といずれも翳りを色濃く漂わせ、更にその背景には、内裏の月の宴が中止になったことがあります。
かなり変則的な月の宴の描かれ方です。

そして、物語の中で最後に仲秋の名月が描かれるのは、紫の上の葬送の場面です。

昔、大将の君の御母君亡せたまへりし時の暁を思ひ出づるにも、かれは、なほもののおぼえけるにや、月の顔の明らかにおぼえしを、今宵はただくれ惑ひたまへり。
十四日に亡せたまひて、これは十五日の暁なりけり。
(御法巻)

紫の上との死別によって目の前が真っ暗になってしまった源氏の悲嘆の激しさが、1年の内でも最も明るい仲秋の名月の光との対照から浮き彫りにされています。

意外なことに、宴の様子そのものを描いているのは鈴虫巻の2例(六条院での鈴虫の宴と冷泉院での月の宴)のみで、宮廷行事としての月の宴は全く描かれていません。
更に、描かれた2例の宴を含めていずれの例も寂寥感・悲哀感の漂う描写を見せており、作者が仲秋の名月をどのように捉えていたのか、非常に興味深い点だと思います。

尚、楢原茂子氏は松風巻の桂の院での宴と鈴虫巻の鈴虫の宴との対応を指摘していますが(『源氏物語の鑑賞と基礎知識26 横笛・鈴虫』)、松風巻の場面が月の宴なのかどうかは、可能性は充分考えられるものの確定できないため、この記事では取り上げませんでした。

写真はいずれも、風俗博物館2009年下半期展示「月の宴」(国宝源氏物語絵巻「鈴虫(二)」再現)にて撮影したものです。

【参考文献】

古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
永井和子編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識26 横笛・鈴虫』至文堂 2002年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編集『平安時代の儀礼と歳事』至文堂 1994年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年
佐藤和雄作成「源氏物語の語彙検索(KWIC)

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「月の宴(仲秋の名月)」をリライトしたものです。

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2009年8月30日 (日)

夏の氷

216tsuridono 盛夏の折、冷たいものが食べたくなるのは、現代も1000年前も変わりません。
冷蔵庫など当然ない平安時代、貴重な「冷たい食べ物」が氷でした。
『源氏物語』をはじめとする物語などには、しばしば暑さを凌ぐための氷を使った食事が登場します。

古代の夏、そもそもどうやって氷を手に入れたかと言うと、冬の間にできた氷を氷室に貯蔵しておき、それを少しずつ取り出して使用していました。
氷室の歴史は古く、『日本書紀』仁徳紀六十二年是歳条には氷室の起源伝説とも言える記述があります。
そしてそれを裏付けるように1988年に長屋王邸跡から「都祁氷室」と記された木簡が発見されて8世紀初めの氷室の実態が明らかになり、更にその3年後の1991年には奈良県都祁村(当時。現在は奈良市の一部)で8世紀末~9世紀初頭に造られたと見られる氷室の遺構が出土しました。
これらの資料から、当時の氷室は深さ3mほどに掘られた穴で、断熱材として氷の周りに草やもみ殻などを入れ、穴の上には覆屋を建てて日光や雨を防いだと推測されます。
いずれも『源氏物語』が書かれた時代より200~300年前の資料ではありますが、氷室の構造は平安中期も基本的に変わらなかったのではないかと思います。

平安時代の氷室は朝廷が管理しており、『延喜主水司式』に規定されています。
(長屋王邸跡の木簡の記述から長屋王家専用の氷室が存在した可能性が指摘されており、必ずしも朝廷の管理下にはなく私有に近い形態の氷室もあったのではないかとの推測もありますが、平安時代に関しては氷室の私有を窺わせる史料は見つかっていないようですので、ここでは朝廷管轄の氷室を前提としてご紹介します)
これによると、山城・大和・河内・近江・丹波の各国に合計21ヶ所の氷室が設けられ、氷を生産するための氷池(氷室の設置場所と同じ5ヶ国に合計540ヶ所もの池がありました)から採取された氷が貯蔵されていました。
現在、京都市内には「北区衣笠氷室町」「北区西賀茂氷室町」「左京区上高野氷室山」などの地名が見られますが、これらはいずれも『延喜主水司式』に記されている氷室に由来する地名と推測されています。
氷室から氷が供給されるのは四月一日から九月三十日までと限定されており、天皇・中宮・東宮などの避暑の料として用いられ、一部は臣下にも下賜されました。

話は若干脱線しますが、元日節会の儀式次第には、主水司が氷室から運んできて豊楽殿の庭に安置した氷の厚さを測って帝に奏上する「氷様奏(ひのためしのそう)」と呼ばれる儀式がありました。
氷が厚いと豊年の徴とされ、1年の吉凶を占う意味があったようですが、山中裕氏はこの氷様奏と、同じく元日節会の中で献上の鱒を奏する「腹赤奏(はらかのそう)」とを指して
「これらの奏は初春の慶賀の意を表する主旨から、山海の珍品を献上することとなり、いつしかそれが恒例となるにいたったのであろう」
と述べています(『平安朝の年中行事』)。
当時の氷の稀少性が窺われる儀式です。

そんな貴重品の夏の氷が『源氏物語』の中で描かれるのは常夏巻と蜻蛉巻の2ヶ所、そのうち常夏巻に食事に用いられた氷が登場します。

いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、西川よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。(中略)大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。

巻冒頭、暑さを凌ぐために釣殿に出た源氏が、伺候する夕霧や殿上人らに食事を振舞う場面です。
水飯」は炊いたご飯またはそれを干したものを水に浸した食べ物で、お湯に浸した「湯漬」が冬場のものだったに対して夏に食べるものでした。
この場面では水飯に氷水を用いており、格別に冷たく贅沢な食べ方と言えます。
こんなところにも太政大臣・光源氏の権勢の一端が表れているようです。

217kezurihi 一方、『枕草子』には「平安時代のかき氷」とも言える食べ物が登場します。

削り氷にあまづら入れて、新しき金まりに入れたる。(第三十九段「あてなるもの」)

薄く削った氷を新しい金属製のお椀に入れ、甘葛(諸説あるようですが、『日本古代食事典』によればブドウ科のツタ)から採取した液を煮詰めて作った甘いシロップをかけたもの、というのが清少納言にとっては「薄色に白襲の汗衫」や「水晶の数珠」などと並んで上品に感じられるものだったようです。
確かに、文章から想像しただけでも涼しげで品良く思われます。
また『御堂関白記』寛仁二[1018]年四月廿日条には、「参大内、御風発給、是日来依召氷也」、即ち後一条天皇が風邪を引き、その原因は数日来氷を食べていたことだとする記述がありますが、もしかしたらこのとき十一歳の天皇が食べた氷も清少納言が書き留めたような削り氷だったのかも?と想像したくなります。
尚、削り氷は食の進まない病人などがわずかばかり口にするものとして挙がることもあり、『うつほ物語』国譲中では懐妊中の女一宮が食事をせずに削り氷ばかりを食べたがる場面が、また『栄花物語』巻第二十五「みねの月」では、娘の寛子を亡くしたショックで放心状態になった源明子が食事も喉を通らないため、周囲の者達が削り氷を用意して口に入れるよう絶えず勧めた、との記述があります。

勿論シンプルに喉を潤す氷水も文献上に登場します。
例えば『小右記』には、「参上殿上、不耐苦熱飲氷水」(寛仁二[1018]年五月廿一日条)、「以宰相召氷水飲、不堪苦熱耳」(治安三[1023]年七月二十七日条)、「禅閣曰、所労不快、枯槁尤甚者、被飲氷水」(『小右記』治安三[1023]年六月十日条)などの記述があります。
引用文は順番に、寛仁二[1023]年が道長の法華三十講に参上した折に暑さに耐えかね氷水を飲んだこと、治安三[1023]年七月が相撲節会に先立つ擬近奏の際に氷水を飲んでも暑さが耐え難かったとの感想、最後の治安三[1023]年六月は道長が「ひどく喉が渇く」と言って氷水を飲む姿を記録したものです。
うだるような京都の酷暑を、なんとか氷水で和らげようとする様子がリアルに伝わってきます。
また、最初にご紹介した『日本書紀』仁徳紀六十二年是歳条には、氷の用途について「水酒に漬して用ふ」とあり、氷水だけでなくお酒に氷を浮かべる謂わばオンザロックも古代からあったことがわかります。
上に挙げた『源氏物語』常夏巻の「大御酒」にも、あるいは氷が入っていたのかもしれません。

当然のことながらこんな風に氷で涼を取ることができたのはごく限られた上流階級の人々だけだった訳ですが、意外と平安貴族にとっては身近な存在だった夏の氷についてご紹介しました。

写真は、上が風俗博物館2003年下半期展示「釣殿の涼み」、下が同2006年上半期展示「あてなるもの」にてそれぞれ撮影したものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
河地修編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識21 常夏・篝火・野分』至文堂 2002年
永山久夫著『日本古代食事典』東洋書林 1998年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
平凡社[編]『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)平凡社 1979年
山中裕著『平安朝の年中行事』(塙選書75)塙書房 1972年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
「『氷室』の木簡、初めて発見 奈良・長屋王邸跡で出土 国立文化財研が公開」読売新聞1988年10月26日朝刊1面
「古代の氷室跡初出土 奈良・都祁村」朝日新聞1991年7月2日朝刊29面

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2009年1月24日 (土)

糸毛車

212itoge_1 糸毛車は、絹の染め糸で屋形を覆った牛車で、主に上流貴族の女性が使用しました。
『輿車図考』及び『輿車図考附図』から特徴をまとめると、屋形の屋根から腰にかけて糸で覆って下部は房を垂らし、その上に金銀の窠文を飾りました(窠文には糸を押さえる役割もあったようです)。
物見はなく、格式の高い車の場合は屋形の前後に廂が付いていて、廂にも房を垂らしました。
簾や下簾の色は、糸の色と同色に揃えたようです。

213itoge_2廂付きの糸毛車に乗ることのできる身分はかなり限られていて、『延喜弾正台式』には
凡内親王。三位已上内命婦。及更衣已上。並聴乗糸葺有庇之車。并著緋牛鞦。
と規定されています。
これと対応するように、『源氏物語』宿木巻で薫に降嫁した女二の宮が三条宮に渡御する場面には
庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふ
と記されており、上臈女房が乗ったと思われる3台の糸毛車は廂のないものと描写されています。
対して女二の宮本人が乗った「庇の御車」は、おそらく廂のある糸毛車でしょう。

糸毛車は、廂の有無に関わらず全般に檳榔毛車などよりも格が上だったようです。
『小右記』や車の種類の描写が細かい『うつほ物語』などで糸毛車の使用例を拾うと、女御や内親王などの主人格が糸毛車に乗り、随行する女房達が檳榔毛車や金造車に乗っている例がいくつも見られます。
『紫式部日記』でも、中宮彰子が内裏に還御する際の車の記述に
糸毛の御車に殿の上、少輔の乳母若宮抱きたてまつりて乗る。大納言、宰相の君、黄金造りに、次の車に小少将、宮の内侍、
とあり、車の種類による序列が窺えます。

214itoge_3 『源氏物語図典』などの解説を読むと、屋形を覆う糸の色によって用途が分けられていたとして
「青糸毛は皇后・東宮・斎院など、紫糸毛は女御・更衣・尚侍・典侍など、赤糸毛は賀茂祭の女使」
と書かれていますが、この記述の根拠は、いずれも室町時代に成立した有職故実書『物具装束抄』(花山院忠定著)及び『蛙抄』(洞院実煕著)のようです。
実際の平安時代の文献に照らすと、これに一致するものと一致しないものの両方が『うつほ物語』の中に見られます。
まず一致するのは楼の上上巻で、仲忠一家の殿移りの準備を語る場面の中に
尚侍の御車、新しく調ぜさせたまへり。尚侍の殿のは、濃紫の糸毛に唐鳥くさらせ縫はせたまへり。
との描写があり、尚侍である俊蔭女の車として新調されたのが濃紫の糸毛車とされています。
一致しないのは国譲下巻で、
宮の御車は赤糸毛にて、輦車の大きなるやうなり。
と、東宮が赤糸毛車に乗っている描写があります。
(尤も、引用した新編日本古典文学全集には、「赤糸毛」の部分は底本では「あかすけ」となっているのを校訂した本文である旨の注が付いているので、確実な赤糸毛車の用例とは言い切れないのですが)
また、『輿車図考』に引かれている文献の中に度々「貞信公青糸毛」という文言が登場します。
私の漢文読解能力ではどこまで正確に読み取れているか心許ないのですが、どうやら藤原忠平が使用していた青糸毛車が後世まで伝えられ、修理を加えつつ平安後期まで使われていたようなのです。
『餝抄』(中院通方著の有職故実書。推定成立年代嘉禎年間[1235-1238])には、高倉天皇・近衛天皇の大嘗会御禊行幸の際に女御代がこの車を使用したこと、中宮となった待賢門院璋子のために白河院がこの車のコピーを造らせたことなどが記されています。
こうした例を考えると、必ずしも平安時代の色による用途の区別は上記のとおりではなかったのかもしれません。

糸毛車の視覚資料としては専ら『輿車図考附図』が用いられますが、その他にも『駒競行幸絵巻』の東宮渡御の情景に描かれている緑色の牛車が青糸毛車です。
風俗博物館で展示された糸毛車は、レジュメによると『輿車図考』を基に考証したとのことですが、『駒競行幸絵巻』の図とも非常によく似ています。
尚、風俗博物館Webサイト内の「牛車の種類」のページに、『輿車図考附図』の糸毛車の図が掲載されています。
記事中の写真はすべて、風俗博物館2008年下半期展示「六條院移徙」にて撮影した青糸毛車です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
『輿車圖 ; 輿車圖考. 舞楽圖説. 三條家奥向恒例年中行事』(故實叢書第36巻)改訂増補版 明治図書出版 1993年
神宮司廳[編]『古事類苑 器用部二』普及版 古事類苑刊行会 1934年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2008年11月24日 (月)

牛車にまつわる決まりのあれこれ(2)習慣・しきたり

210gissha_1前回、車に関わる法律を『延喜式』からご紹介しましたが、法律以外にも守るべき決まり事はいろいろとありました。

まずは、古典の便覧などにもよく載っている牛車の乗り方。
榻(しじ)を踏み台にして、後ろから乗って前から降ります。
木曽義仲がこれを無視して後ろから降りて牛飼に呆れられたエピソードが『平家物語』「猫間」に出てきますが、牛車が常の乗り物だった都の貴族にとっては作法以前の当たり前の所作だったのでしょう。
女性の場合は屋内から直接乗り降りするのが普通で(詳しくは牛車の乗降~女性の場合~をご覧ください)、『源氏物語』夕顔巻の
高欄に御車ひきかけて立ちたまへり
という描写は、高欄に轅(ながえ)を引きかけて牛車の前方から簀子へ降りるようにしたものです。

もう1つ基本的な知識としてよく出てくるのが、車内で座る位置の序列です。
序列が上の方から、前方右,前方左,後方左,後方右,の順になります。
大雑把に言えば、地位の高い人の方から先に乗る、ということになるでしょうか。
若紫巻に、左大臣が内裏から退出する光源氏を自邸に連れ帰る場面で
我が御車に乗せたてまつりたまうて、自らは引き入りてたてまつれり
という一文が出てきますが、これは源氏を上座に座らせて自分は手前に遠慮したということで、左大臣の正に下にも置かぬもてなし振りが表れています。
他方、空蝉巻の河内守邸再訪の翌朝の場面では
小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ
とあって、源氏が上座に座り、下座に空蝉の弟・小君を同乗させて二条院に帰っています。
また松風巻で、大堰の山荘にいた源氏が、ご機嫌伺いに参上した殿上人達を連れて桂の院に向かう場面でも
いとよそほしくさし歩みたまふほど、かしかましう追ひ払ひて、御車の尻に、頭中将、兵衛督乗せたまふ
と記されていて、源氏が上座、訪ねてきた殿上人達が下座になっています。
普通はこれが当然な訳で、それだけに最初に引いた若紫巻の左大臣の行為は痛々しくも滑稽にも見える過剰な振舞と言えます。

211gissha_2牛車の習慣でよく物語に描かれるのが、「出車(いだしぐるま)」です。
車の簾の下から女性の衣裳の袖口や裾などの端を出して見せた車のことで、乗っている本人の衣裳そのものではなく飾りとして車内に配置しました。
『満佐須計装束抄』巻一「車の衣を出だすこと」には、竹を削って車内に差し、そこに衣裳を掛けると書かれています。
この衣裳の色合いなどが、乗っている女性の趣味や教養を推し量る要素のひとつとなりました。
『源氏物語』きっての教養人として描かれる六条御息所とその下の女房の車は、それだけによく褒められていて、葵巻の車争いの場面では
ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫など、ものの色、いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車、二つあり
娘の斎宮と共に伊勢に旅立つ賢木巻の場面では
八省に立て続けたる出車どもの袖口、色あひも、目馴れぬさまに、心にくきけしきなれば
と描かれています。
また、関屋巻で常陸から戻ってきた空蝉一行が石山詣に向かう源氏と逢坂の関ですれ違う場面で
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる
との描写があり、国宝『源氏物語絵巻』関屋にも出車が描かれていることが復元模写で明らかになりました。

それから、『源氏物語』には出てきませんが、牛車に関する当時のちょっと面白い習慣を見つけました。
車で訪れた場所に既に高貴な身分の人がいる場合には、通常よりも手前で降りたり、牛を外して輦車のように人手で引いたりしたものだったようです。
例えば、高陽院での駒競行幸の際、
到御関白第、[所謂高陽院、]留鳳輦、(中略)進乗輿于中門、先是鋪長筵、居御輿、敷筵道到西対・渡殿・寝殿、(中略)次東宮参給、留御車西門、及諸卿迎候、鋪長筵、其上敷筵道、」(『小右記』万寿元[1024]年九月十九日条)
と、後一条天皇は中門、東宮敦良親王は更に手前の西門で輿・車を降り、そこからは筵道の上を歩いて寝殿に入ったことが記録されています。
これは数日前から高陽院に滞在している母后(と、東宮は先着している兄帝)を憚っての行為と思われます。
また、『栄花物語』巻第十七「おむがく」には、法成寺金堂落成供養のために皇太后宮妍子と禎子内親王が法成寺へ渡御した際の記述として
大宮おはしませば、御車は中門の外より手引にて入らせたまふ
同じく『栄花物語』巻第十九「御裳ぎ」にも、禎子内親王裳着のために枇杷殿から土御門殿へ渡御する皇太后宮妍子と禎子内親王の車の描写で
土御門殿には大宮おはしませば、御車をば陣よりかきおろして、手引にて入らせたまふ
とあり、いずれも「大宮」即ち太皇太后宮彰子に遠慮して中門の手前で牛を外し、人手で車を引いて中に入ったことが記されています。
(ただし「おむがく」については、史実では妍子の方が先に法成寺に入っており、この記述は『栄花物語』の創作)
女性の場合は、降車するのではなく人が引く形を取ったようです。

話は若干ずれますが、先月、奈良時代の大宰府条坊跡で車の轍跡や人・牛などの足跡が見つかったとの報道がありました。
発掘された遺構からは、道路の中央を車幅1.0~1.2mの車が行き交い、路肩の脇の側溝を歩行者が通行していたのではないか…と推測できるそうで、もしかしたら平安京にもそんな交通ルールが存在していたかも?と想像したりもしています。

日常的に用いられた乗り物だけに、その乗り方などが事細かに記されることは却ってありませんが、当時の決まりや習慣を知っておくと、ちらっと触れる程度の描写もより具体的にイメージできるのではないかと思います。

記事中の写真は、上が風俗博物館2006年上半期展示「女三の宮六條院降嫁」より、榻を置いて車から降りようとする女童、下が風俗博物館2006年出張展示「六條院へ出かけよう」より、唐車です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
NHK名古屋放送局・NHK名古屋ブレーンズ編集『よみがえる源氏物語絵巻』NHK名古屋放送局・NHK名古屋ブレーンズ 2005年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
「古代大宰府に“交通ルール”!?牛車と人 分かれて通行 奈良時代 道路にわだち跡」西日本新聞2008年10月9日朝刊27面

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2008年10月19日 (日)

牛車にまつわる決まりのあれこれ(1)『延喜式』から

212gissha_3

何事によらず身分秩序や先例が重んじられた平安時代、牛車に関してもさまざまな決まり事がありました。
今回は、全部を網羅した訳では勿論ありませんが、これまでの調べ物などで見つけた、牛車にまつわる法律やしきたりをご紹介します。
1回目は、『延喜式』に記された規定についてです。

『延喜弾正台式』には、さまざまな身分に基づく規定が列記されています。
弾正台は不法行為を取り締まる役所ですので、どの身分がどのようなことをするのは許されてどの身分では許されないのかといったことが示されている訳です。
色聴されたる」という表現で仮名作品によく出てくる「禁色」も、『延喜弾正台式』に記述されています。

牛車に関する規定で『源氏物語』との関連がありそうな項目としては、
凡内親王。三位已上内命婦。及更衣已上。並聴乗糸葺有庇之車。并著緋牛鞦。
という一条があります。
この規定と、薫に降嫁した女二の宮が三条宮に渡御する場面の
庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふ」(宿木巻)
との描写を考え合わせると、宮が乗った「庇の御車」は廂のある糸毛車ではないかと想像できます。

高貴な身分の人が乗る車には、「車副(くるまぞひ)」と呼ばれる、車の両脇に供奉して威儀を整える人々が付き添いますが、この人数も身分によって決まっていました。
概ね乗車する人が女性のときの方が人数が多く、最も多い妃には22人、女御には16人、更衣には10人、また親王及び左右大臣には14人、内親王には20人と定められています。
この規定を踏まえると、宮中で重病に陥った桐壺の更衣が退出する場面で
かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ」(桐壺巻)
と記される「忍びてぞ」の中身は、あるいは宮中を娘の死で穢すことを恐れた母北の方が、規定の従者の人数を省いて素早く娘を連れ出そうとした「心づかひ」だったのではないでしょうか。

また、『源氏物語』ではなく『紫式部日記』の記述になりますが、敦成親王出産後の中宮が内裏に還御するに当たって、上臈女房の大納言の君と宰相の君が「黄金造り」の車に乗ったことが記されています。
この車も、『延喜弾正台式』の規定に従えば内親王・孫王・女御・内命婦・参議以上及び非参議三位以上の嫡妻と娘・大臣の孫にのみ許されたものでした。
(尤も、実際は下の身分の者が定めを超えた車に乗る違反も多く、度々禁令が出されたようです)

日常的に使用された牛車ですが、大内裏の中は原則車馬乗入禁止で特定の物資運搬用の他は大内裏の内側に入れず、そうした車馬も行き先に応じて使用する門が特定されているほど、厳しい制限が設けられていました。
公卿や親王といえども、大内裏を囲む宮城門で車を降り、その先は歩いて勤務地に向かった訳です。
但し、特別に勅許を得た高官は例外的に内側の宮門(慣例では内裏外郭南東隅にある春華門。朔平門や建春門の場合もあり)まで牛車で進むことが許されました。
この勅許を「牛車の宣旨」と言います。
出生の秘密を知った冷泉帝が源氏への譲位をほのめかして辞退され、更に太政大臣昇進も先延ばしになって
ただ御位添ひて、牛車聴されて参りまかでしたまふ」(薄雲巻)
に留まったことを残念に思う場面がありますが、この「牛車聴されて」が牛車の宣旨を賜ったことを意味します。
ところが、『平安時代史事典』「牛車宣旨」の項目には、
「この宣旨は、本来老いた功臣をいたわる目的のものであるから、宣旨が下っても四十歳以上にならないと実際に牛車で宮門を出入しないのが例である。」
とあります。
上に引用した薄雲巻の書き方ですと、この場面ではまだ三十二歳の源氏が牛車で参内・退出したように読めますが、牛車の宣旨まで遠慮したら冷泉帝が再び譲位を言い出しかねないと懸念した源氏が、敢えて慣例を破った…と解釈すべきなのでしょうか。
尚、時代の下った史料ではありますが『世俗浅深秘抄』(後鳥羽上皇著述の有職故実書。13世紀初頭成立)によると
執政家之牛車之人用上東門。自余之輩用待賢門歟。(中略)入待賢門時泰春花門。」(上「聴牛車輦車人作法事」)
ということで、このとき内大臣の源氏は待賢門から春花門までの間を牛車で通行したと考えられます。

写真は、風俗博物館2008年下半期展示「六條院移徙」より、廂付きの青糸毛車です。

次回は、法律とは角度の異なる習慣・しきたりなどをご紹介します。

【2008年11月24日追記】
10月19日にUPした記事を加筆の上、内容の一部を牛車にまつわる決まりのあれこれ(2)習慣・しきたりに移しました。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2008年10月11日 (土)

唐車

207karaguruma_1 平安貴族の一般的な乗り物は牛車でしたが、一口に「牛車」「」と言ってもさまざまな種類がありました。
その中で唐車は、牛車の中では最も格式が高く、輩輿(れんよ。駕輿丁が轅を肩に担ぐ種類の輿)に次ぐ位置づけにありました。
輩輿のうち、鳳輦は天皇専用、葱花輦は帝・后・斎王のみ乗ることができましたが、対する唐車はそうした身分の人々に加えて、上皇・女院・東宮・親王・摂関も乗用が可能でした。
『栄花物語』で、禎子内親王の裳着のために内親王とその母・皇太后宮妍子が枇杷殿から土御門殿へ渡御する際、「大宮は御輿にておはしますべけれど、一品宮の異に奉らんが便なかるべければ、唐の御車にておはします」(巻第十九「御裳ぎ」)と記されているのは、内親王に許される乗り物の格式を明確に示しています。
また『枕草子』には、積善寺供養に向かう東三条女院詮子一行の車列について「一の御車は唐車なり」(第二六三段「関白殿、二月二十一日に」)と記されており、詮子が唐車を使ったことがわかります。

208karaguruma_2唐車は、格式が高いと同時に最も大きな車でもあり、時代は平安時代から大幅に下りますが『輿車図考附図』(松平定信編 文化元[1804]年成立)を参照すると、牛車の傍らに付き添う従者の烏帽子の高さよりも大きく車輪が描かれており、他の牛車に比べて明らかに大型であることがわかります。
『栄花物語』巻第十七「おむがく」の中には、法成寺金堂落成供養の後に太皇太后彰子をはじめとする后妃・内親王総勢5人(『権記』逸文に従えば倫子も加わって6人)が唐車に同乗して諸堂を見て回った記述があり、「通常4人乗りの牛車に、女性ばかりとはいえあの裾が長く嵩張る衣裳を着込んで5・6人も乗ることができたのか?!」と驚いたのですが、これも大型の唐車なればこそ可能なことだったのかもしれません。

209karaguruma_3「唐車」という名称は屋根が唐破風の形をしていることに由来し、「唐廂車」とも呼びました。
『輿車図考』から唐車の形状をまとめると、まず屋根には檳榔の葉で葺き、廂と屋形の腰にも檳榔の房を垂らします。
檳榔はヤシ科の植物で、九州や沖縄などの南国でしか採れない稀少なものだったため、檳榔の葉を葺くことはその車の権威を誇示する意味もあったのではないかと思われます。
立板(屋形の側面の板)と袖(立板の端)には彩色を施し、簾は蘇芳で染め錦の縁を付けたもの、下簾は唐草や唐花・唐鳥を刺繍した蘇芳の浮線綾を掛けます。
鞦(しりがい。牛の胸から尻にかけて取り付けて車の轅を固定させる緒)は房がある場合とない場合の両方があったようです。
綱には唐綾または白妙を用います。
尚、『源氏物語図典』には
「ほかの車の乗降には榻(しじ)を用いるが、この車は桟(はしたて)という梯子(はしご)を用いた」
と書いてありますが、私が調べた限りでは桟に関する記述は見つからず、『輿車図考附図』の唐車の図には榻を持つ牛飼が描かれており、また『桃華蘂葉』にも「御榻[鷺足入角、有總黄金物]」(一車事)との記述があって、その根拠がよくわかりませんでした。
車の大きさを考えると、踏み台ではなく梯子を使った方が確かに合理的な気はしますが。

『源氏物語』の中で、はっきりと唐車だと断定できる車の例はありません。
車の種類がわかるのは、男主人公達が人目を忍ぶ微行で身をやつしたときの「網代車」(須磨巻・若菜上巻・橋姫巻)と、女二の宮が三条宮に渡御する場面で宮が乗った「庇の御車」(宿木巻)くらいです。
風俗博物館展示では、朱雀院鍾愛の内親王の権威を示す乗り物として、女三の宮降嫁の場面の具現で登場しました。
写真はすべて、2006年上半期展示「女三の宮六條院降嫁」で撮影したものです。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
小町谷照彦編『必携源氏物語を読むための基礎百科』(別冊國文學No.56)學燈社 2003年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
『輿車圖 ; 輿車圖考. 舞楽圖説. 三條家奥向恒例年中行事』(故實叢書第36巻)改訂増補版 明治図書出版 1993年
神宮司廳[編]『古事類苑 器用部二』普及版 古事類苑刊行会 1934年

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2008年3月31日 (月)

裁縫

188saiho_1 衣裳を仕立てる裁縫は、女房のみならず、当時の女性全般にとって重要な仕事のひとつでした。
家刀自として、夫や子供など家族の衣裳を調える必要があったからです。

例えば『蜻蛉日記』には兼家から作者の許に仕立物の依頼が度々あったことが記されていますし、それが最後になると最早兼家の装束の用意をすることはなく、年末に道綱の新年の装束だけを用意するという、兼家との離別を印象付ける記述で終わっています。
つくり物語の例では、『落窪物語』で落窪の君が優れた裁縫の腕を持つために継母の北の方に常に縫い物を言いつけられており、落窪の君がいなくなってからは蔵人の少将(北の方の実子・三の君の婿)の衣裳を満足に用意できなくなってしまい、少将が腹を立てる場面があります。
女君の手による衣裳の調製や裁縫の技量が語られるのは『源氏物語』でも同じで、

旅の御宿直物など、調じてたてまつりたまふ。(須磨巻)

と、配所にある源氏の衣類を紫の上が仕立てて届ける場面がありますし、花散里も、家庭的な女性らしく裁縫や染色に優れた人で、

今朝の朝寒なるうちとけわざにや、もの裁ちなどするねび御達、御前にあまたして、細櫃めくものに、綿引きかけてまさぐる若人どもあり。(野分巻)

と、女房達に差配して夕霧の冬物の装束などを用意する様子が描かれています。
また雨夜の品定めの中でも、左馬頭が

龍田姫と言はむにもつきなからず、織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし(帚木巻)

と死別した指喰いの女の裁縫・染色の腕を賞賛しており、『落窪物語』の例と同様、男性貴族にとっても妻の裁縫の能力の高さが重要だったことが伺えます。
(写真上は、2003年下半期風俗博物館展示より、渡殿の局で縫い物をする女房。
写真下は、いずれも風俗博物館展示より、冬支度の綿入れをする女房。左が2006年下半期、右が2004年上半期)

190saiho_3189saiho_2 季節毎の衣替えや新年の仕度だけでなく、行事儀式や祭見物などのために自分自身の装束を縫って用意することもありました。
特に主家の行事などにも侍り人目に触れる機会の多い女房達にとって、こうした特別な衣裳の用意は華やかで心浮き立つ行為の一方で、非常に頭を悩ます事柄でもあったようです。
そうした女房達の姿は、女房自身の手による作品の随所に描かれています。

高坏どもに火をともして、二人三人、三、四人、さべきどち、屏風ひき隔てたるもあり、几帳など隔てなどもしたり。また、さもあらで、集り居て、衣どもとぢ重ね、裳の腰さし、化粧するさまはさらにも言はず、髪などいふもの、明日より後は、ありがたげに見ゆ(『枕草子』二六三段「関白殿、二月二十一日に」)

積善寺供養前夜の女房達の様子です。
当日に同僚達をあっと言わせようというのか隔て隠して仕度をしている者、何人も集まって針を動かす者、化粧に念を入れ髪の手入れに熱中する者、と各々の熱気が伝わってきます。

その日になりぬれば、日ごろいつしかと待ち思ひたりつる若き人々は、また人の衣の色、匂ひにや劣らん勝らんの挑み、胸騒がしかるべし。(中略)局にはまた物縫ひ騒ぎて、「あないみじや。頭をだにこそつくろはね」など言ふもあり。また、し果てたるは、歯黒めつけなど、心のどかにわが身の化粧をし磨くもあり。(『栄花物語』巻第二十四「わかばえ」)

こちらは皇太后妍子の大饗を前にした枇杷殿の女房達の昂揚ぶり。
当日になっても縫い物が終わらず慌てている者もいれば、準備万端で悠然と化粧をしている者もあり、なんともリアルな描写です。
先に挙げた積善寺供養に勝るとも劣らぬ熱の入れようが感じられます。

人の局々には、大きやかなる袋、包ども持てちがひ、唐衣の縫物、裳、ひき結び、螺鈿、縫物、けしからぬまでして、ひき隠し、「扇を持て来ぬかな」など、言ひ交しつつ化粧じつくろふ。(『紫式部日記』寛弘五[1008]年九月十一日条)

続いてこちらは、敦成親王が無事に誕生し、御湯殿の儀を前にした女房達の様子です。
この先打ち続く祝いの儀式のために、里から新しい装束を運び込んだり、過剰なまでに刺繍や螺鈿などの凝った飾りを施したりしています。

いずれの例からも、行事を前にした女房達が化粧と並んで衣裳の新調にどれほど心を砕いていたかがよくわかります。

そして、こうした女房の熱気や慌ただしさを物語を展開させる原動力として巧みに取り込んでいるのが『源氏物語』です。

御禊明日とて、斎院にたてまつりたまふ女房十二人、ことに上臈にはあらぬ若き人、童女など、おのがじしもの縫ひ、化粧などしつつ、物見むと思ひまうくるも、とりどりに暇なげにて、御前の方しめやかにて、人しげからぬ折なりけり。(若菜下巻)

女三の宮方の女房や女童が、斎院の御禊を見物すべく裁縫やら化粧やらに余念のない様子です。
こうしてそれぞれが浮き足立って自分のことに気を取られている隙に、柏木は女三の宮の許に忍び込むのですが、その侵入を許す舞台設定として、祭見物のための縫い物が効果的に用いられています。

思ほしのたまへるさまを語りて、弁は、いとど慰めがたくくれ惑ひたり。皆人は心ゆきたるけしきにて、もの縫ひいとなみつつ、老いゆがめる容貌も知らず、つくろひさまよふにいよいよやつして、
「人はみないそぎたつめる袖の浦に
  一人藻塩を垂るる海人かな」
 と愁へきこゆれば、
 「塩垂るる海人の衣に異なれや
  浮きたる波に濡るるわが袖
(早蕨巻)

こちらは、匂宮によって二条院へ引き取られることになった中の君に従うべく、出立の仕度をする老女房達です。
新しい衣裳を仕立てたり化粧を施したりと忙しがっている立居振舞に、晴れがましい都入りに胸を膨らませる女房達の高揚感が表現されており、別離の悲しみと心細さに暮れる中の君や弁の尼との対照が際立ちます。
この場面は「国宝源氏物語絵巻」にも描かれているので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

火明う灯して、もの縫ふ人、三、四人居たり。童のをかしげなる、糸をぞ縒る。(中略)右近、
「いとねぶたし。昨夜もすずろに起き明かしてき。明朝のほどにも、これは縫ひてむ。急がせたまふとも、御車は日たけてぞあらむ」
と言ひて、しさしたるものどもとり具して、几帳にうち掛けなどしつつ、うたた寝のさまに寄り臥しぬ。
(浮舟巻)

宇治に隠し据えられた浮舟を匂宮が探し当てて覗き見る場面ですが、ここで人々は翌日の石山詣に備えた裁縫に精を出しています。
その浮き立つ気分と単調な手先仕事が女房達の口を軽くさせ、匂宮の興味を掻き立てる会話が次々と展開される流れになっています。

こうして例を並べてみると、女房の重要な仕事のひとつとして日常生活の中で頻繁に行われた縫い物を、そのときの昂揚した気分まで含めて物語の場面展開に利用していることがわかります。
さすがに女性が書いた作品と言うべきでしょうか。

191saiho_4 また、『紫式部日記』には

内匠の蔵人は長押の下にゐて、あてきが縫ふ物の、重ねひねり教へなど、つくづくとしゐたるに、(寛弘五[1008]年十二月三十日条)

と、年末の行事も終わってくつろいだ中で内匠の蔵人が女童に裁縫を教えている記事がありますが、これも女の子にとって裁縫が必要不可欠な技術だったからこその光景でしょう。
(写真は、2003年下半期風俗博物館展示より、渡殿の局で女童に裁縫を教える女房)

最後に、誰しも覚えのある失敗を再び『枕草子』から。

とみの物縫ふに、かしこう縫ひつと思ふに、針を引き抜きつれば、はやく後を結ばざりけり。また、かへさまに縫ひたるも、ねたし。(第九一段「ねたきもの」)

短くてありぬべきもの とみのもの縫ふ糸。(第二二〇段「短くてありぬべきもの」)

急ぎの仕立物に追われた当時の女性達の仕事の一端が窺われる記述です。

裁縫についての仮名作品の記事は、活き活きと働く当時の女性達の姿を髣髴とさせてくれます。

【参考文献】
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
古典総合研究所作成「語彙検索
佐藤和雄氏作成「源氏物語の語彙検索(KWIC)

※この記事は、小池笑芭さんのWebサイト「源氏の部屋」に掲載していただいている「裁縫~女性の仕事の一片~」を加筆修正したものです。

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (1)

2008年3月 9日 (日)

御帳台

184michodai_1_3 185michodai_2_2 御帳台は貴人の休寝に用いられた調度で、現代風に言えば天蓋付きのベッドです。
寝具をどかして茵を敷き、昼の御座としても使われました。
『類聚雑要抄』『満佐須計装束抄』には、いずれも母屋に据える調度のひとつとして挙げられています。

御帳台の構造や室礼は、上に挙げた二書に非常に詳しく書かれています。
それらの記述に沿ってご紹介しますと、まず、板敷の上に浜床(はまゆか)と呼ばれる黒塗りの台を据え、その上に土敷(つちしき)と呼ばれる繧繝縁の畳二帖を北南に敷きます。
(二書とも、浜床を置くのは后などの御帳台のみとしていますが、『うつほ物語』楼の上上巻の「浜床をのみぞ、いぬ宮の御料は、ささやかにせさせたまへる」との描写からは俊蔭女といぬ宮の御帳台に浜床があったと読める他、『源氏物語』でも后ではない女君の寝所で「(ゆか)」という表現が出てきますし(空蝉巻・蛍巻)、国宝『源氏物語絵巻』柏木(一)には女三の宮の御帳台に浜床がはっきりと描かれています。
『源氏物語図典』「浜床」の項によると
「本来、帳台には、浜床があったが、後に省かれるようになったものかとされる」
とのことで、『類聚雑要抄』『満佐須計装束抄』の成立時期は『源氏物語』の書かれた時代より150年以上後であることも、一方では考慮する必要があるようです)
次に、土敷の四隅にL字型の土居(つちい)を据え、土居の角毎に1本ずつ、合計12本の柱を立てます。
その上に鴨居を置き、漆塗りの枠に白い絹を張った天井を乗せます。
それから、四隅には四幅の帷子を、四幅の帷子の間の四方には五幅の帷子を掛け、上部に帽額(もこう)を引きます。
186michodai_3内部には四尺几帳を三本、南・東・西に立て(したがって北側が出入り口になります)、三方の五幅の帷子を几帳の横木の高さに合わせて巻き上げます。
土敷の上には表筵(うわむしろ)や地鋪を敷き、南を枕にして衾を置きます。
『満佐須計装束抄』には、枕の左右に枕几帳と呼ぶ小さな几帳を立てることが記されていますが、『類聚雑要抄』では、枕几帳は普通は用いず聟娶のときに立てるとしています。
更に魔除けとして、枕のある南側の柱には犀の角を、反対の北側の柱には鏡を、それぞれ掛けます。
帝・后の御帳台の場合は、前に鎮子の獅子・狛犬が置かれます。
『枕草子』第二六三段で里邸・二条の宮の定子中宮の御座について「御しつらひ、獅子、狛犬など」と記しているのは、この御帳台の獅子・狛犬のことです。

以上で、御帳台の室礼は完成となります。

187michodai_4 帷子は夏冬の衣更えで掛け替えました。
『類聚雑要抄』では、冬は練平絹、夏は生平絹で、いずれも白泥で「野条秋草等」を描くとしています。
『源氏物語』の中でも、明石巻や総角巻に御帳台の帷子の衣更えのことが記されています。
また、出産時には調度や衣類を白一色にすることが知られていますが、御帳台も白木でつくり白い帷子を掛けたものに替えました。
『紫式部日記』にはご存知のとおり彰子中宮の出産が詳述されており、「白き御帳に移らせたまふ」との記述をはじめ、御帳台の周りに集まった人々の心配や動揺、泣き笑いが活写されています。

『源氏物語』では、御帳台はほとんど「御帳」と記されます。
用例を眺めると、若紫巻や葵巻など、結婚を象徴するように御帳台が点描されている例が散見されます。
中でも特に意味深長に思われるのが、荒木孝子氏「調度」(『平安時代の信仰と生活』所収)も指摘する女三の宮にまつわる御帳台の描写です。
裳着に際して朱雀院がせめてもの箔付けにと「御帳、御几帳よりはじめて、ここの綾錦混ぜさせたまはず、唐土の后の飾りを思しやりて」(若菜上巻)美々しく調えられ、降嫁にあたっては「この院にも、御心まうけ世の常ならず。若菜参りし西の放出に御帳立てて」(同巻)と源氏が心を砕いて準備した上に「かの院よりも御調度など運ばる」(同巻)と畳み掛けられます。
更に、小侍従が柏木を「御帳の東面の御座の端」(若菜下巻)に導いたことが悲劇を招き、父の手で出家を遂げることになる朱雀院との対面も「御帳の前」(柏木巻)でした。
そして最後に女三の宮の御帳台が登場するのは、出家した宮の持仏開眼供養の場面で「夜の御帳の帷を、四面ながら上げて」(鈴虫巻)仏像が安置された状態なのです。
父院が幸せな結婚を願って用意した御帳台が、若くして世を捨てた宮の持仏の御座になるという結末は、なんとも憐れでなりません。

尚、風俗博物館の実物大展示室には『類聚雑要抄』の記述に基づいて内部まで細密に再現した御帳台があり、外からは勿論、中に入って見学することもできるようになっていますので、ご来館の際は1/4模型の展示だけでなくこちらもお見逃しなく。

記事中の写真は、左上から順に以下のとおりです。

  • 2005年11~12月に催された時代装束体験イベント「京の家づと」で設置された実物大の御帳台(浜床なし)
  • 2005年上半期風俗博物館展示「三日夜の餅の儀(夕霧と雲居の雁の結婚)」より、御帳台(浜床あり)
  • 京都御所清涼殿の御帳台(2005年11月撮影)
  • 2006年3~4月に開催された風俗博物館出張展示「六条院へ出かけよう」より、白い御帳台の中で出産に備える女三の宮と介添えの女房

【参考文献】
小町谷照彦編『[必携]源氏物語を読むための基礎百科』(別冊国文学No.56)學燈社 2003年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
源氏物語の語彙検索(KWIC)
古典総合研究所作成「語彙検索

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

2007年10月13日 (土)

髪削(かみそぎ)

170kamisogi_1 平安時代の子供には、生まれてから成人するまでの間に何度か髪にまつわる通過儀礼がありました。
まず、生まれて7日前後で胎髪を剃る「産剃」があり、それから約2年間は男女を問わず坊主頭で過ごします。
数え三歳を迎えた頃から髪を伸ばし始め(これを「髪置(かみおき)」と呼びます)、その後四・五歳で伸ばした髪の裾を切り揃える「髪削(「髪剃」とも)」という儀式を行いました。
特に初めて髪を切る儀式を指す場合もありますが、最初の儀式を行ってから成人式である元服・裳着を迎えるまで年に数回同じような儀式を繰り返し、こちらも同様に「髪削」と呼びました。
初めて髪を削いだ後は、毛先を整えながら次第に髪を伸ばし、六・七歳頃からは頭の天辺から左右に分けた振分髪(ふりわけがみ)にします。
男の子の場合は、更に髪が伸びると角髪(みずら)に結いました。
そして最後に元服・裳着で男の子は髷を結って冠を被り、女の子は髪上をして大人の仲間入りを果たします。

古来、髪や爪は身体から切り離されても元の身体とのつながりを保つと考えられたこともあり、髪削は吉日吉事を選んで執り行われました。
時代は下りますが『拾芥抄』(14世紀初頭成立と推定される百科全書。洞院公賢撰)「諸事吉凶日部」には「髪曾木日事」として「凡酉丑日為吉」(凡そ酉丑の日を吉と為す)と記されており、また『源氏物語』葵巻でも、祭見物の前に紫の君の髪削を思い立った源氏が「今日は、吉き日ならむかし」と言って暦博士に吉時を調べさせる描写があります。
(賀茂祭は四月の中の酉の日ですから、源氏の言葉は『拾芥抄』の示す髪削の吉日と一致しています)

儀式次第は、平安中期にはまだ完全に定型化していなかったようですが、12世紀に入るとその様子が『殿暦』や『長秋記』などに記録されるようになります。
それらの史料から儀式の概略をまとめますと、以下のようになります。

171kamisogi_2 まず、髪を削ぐ役目の人が手を洗うための角盥と、削いだ髪を入れる受け箱、髪を削がれる子供が乗る碁盤を用意します。
角盥の中には、吉方から汲んできた水と、同じく吉方の石、山菅(ユリ科ヤブラン属の常緑多年草・ヤブランのこと。耐陰性が強く生育旺盛)、山橘(ヤブコウジ科ヤブコウジ属の常緑低木・ヤブコウジのこと。地下茎で増え群生する性質をもつ)などを入れます。
これらにはそれぞれ意味があって、石には長い年月を経ても変わらない強硬な性質に、山菅にはその繁殖力に、山橘には寒さや霜に負けぬ緑に、それぞれあやかって長寿と健康、そして髪が豊かに育つようにとの願いを込めました。
受け箱は手箱の蓋を用い、内側に檀紙を敷き、櫛1枚を入れます。
子供が碁盤に乗るのは、毛先の位置を高くして切りやすくするためでしょうが、碁盤を用いることに何か特別な意味があるのかはわかりません。
吉時を待って儀式を開始し、髪を削ぐ役目の人の前に碁盤を据えて子供が吉方を向いてその上に立ち、髪削ぎ役は介添役から鋏を受け取って髪を切り揃えます。
(「削」「剃」の漢字から、なんとなく剃刀のような刃物で毛先を切り落とすイメージを持ちますが、室町時代まで剃刀は専ら僧侶の剃髪用具で、髪を整えるのにはU字型の鋏を用いました。
また『長秋記』天永二[1111]年十二月四日条の鳥羽天皇髪削の記事の中には「御夾」の語が見え、「」は「鋏」の意かと推測されています。
また、写真を掲載した風俗博物館の展示では紫の君は碁盤の上に座っていますが、これはスタッフの方によると、人形を立たせた状態だと収まりが悪かったために展示栄えを優先して敢えて史実とは異なる形にしたとのお話でした)

髪を削ぐ役は、一族の尊者が務めたようです。
『栄花物語』巻第三十四「暮まつほし」に記された長暦元[1037]年の章子・馨子両内親王(後一条天皇皇女)の髪削ぎの場合は、父母双方の縁戚であり氏長者である藤原頼通が、『長秋記』長承三[1134]年十二月五日に記録された統子内親王及び雅仁・本仁両親王(鳥羽上皇皇子女)の場合は、鳥羽准母の太皇太后令子内親王が、それぞれ髪を削いでいます。
また『殿暦』が記す天仁二[1109]年~天永二[1111]年の鳥羽天皇の髪削の例のように、摂政がその任に当たることもありました。
こうした例を踏まえると、『源氏物語』葵巻で源氏が「君の御髪は、我削がむ」と手ずから紫の君の髪を削ぎ、「千尋」と祝いの言葉をかける様子に少納言の乳母が「あはれにかたじけなし」と感動するのも頷けます。

『源氏物語』の中で髪削が描かれるのは、葵巻の紫の君の例だけで、他の作品にもあまり例はありません。
五十日・百日や袴着、元服・裳着などの1回限りの通過儀礼に比べると、まだこの時期には殊に重要な儀式として特別視はされていなかったのかもしれません。
裏を返せば、葵巻で祭見物に先立って敢えて紫の君の髪削の場面が挿入されたのには、成人女性である葵の上と六条御息所との間に挟まれた閉塞状態から一時解放された源氏とまだ無垢な成長途上の紫の君との明るく末永い将来を予祝する意味が込められていた…と読み取ることもできるでしょう。

尚、これは中世以降のことになりますが、初めて髪を削ぐことを特に「深曾木(ふかそぎ)」と称し、年齢も五歳に固定されるようになりました。
更に、武家社会に取り込まれる過程で同じく五歳の通過儀礼となった袴着と混交し、袴着の際に子供が碁盤の上に乗って鴨川の石を踏みしめ、碁盤から飛び降りるという形が出来上がります。
これが皇室で現代まで続いている「着袴の儀」のルーツです。
それと同時に、現代の数少ない通過儀礼とも言える七五三の「五」の部分の源泉でもあります。
現代とは無関係な1000年前の習慣かと思いきや、変遷を経ながら現代までつながっている通過儀礼です。
(写真はいずれも風俗博物館2005年上半期「紫の君の髪削ぎ」より、碁盤の上に乗った紫の君と、その髪を削ぐ光源氏、介添役の女房)

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
宮崎荘平編集『源氏物語の観賞と基礎知識9 葵』至文堂 2000年
小学館「大辞泉」編集部編集『大辞泉』増補・新装版 小学館 1998年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
中野幸一編『常用源氏物語要覧』武蔵野書院 1995年
加藤理著『「ちご」と「わらは」の生活史 : 日本の中古の子どもたち』慶応通信 1994年
『日本大百科全書』小学館 1984-1994年
神宮司廳編『古事類苑 禮式部一』普及版 古事類苑刊行會 1932年
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース

日本ブログ村のランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いいたします。
 にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ

| | トラックバック (0)

より以前の記事一覧