カテゴリー「思いつきエッセイ」の記事

2019年2月16日 (土)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~10世紀前半の文献から~

延喜五[905]年に『古今和歌集』が成立しますが、その中で「薔薇(さうひ)」を詠んだ歌は紀貫之作の一首しかありません。

  我はけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり(巻十 物名「さうひ」436番歌)

この歌は物名歌でありつつ薔薇そのものを詠んだ歌とされていますが、「あだなるもの」の解釈は注釈書によって「婀娜っぽい」「華やかな」と肯定的に取るものと「仇」「徒」の文字を当てて否定的に取るものの真っ二つに分かれています。
ただ、肯定的であれ否定的であれ、人の心を惑わすような魅惑的な花の色を詠んでいることは確かです。
また題の配置は「あふひ、かつら」「くたに」「さうひ」「をみなえし」の順となっており、『古今和歌集』が総じて季節順に歌を配列していることを踏まえると、「薔薇」が咲くのはやはり夏、賀茂祭の後頃と見るのが妥当でしょう。

「薔薇」が『古今和歌集』に詠まれているのはこの一首のみ、更にその後も、後でご紹介する『西国受領歌合』くらいしか見当たらない(『古今和歌六帖』草の部「さうひ」は『古今和歌集』の貫之歌を再録したもの)ことから、やはり
「薔薇は平安時代の日本人には馴染まなかった」
と断定する傾向が見られますが、秋の花の代表と言ってもいいくらい親しまれている桔梗も、「きちかう」という音のせいか、和歌にはほとんど詠まれていないという一面がありますので、まだ結論を急がない方が良いと思います。

一方、『古今和歌集』から10年ほど遅れて『本草和名』が成立します。
先にご紹介した、「営実=墻薇=うばらのみ」と書かれている史料です。
また、『延喜式』(延長五[927]年成立)三十七「典薬寮」には

諸国進年料雑薬
摂津国卌四種
(中略)薔薇根

とあり、摂津国から薬の材料として薔薇の根が収められていたことがわかります。
『本草和名』や『延喜式』に登場する「薔薇」は、観賞用ではなく薬草ですので、日本古来のノイバラ類のことを指していると思われます。
本文が漢文なので、中国式の名称を使用したのではないでしょうか。
承平年間[931-938]成立とされる『和名類聚抄』巻二十「草木部」にも、『本草和名』を引用して

本草云薔薇一名墻蘼[音微今案薇蘼通]陶隠居注云営実[和名無波良乃美]薔薇子也

と記されています。

そして10世紀半ばには、『千載佳句』が編まれます。
これは『和漢朗詠集』(長和二[1013]年または寛仁二[1018]年成立?)の先駆けとも言っていい詩句集で、ここに白居易の「階底薔薇入夏開」が収録されているのです。
ここから先、薔薇に言及した文献で白居易の詩に影響を受けていないものはないのではないかと思われるほど、この詩句は人口に膾炙されていきました。

面白いのは、『千載佳句』の中で「甕頭竹葉経春熟 階底薔薇入夏開」は、「四時部」に「首夏」の題で収められているのですが、それとは別に「草木部」に「薔薇」という題があり、白居易の詩とは別の詩句が二編載っていることです。

元稹作
千重密葉侵階緑 万朶閑花向日紅

作者不明
翠葉偃風如剪彩 紅花含露似啼粧

二つの詩句は、いずれも葉の緑と花の紅を対比させて詠んでおり、実はここで初めて「薔薇」の花の色が「」と明示されたことになります。
菅原道真の詩や紀貫之の歌に「」と詠まれていたので「薔薇」の花が白ではないことは確定的でしたが、「薔薇」の題の下にいずれも紅い花を詠んだ詩句が収められたということは、
「薔薇と言ったら紅い花」
というイメージが当時の人々の中にあったのではないでしょうか。
更に、「甕頭竹葉経春熟 階底薔薇入夏開」の句は『和漢朗詠集』にも「首夏」の題で収録され、その人気は不動のものとなります。
そこで次は、以降の平安文学に絶大な影響を齎した「甕頭竹葉経春熟 階底薔薇入夏開」をはじめとする、白居易の薔薇の詩を見てみたいと思います。

【参考文献】
中島輝賢 / 紀貫之の〈薔薇〉の歌 : 漢詩文の影響と物名歌の場. 国文学研究 135, 13-22, 2001
吉田加奈子 / 薔薇の受容変化 : 平安から鎌倉初期の「薔薇」. 服飾美学 37, 33-48, 2003
金子彦二郎著『平安時代文学と白氏文集』 培風館 1955年

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2019年2月12日 (火)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~『田氏家集』と『菅家文草』~

次に「薔薇」が登場するのは、寛平年間[889-898]の作と推定される『田氏家集』(島田忠臣の漢詩集)所収の「五言。禁中瞿麥花詩三十韻[並序。]」です。
序に

今年初種禁籬。物得地而增美。雖有數十名花。傍若無色香耳。但古今人嘲詠知小。盖此花生大山川谷。不在好家名處。何得右薔薇左牡丹前蘭菊後萱草乎。花亦有時。人亦有時。

とあり、この年に初めて宮中に植えられた撫子を讃えた詩であることがわかります。
また「撫子はこれまで人々に軽んじられ山野に自生するばかりで、薔薇や牡丹、蘭菊のように名家の庭に植えられることはなかった」と言っていますので、裏を返せば薔薇は珍重され、宮中の庭のような名園に植えるに相応しい花と考えられていたことになります。
詩の本文で薔薇に言及しているのは第二十八聯で、

薔薇嫌有刺。芍薬愧無光。

と詠まれています。
この詩でもやはり棘が注目されていますが、この詩をもって
「薔薇は棘が嫌われて平安時代の日本人に受け入れられなかった」
と結論付けるのは間違いだと思います。
というのは、この詩はあくまで撫子を讃えるために詠まれたのであって、薔薇や芍薬は、欠点を持たない撫子の素晴らしさを強調するための比較対象として持ち出されているからです。
嫌われているもの、みすぼらしいものと比較して「それよりも優れている」と言ったところで何の褒め言葉にはならないことを考えれば、自然と作詩の意図は読み取れる筈です。

もうひとつ、「薔薇が嫌われたと考えるのは誤りだ」と私が考える根拠とも言える文献があります。
島田忠臣の詩とほぼ同時代に詠まれた『菅家文草』所収の薔薇の詩です。
巻第五に「薔薇。」、「感殿前薔薇、一絶。[東宮。]」という二つの題の詩があります。

まず、そのものずばり「薔薇。」の題の方は、東宮敦仁親王(後の醍醐天皇)から「今取当時二十物重要」と命ぜられて速詠した二十作の中のひとつで、寛平七[895]年初夏の作とされています。
短いので詩の全文を載せます。

一種薔薇架 芳花次第開
色追膏雨染 香趁景風來
數動詩人筆 頻傾醉客杯
愛看腸欲斷 日落不言廻

ここで初めて薔薇の花が詠まれました。
この詩から読み取れるのは、薔薇が「」即ち棚を作っていること、香り高い花を付け、恵みの雨を受けて色づいていくこと、詩人達はしばしば薔薇を詠み、薔薇を愛でながら酒を酌み交わしたこと。
第三聯は後ほどご紹介する白居易の詩が念頭にあった可能性も考えられますが、ここで詠まれている薔薇は、初夏に花を咲かせ、棚を作るような蔓性で、風に乗って香るほどの芳香がある、という特性を持つ品種だということになります。
直立性で四季咲き、香りの弱いコウシンバラとは特徴が全く一致しません。

「感殿前薔薇、一絶。[東宮。]」も、短いので全文を載せます。

相遇因縁得立身 花開不競百花春
薔薇汝是應妖鬼 適有看來悩殺人

東宮の住まう殿舎の前庭に薔薇が植えられており、それを詠んだ詩です。
先に「五言。禁中瞿麥花詩三十韻[並序。]」をご紹介する中で、裏返しに薔薇が珍重され賞美されていたことが読み取れると指摘しましたが、正にそれを裏付ける史料とも言えます。
また、「花開不競百花春」とあることから、百花繚乱の春が終わってから花開くことがわかります。
妖鬼の如く、たまたま目を留めた人を悩殺する…というのですから、菅原道真は、薔薇を何とも妖艶な美しさを湛えた花と感じていたことが窺えます。

私が調べた当時、園芸史の視点から薔薇を取り上げた文献は『田氏家集』ばかりを取り上げて『菅家文草』には全くと言っていいほど言及していなかった記憶があるのですが、両方の作から、薔薇は宮中の庭に植えられるような誉れある花であったこと、また『菅家文草』の二作から、初夏になってから花を咲かせ、コウシンバラとは特徴が一致しないこと、を確認しておきたいと思います。

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2019年2月11日 (月)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~『文華秀麗集』~

私が見つけた中で「薔薇」の語が登場する最も古い文献は、弘仁九[818]年成立の『文華秀麗集』です。
ここには、「薔薇」そのものの語を含む詩が一編、薔薇の棘を意味する「薔棘」、薔薇の垣根を指す「薔籬」の語を含む詩が各一編収められています。

収録順に、まずは淳和天皇作の「夏日左大将軍藤原朝臣閑院納涼。探得閑字。応製。一首。」の中の第二聯を紹介します。

送春薔棘珊瑚色。迎夏巌苔玳瑁斑。

この詩は弘仁五[814]年四月二十八日、嵯峨天皇閑院行幸時の作かと推定されており、春が過ぎ夏を迎えた薔薇の棘が珊瑚色に色づいている様を詠んでいます。
この「珊瑚色」というのが注意すべきポイントで、「野の花ガーデン」掲示板で教えていただいたところによると、緑ではなく紅い棘を持つのは現在「チャイナローズ」と園芸界で呼ばれている中国原産のバラを起源とする品種の特徴なのだそうです。
確かに、私が神代植物公園で見たコウシンバラも棘は鮮やかな紅色をしていましたし、2008年にBunkamuraザ・ミュージアムで開催された「薔薇空間」展で見た『バラ図譜』でも中国系の品種は紅色の棘が描かれており、他の系統の品種の緑の棘とは明らかに異なっていました。
この点から、淳和天皇が詠んだ(おそらく閑院の庭に実際に植わっていた)薔薇は、日本に自生するノイバラ類ではなく舶来の中国産のバラだったと考えられます。

あとの二編は、一対をなす詩になります。
滋野貞主作「観闘百草、簡明執。一首。」と、巨勢識人作「和野柱史観闘百草、簡明執之作。一首。」です。
滋野貞主が、草合わせを見てその様子を明執という人物に手紙で伝えた詩と、それに唱和して巨勢識人が詠んだ詩です。

 

  観闘百草、簡明執。一首。
三陽仲月風光暖。美少繁華春意奢。
(中略)
紅花緑樹煙霞処。弱體行疲園逕遐。
芍薬花。蘼蕪葉。随攀逬落受軽紗。
薔籬緑刺障羅衣。柳陌青糸遮画眉。
(後略)

  和野柱史観闘百草、簡明執之作。一首。
聞道春色遍園中。閨裡春情不可窮。
(中略)
尋花万歩攀桃李。摘葉千廻繞薔薇。
(後略)

滋野貞主の作では、旧暦二月の春真っ盛りに草合わせのための草を探しに花園に出かけた女達の様子を詠み、「薔薇の垣根の緑の棘が行く手を遮る」としています。
こちらは緑の棘ですし、中国産のバラの特徴は見出せません。
ただ、芍薬の花が詠まれているのに薔薇は棘が詠まれているところを見ると、この時期に薔薇は花を咲かせていないと考えた方がよさそうです。
巨勢識人作の方では、「」「桃李」と「」「薔薇」が対比されていて、やはり薔薇は花が咲いていないようです。
また桃と李はどちらも中国から伝来して古くから漢詩によく詠まれる植物ですので、それらと対比される薔薇はやはり中国渡来の植物か?とも思われます。
一方で、『万葉集』にも登場し日本古来のノイバラ類を指す「うばら」は、『伊勢物語』第六十三段「九十九髪」に

女、をとこの家にいきてかいまみけるを、をとこほのかに見て
  百年に一年たらぬつくも髪我を恋ふらし面影に見ゆ
とて出でたつ気色を見て、うばらからたちにかゝりて、家に来てうちふせり。

と、棘のある野生の灌木として描かれており、「行く手を遮る」という点では滋野貞主の作と共通しているので、「薔籬」が中国産のバラの垣根だと断定するのも早計かと思います。

当時の人々が、中国から名前ごと伝来した「薔薇」が日本古来の「うばら」と同じ仲間の植物であると認識していたことは、100年ほど時代が下ってしまいますが、『本草和名』(延喜十八[918]年頃成立)第七巻に

営実[陶景注云。壚嶽子也。]一名墻薇。(中略)和名宇波良乃美。

と記されていることからわかります。

以上、あまりまとまりませんが、『文華秀麗集』から
  • 9世紀初頭には中国原産の品種が伝来し、権勢家の庭園に植えられていた
  • 春にはまだ花を付けない
  • 花よりも棘が注目されている
の3点は言えるかと思います。

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2019年2月10日 (日)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~コウシンバラとは~

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文献を読み始める前に、平安時代の「薔薇」とされているコウシンバラとはどのような特徴を持つバラなのかを押さえておきたいと思います。

『日本大百科全書』、『日本国語大辞典』第2版、『原色日本植物図鑑』、『牧野新日本植物図鑑』改訂増補の説明を箇条書きにまとめると、
  • 中国原産
  • 直立の低木だが、中には半直立性、蔓性のものもある
  • 5月から開花して最も花数が多く、暖かい地域ではほぼ一年中花を咲かせる=四季咲き
  • 花は二重または八重咲だが一重のものもあり、色は淡紅色から紅紫色が主
  • 薬味風の香りがあるが、香りは少ない
  • 名前の由来は、60日毎に巡ってくる「庚申」の日を指し、そのくらい度々花を付けることに拠る
  • 別名「月季花」「長春花」
となります。
それともうひとつ、これから文献を読むに当たって重要になるコウシンバラの特徴が、『花卉総論』P.103にありました。

  四季咲クライマー:
  多くは春だけで、秋にさくのはまれである。(中略)
  蔓がよく伸びるものは四季咲性がなく、伸びのわるいものほど四季咲性を示す。

この記述によるとどうやら、庭園でよく見かける枝を誘引してアーチを作ったりするような枝が蔓状に長く伸びる性質と四季咲き性とは両立しにくいようです。
また、バラに四季咲き性を齎す遺伝子を特定した岩田光氏の記事によると、茎頂が花芽分化せずに茎頂であり続けるために必要なTFL1という遺伝子がトランスポゾンによって活性を止められて矮性の四季咲きになる、と解説されています。
(遺伝学は全くの門外漢なので、正確な内容は下記参考文献をご覧ください)

私も2007年に神代植物公園で現代のコウシンバラ(学名Rosa chinensis)の実物を見ましたが、樹高は1mほどしかなく、花は写真の通りやや紫がかった濃い紅色で大きさは5cmほど、写真ではわかりにくいかもしれませんが、一株に沢山の花や蕾が付いていて、品種改良された現代の西洋バラに比べれば株そのものも花もすべてが小ぶりですが、可愛らしくも華やかな印象を受けました。
白か薄紅色の一重の花を咲かせる日本原産のノイバラの類しか見たことのなかった日本人が初めてこんなバラに出会ったら、さぞかし華麗で珍しい花だと驚いただろうと思います。
また、花に負けないくらい濃い紅色の小さな棘があり、花に顔を近づけると、一般に「バラの香り」とイメージする濃厚な甘い香りとは異なるスパイシーな香りがしました。

園芸に疎い素人による植物の紹介はこの辺にして、「薔薇」が登場する文献を見ていきましょう。

【参考文献】
『日本大百科全書』 小学館 1986年
『日本国語大辞典』第2版 小学館 2000年
北村四郎, 村田源, 堀勝共著『原色日本植物図鑑』木本編2 保育社 1979年
牧野富太郎著『牧野新日本植物図鑑』改訂増補 北隆館 1989年
塚本洋太郎著『花卉総論』 養賢堂 1969年
岩田光 / 四季咲きの「謎」が解けた : 千年余の昔、「動く遺伝子」がひき起こした、たった1回の突然変異. Biostory 25, 40-48, 2016

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2019年2月 9日 (土)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~はじめに~

もう10年以上前になりますが、
「平安時代の『薔薇』は、日本に自生するノイバラ類ではなく中国原産のコウシンバラである」
との通説に疑問を持ち、「薔薇」の記述がある平安時代の文献を収集したことがありました。

『源氏物語』では賢木巻に「夏の雨、のどかに降りて、つれづれなるころ」に「階のもとの薔薇、けしきばかり咲きて」と点描され、乙女巻では夏の町の植栽として「山里めきて、卯の花の垣根ことさらにしわたして、昔おぼゆる花橘、撫子、薔薇、苦丹などやうの花、草々を植ゑて」と夏を彩る花々のひとつとして挙げられています。
また、賢木巻の描写が白居易の律詩「薔薇正開。春酒初熟。因招劉十九・張大夫・崔二十四同飲」の第一聯「甕頭竹葉経春熟。階底薔薇入夏開。」を踏まえているのは歴代の注釈書が指摘する通りですが、この詩からして「薔薇正に開く」「階底の薔薇夏に入りて開く」と言っていますし、賢木巻でも眼前の薔薇を三位中将が「今朝開けたる初花」と詠んでいるのですから、私にはこの「薔薇」が春から晩秋まで繰り返し花を付ける四季咲きのコウシンバラとはどうしても思えませんでした。
平安時代の「薔薇」は本当にコウシンバラなのか、もしコウシンバラならどうして『源氏物語』では夏の花として扱われているのか、他の文献ではどうなのか…そういった点を確かめたかったのです。

その過程で、実際に様々な品種のバラを育てていらっしゃるのんのん様のWebサイト「野の花ガーデン」に出会い、当時サイトに設置されていた掲示板でのんのん様をはじめバラ愛好家の皆様から沢山の助言をいただきました。
あの掲示板での1年以上に亘るレスのやり取りがなかったら、この調査は形にならなかったと思います。
今更ですが、この場を借りてお礼を申し上げます。
諸事情により、調査は平安末期の文献収集があと少し…というところで中断してしまい、「野の花ガーデン」の掲示板にもお邪魔できなくなってしまったままになっていたのですが、この際、収集した文献の存在だけでも公開したいと思い、この連載を始めることにしました。
もし園芸の知識のある方や平安時代の植物に興味のある方がご覧になったら、多少なりともお役に立つことがあるかもしれませんし、素人の私では気づけなかった新たな発見があるかもしれません。
タイトルの通り、ひたすら「薔薇」の記述がある平安時代の文献を辿っていくだけの内容ですが、お付き合いいただければ幸いです。

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2008年11月24日 (月)

牛車にまつわる決まりのあれこれ(2)習慣・しきたり

210gissha_1前回、車に関わる法律を『延喜式』からご紹介しましたが、法律以外にも守るべき決まり事はいろいろとありました。

まずは、古典の便覧などにもよく載っている牛車の乗り方。
榻(しじ)を踏み台にして、後ろから乗って前から降ります。
木曽義仲がこれを無視して後ろから降りて牛飼に呆れられたエピソードが『平家物語』「猫間」に出てきますが、牛車が常の乗り物だった都の貴族にとっては作法以前の当たり前の所作だったのでしょう。
女性の場合は屋内から直接乗り降りするのが普通で(詳しくは牛車の乗降~女性の場合~をご覧ください)、『源氏物語』夕顔巻の
高欄に御車ひきかけて立ちたまへり
という描写は、高欄に轅(ながえ)を引きかけて牛車の前方から簀子へ降りるようにしたものです。

もう1つ基本的な知識としてよく出てくるのが、車内で座る位置の序列です。
序列が上の方から、前方右,前方左,後方左,後方右,の順になります。
大雑把に言えば、地位の高い人の方から先に乗る、ということになるでしょうか。
若紫巻に、左大臣が内裏から退出する光源氏を自邸に連れ帰る場面で
我が御車に乗せたてまつりたまうて、自らは引き入りてたてまつれり
という一文が出てきますが、これは源氏を上座に座らせて自分は手前に遠慮したということで、左大臣の正に下にも置かぬもてなし振りが表れています。
他方、空蝉巻の河内守邸再訪の翌朝の場面では
小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ
とあって、源氏が上座に座り、下座に空蝉の弟・小君を同乗させて二条院に帰っています。
また松風巻で、大堰の山荘にいた源氏が、ご機嫌伺いに参上した殿上人達を連れて桂の院に向かう場面でも
いとよそほしくさし歩みたまふほど、かしかましう追ひ払ひて、御車の尻に、頭中将、兵衛督乗せたまふ
と記されていて、源氏が上座、訪ねてきた殿上人達が下座になっています。
普通はこれが当然な訳で、それだけに最初に引いた若紫巻の左大臣の行為は痛々しくも滑稽にも見える過剰な振舞と言えます。

211gissha_2牛車の習慣でよく物語に描かれるのが、「出車(いだしぐるま)」です。
車の簾の下から女性の衣裳の袖口や裾などの端を出して見せた車のことで、乗っている本人の衣裳そのものではなく飾りとして車内に配置しました。
『満佐須計装束抄』巻一「車の衣を出だすこと」には、竹を削って車内に差し、そこに衣裳を掛けると書かれています。
この衣裳の色合いなどが、乗っている女性の趣味や教養を推し量る要素のひとつとなりました。
『源氏物語』きっての教養人として描かれる六条御息所とその下の女房の車は、それだけによく褒められていて、葵巻の車争いの場面では
ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫など、ものの色、いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車、二つあり
娘の斎宮と共に伊勢に旅立つ賢木巻の場面では
八省に立て続けたる出車どもの袖口、色あひも、目馴れぬさまに、心にくきけしきなれば
と描かれています。
また、関屋巻で常陸から戻ってきた空蝉一行が石山詣に向かう源氏と逢坂の関ですれ違う場面で
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる
との描写があり、国宝『源氏物語絵巻』関屋にも出車が描かれていることが復元模写で明らかになりました。

それから、『源氏物語』には出てきませんが、牛車に関する当時のちょっと面白い習慣を見つけました。
車で訪れた場所に既に高貴な身分の人がいる場合には、通常よりも手前で降りたり、牛を外して輦車のように人手で引いたりしたものだったようです。
例えば、高陽院での駒競行幸の際、
到御関白第、[所謂高陽院、]留鳳輦、(中略)進乗輿于中門、先是鋪長筵、居御輿、敷筵道到西対・渡殿・寝殿、(中略)次東宮参給、留御車西門、及諸卿迎候、鋪長筵、其上敷筵道、」(『小右記』万寿元[1024]年九月十九日条)
と、後一条天皇は中門、東宮敦良親王は更に手前の西門で輿・車を降り、そこからは筵道の上を歩いて寝殿に入ったことが記録されています。
これは数日前から高陽院に滞在している母后(と、東宮は先着している兄帝)を憚っての行為と思われます。
また、『栄花物語』巻第十七「おむがく」には、法成寺金堂落成供養のために皇太后宮妍子と禎子内親王が法成寺へ渡御した際の記述として
大宮おはしませば、御車は中門の外より手引にて入らせたまふ
同じく『栄花物語』巻第十九「御裳ぎ」にも、禎子内親王裳着のために枇杷殿から土御門殿へ渡御する皇太后宮妍子と禎子内親王の車の描写で
土御門殿には大宮おはしませば、御車をば陣よりかきおろして、手引にて入らせたまふ
とあり、いずれも「大宮」即ち太皇太后宮彰子に遠慮して中門の手前で牛を外し、人手で車を引いて中に入ったことが記されています。
(ただし「おむがく」については、史実では妍子の方が先に法成寺に入っており、この記述は『栄花物語』の創作)
女性の場合は、降車するのではなく人が引く形を取ったようです。

話は若干ずれますが、先月、奈良時代の大宰府条坊跡で車の轍跡や人・牛などの足跡が見つかったとの報道がありました。
発掘された遺構からは、道路の中央を車幅1.0~1.2mの車が行き交い、路肩の脇の側溝を歩行者が通行していたのではないか…と推測できるそうで、もしかしたら平安京にもそんな交通ルールが存在していたかも?と想像したりもしています。

日常的に用いられた乗り物だけに、その乗り方などが事細かに記されることは却ってありませんが、当時の決まりや習慣を知っておくと、ちらっと触れる程度の描写もより具体的にイメージできるのではないかと思います。

記事中の写真は、上が風俗博物館2006年上半期展示「女三の宮六條院降嫁」より、榻を置いて車から降りようとする女童、下が風俗博物館2006年出張展示「六條院へ出かけよう」より、唐車です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
NHK名古屋放送局・NHK名古屋ブレーンズ編集『よみがえる源氏物語絵巻』NHK名古屋放送局・NHK名古屋ブレーンズ 2005年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
「古代大宰府に“交通ルール”!?牛車と人 分かれて通行 奈良時代 道路にわだち跡」西日本新聞2008年10月9日朝刊27面

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2008年10月19日 (日)

牛車にまつわる決まりのあれこれ(1)『延喜式』から

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何事によらず身分秩序や先例が重んじられた平安時代、牛車に関してもさまざまな決まり事がありました。
今回は、全部を網羅した訳では勿論ありませんが、これまでの調べ物などで見つけた、牛車にまつわる法律やしきたりをご紹介します。
1回目は、『延喜式』に記された規定についてです。

『延喜弾正台式』には、さまざまな身分に基づく規定が列記されています。
弾正台は不法行為を取り締まる役所ですので、どの身分がどのようなことをするのは許されてどの身分では許されないのかといったことが示されている訳です。
色聴されたる」という表現で仮名作品によく出てくる「禁色」も、『延喜弾正台式』に記述されています。

牛車に関する規定で『源氏物語』との関連がありそうな項目としては、
凡内親王。三位已上内命婦。及更衣已上。並聴乗糸葺有庇之車。并著緋牛鞦。
という一条があります。
この規定と、薫に降嫁した女二の宮が三条宮に渡御する場面の
庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふ」(宿木巻)
との描写を考え合わせると、宮が乗った「庇の御車」は廂のある糸毛車ではないかと想像できます。

高貴な身分の人が乗る車には、「車副(くるまぞひ)」と呼ばれる、車の両脇に供奉して威儀を整える人々が付き添いますが、この人数も身分によって決まっていました。
概ね乗車する人が女性のときの方が人数が多く、最も多い妃には22人、女御には16人、更衣には10人、また親王及び左右大臣には14人、内親王には20人と定められています。
この規定を踏まえると、宮中で重病に陥った桐壺の更衣が退出する場面で
かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ」(桐壺巻)
と記される「忍びてぞ」の中身は、あるいは宮中を娘の死で穢すことを恐れた母北の方が、規定の従者の人数を省いて素早く娘を連れ出そうとした「心づかひ」だったのではないでしょうか。

また、『源氏物語』ではなく『紫式部日記』の記述になりますが、敦成親王出産後の中宮が内裏に還御するに当たって、上臈女房の大納言の君と宰相の君が「黄金造り」の車に乗ったことが記されています。
この車も、『延喜弾正台式』の規定に従えば内親王・孫王・女御・内命婦・参議以上及び非参議三位以上の嫡妻と娘・大臣の孫にのみ許されたものでした。
(尤も、実際は下の身分の者が定めを超えた車に乗る違反も多く、度々禁令が出されたようです)

日常的に使用された牛車ですが、大内裏の中は原則車馬乗入禁止で特定の物資運搬用の他は大内裏の内側に入れず、そうした車馬も行き先に応じて使用する門が特定されているほど、厳しい制限が設けられていました。
公卿や親王といえども、大内裏を囲む宮城門で車を降り、その先は歩いて勤務地に向かった訳です。
但し、特別に勅許を得た高官は例外的に内側の宮門(慣例では内裏外郭南東隅にある春華門。朔平門や建春門の場合もあり)まで牛車で進むことが許されました。
この勅許を「牛車の宣旨」と言います。
出生の秘密を知った冷泉帝が源氏への譲位をほのめかして辞退され、更に太政大臣昇進も先延ばしになって
ただ御位添ひて、牛車聴されて参りまかでしたまふ」(薄雲巻)
に留まったことを残念に思う場面がありますが、この「牛車聴されて」が牛車の宣旨を賜ったことを意味します。
ところが、『平安時代史事典』「牛車宣旨」の項目には、
「この宣旨は、本来老いた功臣をいたわる目的のものであるから、宣旨が下っても四十歳以上にならないと実際に牛車で宮門を出入しないのが例である。」
とあります。
上に引用した薄雲巻の書き方ですと、この場面ではまだ三十二歳の源氏が牛車で参内・退出したように読めますが、牛車の宣旨まで遠慮したら冷泉帝が再び譲位を言い出しかねないと懸念した源氏が、敢えて慣例を破った…と解釈すべきなのでしょうか。
尚、時代の下った史料ではありますが『世俗浅深秘抄』(後鳥羽上皇著述の有職故実書。13世紀初頭成立)によると
執政家之牛車之人用上東門。自余之輩用待賢門歟。(中略)入待賢門時泰春花門。」(上「聴牛車輦車人作法事」)
ということで、このとき内大臣の源氏は待賢門から春花門までの間を牛車で通行したと考えられます。

写真は、風俗博物館2008年下半期展示「六條院移徙」より、廂付きの青糸毛車です。

次回は、法律とは角度の異なる習慣・しきたりなどをご紹介します。

【2008年11月24日追記】
10月19日にUPした記事を加筆の上、内容の一部を牛車にまつわる決まりのあれこれ(2)習慣・しきたりに移しました。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2008年5月 4日 (日)

注釈者が鞍馬寺に惹かれる訳

198kuramadera_6 前回の記事で、若紫巻に登場する北山の「なにがし寺」を鞍馬寺とする注釈類が最近でも多いと書きました。
たとえば、『新編日本古典文学全集20 源氏物語1』(小学館 1994年)や『常用源氏物語要覧』(武蔵野書院 1995年)では、角田文衞氏が提唱する大雲寺説を併記しつつも鞍馬寺を通説として紹介していますし、『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』(至文堂 1999年)も、諸説を挙げはしながらも「源氏ゆかりの地を訪ねて」で取り上げているのはやはり鞍馬寺です。
また、現物を確認してはいませんが、『人物で読む源氏物語6 紫の上』(勉誠出版 2005年)の出版社Webサイト掲載の目次にも「鞍馬寺の満開の桜―若紫の登場」との項目があり、やはり鞍馬寺を「なにがし寺」とする文章が掲載されているようです。

私も現地に行ってみて実感しましたが、なるほど鞍馬寺には、現在でも「なにがし寺」の描写を髣髴とさせる情景がそこかしこに残されています。
加えて、大雲寺や霊巌寺、神名寺(神明寺)など、候補とされる他の寺院はいずれも現存しなかったり現存しても往時の面影を留めていなかったりするため、一層鞍馬寺の雰囲気が重視されているのではないかとも思われます。
ですが、調べてみるとそれだけではなく、若紫巻と鞍馬寺とを結び付けたくなる資料が『枕草子』以外にもいろいろとあることがわかってきました。

1つは、鞍馬山が桜の名所だったことを示す和歌の存在です。

  うず桜といふを人のもてまうできたりければ
これやこの音に聞きつるうず桜鞍馬の山に咲けるなるべし
(『定頼集』45番歌)

かすみたつ鞍馬の山のうず桜てぶりをしてな折りぞわづらふ(『六条修理大夫集』156番歌)

『定頼集』は、藤原公任の四男・定頼(長徳元[995]年~寛徳二[1045]年)の家集で、『源氏物語』が書かれた時期よりは若干後になりますが、ほぼ同時代に鞍馬の桜が「雲珠桜」と呼ばれて名高かったことがわかります。
『六条修理大夫集』は、白河院の近臣であった藤原顕季(天喜三[1055]年~保安四[1123]年)の家集で、この歌は「於七条亭人人、桜の歌十首よみしに」という詞書で始まる歌群の6首目に当たります。
『定頼集』の歌と同様に、10首の桜の歌に名が挙がるほど有名だったとわかる他、霞と桜という、
山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば」(若紫巻)
と記されたのと重ねたくなる情景が詠まれていることが注目されます。
(とはいえ、霞と桜の組み合わせを詠んだ和歌自体は、この時代そんなに珍しいものではありませんが)

更に興味を惹くのが、柏木由夫氏も「鞍馬寺―北山のなにがし寺」(『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』所収)の中で紹介しておられる次の歌です。

咲きやらぬ鞍馬の山のかば桜春のとぢめににほふなりけり(『為忠家後度百首』153番歌)

『為忠家後度百首』は、鳥羽院近臣であった丹後守藤原為忠が保延元[1135]年に主催した内輪の百首会で詠まれた歌を記録したもので、この歌は「山寺桜」という題で詠まれています。
樺桜といえば、『源氏物語』読者なら誰しも
春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す」(野分巻)
の一節を連想することでしょう。
改めてご説明するまでもなく、紫の上の比喩に用いられた桜こそ、この歌に詠まれたのと同じ樺桜です。
その後、樺桜は
一重散りて、八重咲く花桜盛り過ぎて、樺桜は開け、(中略)その遅く疾き花の心をよく分きて、いろいろを尽くし植ゑおきたまひしかば」(幻巻)
と、生前の紫の上が花期を考慮して植えた花の1つとしても登場します。
『源氏物語』の中で樺桜の名前が挙がるのは、この2ヶ所のみ。
紫の上に関わってだけ登場する特別な桜なのです。
こうなると、紫の君が登場した北山で「三月のつごもり」(若紫巻)に咲いていた山桜が「春のとぢめ」に咲く鞍馬山の樺桜だったら、いかにも相応しい・・・と考えたくなるのは、源氏読みにとっては自然な感情ではないかと思います。

もう1つ、同じく柏木氏が挙げておられるのが、『赤染衛門集』や『更級日記』に記された、鞍馬山を滾り落ちる滝の存在です。
特に『更級日記』の「山際霞みわたりのどやかなるに」「たぎりて流れゆく水、水晶を散らすやうにわきかへる」といった記述は、確かに若紫巻で繰り返される春霞と滝の音の描写と重なるようにも思えます。
ただ、初瀬詣の道すがら宇治を通った際には
紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし
殿の御領所の宇治殿を入りて見るにも、浮舟の女君のかかる所にやありけむなど、まづ思ひ出でらる
と、真っ先に『源氏物語』に思いを巡らせたことを記している筆者が、若紫巻と同じ春の終わりに鞍馬寺に参詣したというのに全くその手の感慨を記していないのは、筆者の憧れのヒロインが夕顔と浮舟であって紫の上ではなかったことを割り引いても釈然としません。
私は、少なくとも孝標女は鞍馬寺を「なにがし寺」のモデルとは考えていなかったのではないか、と感じています。

以上ご紹介したこれらの資料は、「なにがし寺」を鞍馬寺と見做す根拠とするには弱すぎますし、『源氏物語』より後に成立した資料が特に若紫巻を意識している様子も見られません。
ですが、資料の存在を知った後世の注釈者が、若紫巻と結び付けて考えたくなるのもわかる気がします。
敢えて勝手な推測をすれば、諸々の知識をお持ちの専門家の方がより一層、難が多い筈の鞍馬寺説に捨て難い魅力を感じてしまうのかもしれません。

掲載の写真は、2008年4月撮影の鞍馬寺本殿金堂。鞍馬寺の記事に載せたのとは反対方向から撮影しています。

【参考文献】
角田文衞, 加納重文編『源氏物語の地理』思文閣出版 1999年
伊藤博編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』至文堂 1999年
「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観』角川書店 1983-1992年
国際日本文化研究センター作成「和歌データベース」

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2008年2月16日 (土)

初瀬詣の道を辿る

『源氏物語』で玉鬘や浮舟が長谷観音の加護を求めて辿った初瀬詣の道のり。
平安時代は片道3・4日もかかる長旅でしたが、現在はその道を1日で辿ることができます。
道中の史跡を訪ねながら、現代の初瀬詣の旅をご紹介しましょう。

都の出立を京都駅に設定するなら、JR奈良線に乗るところから旅が始まります。

京都駅を出発して、最初の停車駅は、東福寺。
平安時代、この駅の200mほど北にある一橋小学校付近から次の稲荷山駅辺りにかけての広大な地域に、藤原忠平が建立した法性寺の大伽藍がありました。
都を出て宇治や大和へ向かう道筋のランドマークとして『源氏物語』や『蜻蛉日記』『更級日記』などに登場します。

更に15分ほど電車に揺られると、宇治川を越えて宇治駅に着きます。
宇治は、平安時代には貴族の別業が数多く営まれ、初瀬詣の際には往復とも中宿りに利用されました。
殊に『源氏物語』椎本巻で匂宮が初瀬詣の帰りに中宿りをする夕霧の宇治別業は、平等院の前身である藤原道長・頼通父子の別業「宇治殿」がモデルと見られています。

宇治から更に2駅先の新田駅は、みやこ路快速は停まらない駅ですが、周辺の大久保・広野付近が平安時代の栗隈郷と比定されており、この辺りの丘陵が『更級日記』に登場する「栗駒山」と見られています。
また、こちらも『源氏物語』には登場しないものの、『枕草子』の「初瀬に詣でしに、水鳥のひまなく居て、立ち騒ぎしが、いとをかしう見えしなり」(第三十五段「池は」)との記述をはじめとして『蜻蛉日記』『更級日記』にもその名が見える「贄野の池」は、中世末には消滅してしまったようで現在でははっきりした位置がわかりませんが、各書の注釈などは綴喜郡井手町付近としています。
私が見た中で一番詳しい記述がされていたのは『京都府の地名』で、綴喜郡井手町多賀の南谷川北側に生じた後背湿地と推定しています。
多賀は、新田駅から4つ先の山城多賀駅から直線距離で2kmほど東に位置していますので、この辺りのJR奈良線は平安時代の道よりもやや西を走っていることになります。

更に奈良線で南下してゆくと、木津駅に着く直前で木津川を渡ります。
木津川は平安時代には「泉川」と呼ばれ、渡し舟が往来していました。
JRの鉄橋より400mほど西の泉橋寺の門前に渡し場があったようです。
『源氏物語』宿木巻で、浮舟の初瀬詣に同行した女房が「泉川の舟渡りも、まことに、今日はいと恐ろしくこそありつれ」と語ったのは、ちょうどこの辺りのことです。

奈良線からそのまま関西本線(大和路線)に乗り入れ、終点の奈良駅に着いたらJR桜井線に乗り換えます。
奈良駅から30分ほど南に下った三輪駅で下車して20分ばかり歩くと、初瀬詣に向かう人々が参詣の準備を整えた椿市に着きます。
現在は桜井市が設置したと思われる看板が立っているだけで、清少納言が「大和にあまたあるなかに、長谷にまうづる人のかならずそこに泊るは、観音の縁のあるにやと、心異なり」(『枕草子』第十一段「市は」)と記した往時の面影を留めるものは何もありませんが、『源氏物語』玉鬘巻で玉鬘一行と右近が邂逅したのがこの場所です。

椿市からは、一旦初瀬川を渡って桜井駅まで歩き、近鉄大阪線に乗り込みます。
その名もずばりの長谷寺駅は、桜井駅から2つ目。
電車を降りると、駅から初瀬川までは急な下り坂で、川を渡ると今度は川の流れに沿うように長谷寺へ至る参道の緩やかな上り坂が続きます。
参道の道のりは、山に囲まれた谷間を山に向かって歩いているのがよくわかり、記紀・万葉の時代から「こもりくの初瀬」と詠われたこの土地の地形が実感できます。

駅から20分ほど歩くと、目的の長谷寺に到着です。
参道の終点は石段、そしてその先の仁王門をくぐると、長い長い登廊が姿を現します。
399段の登廊を上って、ようやくご本尊の観音菩薩像の前に辿り着きます。
現在は、本堂と礼堂の間の通路のようなところから仏様の姿を覗き込むような格好でのお参りになりますが、平安時代は堂内に局を設え、一晩中そこに籠って祈りを捧げました。
右近が局は、仏の右の方に近き間にしたり。この御師は、まだ深からねばにや、西の間に遠かりけるを、」「暮るれば、御堂に上りて、またの日も行なひ暮らしたまふ。」(『源氏物語』玉鬘巻)といった描写から、当時の参籠の様子が窺えます。

尚、私は気づかずに通り過ぎてしまったのですが、長谷寺の拝観案内パンフレットによると、境内東側にある駐車場前の初瀬川対岸には「玉鬘の大銀杏」と名づけられた銀杏の木が植わっており、また『源氏物語の鑑賞と基礎知識12 玉鬘』によれば、川にかかる小橋の欄干には、右近が「二本の杉のたちどを尋ねずは古川野辺に君を見ましや」(玉鬘巻)と詠んだ「古川野辺」の文字が刻まれているそうです。

以上の道のりは、『源氏物語』に登場しない場所を除き、実際に私が途中下車をしながら辿ってみたものです。
朝京都を出発すれば、日帰りで充分に行って戻ってくることができます。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
平田喜信編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識12 玉鬘』至文堂 2000年
平凡社[編]『京都府の地名』(日本歴史地名大系26)平凡社 1981年
総本山長谷寺『長谷寺』 ※拝観者用パンフレット

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2008年1月25日 (金)

弘徽殿大后のネガとポジ

大塚ひかりさんの『「ブス論」で読む源氏物語』(講談社+α文庫 2000年)の中に、『源氏物語』に登場する「似ていない親子」の考察があります。
その中で大塚さんは、「弘徽殿大后と朱雀帝」「中将の君と浮舟」といった、性格も見た目も正反対の親子を取り上げ、けれでもそのちっとも似ていない親子の組み合わせがいかにも現実にありそうなリアリティをもって描かれていることを指摘しておられます。
これを読んでいて、『源氏物語』の中には非常に対照的に描かれている姉妹もいたことを思い出しました。
『源氏物語』に登場する姉妹と言うと誰もが真っ先に思い浮かべるのは宇治の大君と中の君でしょうが、ここで取り上げるのはこの2人ではなく、弘徽殿大后とその2人の妹、四の君(=頭中将の北の方)と朧月夜です。
(朧月夜が「六の君」(花宴巻)と呼ばれているので本当は6人姉妹ですが、具体的な人物像が描かれるのはこの3人だけです)

まず最初に弘徽殿大后のキャラクターを確認しておきましょう。
世間一般には「ブスで嫉妬深くて底意地の悪い年増女」という救いようのないイメージが流布している気がするのですが、原文を読むと、妹達がいずれも評判の美女であるところから推して本人もそれなりの美人だったのではないかと思われますし、性格的にもそこまでひどい人間という訳ではなく、彼女の立場に立てば概ね言動には筋が通っています。
原文から抽出できる性格の特徴を挙げてみます。

(1)思考が理知的・政治家的

上達部や殿上人も見て見ぬ振りをしていた桐壺帝の桐壺の更衣偏愛をただ1人諫めたり、息子の第一皇子(=朱雀帝)を飛び越して立坊しかねない第二皇子(=光源氏)の処遇に目を光らせたりと、桐壺巻のはじめから“あるべき身分秩序”という帝も逆らえない正論を打ち出しつつ、息子と実家の未来の繁栄を守ろうとする強い姿勢が見えます。
葵巻で、朧月夜と光源氏の結婚に反対してあくまで朱雀帝の後宮への参入を目指したのも、単なる源氏に対する敵愾心だけではなく、朱雀帝から次の世代に向けての外戚の地位確保の布石が失われることへの懸念もあったと考えられます。
(実際、朧月夜は朱雀帝の皇子を産まなかったため、御世替わりと同時に外戚としての権勢は新東宮の伯父である髭黒大将に移っています)
賢木~明石巻での光源氏失脚を狙う一連の言動も、本来なら先陣を切って自家の勢力拡大を企図しなければならない筈の父・右大臣よりもよほど思い切っていて政治家的です。

(2)我が強く他人への思いやりに欠ける

この点は上記の性格と表裏一体と言えます。
桐壺の更衣に対する嫌がらせや、更衣の死後も非難を緩めない苛烈な言動、悲嘆に暮れる桐壺帝の神経を逆撫でするような賑やかな管弦の遊びなど、同情心や思いやりに欠ける性格であることは覆うべくもありません。
桐壺巻から折に触れて点描される藤壺の宮との不仲も、弘徽殿大后の我の強さの産物でしょう。

(3)我が子を愛する普通の母親の一面も

(1)(2)のような冷たい面ばかりではなく、ごく普通の母親として子供への情愛をもっている面も、間接的にですが読み取れます。
ネガティブな形での表れ方ではありますが、息子が父親からも世間からも軽んじられていることに憤るのは普通の母親の普通の感情でしょうし、葵巻では愛娘の女三の宮が斎院に卜定されて桐壺院ともども別れを悲しんでいます。

(4)文化人らしき描写がない

作者には「濃やかな情感に欠ける人間は美も風雅も理解し得ない」という考えがあったようで、弘徽殿大后もその前提に従って造型されていると思われます。
桐壺巻で管弦の遊びを催したり、「かの鹿を馬と言ひけむ人のひがめるやうに追従する」(須磨巻)と秦の趙高の故事を踏まえた発言をしたりしていて、音楽にしろ漢文にしろ相応の教養を備えていたことが窺われるのですが、それが優美な文化人的イメージに結び付かないのが特徴です。

以上のような弘徽殿大后の特徴を確認した上で、四の君と朧月夜の性格を考えると、面白い構図が浮かび上がってきます。

四の君は、弘徽殿大后のミニチュアと言えるような存在です。
頭中将(帚木巻)と右近(夕顔巻)が語る、夕顔を脅して逃げ出させるという強硬なやり方は、弘徽殿大后の桐壺の更衣に対する言動と重なりますし、若菜下巻では、ただただ息子の容態が心配でならないとの一念から、女二の宮の嘆きも一条御息所の屈辱感も無視して一方的に柏木を一条宮から自邸に引き取る強引さを見せています。
一方で、絵合巻では弘徽殿大后や朧月夜の伝を頼って娘・弘徽殿の女御のために絵を収集したり、若菜上巻でも柏木への女三の宮降嫁を朧月夜を通して朱雀院に働きかけたりしており、家の繁栄と子供達の幸せを目指して夫に協力して動いている様子も見て取れます。
(余談ながら、若い頃は四の君が気に入らず浮気ばかりしていた頭中将が中年以降すっかり彼女の許に落ち着いたのは、こうした家運のかかった局面での働きを信頼したからではないかと思います)

一方、朧月夜はこうした姉2人とは正反対の性格をしています。
東宮へ入内予定の身でありながら源氏と恋仲になり、父右大臣が一時は「入内は諦めて源氏と結婚させようか」と折れかけるほどの慕いようを見せるところからは、権勢家の娘としての自分の義務や役割など全く理解していないか理解しても意に介していない風情が感じられますし、朱雀帝の寵愛を受けるようになっても尚源氏との逢瀬を続ける態度は、理性も秩序も政治的思惑も「だって好きなんだからしょうがないじゃない」の一言で蹴飛ばしてしまわんばかりの奔放さ・無邪気さです。
若菜上巻で関係の復活を求めてきた源氏に対して、躊躇しつつも結局は靡いてしまうところにも、情に厚すぎてその場の感情に流されやすい性格が表れています。
また、花宴巻の藤の宴の場面で女房の袖口や空薫物の気配などが派手で奥ゆかしさに欠けると源氏に批判される箇所がある以外、美的センスや文化的な雰囲気が言及されることのない右大臣家の人々の中で、唯一そうした方面に優れた人として描かれている点も目を引きます。
そして、我が子を思う母の情愛を見せる姉達に対し、子を産み家庭を築くことのなかった朧月夜に母としての側面はありません。

ここまで表裏の関係になるところを見ると、作者は意図的にこの三姉妹の設定を作り上げたと想像されます。
性格の似た姉妹や正反対の姉妹という2人の関係なら話は単純ですが、長女を軸に同じタイプとまるで違うタイプの2人の妹が対照的に位置づけられているというのが、この姉妹の面白いところです。
しかも、大塚ひかりさんの挙げる「似ていない親子」と同じく、両極端だけれどいずれもリアリティのある人物像になっているのですから唸らされます。
『源氏物語』作者の人間観察の細かさ・鋭さと血のつながりに対する興味の深さはつとに指摘されているところですが、右大臣家の娘達というどちらかと言えば脇役の三姉妹の造型にも、この点は確かに表れていると思います。

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