カテゴリー「思いつきエッセイ」の記事

2019年5月23日 (木)

「紫の上」という呼称が意味するもの

もう20年も前のことになりますが、私の卒業論文のテーマは紫の上の呼称論で、彼女が登場する若紫巻から最後に名前が挙がる蜻蛉巻までの用例を浚いながら、「紫のゆかり」「紫の君」「紫の上」といった《紫》呼称がどのような場面で用いられ、どういった意味を持つかを考えました。
学部学生の書いたものですからレベルはたかが知れていますが、それでも一応、紫の上は当時の結婚の必要条件だった親などの後見もなければ結婚生活の安定を保証する子供もなく、ただ本人の美質のみで光源氏との間に唯一無二の愛情関係を築き、その関係だけを拠り所に生きた稀有な造形のヒロインであり、そのような特異性を読者に想起させたい場面において選択的に《紫》呼称が用いられている…という結論を出しました。
最近になって、これと似たような考えできちんとした学術論文になっているものを見つけ、懐かしくも嬉しくもなりました。

鵜飼祐江 / 「紫の上」という呼称:「対の上」から「紫の上」へ. 東京女子大学紀要論集 66(2), 111-131, 2016-03
※リンク先から論文全文をダウンロードできます

この論文でも指摘されている通り「紫の上」という呼称が物語の中で初めて使われるのは蛍巻での物語絵を見ている場面で、本文は「小さき女君の、何心もなくて昼寝したまへるところを、昔のありさま思し出でて」と続き、読者に紫の上の幼少期を思い出すことを求めるような筆致になっています。
(余談ですが、「何心もなく」の語は若紫巻~葵巻の紫の上の描写に繰り返し用いられている、というのも注目される点です)
そして紫の上亡き後の第三部では、夕霧の回想を除くと専ら語り手によって「紫の上」と呼ばれ、この呼称が彼女の最終形であると考えられます。

《紫》呼称の源泉は、言うまでもなく若紫巻の最後の場面で引かれている

  知らねども武蔵野といへばかこたれぬよしやさこそは紫のゆゑ(古今和歌六帖巻五・
  三五〇七)

及び、この歌に続けて光源氏が詠んだ

  ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露分けわぶる草のゆかりを

の歌にあります。
そして末摘花巻でまず「紫のゆかり」と呼ばれた紫の上は、早くもその巻のうちに「ゆかり」を脱して「紫の君」と呼ばれます。
それから光源氏の伴侶となり長い年月を経て蛍巻で「紫の上」と呼ばれるに至り、様々な呼称を併用しつつ最終的な呼称として定着します。
その過程は、藤壺の血縁(ゆかり)であるが故に光源氏に引き取られた紫の上が、自身の美質を開花させることによって光源氏の唯一無二の伴侶となり、その絆(きずな)が人生の拠り所であると同時に出家を妨げる絆(ほだし)ともなって在家のまま終焉を迎えた彼女の生涯を象徴しているかのようです。
(再び余談になりますが、紫の上と同じく藤壺の姪である女三の宮には「紫のゆかり」をはじめとする《紫》呼称は一度も使われません)

古歌から着想しつつ、それを遥かに超える新たなヒロイン像を描き出した『源氏物語』の作者。
本名のわからないこの女性が現代に至るまで「紫式部」と呼ばれているのは、実に自然なことに思えてくる次第です。

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2019年2月28日 (木)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~六条院の薔薇の色は?~

ここまで、平安時代の文献に登場する「薔薇」を辿ってきましたが、最後に
「六条院夏の町に植えられた薔薇はどんな花だったのか?」
という個人的な妄想を書いてみたいと思います。

北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の蔭によれり。前近き前栽、呉竹、下風涼しかるべく、木高き森のやうなる木ども木深くおもしろく、山里めきて、卯の花の垣根ことさらにしわたして、昔おぼゆる花橘、撫子、薔薇、苦丹などやうの花、草々を植ゑて、春秋の木草、そのなかにうち混ぜたり。(乙女巻)

木高き森のやうなる木ども木深くおもしろく、山里めきて」造られた庭に植えられた薔薇が、白詩に詠われたような鮮烈な紅の花だったとしたら如何にも不釣り合いです。
最初に書いた通りこれは私の妄想ですが、ここに描かれた薔薇は、ノイバラなどと同じ白い花を咲かせる品種だったのではないでしょうか。
そう思った理由は、『源氏物語』とは時代が100年ほどずれてしまいますが釈蓮禅の詩に白い薔薇が詠まれていて、中国から渡来したのは紅の薔薇だけではなかった可能性があることと、『好忠集』(曾禰好忠の家集)に

  なつかしく手には折らねど山がつの垣根のむばら花咲きにけり(121番歌)

という歌があるのを知ったからです。

曾禰好忠は長く不遇を託った下級貴族のようで、生没年や役人としての経歴などは不詳ですが、920年代に生まれ長保五[1003]年頃に亡くなったと推定されています。
この人は当時としては珍しく、農夫や漁師など、貴族からは同じ人とも思われていなかったような庶民に親しみを寄せるような歌を数多く遺していて、清新な表現が文学的に評価されているそうです。
上記の歌も、『伊勢物語』や『枕草子』では枳殻と並んで棘だらけの灌木として扱われるばかりの「むばら」の花を詠ったとても珍しい歌で(私が調べた限り、平安時代に「むばら」の花を詠んだ歌はこの一首しかありません)、
「慕わしく手折りはしないが、木こりの家の垣根の茨の花が咲いたことだ」
と素直に花への愛着を示しています。
一方で、「むばら」は山に住む卑しい木こりの家の垣根に咲くような植物で、およそ貴族の邸宅の庭に植えられる類のものではなかったこともわかります。

これらを考え合わせたとき、そして『源氏物語』全体を通して描かれる、光源氏のこれみよがしの絢爛豪華さを嫌う反面さりげなく高価で由緒あるものを惜しげもなく使う美意識を考慮したとき、一見すると曾禰好忠が詠んだ「山がつの垣根のむばら」のような白い花を咲かせる、しかし実は三位中将邸に咲いていた真紅の薔薇にも劣らない、舶来の希少な薔薇を植えたのではないか…そんな想像が浮かんできたのです。

平安時代の「薔薇」が中国から渡来した花である以上、中国で同時代にどんなバラが栽培されていたのかが解明されれば、今よりももっと詳しいことがわかってくるでしょう。
中国のバラの栽培史は勿論のこと、現存するバラの種類についてもまだ未整理な部分が多いそうなので、これからの研究の進展によって、『源氏物語』に描かれた薔薇の具体像が見えてくるかもしれません。
※最後に、平安時代の薔薇に関する記述を一覧できる年表を添付します。
 何かのお役に立てば幸いです。

【参考文献】
神作光一, 島田良二著『曾禰好忠集全釈』 笠間書院 1975年
『平安時代史事典』CD-ROM版 角川書店 2006年
中尾真理 / 薔薇の文化史(その2)光源氏の紅い薔薇. 奈良大学紀要 (39), 190-216, 2011.3
上田善弘 / 「バラ」から「薔薇」への長い旅路. Biostory 25, 28-35, 2016
荻巣樹徳, 柏原精一 / 荻巣樹徳さんに聞く 野生種の宝庫が育んだもう一つの薔薇文化(中国). Biostory 25, 28-35, 2016

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2019年2月27日 (水)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~「長春花」の出現~

薔薇の装飾を書き残した『明月記』には、もうひとつ日本のバラの歴史を辿る上で重大な記述があります。

天晴、籬下長春花猶有紅蘂、[早晩不似例、](建保元[1213]年十二月十六日条)

この「長春花」はコウシンバラとされており、日本に四季咲きのバラが伝来していたことが確認できる文献上の最古の記事と見做されています。

なぜ「長春花=コウシンバラ」と言えるのか、根拠は中国にあります。
10世紀前半、唐滅亡後の五大十国時代の後蜀の宮廷画家・黃筌の「長春竹雀」(リンク先は台湾の故宮博物院デジタルアーカイブ)に描かれている花がコウシンバラと同定されていることがひとつ。
もうひとつは、時代は下って宋祁[998-1061]が記した『益都方物略記』の中に

右月季花(此花即東方所謂四季花者,翠蔓紅蘤。蜀少霜雪,此花得終歲,十二月輙一開。)

との記述があり、「月季花」が四季咲きであることは確定なのですが、以降の時代の文献で「長春花」は「月季花」の別名として登場してくるのです。
そして現代に至るまで、中国では四季咲きバラを「月季」と呼んでいます。
また日本でも、西洋バラが伝来して「薔薇」がバラ科の花卉の総称となる明治時代まで、四季咲きバラは「長春」「長春花」と呼ばれ、日本独自の「コウシンバラ」という呼び名も生まれます。
ということは、定家の書き残した「長春花」は四季咲きバラと見て間違いないでしょう。

だとしたら、ここまで見てきた「薔薇」とは一体何だったのか?というのが疑問になります。
私は、「薔薇」は四季咲きの「長春花」が齎される以前に中国から渡来した観賞用の一季咲きバラを指す言葉だったのではないかと考えています。
同様の指摘は中尾真理氏もしており、

  隋・唐時代から宋時代にかけて、バラ栽培がブームとなり、改良が進んで、一季咲き
  であった「薔薇」に四季咲きのものが出来て、その名も毎月咲くという意味の「月季」
  と呼ばれるようになったと考えれば、鎌倉期以降の日本の文献に見られる「薔薇」と
  「長春(月季)」の重複、「薔薇」という語の使用の少ないこと、その代わりに鎌倉期以
  降に「長春(花)」という言葉がしばしば見られる、という一連の現象に説明がつく。

と述べています。

歴史を振り返ると、まず遣唐使らによって9世紀初頭までに旧暦四月~五月に鮮やかな紅い花を咲かせる一季咲きのつるバラが「薔薇」という名前と共に中国から渡来して、宮廷や高級貴族の間で珍重された。
そして10~11世紀の白詩愛好から「階底薔薇入夏開」がイメージとして固定化した。
遅れて伝来した四季咲きバラは、「長春花」という名前で「薔薇」と同様に観賞用の植物として日本に定着した…といった経緯なのではないかと思います。

【参考文献】
藤木優『花の女王との出会い : バラの文化史』 藤木優 1990年
上海科学技術出版社, 小学館編『中薬大辞典』第1巻 小学館 1985年
中尾真理 / 薔薇の文化史(その2)光源氏の紅い薔薇. 奈良大学紀要 (39), 190-216, 2011.3

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2019年2月26日 (火)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~装飾に取り入れられた薔薇~

12世紀になると、薔薇を服飾などに用いる例が見られるようになります。
最初は『永昌記』(藤原為隆の日記)保安五[1124]年四月十四日条に

次近衛使車、[其風流、甕頭竹葉、階底薔薇詩也、]

という記述が現れます。
賀茂祭の際の近衛使の車の描写なのですが、割注にある通り「甕頭竹葉経春熟 階底薔薇入夏開」を踏まえて装飾がされていたことがわかります。

次に、安元ニ[1176]年の『安元御賀記』に

女院の御方の打出、唐ぎぬ、うはぎもえぎ、青むらご、色々の糸にて、さうびんのまろをぬひたり

と、今度は文様が登場します。
さうびんのまろ」は、『日本国語大辞典』第2版によると
「薔薇丸。薔薇の花を円形に図案化した文様。」
とのことで、その文様を様々な色で刺繍した打出が飾られたという記述です。
残念ながら図版はないので、どんな文様なのか、具体的な形はわかりません。

続いては、『明月記』治承四[1180]年四月廿六日条の

雑色萌木、付薔薇

という記述が挙げられます。
こちらは石清水臨時祭の行列に供奉する雑色の服飾の描写です。

『明月記』にはこの後も、建仁三[1203]年四月廿三日条、元久二[1205]年四月廿二日条、建保元[1213]年四月十四日条、寛喜二[1230]年四月廿四日条と、賀茂祭の行列に供奉する雑色や童、随身などの衣服に薔薇を付けた様子が度々記録されています。
賀茂祭の行列に供奉する雑色の衣服に薔薇を飾る様子は、『三長記』(三條長兼の日記)建仁元[1201]年四月十六日条にも記されていて、平安末期から鎌倉初期にかけて賀茂祭や石清水臨時祭などの四月中~下旬に行われる祭の装飾として急速に定番化したことが窺われます。
また『明月記』には、

近衛使車先渡、[大略亀甲文作唐墻歟、物見有紅薔薇簾、同中央有赤花、此車之体殊非優、紅花照耀頗有怖畏気、]牛童萌木薄色衵、付紅梅洲浜、次中宮使車、物見之外不透張、青唐綾付千鳥簾、只例簾也、総角有房、牛童赤色紅花付薔薇、(建暦二[1212]年四月廿一日条)

との記述もあり、これは御幸の際の供奉行列の描写ですが、近衛使の車の御簾は『永昌記』の記述と同様に「甕頭竹葉経春熟 階底薔薇入夏開」による意匠かと思われ、これも四月下旬の出来事です。

こうして見ていくと、平安末期には薔薇は白詩の影響下で
「初夏を彩る鮮烈な紅い花」
というイメージが固定化し、逆にそれ以外の発想で文化的に展開することはなかったと言えそうです。

【参考文献】
吉田加奈子 / 薔薇の受容変化 : 平安から鎌倉初期の「薔薇」. 服飾美学 37, 33-48, 2003

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2019年2月23日 (土)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~『本朝無題詩』~

『西国受領歌合』と同じ頃、漢詩集の『本朝無題詩』が成立します。
こちらには、11世紀から12世紀初頭に詠まれたと推定される薔薇の詩が四作収められています。

掲載順にご紹介すると、まず大江佐国作「翫卯花」の中に

薔薇含露争前砌 蘭蕙待秋嬾遠皐

と詠まれているのが挙げられます。
卯の花を賞賛するのが主題の詩ですが、卯の花が咲いているのと同じ時期に薔薇も
「露を含んで軒下で美を競っている」
と詠われているのが目を引きます。
一方で「蘭蕙」はまだ花の時期ではなく秋を待ち望んで物憂げにしている、とされています。
やはりここでも「薔薇」は初夏の雨に濡れた花の姿をしています。

続いて、「賦薔薇」と題した三作が連続して載っています。

 賦薔薇   源時綱
薔薇一種当階綻 不只色濃香也薫
紅蘂風軽揺錦傘 翠条露重嫋羅裙
倩看新艶嬌宮月 猶勝陳根託澗雲
石竹金銭雖信美 嘗論優劣更非群

この詩でもやはり、濃い紅の花びらの美しさと香りの良さが褒め称えられています。
紅い花と緑の茎との色彩対照は、白居易も詠った典型的な切り口です。
第三聯に「倩看新艶嬌宮月」とあるところから、この薔薇は宮中の庭に咲き誇っていたことがわかります。
次の「猶勝陳根託澗雲」は、「和王十八薔薇澗花時。有懐蕭侍御。兼見贈」を踏まえたもので、白居易が詠んだ「薔薇澗」の花にも勝っているであろう、という意味です。
最後の第四聯は
「セキチクやキンセンカは実に美しい花だけれど、試しに薔薇とどちらが美しいかと議論したら、それはもう比較にならない。薔薇の方が素晴らしいに決まっている」
と言っている訳で、これまた花を賞賛するときの定型と言うべき表現になっています。

 藤原敦光
一種薔薇階底栽 閑饒異彩立徘徊
山榴争艶空応妬 石竹謝粧幾作猜
蘂綴紅珠含露重 香薫紫麝帯風来
還迷仙道金丹錬 更誤女工錦繍裁
綏嶺春桃慙早散 陶籬秋菊恨遅開
遊花縦酔酒無算 賓客豈言吾早廻

階の許に植えられた薔薇の花を愛でながらの酒宴を詠んだ詩です。
一種薔薇階底栽」は「階底薔薇入夏開」を踏まえていると思われます。
そもそも「薔薇正開。春酒初熟。因招劉十九・張大夫・崔二十四同飲」はその題の通り、薔薇が咲き春に仕込んだ酒が熟したので友人達を招いて薔薇の花を肴に酒を飲んだ際の詩ですので、「薔薇を愛でつつ酒を飲む」という趣向自体がこの詩をなぞっていると言えるでしょう。
また、山躑躅と石竹は薔薇と同じ時期に咲く花で、春に咲く桃と秋に咲く菊とは開花時期が異なることがわかります。
この詩でも、「蘂綴紅珠含露重」と紅い花が露に濡れた様子が詠まれていて、雨との縁が深いことが窺われます。
やはり梅雨時に咲く品種だったのではないでしょうか。
薔薇の香りが麝香の香りに喩えられているのも注目されます。

 釈蓮禅
薔薇属夏開階底 感緒紛紜昇又降
或白或紅粧不一 謂蘭謂菊色難双
錦車趁艶馳朝市 紫麝助薫出晩窓
昔日楽天吟麗句 此花豪貴被人邦

こちらも第一聯に「階底薔薇入夏開」の影響が読み取れます。
そして藤原敦光の詩と同様に、
「麝香の香りが薔薇の香りを助ける」
と詠まれていて、濃厚な香りが想像されます。
最後の第四聯にずばり「楽天」と名前が明記されている通り、
「かつて白居易が麗句を詠んで以来、薔薇の豪華で気高い美しさは本邦にも伝えられている」
としており、如何に薔薇のイメージに白詩が強い影響を与えていたかがわかります。
一方で、「或白或紅」とあり、初めて白い薔薇が登場したことも注目したい点です。
中尾真理氏は、中国では梅と言えば紅梅を指し、菊は黄菊が珍重されたのに対し、日本では白梅、白菊が好まれたと指摘しています。
となると、白い薔薇は、中国では顧みられていなかった品種を日本人の嗜好に合わせて持ち込んだ、遅れて日本に渡ってきたものでしょうか。
あるいは、Rosa chinensis spontanea(ヨーロッパのバラに四季咲き性を齎したRosa chinensisの野生種)の性質を受け継ぐ現代のバラのように、蕾が白く開花するにしたがって色が濃くなる品種だった可能性も考えられます。

以上の作品から、「薔薇」はかな文学には登場しない割に漢詩には詠まれていて、白居易の強い影響下にあることが言えると思います。
裏を返せば、白詩の影響が強いが故に「漢詩の世界の花」というイメージが付いていたのかもしれません。

【参考文献】
本間洋一注釈『本朝無題詩全注釈 1』 新典社 1992年
中尾真理 / 薔薇の文化史(その2)光源氏の紅い薔薇. 奈良大学紀要 (39), 190-216, 2011.3
荻巣樹徳, 柏原精一 / 荻巣樹徳さんに聞く 野生種の宝庫が育んだもう一つの薔薇文化(中国). Biostory 25, 28-35, 2016

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2019年2月22日 (金)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~かな文学に登場する薔薇~

『古今和歌集』以来のかな文学に登場する「薔薇」は、『枕草子』になりますが、これにはひとつ問題があります。
「薔薇」に言及している本文は能因本のみで、他の系統の本文には書かれていないのです。
近年は三巻本を底本にする傾向にあることも踏まえると、果たして本当に清少納言が書き記した内容なのか疑念もあるのですが、保留付きで本文を挙げておきます。

さうびは、ちかくて、枝のさまなどはむつかしけれど、をかし。雨など晴れゆきたる水のつら、黒木のはしなどのつらに、乱れ咲きたる夕映え。(第七十段「草の花は」)

枝のさまなどはむつかしけれど」というのは、白居易が「壓架」と詠んだように勢いよく枝を四方八方に伸ばすことと、鋭い棘があることを指していると思われます。
一方で、雨上がりの水辺などに咲き乱れる夕映えの景色は風情があるものと捉えています。
黒木のはし」は通説のように「階」なのか?という疑問を過去に書いたことがありますが(「階」か「橋」か~『枕草子』能因本「黒木のはし」の正体~)、「」は『菅家文草』と、「水のつら」は白詩と重なるところがあり、池の岸に植えられた薔薇が初夏の雨に濡れた情景を思い浮かべることができます。

続いては、『源氏物語』です。

階のもとの薔薇、けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきほどなるに、うちとけ遊びたまふ。(賢木巻)

ここでは明らかに「階底薔薇入夏開」が踏まえられています。
三位中将邸での負態の場面で、季節は「夏の雨、のどかに降りて、つれづれなるころ」に設定されています。
野の花ガーデン」掲示板にお邪魔している最中に、2006年開催の「世界バラ会議」の資料として日本ばら会が刊行した冊子(残念ながら冊子のタイトルはわかりません)に

  ここで、考察すると、”春、秋の盛りよりも”とあるので、このバラは一季咲きの「ノイバ
  ラ」ではなく、当時貴族の庭先に植えられていたと言われている中国の「庚申バラ、
  月季花」(China Rose ,Bengal Rose ,Rosa chinensis indica Rosa nankinensis)でしょ
  う。

と書いてあると教えていただいて、腰が抜けるほどびっくりしたのですが、踏まえている白詩の題からして「薔薇正開」ですし、この描写に続いて三位中将が

  それもがと今朝開けたる初花に劣らぬ君が匂ひをぞ見る

と詠んでいる以上、この「薔薇」は四季咲きバラの二番花などではなく、梅雨時に初めて花を付けたと読まなければならないでしょう。
(この歌の「初花」の解釈については、「高砂」の歌詞を取り入れつつ白詩を念頭に薔薇に置き換えたとする『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』所収の縄野邦雄氏の説を採りたいと考えています)
そして読者は「似火浅深紅壓架」の句を連想し、鮮やかな紅の花を脳裏に描いたのだと思います。

『源氏物語』にはもう一ヶ所、乙女巻にも薔薇が登場します。

北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の蔭によれり。前近き前栽、呉竹、下風涼しかるべく、木高き森のやうなる木ども木深くおもしろく、山里めきて、卯の花の垣根ことさらにしわたして、昔おぼゆる花橘、撫子、薔薇、苦丹などやうの花、草々を植ゑて、春秋の木草、そのなかにうち混ぜたり。

花散里の住まう夏の町の庭に植えられた草木の一つとして、「薔薇」が挙がっています。
ここでもやはり薔薇は夏の花なのです。

続いて、『栄花物語』の記述です。

船岡の子の日の松も、いつしかと君に引かれて万代を経んと思ひて、ときはかきはの緑色深く見え、甕のほとりの竹葉も末の世はるかに見え、階の下の薔薇も夏を待ち顔になどして、さまざまめでたきに、(巻第十一「つぼみ花」)

長和三[1014]年新年の叙述で、これも「階底薔薇入夏開」を下敷きにしています。
なぜ新年の描写に夏の漢詩を?とも思いますが、この文全体が引歌をこれでもかというほど用いて美々しく飾り立てた文体になっているので、華麗な紅の花を詠んだ人気の詩句を引用することで更に装飾性を強めようとした可能性が考えられます。
それだけ「階底薔薇入夏開」の詩句が平安貴族の間に浸透し愛好されていたということなのかもしれません。

この御堂の御前の池の方には、高欄高くして、その下に薔薇、牡丹、唐撫子、紅蓮花の花を植ゑさせたまへり。御念仏のをりに参りあひたれば、極楽に参りたらん心地す。(巻第十五「たまのうてな」)

こちらは藤原道長が贅を尽くして建立した法成寺の描写で、「この御堂」は阿弥陀堂のことです。
薔薇の他には「牡丹、唐撫子、紅蓮花」と大陸から渡来した初夏から夏に咲く花ばかりが植えられ、特に蓮は「紅蓮花」と色が指定されているところを見ると、紅の花が咲き誇る光景だっただろうと想像できます。
阿弥陀如来は西方浄土に住まうとされていますから、日本から見て西にある中国の花々を阿弥陀堂の周りに植えて、西方浄土を模したのではないでしょうか。
そう考えると「極楽に参りたらん心地す」という語り手の感想もより説得力が増します。
平安時代の仏教において紅という色に何か特別な意味があったのかは探りきれませんでしたが、この場面の「薔薇」も夏に花を咲かせる紅い花だったのではないかと思います。

『堤中納言物語』の中の「逢坂越えぬ権中納言」(天喜三[1055]年作)には、主人公が「階底薔薇入夏開」を朗詠する場面があります。

中納言まかでたまふとて、「階のもとの薔薇も」と、うち誦じたまへるを、若き人々は、あかず慕ひぬべく、めできこゆ。

中宮の御前で五月五日に催された根合わせと管弦の遊びが終わり、中納言が退出するときに「階のもとの薔薇も」と朗詠し、その様子を若い女房達が褒め称えた、という描写です。
清少納言が『枕草子』の中で、眼前の光景に合致する詩句をすかさず詠い上げる藤原伊周の姿を繰り返し「めでたし」と褒めちぎっていることを念頭に置くと、五月五日は薔薇の詩句を詠うに相応しい時期だったと考えられます。
更に踏み込むと、「まかでたまふとて」つまり殿舎から退出しようとしたときに詠ったということで、簀子に出たとき、庭に実際に薔薇の花が咲いていて、それを見てこの詩句を詠った可能性もあるのではないでしょうか。
菅原道真が詠んだ「感殿前薔薇、一絶。[東宮。]」のように、中宮の住まう殿舎の庭に薔薇が植わっていたのでは…と想像してみたくなる場面です。

最後は、『西国受領歌合』です。
この作品は治暦四[1068]年~天治三[1126]年成立と推定されていて、四月の庚申待に催した歌合せであることが前書からわかっています。
歌合わせの題は「盧橘」「五葉」「薔薇」「真薦」「田子」「照射」「神祭」「蚊遣火」「釣船」「塩竈」の十種で、「薔薇」の題では

    左[勝]
  ことしうゑてみるがをかしさうひにさくはなのえだえだくれなゐにして
    右
  色ふかくわきてかつゆのおきつらんけさうひにさくはつはなの色

の二首を番わせ、判詞には、

左くれなゐのいろふかくよめり、右はいろといふこともとすゑにをかしてかきあやまりてけり
  もとすゑにことのはをやはしたるべきくれなゐいろはふかさまされり

と記されています。
この例から言えるのは、ここでも「薔薇」の花の色は紅なのだということがひとつ。
しかも「色ふかく」と言うのですから濃い紅の花です。
もうひとつは、「はなのえだえだくれなゐにして」という左の歌から見て、沢山の枝に一斉に花が咲くのではないかという推測。
あとは時期的なことで、旧暦四月、盧橘や田子と同じ頃に歌の題とされる花だということ。
やはり初夏に咲く花だということになります。

400年ある平安時代のかな文学の中で登場する「薔薇」は、私が調べた範囲ではこれがすべてです。
同じ大陸渡来の花でも、梅や菊などに比べると随分と影が薄く、そこまで広く普及しなかったことは間違いなさそうです。

【参考文献】
中野幸一編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』至文堂 2000年
中尾真理 / 薔薇の文化史(その2)光源氏の紅い薔薇. 奈良大学紀要 (39), 190-216, 2011.3

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2019年2月21日 (木)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~白居易の詠んだ薔薇~

白居易の膨大な詩作の中で、「薔薇」が登場する作品は全部で九編、加えて連詩が一編あります。
題を列挙すると、以下のとおりです。

  1. 簡簡吟(巻十二・感傷)
  2. 戯題新栽薔薇(巻十三・律詩)
  3. 和王十八薔薇澗花時。有懐蕭侍御。兼見贈(巻十三・律詩)
  4. 題王侍御地亭(巻十五・律詩)
  5. 戯題盧秘書新移薔薇(巻十五・律詩)
  6. 題山石榴花(巻十六・律詩)
  7. 薔薇花一叢。獨死不知其故。因有是篇(巻十六・律詩)
  8. 薔薇正開。春酒初熟。因招劉十九・張大夫・崔二十四同飲(巻十七・律詩)
  9. 裴常侍以題薔薇架十八韻見示。因廣為三十韻以和之(後集巻十二・律詩)
  10. 薔薇花聯句(後集巻二十・雑體聯句)

これらのうち、1.は夭折した少女の美しさを「袖を翻すと薔薇のような香りを漂わせた」と喩えたもの、2.と5.は薔薇を女性に喩えて愛でたもの、6.は山躑躅を賛美した詩の中で「薔薇帯刺攀應懶」と引き合いに出したもの(『田氏家集』と全く同じパターン)で、残る3.4.7.8.9.10.が薔薇自体の様子を詠んだものになります。
吉田加奈子氏がこれらの詩の描写を分析しているのですが、再度描かれている薔薇の特徴を確認してみると、以下のようになります。

  • 高い棚に寄りかかるように枝を伸ばすこと
    託質依高架 攢華對小堂 (9)
  • 春が蕾を付ける時期であること
    仍憐委地日。正是帯花時。(中略)欲問因何事。春風亦不知。(7)
  • 春の花が終わってから開花すること
    晩開春去後。獨秀院中央。(9)
    似錦如霞色。連春接夏開。(10)
  • 沢山の鮮紅色の花を付け、萼と枝は緑、蘂は黄色であること
    砕碧初凋葉。燋紅尚戀枝。(7)
    似火浅深紅壓架。如餳氣味綠粘臺。(8)
    剪碧排千萼。研朱染萬房。煙條塗石緑。粉蘂撲雌黄。(9)
    翠錦挑成字。丹砂印著行。猩猩凝血點。瑟瑟蹙金匡。(9)
  • 香り高いこと
    波紅分影入。風好帯香来。(4)
    淑氣熏行徑。淸陰接歩廊。(9)
    桃李慙無語。芝蘭譲不芳。(9)
  • 花の中に色の濃いものと薄いものがあること
    似火浅深紅壓架。如餳氣味綠粘臺。(8)
    浅深皆有態。次第暗相催。(10)
  • 山中に自生する薔薇も赤い花を咲かせること
    薔薇花委故山深。(中略)一把紅芳三處心。(3)
  • 野から株を採って庭に移植することが行われていたこと
    移根易地莫憔悴。野外庭前一種春。(2)
  • 池の岸に薔薇を植える例があったこと
    波紅分影入。風好帯香来。(4)
    岸落薔薇水浸莎(10)

まず注目されるのは、花の色が描写されている詩ではすべて紅、それも炎に例えられるような鮮烈な真紅だという点です。
そして『菅家文草』と同様、コウシンバラとは特徴が一致せず、晩春から初夏の頃に香り高い花を咲かせる蔓性の品種であることが窺えます。

白居易は特に平安中期以降貴族の間で絶大な人気を誇った詩人で、『枕草子』にも「書は 文集。」(第二〇〇段)と真っ先に挙げられているほどですから、これらの詩は当然よく知られ、薔薇のイメージに大きな影響を与えたものと考えられます。
また、白居易[772-846]が生きた時代はちょうど日本の文献で初めて「薔薇」の語が出現する時期と重なりますので、白居易が庭で育て詩に詠んで愛でたのと同じような種類のものが日本に伝わってきたと考えてもおかしくはないと思います。
(尤も、バラは交雑が起こりやすい植物な上に、中国原産の野生のバラにも沢山の種類があるそうなので、雑種を含む様々な品種が既にあっただろうことも容易に想像できますが)

以上を踏まえて、いよいよ『源氏物語』の書かれた時代を追っていきます。

【参考文献】
吉田加奈子 / 薔薇の受容変化 : 平安から鎌倉初期の「薔薇」. 服飾美学 37, 33-48, 2003
藤木優『花の女王との出会い : バラの文化史』 藤木優 1990年
『バラ』 農山漁村文化協会 2002年
荻巣樹徳, 柏原精一 / 荻巣樹徳さんに聞く 野生種の宝庫が育んだもう一つの薔薇文化(中国). Biostory 25, 28-35, 2016

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2019年2月16日 (土)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~10世紀前半の文献から~

延喜五[905]年に『古今和歌集』が成立しますが、その中で「薔薇(さうひ)」を詠んだ歌は紀貫之作の一首しかありません。

  我はけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり(巻十 物名「さうひ」436番歌)

この歌は物名歌でありつつ薔薇そのものを詠んだ歌とされていますが、「あだなるもの」の解釈は注釈書によって「婀娜っぽい」「華やかな」と肯定的に取るものと「仇」「徒」の文字を当てて否定的に取るものの真っ二つに分かれています。
ただ、肯定的であれ否定的であれ、人の心を惑わすような魅惑的な花の色を詠んでいることは確かです。
また題の配置は「あふひ、かつら」「くたに」「さうひ」「をみなえし」の順となっており、『古今和歌集』が総じて季節順に歌を配列していることを踏まえると、「薔薇」が咲くのはやはり夏、賀茂祭の後頃と見るのが妥当でしょう。

「薔薇」が『古今和歌集』に詠まれているのはこの一首のみ、更にその後も、後でご紹介する『西国受領歌合』くらいしか見当たらない(『古今和歌六帖』草の部「さうひ」は『古今和歌集』の貫之歌を再録したもの)ことから、やはり
「薔薇は平安時代の日本人には馴染まなかった」
と断定する傾向が見られますが、秋の花の代表と言ってもいいくらい親しまれている桔梗も、「きちかう」という音のせいか、和歌にはほとんど詠まれていないという一面がありますので、まだ結論を急がない方が良いと思います。

一方、『古今和歌集』から10年ほど遅れて『本草和名』が成立します。
先にご紹介した、「営実=墻薇=うばらのみ」と書かれている史料です。
また、『延喜式』(延長五[927]年成立)三十七「典薬寮」には

諸国進年料雑薬
摂津国卌四種
(中略)薔薇根

とあり、摂津国から薬の材料として薔薇の根が収められていたことがわかります。
『本草和名』や『延喜式』に登場する「薔薇」は、観賞用ではなく薬草ですので、日本古来のノイバラ類のことを指していると思われます。
本文が漢文なので、中国式の名称を使用したのではないでしょうか。
承平年間[931-938]成立とされる『和名類聚抄』巻二十「草木部」にも、『本草和名』を引用して

本草云薔薇一名墻蘼[音微今案薇蘼通]陶隠居注云営実[和名無波良乃美]薔薇子也

と記されています。

そして10世紀半ばには、『千載佳句』が編まれます。
これは『和漢朗詠集』(長和二[1013]年または寛仁二[1018]年成立?)の先駆けとも言っていい詩句集で、注目すべき点はここに白居易の「階底薔薇入夏開」が収録されていることです。
ここから先、薔薇に言及した文献で白居易の詩に影響を受けていないものはないのではないかと思われるほど、この詩句は人口に膾炙されていきました。

面白いのは、『千載佳句』の中で「甕頭竹葉経春熟 階底薔薇入夏開」は、「四時部」に「首夏」の題で収められているのですが、それとは別に「草木部」に「薔薇」という題があり、白居易の詩とは別の詩句が二編載っていることです。

元稹作
千重密葉侵階緑 万朶閑花向日紅

作者不明
翠葉偃風如剪彩 紅花含露似啼粧

二つの詩句は、いずれも葉の緑と花の紅を対比させて詠んでおり、実はここで初めて「薔薇」の花の色が「」と明示されたことになります。
菅原道真の詩や紀貫之の歌に「」と詠まれていたので「薔薇」の花が白ではないことは確定的でしたが、「薔薇」の題の下にいずれも紅い花を詠んだ詩句が収められたということは、
「薔薇と言ったら紅い花」
というイメージが当時の人々の中にあったのではないでしょうか。
更に、「甕頭竹葉経春熟 階底薔薇入夏開」の句は『和漢朗詠集』にも「首夏」の題で収録され、その人気は不動のものとなります。
そこで次は、以降の平安文学に絶大な影響を齎した「甕頭竹葉経春熟 階底薔薇入夏開」をはじめとする、白居易の薔薇の詩を見てみたいと思います。

【参考文献】
中島輝賢 / 紀貫之の〈薔薇〉の歌 : 漢詩文の影響と物名歌の場. 国文学研究 135, 13-22, 2001
吉田加奈子 / 薔薇の受容変化 : 平安から鎌倉初期の「薔薇」. 服飾美学 37, 33-48, 2003
金子彦二郎著『平安時代文学と白氏文集』 培風館 1955年

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2019年2月12日 (火)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~『田氏家集』と『菅家文草』~

次に「薔薇」が登場するのは、寛平年間[889-898]の作と推定される『田氏家集』(島田忠臣の漢詩集)所収の「五言。禁中瞿麥花詩三十韻[並序。]」です。
序に

今年初種禁籬。物得地而增美。雖有數十名花。傍若無色香耳。但古今人嘲詠知小。盖此花生大山川谷。不在好家名處。何得右薔薇左牡丹前蘭菊後萱草乎。花亦有時。人亦有時。

とあり、この年に初めて宮中に植えられた撫子を讃えた詩であることがわかります。
また「撫子はこれまで人々に軽んじられ山野に自生するばかりで、薔薇や牡丹、蘭菊のように名家の庭に植えられることはなかった」と言っていますので、裏を返せば薔薇は珍重され、宮中の庭のような名園に植えるに相応しい花と考えられていたことになります。
詩の本文で薔薇に言及しているのは第二十八聯で、

薔薇嫌有刺。芍薬愧無光。

と詠まれています。
この詩でもやはり棘が注目されていますが、この詩をもって
「薔薇は棘が嫌われて平安時代の日本人に受け入れられなかった」
と結論付けるのは間違いだと思います。
というのは、この詩はあくまで撫子を讃えるために詠まれたのであって、薔薇や芍薬は、欠点を持たない撫子の素晴らしさを強調するための比較対象として持ち出されているからです。
嫌われているもの、みすぼらしいものと比較して「それよりも優れている」と言ったところで何の褒め言葉にはならないことを考えれば、自然と作詩の意図は読み取れる筈です。

もうひとつ、「薔薇が嫌われたと考えるのは誤りだ」と私が考える根拠とも言える文献があります。
島田忠臣の詩とほぼ同時代に詠まれた『菅家文草』所収の薔薇の詩です。
巻第五に「薔薇。」、「感殿前薔薇、一絶。[東宮。]」という二つの題の詩があります。

まず、そのものずばり「薔薇。」の題の方は、東宮敦仁親王(後の醍醐天皇)から「今取当時二十物重要」と命ぜられて速詠した二十作の中のひとつで、寛平七[895]年初夏の作とされています。
短いので詩の全文を載せます。

一種薔薇架 芳花次第開
色追膏雨染 香趁景風來
數動詩人筆 頻傾醉客杯
愛看腸欲斷 日落不言廻

ここで初めて薔薇の花が詠まれました。
この詩から読み取れるのは、薔薇が「」即ち棚を作っていること、香り高い花を付け、恵みの雨を受けて色づいていくこと、詩人達はしばしば薔薇を詠み、薔薇を愛でながら酒を酌み交わしたこと。
第三聯は後ほどご紹介する白居易の詩が念頭にあった可能性も考えられますが、ここで詠まれている薔薇は、初夏に花を咲かせ、棚を作るような蔓性で、風に乗って香るほどの芳香がある、という特性を持つ品種だということになります。
直立性で四季咲き、香りの弱いコウシンバラとは特徴が全く一致しません。

「感殿前薔薇、一絶。[東宮。]」も、短いので全文を載せます。

相遇因縁得立身 花開不競百花春
薔薇汝是應妖鬼 適有看來悩殺人

東宮の住まう殿舎の前庭に薔薇が植えられており、それを詠んだ詩です。
先に「五言。禁中瞿麥花詩三十韻[並序。]」をご紹介する中で、裏返しに薔薇が珍重され賞美されていたことが読み取れると指摘しましたが、正にそれを裏付ける史料とも言えます。
また、「花開不競百花春」とあることから、百花繚乱の春が終わってから花開くことがわかります。
妖鬼の如く、たまたま目を留めた人を悩殺する…というのですから、菅原道真は、薔薇を何とも妖艶な美しさを湛えた花と感じていたことが窺えます。

私が調べた当時、園芸史の視点から薔薇を取り上げた文献は『田氏家集』ばかりを取り上げて『菅家文草』には全くと言っていいほど言及していなかった記憶があるのですが、両方の作から、薔薇は宮中の庭に植えられるような誉れある花であったこと、また『菅家文草』の二作から、初夏になってから花を咲かせ、コウシンバラとは特徴が一致しないこと、を確認しておきたいと思います。

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2019年2月11日 (月)

平安時代の「薔薇」を訪ねる旅~『文華秀麗集』~

私が見つけた中で「薔薇」の語が登場する最も古い文献は、弘仁九[818]年成立の『文華秀麗集』です。
ここには、「薔薇」そのものの語を含む詩が一編、薔薇の棘を意味する「薔棘」、薔薇の垣根を指す「薔籬」の語を含む詩が各一編収められています。

収録順に、まずは淳和天皇作の「夏日左大将軍藤原朝臣閑院納涼。探得閑字。応製。一首。」の中の第二聯を紹介します。

送春薔棘珊瑚色。迎夏巌苔玳瑁斑。

この詩は弘仁五[814]年四月二十八日、嵯峨天皇閑院行幸時の作かと推定されており、春が過ぎ夏を迎えた薔薇の棘が珊瑚色に色づいている様を詠んでいます。
この「珊瑚色」というのが注意すべきポイントで、「野の花ガーデン」掲示板で教えていただいたところによると、緑ではなく紅い棘を持つのは現在「チャイナローズ」と園芸界で呼ばれている中国原産のバラを起源とする品種の特徴なのだそうです。
確かに、私が神代植物公園で見たコウシンバラも棘は鮮やかな紅色をしていましたし、2008年にBunkamuraザ・ミュージアムで開催された「薔薇空間」展で見た『バラ図譜』でも中国系の品種は紅色の棘が描かれており、他の系統の品種の緑の棘とは明らかに異なっていました。
この点から、淳和天皇が詠んだ(おそらく閑院の庭に実際に植わっていた)薔薇は、日本に自生するノイバラ類ではなく舶来の中国産のバラだったと考えられます。

あとの二編は、一対をなす詩になります。
滋野貞主作「観闘百草、簡明執。一首。」と、巨勢識人作「和野柱史観闘百草、簡明執之作。一首。」です。
滋野貞主が、草合わせを見てその様子を明執という人物に手紙で伝えた詩と、それに唱和して巨勢識人が詠んだ詩です。

 

  観闘百草、簡明執。一首。
三陽仲月風光暖。美少繁華春意奢。
(中略)
紅花緑樹煙霞処。弱體行疲園逕遐。
芍薬花。蘼蕪葉。随攀逬落受軽紗。
薔籬緑刺障羅衣。柳陌青糸遮画眉。
(後略)

  和野柱史観闘百草、簡明執之作。一首。
聞道春色遍園中。閨裡春情不可窮。
(中略)
尋花万歩攀桃李。摘葉千廻繞薔薇。
(後略)

滋野貞主の作では、旧暦二月の春真っ盛りに草合わせのための草を探しに花園に出かけた女達の様子を詠み、「薔薇の垣根の緑の棘が行く手を遮る」としています。
こちらは緑の棘ですし、中国産のバラの特徴は見出せません。
ただ、芍薬の花が詠まれているのに薔薇は棘が詠まれているところを見ると、この時期に薔薇は花を咲かせていないと考えた方がよさそうです。
巨勢識人作の方では、「」「桃李」と「」「薔薇」が対比されていて、やはり薔薇は花が咲いていないようです。
また桃と李はどちらも中国から伝来して古くから漢詩によく詠まれる植物ですので、それらと対比される薔薇はやはり中国渡来の植物か?とも思われます。
一方で、『万葉集』にも登場し日本古来のノイバラ類を指す「うばら」は、『伊勢物語』第六十三段「九十九髪」に

女、をとこの家にいきてかいまみけるを、をとこほのかに見て
  百年に一年たらぬつくも髪我を恋ふらし面影に見ゆ
とて出でたつ気色を見て、うばらからたちにかゝりて、家に来てうちふせり。

と、棘のある野生の灌木として描かれており、「行く手を遮る」という点では滋野貞主の作と共通しているので、「薔籬」が中国産のバラの垣根だと断定するのも早計かと思います。

当時の人々が、中国から名前ごと伝来した「薔薇」が日本古来の「うばら」と同じ仲間の植物であると認識していたことは、100年ほど時代が下ってしまいますが、『本草和名』(延喜十八[918]年頃成立)第七巻に

営実[陶景注云。壚嶽子也。]一名墻薇。(中略)和名宇波良乃美。

と記されていることからわかります。

以上、あまりまとまりませんが、『文華秀麗集』から
  • 9世紀初頭には中国原産の品種が伝来し、権勢家の庭園に植えられていた
  • 春にはまだ花を付けない
  • 花よりも棘が注目されている
の3点は言えるかと思います。

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