カテゴリー「思いつきエッセイ」の記事

2008年11月24日 (月)

牛車にまつわる決まりのあれこれ(2)習慣・しきたり

210gissha_1前回、車に関わる法律を『延喜式』からご紹介しましたが、法律以外にも守るべき決まり事はいろいろとありました。

まずは、古典の便覧などにもよく載っている牛車の乗り方。
榻(しじ)を踏み台にして、後ろから乗って前から降ります。
木曽義仲がこれを無視して後ろから降りて牛飼に呆れられたエピソードが『平家物語』「猫間」に出てきますが、牛車が常の乗り物だった都の貴族にとっては作法以前の当たり前の所作だったのでしょう。
女性の場合は屋内から直接乗り降りするのが普通で(詳しくは牛車の乗降~女性の場合~をご覧ください)、『源氏物語』夕顔巻の
高欄に御車ひきかけて立ちたまへり
という描写は、高欄に轅(ながえ)を引きかけて牛車の前方から簀子へ降りるようにしたものです。

もう1つ基本的な知識としてよく出てくるのが、車内で座る位置の序列です。
序列が上の方から、前方右,前方左,後方左,後方右,の順になります。
大雑把に言えば、地位の高い人の方から先に乗る、ということになるでしょうか。
若紫巻に、左大臣が内裏から退出する光源氏を自邸に連れ帰る場面で
我が御車に乗せたてまつりたまうて、自らは引き入りてたてまつれり
という一文が出てきますが、これは源氏を上座に座らせて自分は手前に遠慮したということで、左大臣の正に下にも置かぬもてなし振りが表れています。
他方、空蝉巻の河内守邸再訪の翌朝の場面では
小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ
とあって、源氏が上座に座り、下座に空蝉の弟・小君を同乗させて二条院に帰っています。
また松風巻で、大堰の山荘にいた源氏が、ご機嫌伺いに参上した殿上人達を連れて桂の院に向かう場面でも
いとよそほしくさし歩みたまふほど、かしかましう追ひ払ひて、御車の尻に、頭中将、兵衛督乗せたまふ
と記されていて、源氏が上座、訪ねてきた殿上人達が下座になっています。
普通はこれが当然な訳で、それだけに最初に引いた若紫巻の左大臣の行為は痛々しくも滑稽にも見える過剰な振舞と言えます。

211gissha_2牛車の習慣でよく物語に描かれるのが、「出車(いだしぐるま)」です。
車の簾の下から女性の衣裳の袖口や裾などの端を出して見せた車のことで、乗っている本人の衣裳そのものではなく飾りとして車内に配置しました。
『満佐須計装束抄』巻一「車の衣を出だすこと」には、竹を削って車内に差し、そこに衣裳を掛けると書かれています。
この衣裳の色合いなどが、乗っている女性の趣味や教養を推し量る要素のひとつとなりました。
『源氏物語』きっての教養人として描かれる六条御息所とその下の女房の車は、それだけによく褒められていて、葵巻の車争いの場面では
ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫など、ものの色、いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車、二つあり
娘の斎宮と共に伊勢に旅立つ賢木巻の場面では
八省に立て続けたる出車どもの袖口、色あひも、目馴れぬさまに、心にくきけしきなれば
と描かれています。
また、関屋巻で常陸から戻ってきた空蝉一行が石山詣に向かう源氏と逢坂の関ですれ違う場面で
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる
との描写があり、国宝『源氏物語絵巻』関屋にも出車が描かれていることが復元模写で明らかになりました。

それから、『源氏物語』には出てきませんが、牛車に関する当時のちょっと面白い習慣を見つけました。
車で訪れた場所に既に高貴な身分の人がいる場合には、通常よりも手前で降りたり、牛を外して輦車のように人手で引いたりしたものだったようです。
例えば、高陽院での駒競行幸の際、
到御関白第、[所謂高陽院、]留鳳輦、(中略)進乗輿于中門、先是鋪長筵、居御輿、敷筵道到西対・渡殿・寝殿、(中略)次東宮参給、留御車西門、及諸卿迎候、鋪長筵、其上敷筵道、」(『小右記』万寿元[1024]年九月十九日条)
と、後一条天皇は中門、東宮敦良親王は更に手前の西門で輿・車を降り、そこからは筵道の上を歩いて寝殿に入ったことが記録されています。
これは数日前から高陽院に滞在している母后(と、東宮は先着している兄帝)を憚っての行為と思われます。
また、『栄花物語』巻第十七「おむがく」には、法成寺金堂落成供養のために皇太后宮妍子と禎子内親王が法成寺へ渡御した際の記述として
大宮おはしませば、御車は中門の外より手引にて入らせたまふ
同じく『栄花物語』巻第十九「御裳ぎ」にも、禎子内親王裳着のために枇杷殿から土御門殿へ渡御する皇太后宮妍子と禎子内親王の車の描写で
土御門殿には大宮おはしませば、御車をば陣よりかきおろして、手引にて入らせたまふ
とあり、いずれも「大宮」即ち太皇太后宮彰子に遠慮して中門の手前で牛を外し、人手で車を引いて中に入ったことが記されています。
(ただし「おむがく」については、史実では妍子の方が先に法成寺に入っており、この記述は『栄花物語』の創作)
女性の場合は、降車するのではなく人が引く形を取ったようです。

話は若干ずれますが、先月、奈良時代の大宰府条坊跡で車の轍跡や人・牛などの足跡が見つかったとの報道がありました。
発掘された遺構からは、道路の中央を車幅1.0~1.2mの車が行き交い、路肩の脇の側溝を歩行者が通行していたのではないか…と推測できるそうで、もしかしたら平安京にもそんな交通ルールが存在していたかも?と想像したりもしています。

日常的に用いられた乗り物だけに、その乗り方などが事細かに記されることは却ってありませんが、当時の決まりや習慣を知っておくと、ちらっと触れる程度の描写もより具体的にイメージできるのではないかと思います。

記事中の写真は、上が風俗博物館2006年上半期展示「女三の宮六條院降嫁」より、榻を置いて車から降りようとする女童、下が風俗博物館2006年出張展示「六條院へ出かけよう」より、唐車です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
NHK名古屋放送局・NHK名古屋ブレーンズ編集『よみがえる源氏物語絵巻』NHK名古屋放送局・NHK名古屋ブレーンズ 2005年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
「古代大宰府に“交通ルール”!?牛車と人 分かれて通行 奈良時代 道路にわだち跡」西日本新聞2008年10月9日朝刊27面

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2008年10月19日 (日)

牛車にまつわる決まりのあれこれ(1)『延喜式』から

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何事によらず身分秩序や先例が重んじられた平安時代、牛車に関してもさまざまな決まり事がありました。
今回は、全部を網羅した訳では勿論ありませんが、これまでの調べ物などで見つけた、牛車にまつわる法律やしきたりをご紹介します。
1回目は、『延喜式』に記された規定についてです。

『延喜弾正台式』には、さまざまな身分に基づく規定が列記されています。
弾正台は不法行為を取り締まる役所ですので、どの身分がどのようなことをするのは許されてどの身分では許されないのかといったことが示されている訳です。
色聴されたる」という表現で仮名作品によく出てくる「禁色」も、『延喜弾正台式』に記述されています。

牛車に関する規定で『源氏物語』との関連がありそうな項目としては、
凡内親王。三位已上内命婦。及更衣已上。並聴乗糸葺有庇之車。并著緋牛鞦。
という一条があります。
この規定と、薫に降嫁した女二の宮が三条宮に渡御する場面の
庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふ」(宿木巻)
との描写を考え合わせると、宮が乗った「庇の御車」は廂のある糸毛車ではないかと想像できます。

高貴な身分の人が乗る車には、「車副(くるまぞひ)」と呼ばれる、車の両脇に供奉して威儀を整える人々が付き添いますが、この人数も身分によって決まっていました。
概ね乗車する人が女性のときの方が人数が多く、最も多い妃には22人、女御には16人、更衣には10人、また親王及び左右大臣には14人、内親王には20人と定められています。
この規定を踏まえると、宮中で重病に陥った桐壺の更衣が退出する場面で
かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ」(桐壺巻)
と記される「忍びてぞ」の中身は、あるいは宮中を娘の死で穢すことを恐れた母北の方が、規定の従者の人数を省いて素早く娘を連れ出そうとした「心づかひ」だったのではないでしょうか。

また、『源氏物語』ではなく『紫式部日記』の記述になりますが、敦成親王出産後の中宮が内裏に還御するに当たって、上臈女房の大納言の君と宰相の君が「黄金造り」の車に乗ったことが記されています。
この車も、『延喜弾正台式』の規定に従えば内親王・孫王・女御・内命婦・参議以上及び非参議三位以上の嫡妻と娘・大臣の孫にのみ許されたものでした。
(尤も、実際は下の身分の者が定めを超えた車に乗る違反も多く、度々禁令が出されたようです)

日常的に使用された牛車ですが、大内裏の中は原則車馬乗入禁止で特定の物資運搬用の他は大内裏の内側に入れず、そうした車馬も行き先に応じて使用する門が特定されているほど、厳しい制限が設けられていました。
公卿や親王といえども、大内裏を囲む宮城門で車を降り、その先は歩いて勤務地に向かった訳です。
但し、特別に勅許を得た高官は例外的に内側の宮門(慣例では内裏外郭南東隅にある春華門。朔平門や建春門の場合もあり)まで牛車で進むことが許されました。
この勅許を「牛車の宣旨」と言います。
出生の秘密を知った冷泉帝が源氏への譲位をほのめかして辞退され、更に太政大臣昇進も先延ばしになって
ただ御位添ひて、牛車聴されて参りまかでしたまふ」(薄雲巻)
に留まったことを残念に思う場面がありますが、この「牛車聴されて」が牛車の宣旨を賜ったことを意味します。
ところが、『平安時代史事典』「牛車宣旨」の項目には、
「この宣旨は、本来老いた功臣をいたわる目的のものであるから、宣旨が下っても四十歳以上にならないと実際に牛車で宮門を出入しないのが例である。」
とあります。
上に引用した薄雲巻の書き方ですと、この場面ではまだ三十二歳の源氏が牛車で参内・退出したように読めますが、牛車の宣旨まで遠慮したら冷泉帝が再び譲位を言い出しかねないと懸念した源氏が、敢えて慣例を破った…と解釈すべきなのでしょうか。
尚、時代の下った史料ではありますが『世俗浅深秘抄』(後鳥羽上皇著述の有職故実書。13世紀初頭成立)によると
執政家之牛車之人用上東門。自余之輩用待賢門歟。(中略)入待賢門時泰春花門。」(上「聴牛車輦車人作法事」)
ということで、このとき内大臣の源氏は待賢門から春花門までの間を牛車で通行したと考えられます。

写真は、風俗博物館2008年下半期展示「六條院移徙」より、廂付きの青糸毛車です。

次回は、法律とは角度の異なる習慣・しきたりなどをご紹介します。

【2008年11月24日追記】
10月19日にUPした記事を加筆の上、内容の一部を牛車にまつわる決まりのあれこれ(2)習慣・しきたりに移しました。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
秋山虔, 小町谷照彦編『源氏物語図典』小学館 1997年
山中裕, 鈴木一雄編『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
山中裕, 鈴木一雄編『平安貴族の環境』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年

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2008年5月 4日 (日)

注釈者が鞍馬寺に惹かれる訳

198kuramadera_6 前回の記事で、若紫巻に登場する北山の「なにがし寺」を鞍馬寺とする注釈類が最近でも多いと書きました。
たとえば、『新編日本古典文学全集20 源氏物語1』(小学館 1994年)や『常用源氏物語要覧』(武蔵野書院 1995年)では、角田文衞氏が提唱する大雲寺説を併記しつつも鞍馬寺を通説として紹介していますし、『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』(至文堂 1999年)も、諸説を挙げはしながらも「源氏ゆかりの地を訪ねて」で取り上げているのはやはり鞍馬寺です。
また、現物を確認してはいませんが、『人物で読む源氏物語6 紫の上』(勉誠出版 2005年)の出版社Webサイト掲載の目次にも「鞍馬寺の満開の桜―若紫の登場」との項目があり、やはり鞍馬寺を「なにがし寺」とする文章が掲載されているようです。

私も現地に行ってみて実感しましたが、なるほど鞍馬寺には、現在でも「なにがし寺」の描写を髣髴とさせる情景がそこかしこに残されています。
加えて、大雲寺や霊巌寺、神名寺(神明寺)など、候補とされる他の寺院はいずれも現存しなかったり現存しても往時の面影を留めていなかったりするため、一層鞍馬寺の雰囲気が重視されているのではないかとも思われます。
ですが、調べてみるとそれだけではなく、若紫巻と鞍馬寺とを結び付けたくなる資料が『枕草子』以外にもいろいろとあることがわかってきました。

1つは、鞍馬山が桜の名所だったことを示す和歌の存在です。

  うず桜といふを人のもてまうできたりければ
これやこの音に聞きつるうず桜鞍馬の山に咲けるなるべし
(『定頼集』45番歌)

かすみたつ鞍馬の山のうず桜てぶりをしてな折りぞわづらふ(『六条修理大夫集』156番歌)

『定頼集』は、藤原公任の四男・定頼(長徳元[995]年~寛徳二[1045]年)の家集で、『源氏物語』が書かれた時期よりは若干後になりますが、ほぼ同時代に鞍馬の桜が「雲珠桜」と呼ばれて名高かったことがわかります。
『六条修理大夫集』は、白河院の近臣であった藤原顕季(天喜三[1055]年~保安四[1123]年)の家集で、この歌は「於七条亭人人、桜の歌十首よみしに」という詞書で始まる歌群の6首目に当たります。
『定頼集』の歌と同様に、10首の桜の歌に名が挙がるほど有名だったとわかる他、霞と桜という、
山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば」(若紫巻)
と記されたのと重ねたくなる情景が詠まれていることが注目されます。
(とはいえ、霞と桜の組み合わせを詠んだ和歌自体は、この時代そんなに珍しいものではありませんが)

更に興味を惹くのが、柏木由夫氏も「鞍馬寺―北山のなにがし寺」(『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』所収)の中で紹介しておられる次の歌です。

咲きやらぬ鞍馬の山のかば桜春のとぢめににほふなりけり(『為忠家後度百首』153番歌)

『為忠家後度百首』は、鳥羽院近臣であった丹後守藤原為忠が保延元[1135]年に主催した内輪の百首会で詠まれた歌を記録したもので、この歌は「山寺桜」という題で詠まれています。
樺桜といえば、『源氏物語』読者なら誰しも
春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す」(野分巻)
の一節を連想することでしょう。
改めてご説明するまでもなく、紫の上の比喩に用いられた桜こそ、この歌に詠まれたのと同じ樺桜です。
その後、樺桜は
一重散りて、八重咲く花桜盛り過ぎて、樺桜は開け、(中略)その遅く疾き花の心をよく分きて、いろいろを尽くし植ゑおきたまひしかば」(幻巻)
と、生前の紫の上が花期を考慮して植えた花の1つとしても登場します。
『源氏物語』の中で樺桜の名前が挙がるのは、この2ヶ所のみ。
紫の上に関わってだけ登場する特別な桜なのです。
こうなると、紫の君が登場した北山で「三月のつごもり」(若紫巻)に咲いていた山桜が「春のとぢめ」に咲く鞍馬山の樺桜だったら、いかにも相応しい・・・と考えたくなるのは、源氏読みにとっては自然な感情ではないかと思います。

もう1つ、同じく柏木氏が挙げておられるのが、『赤染衛門集』や『更級日記』に記された、鞍馬山を滾り落ちる滝の存在です。
特に『更級日記』の「山際霞みわたりのどやかなるに」「たぎりて流れゆく水、水晶を散らすやうにわきかへる」といった記述は、確かに若紫巻で繰り返される春霞と滝の音の描写と重なるようにも思えます。
ただ、初瀬詣の道すがら宇治を通った際には
紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし
殿の御領所の宇治殿を入りて見るにも、浮舟の女君のかかる所にやありけむなど、まづ思ひ出でらる
と、真っ先に『源氏物語』に思いを巡らせたことを記している筆者が、若紫巻と同じ春の終わりに鞍馬寺に参詣したというのに全くその手の感慨を記していないのは、筆者の憧れのヒロインが夕顔と浮舟であって紫の上ではなかったことを割り引いても釈然としません。
私は、少なくとも孝標女は鞍馬寺を「なにがし寺」のモデルとは考えていなかったのではないか、と感じています。

以上ご紹介したこれらの資料は、「なにがし寺」を鞍馬寺と見做す根拠とするには弱すぎますし、『源氏物語』より後に成立した資料が特に若紫巻を意識している様子も見られません。
ですが、資料の存在を知った後世の注釈者が、若紫巻と結び付けて考えたくなるのもわかる気がします。
敢えて勝手な推測をすれば、諸々の知識をお持ちの専門家の方がより一層、難が多い筈の鞍馬寺説に捨て難い魅力を感じてしまうのかもしれません。

掲載の写真は、2008年4月撮影の鞍馬寺本殿金堂。鞍馬寺の記事に載せたのとは反対方向から撮影しています。

【参考文献】
角田文衞, 加納重文編『源氏物語の地理』思文閣出版 1999年
伊藤博編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識5 若紫』至文堂 1999年
「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観』角川書店 1983-1992年
国際日本文化研究センター作成「和歌データベース」

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2008年2月16日 (土)

初瀬詣の道を辿る

『源氏物語』で玉鬘や浮舟が長谷観音の加護を求めて辿った初瀬詣の道のり。
平安時代は片道3・4日もかかる長旅でしたが、現在はその道を1日で辿ることができます。
道中の史跡を訪ねながら、現代の初瀬詣の旅をご紹介しましょう。

都の出立を京都駅に設定するなら、JR奈良線に乗るところから旅が始まります。

京都駅を出発して、最初の停車駅は、東福寺。
平安時代、この駅の200mほど北にある一橋小学校付近から次の稲荷山駅辺りにかけての広大な地域に、藤原忠平が建立した法性寺の大伽藍がありました。
都を出て宇治や大和へ向かう道筋のランドマークとして『源氏物語』や『蜻蛉日記』『更級日記』などに登場します。

更に15分ほど電車に揺られると、宇治川を越えて宇治駅に着きます。
宇治は、平安時代には貴族の別業が数多く営まれ、初瀬詣の際には往復とも中宿りに利用されました。
殊に『源氏物語』椎本巻で匂宮が初瀬詣の帰りに中宿りをする夕霧の宇治別業は、平等院の前身である藤原道長・頼通父子の別業「宇治殿」がモデルと見られています。

宇治から更に2駅先の新田駅は、みやこ路快速は停まらない駅ですが、周辺の大久保・広野付近が平安時代の栗隈郷と比定されており、この辺りの丘陵が『更級日記』に登場する「栗駒山」と見られています。
また、こちらも『源氏物語』には登場しないものの、『枕草子』の「初瀬に詣でしに、水鳥のひまなく居て、立ち騒ぎしが、いとをかしう見えしなり」(第三十五段「池は」)との記述をはじめとして『蜻蛉日記』『更級日記』にもその名が見える「贄野の池」は、中世末には消滅してしまったようで現在でははっきりした位置がわかりませんが、各書の注釈などは綴喜郡井手町付近としています。
私が見た中で一番詳しい記述がされていたのは『京都府の地名』で、綴喜郡井手町多賀の南谷川北側に生じた後背湿地と推定しています。
多賀は、新田駅から4つ先の山城多賀駅から直線距離で2kmほど東に位置していますので、この辺りのJR奈良線は平安時代の道よりもやや西を走っていることになります。

更に奈良線で南下してゆくと、木津駅に着く直前で木津川を渡ります。
木津川は平安時代には「泉川」と呼ばれ、渡し舟が往来していました。
JRの鉄橋より400mほど西の泉橋寺の門前に渡し場があったようです。
『源氏物語』宿木巻で、浮舟の初瀬詣に同行した女房が「泉川の舟渡りも、まことに、今日はいと恐ろしくこそありつれ」と語ったのは、ちょうどこの辺りのことです。

奈良線からそのまま関西本線(大和路線)に乗り入れ、終点の奈良駅に着いたらJR桜井線に乗り換えます。
奈良駅から30分ほど南に下った三輪駅で下車して20分ばかり歩くと、初瀬詣に向かう人々が参詣の準備を整えた椿市に着きます。
現在は桜井市が設置したと思われる看板が立っているだけで、清少納言が「大和にあまたあるなかに、長谷にまうづる人のかならずそこに泊るは、観音の縁のあるにやと、心異なり」(『枕草子』第十一段「市は」)と記した往時の面影を留めるものは何もありませんが、『源氏物語』玉鬘巻で玉鬘一行と右近が邂逅したのがこの場所です。

椿市からは、一旦初瀬川を渡って桜井駅まで歩き、近鉄大阪線に乗り込みます。
その名もずばりの長谷寺駅は、桜井駅から2つ目。
電車を降りると、駅から初瀬川までは急な下り坂で、川を渡ると今度は川の流れに沿うように長谷寺へ至る参道の緩やかな上り坂が続きます。
参道の道のりは、山に囲まれた谷間を山に向かって歩いているのがよくわかり、記紀・万葉の時代から「こもりくの初瀬」と詠われたこの土地の地形が実感できます。

駅から20分ほど歩くと、目的の長谷寺に到着です。
参道の終点は石段、そしてその先の仁王門をくぐると、長い長い登廊が姿を現します。
399段の登廊を上って、ようやくご本尊の観音菩薩像の前に辿り着きます。
現在は、本堂と礼堂の間の通路のようなところから仏様の姿を覗き込むような格好でのお参りになりますが、平安時代は堂内に局を設え、一晩中そこに籠って祈りを捧げました。
右近が局は、仏の右の方に近き間にしたり。この御師は、まだ深からねばにや、西の間に遠かりけるを、」「暮るれば、御堂に上りて、またの日も行なひ暮らしたまふ。」(『源氏物語』玉鬘巻)といった描写から、当時の参籠の様子が窺えます。

尚、私は気づかずに通り過ぎてしまったのですが、長谷寺の拝観案内パンフレットによると、境内東側にある駐車場前の初瀬川対岸には「玉鬘の大銀杏」と名づけられた銀杏の木が植わっており、また『源氏物語の鑑賞と基礎知識12 玉鬘』によれば、川にかかる小橋の欄干には、右近が「二本の杉のたちどを尋ねずは古川野辺に君を見ましや」(玉鬘巻)と詠んだ「古川野辺」の文字が刻まれているそうです。

以上の道のりは、『源氏物語』に登場しない場所を除き、実際に私が途中下車をしながら辿ってみたものです。
朝京都を出発すれば、日帰りで充分に行って戻ってくることができます。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
平田喜信編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識12 玉鬘』至文堂 2000年
平凡社[編]『京都府の地名』(日本歴史地名大系26)平凡社 1981年
総本山長谷寺『長谷寺』 ※拝観者用パンフレット

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2008年1月25日 (金)

弘徽殿大后のネガとポジ

大塚ひかりさんの『「ブス論」で読む源氏物語』(講談社+α文庫 2000年)の中に、『源氏物語』に登場する「似ていない親子」の考察があります。
その中で大塚さんは、「弘徽殿大后と朱雀帝」「中将の君と浮舟」といった、性格も見た目も正反対の親子を取り上げ、けれでもそのちっとも似ていない親子の組み合わせがいかにも現実にありそうなリアリティをもって描かれていることを指摘しておられます。
これを読んでいて、『源氏物語』の中には非常に対照的に描かれている姉妹もいたことを思い出しました。
『源氏物語』に登場する姉妹と言うと誰もが真っ先に思い浮かべるのは宇治の大君と中の君でしょうが、ここで取り上げるのはこの2人ではなく、弘徽殿大后とその2人の妹、四の君(=頭中将の北の方)と朧月夜です。
(朧月夜が「六の君」(花宴巻)と呼ばれているので本当は6人姉妹ですが、具体的な人物像が描かれるのはこの3人だけです)

まず最初に弘徽殿大后のキャラクターを確認しておきましょう。
世間一般には「ブスで嫉妬深くて底意地の悪い年増女」という救いようのないイメージが流布している気がするのですが、原文を読むと、妹達がいずれも評判の美女であるところから推して本人もそれなりの美人だったのではないかと思われますし、性格的にもそこまでひどい人間という訳ではなく、彼女の立場に立てば概ね言動には筋が通っています。
原文から抽出できる性格の特徴を挙げてみます。

(1)思考が理知的・政治家的

上達部や殿上人も見て見ぬ振りをしていた桐壺帝の桐壺の更衣偏愛をただ1人諫めたり、息子の第一皇子(=朱雀帝)を飛び越して立坊しかねない第二皇子(=光源氏)の処遇に目を光らせたりと、桐壺巻のはじめから“あるべき身分秩序”という帝も逆らえない正論を打ち出しつつ、息子と実家の未来の繁栄を守ろうとする強い姿勢が見えます。
葵巻で、朧月夜と光源氏の結婚に反対してあくまで朱雀帝の後宮への参入を目指したのも、単なる源氏に対する敵愾心だけではなく、朱雀帝から次の世代に向けての外戚の地位確保の布石が失われることへの懸念もあったと考えられます。
(実際、朧月夜は朱雀帝の皇子を産まなかったため、御世替わりと同時に外戚としての権勢は新東宮の伯父である髭黒大将に移っています)
賢木~明石巻での光源氏失脚を狙う一連の言動も、本来なら先陣を切って自家の勢力拡大を企図しなければならない筈の父・右大臣よりもよほど思い切っていて政治家的です。

(2)我が強く他人への思いやりに欠ける

この点は上記の性格と表裏一体と言えます。
桐壺の更衣に対する嫌がらせや、更衣の死後も非難を緩めない苛烈な言動、悲嘆に暮れる桐壺帝の神経を逆撫でするような賑やかな管弦の遊びなど、同情心や思いやりに欠ける性格であることは覆うべくもありません。
桐壺巻から折に触れて点描される藤壺の宮との不仲も、弘徽殿大后の我の強さの産物でしょう。

(3)我が子を愛する普通の母親の一面も

(1)(2)のような冷たい面ばかりではなく、ごく普通の母親として子供への情愛をもっている面も、間接的にですが読み取れます。
ネガティブな形での表れ方ではありますが、息子が父親からも世間からも軽んじられていることに憤るのは普通の母親の普通の感情でしょうし、葵巻では愛娘の女三の宮が斎院に卜定されて桐壺院ともども別れを悲しんでいます。

(4)文化人らしき描写がない

作者には「濃やかな情感に欠ける人間は美も風雅も理解し得ない」という考えがあったようで、弘徽殿大后もその前提に従って造型されていると思われます。
桐壺巻で管弦の遊びを催したり、「かの鹿を馬と言ひけむ人のひがめるやうに追従する」(須磨巻)と秦の趙高の故事を踏まえた発言をしたりしていて、音楽にしろ漢文にしろ相応の教養を備えていたことが窺われるのですが、それが優美な文化人的イメージに結び付かないのが特徴です。

以上のような弘徽殿大后の特徴を確認した上で、四の君と朧月夜の性格を考えると、面白い構図が浮かび上がってきます。

四の君は、弘徽殿大后のミニチュアと言えるような存在です。
頭中将(帚木巻)と右近(夕顔巻)が語る、夕顔を脅して逃げ出させるという強硬なやり方は、弘徽殿大后の桐壺の更衣に対する言動と重なりますし、若菜下巻では、ただただ息子の容態が心配でならないとの一念から、女二の宮の嘆きも一条御息所の屈辱感も無視して一方的に柏木を一条宮から自邸に引き取る強引さを見せています。
一方で、絵合巻では弘徽殿大后や朧月夜の伝を頼って娘・弘徽殿の女御のために絵を収集したり、若菜上巻でも柏木への女三の宮降嫁を朧月夜を通して朱雀院に働きかけたりしており、家の繁栄と子供達の幸せを目指して夫に協力して動いている様子も見て取れます。
(余談ながら、若い頃は四の君が気に入らず浮気ばかりしていた頭中将が中年以降すっかり彼女の許に落ち着いたのは、こうした家運のかかった局面での働きを信頼したからではないかと思います)

一方、朧月夜はこうした姉2人とは正反対の性格をしています。
東宮へ入内予定の身でありながら源氏と恋仲になり、父右大臣が一時は「入内は諦めて源氏と結婚させようか」と折れかけるほどの慕いようを見せるところからは、権勢家の娘としての自分の義務や役割など全く理解していないか理解しても意に介していない風情が感じられますし、朱雀帝の寵愛を受けるようになっても尚源氏との逢瀬を続ける態度は、理性も秩序も政治的思惑も「だって好きなんだからしょうがないじゃない」の一言で蹴飛ばしてしまわんばかりの奔放さ・無邪気さです。
若菜上巻で関係の復活を求めてきた源氏に対して、躊躇しつつも結局は靡いてしまうところにも、情に厚すぎてその場の感情に流されやすい性格が表れています。
また、花宴巻の藤の宴の場面で女房の袖口や空薫物の気配などが派手で奥ゆかしさに欠けると源氏に批判される箇所がある以外、美的センスや文化的な雰囲気が言及されることのない右大臣家の人々の中で、唯一そうした方面に優れた人として描かれている点も目を引きます。
そして、我が子を思う母の情愛を見せる姉達に対し、子を産み家庭を築くことのなかった朧月夜に母としての側面はありません。

ここまで表裏の関係になるところを見ると、作者は意図的にこの三姉妹の設定を作り上げたと想像されます。
性格の似た姉妹や正反対の姉妹という2人の関係なら話は単純ですが、長女を軸に同じタイプとまるで違うタイプの2人の妹が対照的に位置づけられているというのが、この姉妹の面白いところです。
しかも、大塚ひかりさんの挙げる「似ていない親子」と同じく、両極端だけれどいずれもリアリティのある人物像になっているのですから唸らされます。
『源氏物語』作者の人間観察の細かさ・鋭さと血のつながりに対する興味の深さはつとに指摘されているところですが、右大臣家の娘達というどちらかと言えば脇役の三姉妹の造型にも、この点は確かに表れていると思います。

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2007年11月23日 (金)

「階」か「橋」か~『枕草子』能因本「黒木のはし」の正体~

1年ほど前から、『源氏物語』の中にも登場する平安時代のバラ「薔薇(さうび)」の種類を調べています。
このテーマはまだまだ調査継続中で、記事にできるほどまとまってきてはいないのですが、調べていく中で繰り返し出会った、気になる文章があります。
『枕草子』能因本の「草の花は」の段(小学館『日本古典文学全集』では第七〇段に相当)にある、

さうびは、ちかくて、枝のさまなどはむつかしけれど、をかし。雨など晴れゆきたる水のつら、黒木のはしなどのつらに、乱れ咲きたる夕映え。

という記述です。
近年底本にされることの多い三巻本をはじめとする他の系統の写本にはない文章のため、間違いなく清少納言の手による記述とは言い切れない危うさもあるのですが、何分にも平安時代の文献で「薔薇」のことを書き記したものは非常に少ないためか、「薔薇」について述べた論文などには必ずと言っていいほど引用されています。

『枕草子』や『源氏物語』が書かれた当時、「薔薇」と言えば白居易の漢詩の一節

甕頭竹葉経春熟。階底薔薇入夏開。(甕頭の竹葉春を経て熟し、階底の薔薇夏に入りて開く。)
(「薔薇正開。春酒初熟。因招劉十九・張大夫・崔二十四同飲」第一・二句)

が大変に有名で、『和漢朗詠集』にも「首夏」の題で採録されるなど平安貴族に愛唱され、広く知れ渡っていました。
平安中期以降、白詩が公家の間で絶大な人気を誇り、文学作品にも多大な影響を与えたことはよく知られていますが、この詩句もその例に漏れず、
階のもとの薔薇、けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきほどなるに、」(『源氏物語』賢木巻)
甕のほとりの竹葉も末の世はるかに見え、階の下の薔薇も夏を待ち顔になどして、」(『栄花物語』巻第十一「つぼみ花」)
立石、遣水底浄、汀ニ生ル杜若、階ノ本ノ薔薇モ折知ガホニ開ケタリ。」(『源平盛衰記』巻十一「経俊入布引滝事」)
のような表現が生まれました。
また、『永昌記』(白河院政期の公卿・藤原為隆の日記)や『明月記』(藤原定家の日記)にはこの詩句をモチーフにしたと思しき牛車や衣裳の装飾の記録が見られ、人々の間に深く浸透していた様子が窺われます。

こうした事情を踏まえてなのでしょう、私が目にした文献はどれも『枕草子』能因本の「薔薇」の描写もこの詩句に拠ったものと判断し、「黒木のはし」を「黒木の階(きざはし)」と解釈していました。
その上で、例えば
「白詩以来「階」のもとに咲く薔薇というイメージは固有のものとなっていた」(沼尻利通氏「「階の底の薔薇」と光源氏」)
「当時の貴族たちはこと「さうび」に関しては、揃ってこの「階底薔薇」を下敷きにする」(吉田加奈子氏「薔薇の受容変化」)
といった評価を下しています。
しかし、「黒木のはし」は本当に階なのでしょうか?

疑問に思った理由は、「黒木の」という形容にあります。
平安時代に「黒木」と言うと、意味は通常“皮を剥いでいない丸太のままの材木”です。
古典好き・歴史好きの方にとっては、『源氏物語』賢木巻にも登場する野の宮の黒木の鳥居でお馴染みでしょう。
でも、この文の「黒木」がその意味だとしたら、丸太のままの状態でどうやって階段にするのでしょう?
現存する建築物であれ絵巻などの絵画資料であれ、曲面になっている階など見たことがありませんし、円柱状では材木同士を組み合わせても極めて不安定で、実用性を考えればあり得ないと言ってしまってよいと思います。

『日本国語大辞典』を引くと、「黒木」の語は黒檀の別名としても使われたことが記されています。
ただし、黒檀の意味とする「黒木」の最初の用例として載っているのは『源氏物語』河内本の文で、また同じ『日本国語大辞典』の「黒檀」の項には、『和名抄』に載る「黒柿」が古来の黒檀の和名ではないかとの推測も記されており、平安中期に「黒木」が黒檀の意味で用いられたかどうかは定かではありません。
それに、黒檀は日本国内では産出せず、南方から輸入されて楽器や調度品などに使われた木材です。
現代でも黒檀製の家具は高級品ですが、海外からの舶載品が珍重された1000年前の黒檀の価値は、現代の比ではなかった筈です。
そのような貴重な木材を、大型の角材を多量に必要とする階に使ったとはちょっと考えられません。

では、ここに記された「黒木のはし」とは何なのか。
それは、「皮を剥いでいない丸太のままの木材でできた橋」なのではないでしょうか。
当時の寝殿造庭園には、遣水を跨ぎ越す橋や池の中島へ渡る橋などがありました。
そうした庭の橋なら、素朴な風情を出すために敢えて丸太のままこしらえた橋があっても不自然ではありません。
黒木のはし」の前に提示されている情景が「水のつら」、つまり池や遣水のような水のほとりである点からも、階よりも橋と考えた方が相応しく思われます。

そもそも「階底薔薇」の詩句を踏襲したにしては、『枕草子』能因本の「薔薇」の描写は、雨上がり・水辺・夕暮れ時…と、白詩とは異なる情景の設定がいくつもされています。
他の作品のように「はしのもと」ではなく「はしなどのつら」であるところも、違うと言えば違う点です。
こうした独自の表現を、単なる白詩のアレンジと解釈してしまってよいのでしょうか。
私には、有名な詩句に基づいた観念的な表現などではなく、筆者が実際に見て心に留まった具体的な情景の描写であるように思えてなりません。

沼尻氏が上記論文の中で指摘しておられるように、『源氏物語』賢木巻の「階のもとの薔薇」の一節は、河内本系の諸本と別本の国冬本・伝冷泉為相本では「くろきのはしの」と書かれています。
賢木巻のこの場面は漢詩や和歌・催馬楽などの表現が重層して用いられていて、白詩もその中に取り込まれていると考えるべきなだけに、「黒木の階」が本当にあり得るのか、再度検討する必要があるのは確かです。
ですが、少なくとも『枕草子』能因本のこの記述に関しては、“「薔薇」と「はし」が並んで出てきたら白詩の踏襲に決まっている”というような読み方に、ささやかながら疑問を呈してみたい次第です。

【参考文献】
沼尻利通「「階の底の薔薇」と光源氏」(「中古文学」73号 2004年 pp.13-24)
吉田加奈子「薔薇の受容変化―平安から鎌倉初期の「薔薇」―」(「服飾美学」37号 2003年 pp.33-48)
日本国語大辞典第二版編集委員会, 小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典』第2版 小学館 2000-2002年
中野幸一編集『源氏物語の鑑賞と基礎知識10 賢木』至文堂 2000年
松尾聰, 永井和子校注・訳『枕草子』(日本古典文学全集11)小学館 1972年
田中重太郎著『枕冊子全注釈 1』(日本古典評釈・全注釈叢書)角川書店 1972年
池田亀鑑編著『源氏物語大成 校異篇1』中央公論社 1953年
神宮司廳 [編]『古事類苑 神祇部4』普及版「賀茂祭」 古事類苑刊行会 1935年

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2007年1月 9日 (火)

平安貴族のサボタージュ事情

受領を除く都の平安貴族の主なお仕事は、参内して書類を決裁したり会議や儀式を執り行ったりすることでした。
週休二日制などというものは当然まだないこの時代、ほぼ名誉職の太政大臣は別として、実務を担う公卿・殿上人らは基本的に年中無休。
では毎日“出勤”していたのか、といえばそうでもなくて、実際はなんだかんだとサボっていたようです。
そんな1000年前の中央官僚・平安貴族達のサボタージュ事情の一端をご紹介します。

サボる口実の代表格は、今も昔も「病気」
平安時代にも仮病を使って出勤拒否を図る公卿はいたようです。
例えば藤原経実。
この人は関白師実の三男で、最終的には大納言正二位まで上っているのですが、残念ながら官僚としては無能だったようです。
天仁元[1108]年に近隣の家に飛礫を投げて騒ぎを起こした際には藤原宗忠に痛烈に批判されており、その批判の中に「毎有公事、称病不出仕」(『中右記』同年五月二十日条)という一節があります。
どうやら経実は仮病常習犯だったらしいことが覗われます。
また、古記録フルテキストデータベースで「称病」を検索すると、45件もヒットします。
勿論これらすべてが仮病ではありませんし参内とも限りませんが、病気を理由に参内しないというのは比較的よくあることだったようです。

平安時代特有の便利な口実が「物忌」です。
物忌には、坎日や往亡日など具注暦に書き込まれる凶日の他、悪夢や怪異現象、触穢などの際に臨時に設けられる物忌があり、この臨時の物忌が格好のサボりの口実になりました。
こちらも古記録フルテキストデータベースで検索すると、「称物忌」で24件もヒットします。
中には「今日射場始、称物忌不参、連日之勤老骨難堪」(『小右記』寛仁元[1017]年十月五日条)のように、自らサボりを日記に書き残している例もあります。
こうした実態を巧みにストーリー展開に取り込んだのが『源氏物語』宇治十帖で、匂宮や薫が女君の許に籠るために、また二条院に身を寄せた浮舟が人目を避けるために、嘘の物忌をでっち上げる描写が10例も見られます。

権門の私事に奉仕して公事を欠席するということもありました。
例えば、長保元[999]年八月九日に藤原道長は人々を率いて宇治へ赴いていますが、この日は定子中宮が出産に備えて平生昌邸に行啓する日で、藤原実資は「似妨行啓事」(『小右記』同日条)と批判しています。
同日条には、道長に随行しなかった上達部なども道長の意向に憚って参内しなかったことが併せて記されています。
また長和元[1012]年四月二七日の藤原娍子立后儀に際しても、公卿・殿上人の多くが妍子中宮の里下がりしている東三条第に伺候して参内を拒否したことが、『小右記』同日条に書き残されています。

こうしたサボタージュへの朝廷側の対策のひとつに、「分配」が挙げられます。
分配とは、恒例の公事に参仕する上卿・弁官や蔵人を予め定めておくことで、平安中期以降に行われるようになりました。
最初に分配を定めた『類聚符宣抄』第六収録の寛和二[986]年十二月五日付宣旨には、祭祀・国忌は国の重要な行事であるにもかかわらず、公卿達が故障を申し立てて欠席し儀式が滞るため、「四時諸祭。二季大祓。及東西寺国忌等」を取り仕切る上卿を予め割り当てると定め、分担の公事を欠怠した際の罰則も記しています。
しかし、それでも公卿のサボりはなくならなかったようで、永祚元[989]年五月七日付宣旨で分配の勤めを怠った公卿への罰則が再度定められたことが、『大日本史料』2編1冊所引『壬生文書』の中に見えます。
分配を行う行事自体も、当初の祭祀・国忌のみに留まらず、女王禄・釈奠・追儺などが加えられ、更に分配の対象も公卿のみならず弁官や蔵人に対しても行われるようになっていきました。
それだけ公卿以下官人のサボりが様々な儀式行事で頻発したことの表れと思われます。

それでも尚懲りずにサボって、遂には勅勘を被った例もあります。
『中右記』及び『殿暦』(藤原忠実の日記)の長治二年[1105]正月朔日条には、前夜の追儺に分配の大納言・藤原経実をはじめ中納言・源国信、右衛門督・源雅俊、右大弁・藤原宗忠の4人もが故障を申し立てて参内せず、勅勘を被って新年早々閉門蟄居したことが記されています。
既にご紹介したようにサボり常習犯と批判された人物と批判した人物とが同時に処罰されている辺りに、なんとも始末に負えないものを感じます。

翻って『源氏物語』を見直すと、先に挙げた宇治十帖ばかりでなく、第一部での光源氏の行動の中にもサボタージュと思しきものがいくつも見つかります。
例えば夕顔巻。
八月十五夜、宮中では月の宴が催された筈ですが、源氏は夕顔の五条の宿に泊まり、翌朝からは丸1日某院で過ごしています。
2晩目に至って「内裏に、いかに求めさせたまふらむ」と反省していますが、それも当然といえば当然でしょう。
賢木巻では、右大臣方ばかりが栄える宮中への出仕を厭い、三位中将と共に「宮仕へをもをさをさしたまはず、御心にまかせてうち遊びておはする」という挑戦的な態度を示します。
更に行幸巻でも、大原野行幸に際して「今日仕うまつりたまふべく、かねて御けしきありけれど、御物忌のよしを奏せさせたまへりける」と欠席しており、ここは玉鬘に冷泉帝の麗姿を印象付けて尚侍出仕に乗り気にさせようとの思惑から自分がその場に並ぶことを避けたとも読めます。
「さすが光源氏」と言うべき気儘さでしょうか。

以上、“サボタージュ”という括りで各種文献に見える事例をご紹介してまいりました。
今も昔も変わらない勤め人の本音が垣間見える、平安貴族の一断面です。

【参考文献】
古代学協会, 古代学研究所編『平安時代史事典 CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
山中裕, 鈴木一雄編集『平安時代の信仰と生活』(平安時代の文学と生活)至文堂 1994年
秋山虔編『源氏物語事典』(別冊國文學 ; No.36)學燈社 1989年
東京大学史料編纂所作成「古記録フルテキストデータベース
東京大学史料編纂所作成「大日本史料総合データベース

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2006年10月21日 (土)

「面痩せ」の美

『源氏物語』は、健康なときよりもむしろ病や悩み、嘆きなどでやつれた姿の美しさを繰り返し描き出します。
中でも、長患いの果ての容貌が
こよなう痩せ細りたまへれど、かくてこそ、あてになまめかしきことの限りなさもまさりてめでたかりけれ」(御法巻)
と絶賛される紫の上を筆頭に、物の怪に悩みやつれた様子が
かうてこそ、らうたげになまめきたる方添ひてをかしかりけれ」(葵巻)
と源氏の心を深く捕える葵の上や、
いよいよあはれげにあたらしく、をかしき御ありさまのみ見ゆ」(総角巻)
と臨終直前の姿が愛執と共に薫の眼に焼き付けられる宇治の大君など、病によって美しさが損なわれるのではなく、却って健康時以上の美しさを示し、見る者の愛情を掻き立てるという構図は、『源氏物語』の特徴的なものとして挙げることができます。

こうした傾向がより具体的に見て取れるのが、「面痩せ」という言葉の用例です。
面痩せ」の語は『源氏物語』全体では18例ありますが、実にその内11例までが、「なまめかし」(夕顔巻・若菜上巻・蜻蛉巻)「めでたし」(若紫巻・明石巻)「あてにうつくし」(若紫巻)「あてにきよら」(須磨巻)「らうたい」(真木柱巻)「あてにをかし」(若菜下巻)「あてになまめかし」(早蕨巻)「見るかひあり」(蜻蛉巻)と、美しさを表す形容語を伴って用いられています。

また作者は、『紫式部日記』でも
かく国の親ともてさわがれたまひ、うるはしき御気色にも見えさせたまはず、すこしうちなやみ、面やせて大殿籠もれる御ありさま、常よりもあえかに若くうつくしげなり。
と、やはりプラスの評価の下に産後の中宮彰子の面痩せした姿を描写しています。
(『源氏物語』の作者は紫式部ではないとする説もありますが、こうした特殊な感覚や思考の一致を見つけると、やはり『源氏物語』の作者は紫式部以外あり得ないと思わずにいられません)

『源氏物語』以前に病み痩せた女性の美しさを取り上げた物語作品は、『うつほ物語』が唯一の先行例として挙げられます。
(物語以外にまで範囲を広げると、『蜻蛉日記』に美的形容語を伴わない2例と、『枕草子』第125段に「雑色・随身は、すこし痩せて、細やかなるぞよき」とある例が見つかりました)
『うつほ物語』ではまだ全体的に、病や心労で衰えても盛りの美貌と変わらないとする類型的な表現に留まっているのですが、「面痩せたまへるは、貴に子めきたり」(国譲中)との描写のように、健康時とは異なる新たな美の発見の萌芽を見ることができます。

そしてそれをより細やかに描き出し、積極的に称揚したのが『源氏物語』だったのではないでしょうか。
作者は、『うつほ物語』が見つけかけたものを拾い上げ、自分の作品の中で新しい確固たる美意識の言挙げを成し遂げたのではないかと推測されるのです。

面痩せ」によって現れる美しさの中身は、用例にある形容語から限定できます。
なまめかし」「あて」は、瑞々しく柔らかな優美さや上品さ。
うつくし」「らうたし」「をかし」は、可愛らしさや可憐さ。
めでたし」「きよら」は、強く称賛される素晴らしさ、至高の美。
これらを総合するならば、身支度を整え化粧をし嗜み深く立居振舞にも気を遣っている健康なときには表に出てこない生身の柔らかさやか弱さを、取り繕わない愛しいものとして高い讃辞を与えたということになるでしょうか。
直接「面痩せ」の語は用いられていませんが、健康時は「うるはし」「よそほし」と端正で気詰まりな美しさばかりが強調されてきた葵の上が、出産前後の床に臥せっている場面でのみ「らうたげ」と形容されている例も、併せて参考になるかと思います。
病身による格式張らない素のままの愛らしさ、守ってあげたくなるような繊弱さに、見る人は慕わしい魅力を感じるのでしょう。

『源氏物語』によって明確に主張されたこの“面痩せの美”は、以後の物語に確実に定着していきました。
『栄花物語』『夜の寝覚』『浜松中納言物語』『堤中納言物語』などの作品では、面痩せした女君の美しさが「なまめかし」「うつくし」「らうたげ」「あはれげ」「あて」「かをりをかしげなる」といった形容を伴って繰り返し描かれています。
自然で透明繊細な美しさを愛でる感覚は、王朝人の美意識に合致して、「面痩せ」の語をキーワードとして深く浸透していったのだと思われます。
その美意識の水脈は、こうした古典文学の描写を違和感なく受け入れられる現代の読者の中にも、きっと脈々と受け継がれているのです。

※この記事は、@nifty文学フォーラム12番会議室で2002年10月27日に発言した内容をリライトしたものです。

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2006年6月24日 (土)

宇治の大君にまつわる色彩

色彩描写の少ない宇治十帖の中でも、大君は特に彩りに乏しい女君です。
細かな衣裳の色合いを人柄に絡めて描く『源氏物語』の中にあって、本文中に明記される大君の衣裳は、喪服と病中の白い重ね袿だけ。
身の周りの品にまで範囲を広げても、匂宮の弔問の文への返書を認めた「黒き紙」(椎本巻)や、薫との対面に際して間に立てた「黒き几帳」(同)が挙げられるだけで、他に色を伴った描写は見当たりません。
大君と同時に登場する中の君が「濃き御衣」(総角巻)や「山吹、薄色などはなやかなる色あひ」(同)を着ている場面があることを考えると、敢えて大君はモノトーンで描かれたと見るべきでしょう。

そうした大君に関わる色彩描写の中で、唯一接点をもつ色が紫です。

紫の紙に書きたる経を、片手に持ちたまへる手つき、かれよりも細さまさりて、痩せ痩せなるべし。(椎本巻)

八の宮が死去した翌年の夏、薫が2度目に姉妹を垣間見する場面。
薫が目にした大君は、「黒き袷一襲」を纏い、痩せ細った手に紫色の紙に書かれたお経を持った姿でした。

紫苑色の細長一襲に、三重襲の袴具して賜ふ。
(総角巻)

こちらは、中の君宛の後朝の文を届けた匂宮の使者に対して、大君が婚礼の作法に則って禄を授ける件で、紫苑色(=薄紫色)の細長が選ばれています。

うち眺めて寄りゐたまへる袖の、重なりながら長やかに出でたりけるが、川霧に濡れて、御衣の紅なるに、御直衣の花のおどろおどろしう移りたるを、落としがけの高き所に見つけて、引き入れたまふ。
 「形見ぞと見るにつけては朝露の
  ところせきまで濡るる袖かな」
(東屋巻)

これは大君の死後になりますが、薫が浮舟を宇治に連れ出す道中、浮舟の紅の袿に薫の直衣の縹が色移りしているのを見つけた薫が大君を追慕する場面です。
『孟津抄』(安土桃山時代に書かれた注釈書。九条稙通著)以来、この色移りは黒ずんだ不気味な色で、喪服を連想させたのだとする解釈が提示されていますが、双方がよほど濃い色でない限り黒くはならないでしょうし、きちんと染色したときのような澄んだ色にはならなくても、紅花染と藍染の組み合わせならば、得られる色は二藍(=赤と青の強弱に幅のある混色の紫)だろうと思います。

モノトーンの合間に点在する紫色の解釈は、さまざまな可能性が考えられるでしょう。
一面では、大君が“寄る辺ない女が愛情一縷の結婚で幸福になれるのか”というの上の担った主題を受け継ぐ人物であることを象徴しているのかもしれません。
(紫の上は『源氏物語』全体を通して40種類近い呼称を持ちますが、宇治十帖では専ら「紫の上」と呼ばれますので、作者は彼女と「紫」という色のつながりを充分に意識していたと思います)
また、紫には下記の和歌に見られるように“愛情を表す色”としてのイメージがありましたので、薫に仄かな好意を抱きながらも最期まで薫の想いを身に受けることは拒絶した大君のあり方と重ねることもできるかもしれません。

恋しくはしたにをおもへ紫の根ずりの衣色にいづなゆめ(『古今集』巻十三・652)
唐人の衣染むてふ紫の心にしみておもほゆるかも(『古今和歌六帖』第五・3503)
託馬野に生ふる紫衣にすりまだも着なくに色に出づらん(『古今和歌六帖』第五・3506)
まだきから思ひ濃き色に染めむとや若紫の根を尋ぬらん(『後撰集』巻十八・1277)

古く『紫の物語』とも呼ばれた『源氏物語』、紫という色彩は「紫のゆかり」が退場した後の宇治十帖においても、深い意味を担っているようです。

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2006年5月13日 (土)

牛車の乗降~女性の場合~

033koka今回の風俗博物館の展示「女三の宮六条院降嫁」を拝見した際、ちょっと驚いたのは、女三の宮の牛車が寝殿南面の階に寄せられていたことでした。
(写真は風俗博物館2006年上半期展示「女三の宮六条院降嫁」より、女三の宮を牛車から抱き降ろす光源氏)
南庭を横断して寝殿の正面まで乗り入れられるのは、帝の輿や勅使の車くらいしかイメージになかったので、「朱雀院鍾愛の内親王とはいえ、牛車でここまで乗り付けられたものなのだろうか?」と疑問に感じたのです。
概説書などには大抵“中門で車を降りる”と記されていますが、これは主に男性訪問客の場合。
では女性の場合はどうだったのか、仮名作品での牛車の乗降に関する記述を拾い集めてみました。

結論から先に申しますと、女性は女房も含め、中門ではなく居住スペースまで牛車を引き入れて乗り降りしたようです。
例をいくつか挙げてみましょう。

  • 西の対に御車寄せて下りたまふ。若君をば、いと軽らかにかき抱きて下ろしたまふ。(『源氏物語』若紫巻)
    ⇒二条院に着いて車を降りる源氏と紫の君。降りた場所は西の対。
  • この寝殿はまだあらはにて、簾もかけず。下ろし籠めたる中の二間に立て隔てたる障子の穴より覗きたまふ。(中略)つつましげに降るるを見れば、(『源氏物語』宿木巻)
    ⇒宇治の旧八の宮邸で車を降りる浮舟。降りた場所は寝殿。
  • 西の一の対の南の端に御車寄せて(『うつほ物語』国譲上)
    ⇒内裏から里下がりして源正頼邸に戻ったあて宮。「西の一の対」があて宮の居室。
  • 西の御門より、西の対に、人々、檳榔毛に乗りたるをば、まづ下ろして、御車中門より入れて、寝殿の未申の方の高欄を放ちて下りたまふ。(『うつほ物語』楼の上下)
    ⇒京極邸を訪ねた大后の宮と、それに扈従する女房達。女房は西の対、大后の宮は寝殿西南部で下車。
  • 御車に奉りたまひければ、わが御身は乗りたまひけれど、御髪のすそは、母屋の柱のもとにぞおはしましける。(『大鏡』師尹伝)
    ⇒藤原芳子参内の際のエピソード。「母屋」のある居住スペースから直接乗車。
  • 女房車ども、みなこの西の廊に下ろさせたまふ。(『栄花物語』巻第十七「おむがく」)
    ⇒法成寺金堂落成供養に列席する太皇太后宮彰子の女房達。金堂西廊に女房の座が設けられた。
  • 御車は、南面の御階の間に寄せておはします。(『栄花物語』巻第二十八「わかみづ」)
    ⇒東宮への入内のため、枇杷殿を出発する禎子内親王の車。寝殿南面で乗車。
  • 西の対の唐廂にさし寄せてなむ乗るべき、とて、渡殿へ、ある限り行くほど、(『枕草子』第二六三段「関白殿、二月二十一日に」)
    ⇒積善寺へ向かうため二条宮から車に乗る女房達。乗車場所は西の対。

この他にも、居住スペースでの乗降と考えられる記述がいくつもあり、逆に中門での乗降と断定できる例は見当たりませんでした。
また『枕草子』第五段「大進生昌が家に」には、生昌邸に渡御する定子中宮に従った女房達の車が北門を通れず、屋外を歩く羽目になったのを「いとにくく腹立たし」と憤慨する記述があります。

女三の宮降嫁の場面に戻ると、宮の居室は寝殿の西半分、女房達の局は西一・二の対ですから、宮の牛車は南庭を横断して寝殿南面の西側に、女房や童女の車は北側を通って西の対に、それぞれ寄せられたのではないかと想像できます。
となると、六条院春の町は西や北に門を持たないので、宮一行は何十台と車を連ね豪勢に供奉の上達部らを従えて、東門から紫の上のいる東の対のすぐ脇を通って西側に入ったということになるのではないでしょうか。
そう考えると、後文に紫の上の心中に沿って語られる
はなやかに生ひ先遠く、あなづりにくきけはひにて移ろひたまへる
という表現が、より一層痛切に響いてくるような気がいたします。

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